goo blog サービス終了のお知らせ 

明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

『民主主義』は万能だろうか?

2012-08-20 | 戯言
最近、中東周辺で、

『民主化』という現象が支持されている。


しかし、


実際、民主化が進むと、

問題が山積し始める。


『民主主義』とは何だろうか?

主権?

自由?

選挙?

権利?


確かに、

多数決によって決められる選挙で、

ルールを決め、

それに従う。

それが、『民主主義の根源』であるだろうが、

ちょっとした問題がある。


その他、少数の意見をどうするか?


思想の自由が認められているが故、

少数の意見も無碍には出来ない。


しかし、


少数の意見を尊重すれば、

多数の意見に反してしまう場合がある。


通常は、多数派の意見を尊重し、

ルールを決めて、全体で守るのが民主主義だろう。


ところが、


ここで、少数派がルールを守らなかったらどうなるか?

いわゆる、『テロ行為』を行うようになる。


ルールを守る。

法律を遵守する。

規律を守る。

これが出来ないと、

『民主主義』は成り立たない。


しかし、


世の中には、守れない人もいるのが事実だ。


その対策が、


『強権発動』となり、

行き着く先は 『独裁政治』 となる。


『独裁政治』が巨悪だというイメージがあるが、

言う事を聞かない『テロリスト』の方が余程厄介だろう。


『強権の行使』は誉められた事では無いが、

政治を治める為に止むを得ない事もまた事実だ。


だが、


疑問になるのは、

「何故、ルールが守れないのか?」 だ。


教育水準の問題だろうか?

宗教観の問題だろうか?

元来の資質だろうか?


いや、


単純だろう。

「ルールは守らなければ成らない。」と、

確実に教えられているか否かではないだろうか?

その一点が、確実に理解されていれば、

『民主主義』は成り立つ。


しかし、


ルールを守る事を敢て拒否する者が多ければ、

ルールを守る事に鈍感であれば、

民主主義では統治出来ない。


ルールを守る事は最低限の事だが、

最大限の教育努力をしなければ、

自由で権利が保てる世界には成らない。



『悪人』と『善人』

2012-08-13 | 戯言
この世から、『悪人』が一掃されると幸せな世界になるのか?


単純なようで、

難しい気がする。


確かに、


世の中には、居てはいけない人間も存在する。

とりあえず、『人権』ってやつで守られているわけだが。


もし、

例えば、

『殺人』なんかの重罪を犯した人間を、

片っ端から『死刑』にしていったら、

良い世の中になるのだろうか?


物理的には可能だろうが、

その結果は、どうなるだろうか?


『殺人者』が居なくなったとして、

次に、極悪人になるのは、

『傷害罪』か?『窃盗罪』か?と、

次から次に、

死刑のハードルは下がっていくのではないだろうか?


世の中には、

ある程度の『悪人』が居て、

対極に『善人』が居る。

完璧な『善人』など居ないから、

いずれ、その『善人』も『悪人』に成り下がる。


つまり、


『悪人』を完全に排除する事は、

不可能に近い。


じゃあ、『悪人』が堂々と生きているのは仕方が無いのか?

たとえ、

殺人を犯し、

刑期を終えたとしても、

その殺人犯が、

「俺は殺人したけど、刑期終えたから、みんなヨロシクね!」

なんて事を言われても、

当然、世間は受け入れないだろう。


それは、


犯した罪によって、

世間からは抹殺される事になる。


世間が受け入れるか否かで、

その罪の重さ、

『悪人度』とでもいうのか、

それを司っている様に思える。


結局、


多少の『悪人』が居る事で、

その他が『善人』と呼ばれる。

つまり、

悪い奴を見て、

「あの様には成りたくない」と思う事が『善人』なのだ。


では、


ただひたすら、『悪人』を増やさない様にしていれば、

この絶妙なバランスは保てるのだろうか?


自分は『善人』で在りたいが、

時と場合によっては、

『悪人』となる事も必要な気がする。


『悪人』と『善人』に境界など無いのかも知れない。




『安全の確保』は重要か?

2012-08-01 | 戯言
最近、

とある動画を見た。

『食品の裏側』という本の著者が出てきて、

その、執筆の経緯について話すのだが、

非常に考えさせられる部分がある。


まず、


『食品添加物』とは何か?を、

具体的に説明しながら、実際に、

その場で、調合しつつ、

スープや飲料なんかを作って、

司会者に飲ませるのだが、

出来上がった物を飲んでも、

全く違和感を感じない。


問題は、


そんな物が、世の中の大半を占めている中で、

『安全の確保』が出来ているのか?なのだが、


その著者いわく、


「安全かどうかは、わからない。」

と言う。


じゃあ、食べない方がいいのか?と聞くと、

「その恩恵を考えれば、どちらとも言えない。」

さらに、こう続ける。

「危険かどうかは解らないが、中身を知った上で食べるのがいいのではないか?」

と。


確かに。


安全かは解らないが、それを選択する以上、

中身が何かを見て判断するのは、本人である。


そこに、安全は無いが、

今まで食べていて影響がなさそうなら、

経験則上の安心感は多少出てくる。


安全と安心。


安全だから安心という事はあるだろうが、

『絶対に安全な物』など、世の中に存在するのだろうか?


つまり、


『安全=安心』と言い切る事こそ嘘ではないか?

たとえば、

今まで、全く問題なく食べていたものが、

ある日突然、『発がん性物質』になってしまう事がある。

今、現在も食品添加物がその指定を受けている。


しかし、


本当に、毒なのだろうか?

その、食品添加物を使えば、

細菌の繁殖を抑え、日持ちする事で、

病気になるリスクは抑えられる。

それを、使わなければ、

作った料理は、その場で食べなければならない。


確かに、昔はそれが当然だっただろう。


でも、その『利便性』に慣れてしまった現在で、

そのメリットを捨ててまで、自然食品にこだわる必要があるのか?

安全か否かが、良く解らないから、

それを食べるのは、やめるべきなのか?


本来、『食』事態が危険な行為だと思う。

野草や、キノコ、魚にも、毒は存在し、

それを回避しながら食べている訳だが、


突然、


アレルギーを発祥して、

水すら毒となってしまう事もあると考えると、

それは、

安全だから食べるのではなく、

安心だと思いながら食べるしかないのではないか?


安心と思うには、自分が納得するしかない。


その情報を調べ、内容を熟知し、最後は試してみる。

その結果、自分の中で良いと思うしかない。


兵器だったり、

発電所だったり、

「安全を確保出来なければ、安心出来ない」と、

声高に叫ぶ人もいるが、


問題なのは、


『安全を確保してもらう事』ではなく、

自分で安心する努力をする事だと思う。



6÷2(1+2)の答えは?

2012-07-20 | 戯言
面白い話題に遭遇した。

6÷2(1+2) 

という問題だ。


実際、計算すると幾つかの答えに分かれるらしい。


でも、


計算結果の違う数式って・・・。


そこで、

ネットの論争を見てみると、


答えが、1になる人。

答えが、9になる人。

稀に、7になる人がいる。


何が違うか?と言えば、

計算する順序。


1になるという場合、

2(1+2)=(2×1+2×2)

になるのだと言う。


9になるという場合、

2(1+2)=2×3

になると言い、


7になる場合、

2(1+2)=2×1+2×2

で、括弧が取れてしまうと言う。


答えが1と言う人は、

2(1+2)は多項式だから、一つの整数なのだと。


答えが7と言う人は、

2を(1+2)に掛けた時点で括弧は取れるのだと。


答えが9と言う人は、

2(1+2)は整数だから、(1+2)を先に計算し、括弧を外すのだと。


実際の答えは、

括弧が何故付いているのか?で解決する。


優先順位的に、最優先となるのだから、

括弧内の計算を先に行い、

括弧を外すのが正解だろう。

この時、同類項でなければ計算出来ないが、

これ場合、単純な整数の足し算なので、

(1+2)=3になる。


括弧を外した時点で、


6÷2×3


となるのだから、


左から優先して計算すれば、

答えは、9になる。


しかし、

パッと見た感じで答えを出しても、

ちょっと考えると、「待てよ・・・」と

考えさせられる所が面白い。






『教師』の仕事は何か?

2012-07-10 | 戯言
最近、気づいた事がある。

ふと、昔受けていた『学校での授業』の事。


教師が質問する。

「この答えはAだと思う人。」


そして、自分以外の全員が手を上げる。

教師は訊ねる。


「なぜ、違うと思う?」


自分が答えに詰まると、

面倒になった教師は、授業を続ける。

何故違うのか理解できないまま、孤立する。


そして、別の日。


クラスの輪の中で、意見が食い違う事がある。

また、そこでも持論を持って、対立。

孤立する。


こんな事を繰り返すと、

いつの間にか、アンチ人間というレッテルを貼られる。

そして、意見は無視され、

疎ましく思われる様になると、排除される。


そこで、意見を曲げて、

なんとなく、意見を合わせ、

解らない事を解ったと言い。

知らない事を知っていると言う。


今度は、解らない事がバレて嘘つきのレッテルを貼られる。

その繰り返しが起こると、

いつの間にか、壁を作るようになる。


誰が、悪いわけでもない。


自分は解らないものは、解らないと言っただけ。

教師は、授業を進める為に、それを無視しただけ。

同級生は、たった一人の意見に振り回されるのが疎ましかっただけ。


全て、些細な事で、

それぞれ、一つを取っても、大した事では無い。


では、解決策はあるだろうか?


自分は空気を読んで、適当に答えを合わせるのが正しいのか?

教師は、他の全員を犠牲にして、一人に時間を割くのが正しいのか?

同級生は、一人の意見でさえ重要だと、いつまでも答えの無い議論を続けるのが正しいのか?


答えは簡単。


解る人間が、解らない人間に理解出来るまで教えてあげれば解決する。

僅かな労力だが、多くの時間を無駄にする事はなくなる。

もし、解る人間が説明出来ない時は、

説明できる人間が手伝えばよい。


いや、まてよ?

これ自体が教育じゃないのか?


しかし、


これが出来ないのは、何が問題なのだろう?

教育の根底が狂っているのではないか?


『理解するのは生徒で、教えるのは教師。』


これでは、

教えられない教師が居たら成り立たないし、

理解しない生徒が居ても成り立たない。


本来ならば、


『理解させるのが教師の仕事で、教えるのは誰でも良い。』


ではないだろうか。