
所作(しょさ、踊りね)です。
場所は江戸、吉原の遊郭です。
かわいい鳥かごをいくつもかついだ、鳥売りの夫婦がやってきます。
と言っても、この鳥は籠に入れてペットに飼うための鳥ではありません。
昔は「放生会(ほうじょうえ)」という仏教イベントがありました。
仏教は殺生を禁じますが、さらに一歩進んで、生き物の命を助けることで徳をつもう、というのが本来の趣旨です。
そのために、それ用に売られている鳥をわざわざ買って、それを放す、というものです。
タイなどではいまでも盛んだと聞きます。
わが国では、旧暦の八月十五夜(今の9月の仲秋の名月)の前の晩に「放生会」のイベントが行われるのがふつうでした。
というわけで、この夫婦は、秋のはじめの吉原に、放生会のための鳥を売りに来たのです。
いくら仏教の徳をつむためとは言っても、
鳥(そのへんで捕まえてきたので原価はタダです)に、付加価値でムダにかわいい籠を付けただけのもにお金を出すのは、ちょっと根性がいります。
こういうものを売るのに、季節イベントが大好きな上に小金を持った吉原の客は絶好のターゲットだったと思います。
イベントの説明が長くなりましたが、踊り自体は、吉原のもの売りが浮かれたかんじで踊る、楽しそうな雰囲気を楽しむだけのものです。
清元の内容的には、鳥が「つがい」になる様子にたとえて、人間の恋心をまず歌い、
さらに「籠の中の鳥」を遊女に例えて、吉原の遊女と客との様子を語ります。
この作品では、同じ吉原でも。いわゆる「高級遊女」の話はせず、
街のはずれのほう、裏通りにある、「切店(きりみせ)女郎」とか「長屋女郎」とか呼ばれる、
小さい部屋で安く客を取る遊女と客の様子を描きます。
安いので、当然客も気軽に遊びに来ますが、それでも遊郭の規則はちゃんとあって、
客は常に決まったひとりの遊女に通うことになっています。擬似恋愛なのです。
そんな遊女も、いつか、年季があけたら(契約期間が終わって、借金が残っていなかったら)、好きになった男と結婚しておかみさんとよばれたい。
でもそれまでは籠の鳥、
みたいな内容です。
終盤は、遊女の気持ちを、鳥尽くしのセリフでにぎやかに歌います。
そんなかんじの踊りです。
比較的若い、売出し中の役者さんがやることの多い踊りだと思います。動きも多いので見ていて楽しいと思います。
一応、ざっとですが、
「江戸の遊郭の様子です。
舞台は、秋なので秋の七草のひとつ、桔梗が咲いていると思うのですが、吉原なのでお約束で、季節感関係なく、桜が咲いているかもしれません。
へたしたら両方咲いているかもしれません。
キレイならいいやというかんじで、おおらかにご覧ください。
チナミに、同じ「振り売り」でもm一年中同じものを売る、魚や煮物や生活必需品の物売りと違い、
こういう商売は「際物(きわもの)売り」と呼ばれます。
時節が過ぎたらまったく売れなくなる、タイミング勝負のあざとい商売です。
放生会が終わったら、また別の商売を探します。
こういう暮らしをしているこの夫婦は、仲良しですが、経済的にはかなり不安定、というか、あまり堅実に生きているタイプではありません。プーです。
ただ、これは江戸の、安定していていい時期に作られた踊りなので(文政7年初演)、
こういう、「遊んで暮らしている」ような若いキレイな夫婦を批判的に見るよりも、
楽しそうでいいなと見る余裕があったのだと思います。
衣装の話ですが、
この夫婦の衣装が薄い水色(浅黄色)なのは、浅葱色が「安物の服」を表すというお約束だからです。
というわけで、歌舞伎の所作で「物売り」の衣装はほとんどが浅黄色です。
あと、浅黄の衣装を着ていて有名なのは「寿曽我対面」で出てくる曽我十郎と五郎です。
父親が殺されて浪人していてとても貧乏なのでみずぼらしい服を着ている、という設定を浅黄色で表しているのですが、
一方で、「浅葱」は、「安っぽい衣装」であるとともに「若々しい美しさ」の象徴でもあります。両方の意味を持っているのです。
「仮名手本忠臣蔵」の大序で、桃井若狭介(もものい わかさのすけ)が浅黄色の服を来ているのは若々しいはねっかえりぶりを強調するためです。
=50音索引に戻る=
場所は江戸、吉原の遊郭です。
かわいい鳥かごをいくつもかついだ、鳥売りの夫婦がやってきます。
と言っても、この鳥は籠に入れてペットに飼うための鳥ではありません。
昔は「放生会(ほうじょうえ)」という仏教イベントがありました。
仏教は殺生を禁じますが、さらに一歩進んで、生き物の命を助けることで徳をつもう、というのが本来の趣旨です。
そのために、それ用に売られている鳥をわざわざ買って、それを放す、というものです。
タイなどではいまでも盛んだと聞きます。
わが国では、旧暦の八月十五夜(今の9月の仲秋の名月)の前の晩に「放生会」のイベントが行われるのがふつうでした。
というわけで、この夫婦は、秋のはじめの吉原に、放生会のための鳥を売りに来たのです。
いくら仏教の徳をつむためとは言っても、
鳥(そのへんで捕まえてきたので原価はタダです)に、付加価値でムダにかわいい籠を付けただけのもにお金を出すのは、ちょっと根性がいります。
こういうものを売るのに、季節イベントが大好きな上に小金を持った吉原の客は絶好のターゲットだったと思います。
イベントの説明が長くなりましたが、踊り自体は、吉原のもの売りが浮かれたかんじで踊る、楽しそうな雰囲気を楽しむだけのものです。
清元の内容的には、鳥が「つがい」になる様子にたとえて、人間の恋心をまず歌い、
さらに「籠の中の鳥」を遊女に例えて、吉原の遊女と客との様子を語ります。
この作品では、同じ吉原でも。いわゆる「高級遊女」の話はせず、
街のはずれのほう、裏通りにある、「切店(きりみせ)女郎」とか「長屋女郎」とか呼ばれる、
小さい部屋で安く客を取る遊女と客の様子を描きます。
安いので、当然客も気軽に遊びに来ますが、それでも遊郭の規則はちゃんとあって、
客は常に決まったひとりの遊女に通うことになっています。擬似恋愛なのです。
そんな遊女も、いつか、年季があけたら(契約期間が終わって、借金が残っていなかったら)、好きになった男と結婚しておかみさんとよばれたい。
でもそれまでは籠の鳥、
みたいな内容です。
終盤は、遊女の気持ちを、鳥尽くしのセリフでにぎやかに歌います。
そんなかんじの踊りです。
比較的若い、売出し中の役者さんがやることの多い踊りだと思います。動きも多いので見ていて楽しいと思います。
一応、ざっとですが、
「江戸の遊郭の様子です。
舞台は、秋なので秋の七草のひとつ、桔梗が咲いていると思うのですが、吉原なのでお約束で、季節感関係なく、桜が咲いているかもしれません。
へたしたら両方咲いているかもしれません。
キレイならいいやというかんじで、おおらかにご覧ください。
チナミに、同じ「振り売り」でもm一年中同じものを売る、魚や煮物や生活必需品の物売りと違い、
こういう商売は「際物(きわもの)売り」と呼ばれます。
時節が過ぎたらまったく売れなくなる、タイミング勝負のあざとい商売です。
放生会が終わったら、また別の商売を探します。
こういう暮らしをしているこの夫婦は、仲良しですが、経済的にはかなり不安定、というか、あまり堅実に生きているタイプではありません。プーです。
ただ、これは江戸の、安定していていい時期に作られた踊りなので(文政7年初演)、
こういう、「遊んで暮らしている」ような若いキレイな夫婦を批判的に見るよりも、
楽しそうでいいなと見る余裕があったのだと思います。
衣装の話ですが、
この夫婦の衣装が薄い水色(浅黄色)なのは、浅葱色が「安物の服」を表すというお約束だからです。
というわけで、歌舞伎の所作で「物売り」の衣装はほとんどが浅黄色です。
あと、浅黄の衣装を着ていて有名なのは「寿曽我対面」で出てくる曽我十郎と五郎です。
父親が殺されて浪人していてとても貧乏なのでみずぼらしい服を着ている、という設定を浅黄色で表しているのですが、
一方で、「浅葱」は、「安っぽい衣装」であるとともに「若々しい美しさ」の象徴でもあります。両方の意味を持っているのです。
「仮名手本忠臣蔵」の大序で、桃井若狭介(もものい わかさのすけ)が浅黄色の服を来ているのは若々しいはねっかえりぶりを強調するためです。
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