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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

『動物愛護』は権利では無い。

2011-12-14 | 戯言
『害獣問題』。


主に、農村地域等で近年増加傾向にある、

農業従事者にとっての死活問題。


しかし、


元々、山にいた筈の

サルや、

イノシシや、

シカや、

クマなどは、

2000年以上の昔から、人里に下りてきていたはず。


なぜ、今更増加するのか?


増えすぎ?

それなら、餌が少なくて人里に下りてくる理由は無くなる。


餌が無いから?

餌が無いのに増えるだろうか。


この矛盾。


実は、

人里に下りてきた動物たちを、

過保護に扱った為に起こったと考えられる。


確かに、


小さな子猿や、

ウリボウや、

小熊や、

小鹿は


かわいい。


つい、餌をあげたくなる。

そして、動物たちは人間に恐怖心を抱かなくなる。

さらに、もっと栄養価の高い、美味い物を欲するようになる。

その欲望が、野生むきだしで襲ってくるようになる。


つまり、


元の発端は、人間自身の、

我欲。

偽善。

傲慢。

によって引き起こされる。


よく、『餌を与えないで下さい』という看板の前で、

動物に餌を与える人がいる。


その人曰く、


「かわいそうだ」、「俺の勝手だ」、「動物をかわいがって何が悪い」

と言う。


悪いことは無いし、その人の自由だと思う。

しかし、自由にやりたいのだったら、

その人は責任を取るべきなのだ。


被害がでたら、その弁償。

怪我をさせたら、その治療費。

もし、クマなどに襲われ、死んでしまったら、慰謝料。

「かわいそう」だと思うなら、

動物に代わって払うべきだ。


ところが、


そういう人に限って、こう言う。

「野生の動物だからしかたない」


おや?


「野生の動物」ならば、

餌を食べられず餓死したとしても仕方ないのでは?


『動物愛護』は結構な事だが、

それは、権利ではない。

自由を行使するなら、責任も取らなくてはならない。




『ウルサイ環境で本を読む』。

2011-08-31 | 戯言
最近、

Linux系の本であったり、

数学系の本であったり、

物理系の本であったりを良く読む。


で、


正直、この手の本は分厚い。

何冊か持ったら数キロになってしまう。


その分、内容も濃い。


真面目に一語一句、意味を考えながら読んでいると、

一生掛かっても読みきれない気がする。


そこで、


書店にあった、『速読の教科書』なる本に興味を持った。


CDも付いていて、

聞きながら目で追っていく内に、

いつの間にか『速読』が身に付くというもの。


結果は、


まぁ、微妙。


ただ、収穫はあった。


要するに、

目で追いながら全文を読むのだが、

「初めから全部理解しよう」という事ではなく、

文の中から、チョイスをしたり、

ゆっくり読む時間を使って、

何回か読み返す事で、頭に入れると。


そうゆう解釈に至った。


実際、


本を読むと言う感覚よりは、

写真集を、パラパラと見ていく感じだろうか?


で、


とりあえず、

本を早く読む(見る?)事は出来るようになった。


本を読むにあたって、

最大の問題は、


眠くなってくる事。


これは、痛い。


コレの解決策は、


本を読みながら、寝る。

ただし、数秒間。


それで、スッキリしながら続きを読める。

ま、眠すぎる時は、諦めてグッスリ寝るが。


もう一つの問題が、


飽きる。


というか、


集中できない。


今まで、常識的に、


静かな環境で、

リラックスしながら、

なんなら、コーヒーでも嗜みながら、

クラシックなんか流れてたりして、


そうゆう環境で集中できるモノだと思っていたが、


そんな環境じゃ、


眠くなるだけ。


ってゆうか、寝ちゃう。


そこで、逆転の発想。


『ウルサイ環境で本を読む』。


最初は、

「うるさくて、集中できん!」

などと、思っていたが、

その音を、『完全無視する』ように心がけてみると、

意外と、本に集中できる。


ってゆうか、ウルサイから余計な事を考えない。


んで、『速読効果』も相まって、


さらに、本が読める。


これは、気が付かなかった。


考え事をしたい時は、


静かな方が良いが、


本を読む時は、


ウルサイくらいが、ちょうど良いらしい。




医者 と 医療 は完璧じゃないといけないのか?

2011-08-17 | 戯言
医者。


誰もが、一度は世話になる人達。


自分も、

昔、盲腸の手術をした事がある。

後、数時間遅ければ腹膜炎を起こし、

命の危険もあったらしい。


つまり、


手術を受けられなかったら、

こうして、今いなかったかも知れない事になる。


さて、


もし、その時点で、

何か 「ミス」 があったとして、

その命が終わっていたとしても、

手術をしなければ、同じ事だったかもしれない。


つまり、


知らぬ間に 「生きるか」 「死ぬか」 の賭けをした事になる。


賭けには、


大きな配当もあるが、

それに見合った、リスクもある。


 「一寸先は闇」 という事だろう。


 「医療ミス」 という言葉がある。


いかにも、医者がミスを犯し、

それを、あたかも 「犯罪」 だと言わんばかりだ。


ミスは、人間なら誰にでもある事だが、

こと、医療に関しては、ミスが許されないと言う事らしい。


もちろん、


故意に悪意を持って、ミスを装ったなら話は別だが、


少なくとも、


多忙な合間を縫って、

何の利益にも繋がらない、

他人の命を、


今から救おうとしている医者が、

ワザとミスをする訳が無い。


つまり、


ミスをしていたとしても、

それは、単純な間違いではないのか?


命を扱う者に、単純な間違いは許されない。

それは、当然ではあるが、


そこに、 「悪」 があるとすれば、


それは、


 「ミスを犯す環境」 と 「ミスを見逃す雰囲気」 だろう。


工業製品には、

1万に1つでも不良品があってはならない。


今では常識だが、

普通に考えると、


常人が、


1万個の部品を作って、

尚且つ、不良品がゼロでなくてはならないなんて、

あり得ない、異常品質とも言える。


しかし、


簡単な事ではないが、可能である。


それには、

長い努力と、多くの知恵があって成し得るものだ。


医療も、いつかは 「ミスが、ほぼゼロになる」 時が来るかもしれないが、


そのとき、患者が、


人として扱われているのだろうか?


医療を受けるのは自由である。

無理やり、医療を受けさせられて命を落とした人がいれば別だが。


当然だが、


自由には責任が付き物だと理解しなければならない。



生と死 人の寿命。

2011-08-13 | 戯言

ドラマや、

映画の設定で、


若くして、

重病に掛かった、主人公が、

幼い子供を残し、

残りの寿命を告げられる。



もしくは、



幼い子供が、

重病や、

事故に遭い、

その短い人生を終える。



大抵の主人公は、

病気の告知を受けると、

その、唐突な人生の終了時間に、

絶望感を感じたり、

失望したり、

時には、

その、行き場の無い怒りを、

世間にぶつけたりする。



最終的には、

人生に悔いなく、

最後まで諦めずに生きていく事を、

美化しながら、

最後は、幸せだったと描くものだ。



医療は、


人を助ける事を目的に活動しているのだが、

極端な話し、

1分でも、

1秒でも長く、

心臓の鼓動が止らないように、

延命を図っているに過ぎない。



医療とは何だろう?



人が怪我をし、

または、

重い病気を発症し、

生命の危機を感じ、



その時、



生命の復活を与えるモノだろうか?



或いは、

生命の危険は無くとも、

苦痛や、

不安や、

不満から、

その医療の力を使い、解消するモノだろうか?



川や海などで、

人命救助をした人が、

そのまま一緒に溺れてしまったり、



或いは、



人を助けようと、

暴漢に立ち向かい、

その命を落としたり。



おそらく、



医療でも、

人助けでも、



その時、



生命の危機とか、

自分の安全とか、

医療の本質とか、

そんな事を考えてはいないのだろう。



ただ、



手を差し伸べる事が出来たから、

自然と、手が出てしまっていただけではないか?



そこで、考える。



命とは何か?

人生とは何か?



どちらにも、共通点がある。

必ず、終わりが来る。



それは、



願おうが、願うまいが、

全ての人間に平等に訪れる。



ただ、



生まれて、数分で終わる人生もあれば、

100歳を超えて、人生を終了する人もいる。



どちらが幸せなんだろう?



生きていれば、

楽しい事ばかりでは無い。



どちらかと言えば、

辛い事、

苦しい事が多いハズだ。



では、



長い人生を過ごし、

辛い事を、多く経験した人生は、

幸せだったのだろうか?



生まれて数分で死んでしまい、

辛さを一つも感じなかった人生は、

不幸なんだろうか?



不幸なのは、



最後の瞬間に、


 「あぁ、人生が終わってしまう」 と、
 

思う事ではないか?



生きている今、

やりたい事をやって、

行きたい所へ行って、

欲しいモノを手に入れて、

少しでも多くの幸福感を感じる事が、

幸せなのではないだろうか?



病気などで、

残りの寿命の宣告をされる事は、

ある意味、

幸わせなのかもしれない。



人生の最後が判れば、

その最後まで全力疾走すればいい。



ただ、



その宣告を受けたとしても、

次の瞬間には、

事故に遭い、人生が終わっているかもしれない。



そう、


焦る必要はない。

人生は必ず終わる時が来るのだ。



その時、



 「あぁ、やっと終わった」 と、

思えたのなら、


幸せな人生だったのだろう。


世界の通貨価値。

2011-07-14 | 戯言
最近、

『円高』 と呼ばれる状況が続いている。


『円高』とは、文字通り 『円』 が 『他通貨』 に対し高い価値を持つ事だが、

これが、特に基軸通貨である『米ドル』に対し、高くなると、

自ずと、全てに対し高くなってしまう。


さて、


実際、『円の価値』は高くなったのだろうか?

正直、高くなる要因は見えてこない。


それどころか、


『政治不安』 やら、『災害対策』 など、

どちらかと言えば、

一時的にでも、価値が下がってもいい状況。


じゃあ、なんで?


世間では、色々言われているが、

『コレだっ!』という理由は無いのが実情。


しかし、


通貨も物価と一緒で、

需要が多く、品薄ならば高くなり、

需要が少なく、物余りならば安くなる。


この原理は一緒。


という事は、


単純に、


『円』が相対的に少なく、

『米ドル』が相対的に多く、


尚且つ、


『円』の需要が高まったのではなく、

『米ドル』の需要が低下したのではないのか?


と思う。


通常、『プライマリーバランス』は、


自国の、『通貨量』を想定しながら設定するのだろうが、


世界的に、『米ドル』が異常発行されている昨今では、

『世界的なプライマリーバランス』を考えないと、

外国の通貨政策の影響をモロに受けてしまう。


政治家が、


「円を発行し過ぎれば、ハイパーインフレになる」なんて事を言っていたが、


今は、超デフレ。

しかも、20年くらい。

給料も、物価も上がっていない。

いいのか?これで?


ところで、


各国の脅威である 『ハイパーインフレ』 だが、

何故、起こるのか?


お金を撒いて→物が売れて→通貨流通が起きれば、

『ハイパーインフレ』にはならないハズだ。


これは、


正常な 『お金』 の回り方で、

消費が増える事で、仕事も増え、物価は緩やかに上昇していく。


しかし、


お金が余剰した状態で、『物が無い状態』 が起きると、ハイパーインフレになる。


つまり、


物が無い事で、異常な価値が付いてしまう事が原因だ。


でも、


今の日本で、物が無いなんて事は考えにくい。


そこで、


輸入品の比率が問題になってくる。


これが通貨価値にも絡んでくる。


国内の需要に対し、国内の供給のバランスが出来ていれば、

物が無くなる事は無く、異常なインフレも起きない。


でも、


今、自国での生産を控え、


安い物を輸入しようという考えの


政治家や企業がいる。


それこそが、


ハイパーインフレを引き起こす、最大の要因じゃないのか?


こうして考えると、


他国との通貨バランスを適正に保っていく事が、


健全な 『景気回復』 につながるのかもしれない。