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ナビゲーターは魂だ

泉鏡花 高野聖 8/10

2015-01-07 | 
十八
「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸を廻る鰭爪(ひづめ)の音が縁(えん)へ響いて親仁(おやじ)は一頭の馬を門前へ引き出した。
 轡頭(くつわづら)を取って立ちはだかり、
(嬢様そんならこのままで私(わし)参りやする、はい、ご坊様にたくさんご馳走して上げなされ。)
 婦人おんなは炉縁(ろぶち)に行燈(あんどう)を引附(ひきつ)け、俯向(うつむ)いて鍋の下を燻(いぶ)していたが、振仰(ふりあお)ぎ、鉄の火箸(ひばし)を持った手を膝に置いて、
(ご苦労でござんす。)
(いんえご懇(ねんごろ)には及びましねえ。しっ!)と荒縄(あらなわ)の綱を引く。青で蘆毛(あしげ)、裸馬(はだかうま)で逞(たくま)しいが、鬣(たてがみ)の薄い牡(おす)じゃわい。
 その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、白痴殿(ばかどの)の背後(うしろ)に畏(かしこ)まって手持不沙汰じゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、
(その馬はどこへ。)
(おお、諏訪の湖の辺(あたり)まで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝(あした)お坊様が歩行(ある)かっしゃる山路を越えて行きやす。)
(もし、それへ乗って今からお遁(に)げ遊ばすお意(つもり)ではないかい。)
 婦人(おんな)は慌(あわただ)しく遮って声を懸けた。
(いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。)
(何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。お坊様は命拾いをなされたのじゃで、大人しゅうして嬢様の袖の中で、今夜は助けて貰わっしゃい。さようならちょっくら行って参りますよ。)
(あい。)
(畜生。)といったが馬は出ないわ。びくびくと蠢(うごめ)いて見える大きな鼻面(はなッつら)をこちらへ捻じ向けてしきりに私等が居る方を見る様子。
(どうどうどう、畜生これあだけた獣じゃ、やい!)
 右左にして綱を引張ったが、脚から根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。
 親仁(おやじ)大いに苛立って、叩いたり、打ったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。肩でぶッつかるようにして横腹(よこっぱら)へ(体たい)をあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた四脚を突張り抜く。
(嬢様嬢様。)
 と親仁が喚(わめ)くと、婦人はちょっと立って白い爪さきをちょろちょろと真黒に煤けた太い柱を楯に取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。
 その内腰に挟んだ、煮染(にしめ)たような、なえなえの手拭いを抜いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁はこれでよしという気組(きぐみ)、再び前へ廻ったが、旧(もと)によって貧乏動(びんぼうゆるぎ)もしないので、綱に両手をかけて足を揃えて反返(そりかえ)るようにして、うむと総身(そうみ)に力を入れた。とたんにどうじゃい。
 凄(すさま)じく嘶(いなな)いて前足を両方中空(なかぞら)へ翻(ひるがえ)したから、小さな親仁は仰向けに引っくりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。
 白痴(ばか)にもこれは可笑(おかし)かったろう、この時ばかりじゃ、真直(まっすぐ)に首を据えて厚い唇をばくりと開けた、大粒な歯を露出(むきだ)して、あの宙へ下げている手を風で煽るように、はらりはらり。
(世話が焼けることねえ、)
 婦人は投げるようにいって草履(ぞうり)を突ッかけて土間へついと出る。
(嬢様勘違いさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁があるだッぺいわさ。)
 俗縁は驚いたい。
 すると婦人が、
(貴僧(あなた)ここへいらっしゃる路(みち)で誰にかお逢あいなさりはしませんか。)」
   
十九
「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売(はんごんたんうり)に逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。)
(ああ、そう。)と会心の笑みを洩らして婦人は蘆毛(あしげ)の方を見た、およそ耐(たま)らなく可笑しいといったはしたない風采(とりなり)で。
 極めて与(くみ)し(易やす)う見えたので、
(もしや此家(こちらへ)参りませなんだでございましょうか。)
(いいえ、存じません。)という時たちまち犯すべからざる者になったから、私は口をつぐむと、婦人は、匙(さじ)を投げて衣(きもの)の塵(ちり)を払うている馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、
(しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端(かたはし)が土へ引こうとするのを、掻取(かいと)ってちょいと猶予(ためらう)。
(ああ、ああ。)と濁った声を出して白痴が件(くだん)のひょろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡してやると、風呂敷を寛げたような、他愛(たわ)いのない、力のない、膝の上へわがねて宝物(ほうもつ)を守護するようじゃ。
 婦人は衣紋(えもん)を抱き合せ、乳の下でおさえながら静かに土間を出て馬の傍(わき)へつつと寄った。
 私はただ呆気(あっけ)に取られて見ていると、爪立ちをして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣(たてがみ)を撫でたが。
 大きな鼻頭(はなづら)の正面にすっくりと立った。丈(せい)もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚(うっとり)となった有様(ありさま)、愛嬌も嬌態(しな)も、世話らしい打解(うちと)けた風はとみに失せて、神か、魔かと思われる。
 その時裏の山、向うの峰、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴(くちばし)を向け、頭(かしら)を擡(もた)げて、この一落(いちらく)の別天地、親仁を下手(しもて)に控え、馬に面してたたずんだ月下の美女の姿を差覗(さしのぞ)くがごとく、陰々として深山(みやま)の気が籠(こも)って来た。
 生ぬるい風のような気勢(けはい)がすると思うと、左の肩から片膚(かたはだ)を脱いだが、右の手を脱(はず)して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣(ひとえ)を円(まる)げて持ち、霞も絡(まと)わぬ姿になった。
 馬は背な、腹の皮を弛めて汗もしとどに流れんばかり、突張った脚もなよなよとして身震いをしたが、鼻面(はなづら)を地につけて一掴(ひとつか)みの白泡を吹出したと思うと前足を折ろうとする。
 その時、頤(あぎと)の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽うが否や、兎は躍って、仰向けざまに身を翻がえし、妖気を籠めて朦朧(もうろう)とした月あかりに、前足の間に膚が挟(はさま)ったと思うと、衣(きぬ)を脱して掻取(かいと)りながら下腹をつと潜(くぐ)って横に抜けて出た。
 親仁は差心得(さしこころえ)たものと見える、この機っかけに手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山路に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る間まに眼界を遠ざかる。
 婦人は早や衣服(きもの)を引っかけて縁側へ入って来て、突然(いきなり)帯を取ろうとすると、白痴は惜しそうに押えて放さず、手を上げて、婦人の胸を圧えようとした。
 邪慳(じゃけん)に払い退けて、きっと睨んで見せると、そのままがっくりと頭(こうべ)を垂れた、すべての光景は行(燈あんどう)の火も幽(かすか)に幻のように見えたが、炉にくべた柴がひらひらと炎先(ほさき)を立てたので、婦人はつと走って入る。空の月のうらを行くと思うあたり遥(はる)かに馬子歌(まごうた)が聞えたて。」

二十
「さて、それからご飯の時じゃ、膳には山家(やまが)の香(こう)の物、生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめを茹(う)でたの、塩漬の名も知らぬ蕈(きのこ)の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢(かんぴょう)どころではござらぬ。
 品物は侘しいが、なかなかのお手料理、餓(う)えてはいるし、冥加至極(みょうがしごく)なお給仕、盆を膝に構えてその上に肱をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。
 縁側に居た白痴は誰れも取合わぬ徒然(つれづれ)に堪えられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出(いざりだ)して、婦人の傍へその便々たる腹を持って来たが、崩れたように胡坐(あぐら)して、しきりにこう我が膳を視(なが)めて、指さしをした。
(うううう、うううう。)
(何でございますね、あとでお食(あ)がんなさい、お客様じゃあありませんか。)
 白痴は情ない顔をして口を曲(ゆが)めながら頭(かぶり)を掉(ふ)った。
(厭? しょうがありませんね、それじゃご一所に召しあがれ。貴僧、ご免を蒙(こうむ)りますよ。)
 私は思わず箸を置いて、
(さあどうぞお構いなく、とんだご雑作(ぞうさ)を頂きます。)
(いえ、何の貴僧。お前さん後(のち)ほどに私と一所にお食べなさればいいのに。困った人でございますよ。)とそらさぬ愛想(あいそ)、手早くおなじような膳を拵(こし)らえてならべて出した。
 飯のつけようも効々(かいがい)しい女房(にょうぼう)ぶり、しかも何となく奥床(おくゆか)しい、上品な、高家(こうけ)の風がある。
 白痴(あほう)はどんよりした目をあげて膳の上を睨(ね)めていたが、
(あれを、ああ、ああ、あれ。)といってきょろきょろと四辺(あたり)をみまわす。
 婦人はじっと瞻(み)まもって、
(まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹を揺すったが、べそを掻いて泣出しそう。
 婦人は困(こう)じ果てたらしい、傍(かたわら)のものの気の毒さ。
(嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。私(わたくし)にお気遣いはかえって心苦しゅうござります。)と慇懃(いんぎん)にいうた。
 婦人はまたもう一度、
(厭かい、これでは悪いのかい。)
 白痴が泣出しそうにすると、さも怨めしげに流眄(ながしめ)に見ながら、こわれごわれになった戸棚の中から、鉢に入ったのを取り出して手早く白痴の膳につけた。
(はい。)と故(わざ)とらしく、すねたようにいって笑顔造(えがおづく)り。
 はてさて迷惑な、こりゃ目の前で黄色蛇(あおだいしょう)の旨煮か、腹籠(はらごも)りの猿の蒸焼(むしやき)か、災難が軽うても、赤蛙(あかがえる)の干物ひものを大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながら掴出(つかみだ)したのは老沢庵(ひねたくあん)。
 それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太(にぎりぶと)なのを横銜(よこぐわえ)にしてやらかすのじゃ。
 婦人はよくよくあしらいかねたか、盗むように私を見てさっと顔を赭(あから)めて初心らしい、そんな質(たち)ではあるまいに、羞(はずか)しげに膝なる手拭いの端を口にあてた。
 なるほどこの少年はこれであろう、身体は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく餌食(えじき)を平(たいら)げて湯ともいわず、ふッふッと大儀そうに呼吸(いき)を向うへ吐(つ)くわさ。
(何でございますか、私は胸に支(つか)えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後(のちほど)に頂きましょう、)
 と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」





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