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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

学問と学校教育。

2011-05-26 | 戯言
学校教育とは何だろう?


学校で、

先生が、

生徒に、

学問を、

教える事。

だけではないが、

おおまかには、そういう事だろう。


では、


「学問」とは?

読んで字のごとく 「学び問う」 事。


つまり、


本来、学問は教えるモノではなく、

「学ぶものである」という事になる。


まぁ、


自分の場合、

「詰め込み型の教育」は大嫌いだったから、

あえて、やらない「捻くれ者」であった。


しかし、


学びたいと思う学問に関しては、

他の同級生よりも理解する事が出来ていたと思う。


そんな中で、


教科書に載っていない、

質問に対し、

教師が答えてくれた記憶はない。


今のように、ネットで調べる事が出来ていたら、

少し、勉強の仕方も変わっていたかもしれない。


学問とは、


「学び問う」事であるなら、

生徒は、学ぶ意欲を持って問う事。

教師は、問いに対し答えを持つ事。

ではないだろうか?


しかし、


未だに理解できないのは、

教科書を基準とした、 「テスト」 だ。

あの問題用紙を見ると、拒否反応が起きる。


なぜ、


教科書から抜粋した、

数字や、

式や、

年代や、

人名や、

固有名詞なんかを、

書かせるのだろう?


当時から思っていたが、

ただの 「記憶テスト」 がほとんどであった。


これは、


日本の 「教育指導要領」 の問題だろうが、

これは、 「学問」 とは言いがたい。

ただの 「記憶テスト」 なら、

もうちょっと効率の良いテストがあるはず。


とはいえ、


子供時代は、この「記憶テスト」をやることで、

多少は、知識が増えるのだろう。


学校教育の目的が、


「良いテストの結果」になっているのではないか?


そして、


「学校受験」になっているのではないか?


とりあえず、 「大学卒」 という神話を信じて、

親が、借金をして、

子が、バイトをして、

無理をしながら、

「大学卒」 という、学歴を手に入れ、

大卒が大量生産され、


その結果、


大量の 「大学卒」 が世の中に溢れ、

その価値が失われている。

確かに、

大学で、研究を重ね、偉大な発見をする人もいる。

しかし、それは、ほんの一部だろう。


大卒が悪いとは思わないが、

「学び問う」事をして来なかった子供が、

大学で、どれだけの学問を理解できるのだろう?

ただ、課題をこなし、

卒業の時期を待っている者が殆どではないのか?


日本の学校教育は、

「学び問う」 事にシフトして行かなければ、

学校自体が無意味な物になってしまいそうな気がする。




悩みに悩まされる。

2011-05-25 | 戯言
さて、

『悩む』とは何だろう?


コンビニに行って、

今日の、昼飯は 「パン」 にするか、

「おにぎり」 にしようか?

そんな、

小さな悩みから、


「生きる」 か 「死ぬか」 の

極端な悩み。


「2者択一」 だったり、

「膨大な数」 から一つを選んだり。


悩む事自体、


とても、健全であると思うが、


その、


悩みに悩まされ、

病気の様になってしまうと、厄介だ。


きっと、


本能的に 「選択」 出来れば、

悩む事はないのだろうが、


人間は、


本能だけで生きていくと、破滅する。


まぁ、


「社会性」 が必要な場合に限るけど。


他人は、


悩んでいる人を見た時、

「気分転換が良い」

とか、

「深く考えないほうが良い」

とか、

「考えてるヒマがあったら行動しろ」

だとか、言ったりする。


しかし、


悩んでいる人にとって、

そういった「選択肢」は、

単なる「現実逃避」にしかならず、

今の状況を解決してはいない。


では、


悩みを解決している人は居るのだろうか?


多分、


自ら、解決できる人は僅かであろう。


殆どの場合、

時間が経つことによって、

状況が変化したり、


または、


とりあえず、行動した結果が、

上手い方向に動いたり、

予想もしていない事になったり、


結局、


外的な作用が、悩みを解決するのが殆どではないか?


つまりは、


人間は悩むもので、

悩みを解決出来るのは自分ではない。


そう、思える。


そういう意味では、


「果報は寝て待て」


という事だろうか。



『福祉』とは何なのか?

2011-05-24 | 戯言
最近、

耳にする 『補償』 というカネ。

それから、

 『年金』 というカネ。

そして、

 『生活保護』 というカネ。


みんな、目的は似たようなモノだが、

いつからだろう?

 『貰えて当然』 と思うようになったのは。


若い頃、

雇用保険を貰いながら、生活した時期があった。

保険なのだから、当然受け取るべきと、

当時は考えていた。


しかし、


本当に 『当然』 なのだろうか?


本当に、働き口が無かったのか?といえば、

そんな事は無い。


仕事を選ばず、ヤル気になれば、出来ていた筈だ。


では、なぜ貰えたのだろう?


貰える様な、仕組みがあるからだ。


しかし、


働かずに、カネが手に入るという仕組みは、

社会のシステムとして間違ってはいないだろうか?


 『年金』 や 『雇用保険』 などは、

僅かながらも 『掛け金』 がある。

とはいえ、昨今の受給人数を考えれば、

どちらも、破綻してしまうだろう。


そして、


政府や自治体から貰える、

とは言っても、もとは税金だが。

真面目に働いた人々が、国に信託したカネだ。


その


 『手当て』 や 『生活保護』 はどうだろうか?

非常に厳しい状況にある人だけ貰っている訳ではない。


そう、


働かずして、金が貰えるシステムがあるから、それを利用する人もいる。

こちらは、システム自体が当初から破綻している。


今の状況は、 『すばらしい福祉社会』 なのだろうか?


真面目に働く人と、

已むに已まれず受給する人との

バランスの上で 『福祉』 は成り立つ。


このバランスを崩すと、

破綻の道を進む事になる。


昔、 『カネ』 の概念が無かった時代、

人は物々交換をしていた。


自分が栽培した食物と、

狩り捕った獣の肉。

または、

手先の器用な者が、

綺麗な石を加工したアクセサリー。

その価値は、

交換する物の量を対比で表した。


つまりは、


何か行動しなければ、食べ物は手に入らず、

そして、飢えて行くのが自然の摂理というものだった。


働くとは、本来 『当然』 の事ではないのだろうか?


そして、働かない、もしくは、働く事の出来ない人達は、

働かずにして、生きていける事に、

どれ位、 『価値』 を感じているのだろう。


自分の場合、

植物状態や、全身麻痺のようになってしまったら、

その時点で、人生は終了にしたい。

そこには、 『死ぬ自由』 があってもいいと思う。


でも、


自分の家族が、そうなった時、

絶対に、死なせないんだろうな。


その、エゴが


今の 『歪んだ福祉のカタチ』 なのだろう。



「選択責任」と「結果責任」

2011-05-23 | 戯言
ふと、

 「リーダー」 

というものについて考える。


家庭のリーダー。

職場のリーダー。

仲間のリーダー。

政治のリーダー。

世界のリーダー。


すべて、進むべき道を示す責任があり、
そして、皆の信頼を受けながら、最良へと進んでいく人達。


そこには、リーダーである 「責任」 もついてくる。


しかし、 「責任」 とは何だろう?

大きく分けて、思いつくのは


「選択責任」



「結果責任」


しかし、この二つは、リーダーでなくても、
個人にも当てはまる。


つまり、リーダーも 「個人の責任」 であるといえる。

その 「責任」 を果たす中で、結果として、信頼される人が 「リーダー」 となるのだろう。

ここで、一つ考えた究極の選択がある。

自分は車を運転している。

いつもの、慣れた通勤の道だ。

ゆるいカーブに差し掛かった時、

自転車に乗った子供が飛び出してきた。

とは言え、避ける事は可能な距離。

ハンドルを切って対向車線に大きく膨らんだ。

しかし、その対向車線からも乗用車が来ている。

まだ、車線は戻せるが、

戻れば、子供は轢かれてしまう。


ここで、一つの 『選択』 をする。


とっさの判断で子供を避け、

対向車と正面衝突をした。


自分は、無事であったが、

相手は重症。

もちろん、自分には重いペナルティが科せられる。


問題は、この後だ。


実は、助けたと思っていた子供は、

後続車に轢かれて亡くなった。


そして、


対向車の相手は、重度のマヒにより

一生苦しみ生きていく事になる。


自分は、正しい判断をしたのだろうか?

あの時、

ハンドルを切らず、子供を轢いていたら?


結果として、自分の判断は、苦しむ人を増やしてしまった。


この場合、


選択が間違っていたのだろうか?

結果が最悪になってしまったのだろうか?


もしくは、


どの選択をしても、あの子供は死んでしまったのだろうか?


結果は起きてからではないと、

その事に気付かないものだ。


重要なのは、何だろう?


「結果責任」だろうか?


最初の、 「選択」 ではないだろうか。

とっさの判断で、 「選択」 を行い、避けたわけだが、

その選択を選ぶまでの 「プロセス」 は何だったのか?

それが重要なのではないか?

「結果責任」を恐れるあまり、

「選択責任」を放棄してしまったら、

それは、生きている意味を失ってしまう。


前にも進まず、後ろにも下がらず、

ただ、立ち止まってしまう事。


「立ち止まる選択」 もあると言えば、そうではあるが、

立ち止まっていても、時間が止まる事はない。


人間には、いつか必ず 「死」 が訪れるのだから、

立ち止まる事は、 「死を待っている」 に過ぎない。

「死を待っている者」 が、生きているとは言えないのではないか?


生きていくのは、 「選択」と「結果」 の繰り返しなのだろう。

ある宗教では、 「この世で生きるのは、修行である」 と、唱えている。

生きる事は、辛くて当然だと。

そこに、僅かな幸せがあると、前に進む原動力となっていく。


そう思うと、


ちょっと、気が楽。



最近、気になる 「コケ」 達

2011-05-10 | 戯言

ふと、

道を歩きながら足元を見ると居るヤツ。


忘れ去られた、植木鉢に大きく育ち、

なんとも言えぬ、 『侘び寂び』 を感じさせ、

誰にも見つかること無く、

ひっそりと

庭の片隅に暮らしている。


昔は、ズボンに付くと、

緑色が落ちなくなって、

近づかない様にしていたものだったが、


よく見ると、

結構、綺麗なもんだ。


そこで、


庭に転がっていた、石と、

ペットボトルを切り取った器で、

こんな物を作って見た。
Nec_0017


このサイズはイイネェ。


とりあえず、成長を見守るかな。