転記文書 朝日新聞
自分はいったい、どんな老人になっていくのだろう。
初老を目前に控え、最近、とみにそんなことを考えるようになった。「面倒な」ジジイになるのは、なんとなく想像がつく。
自分が理屈っぽい性格であることは重々承知している。---。---。タクシーに乗って、行き場所を運転手さんに伝えた時、「お急ぎですか」と聞かれることがある。そんな時も僕の中の「面倒な」部分が首をもたげる。
「急いでないと言えば、どうするつもりなんですか。遠回りでもするおつもりですか。乗客が急ぎであろうがそうでなかろうが、最短最速のコースを探すべきではないのでしょうか」などとは決して聞かない。これも考えるだけである。
「いつもは、どの道を通って行かれますか」と尋ねられることもある。馴染みのコースをたどってあげますよ。というサービス精神だと思うが、そんな時も僕は「いつもって、どうしていつも僕がそこへ通っていると思ったんですか。いつもは電車で行っているけど、今日だけタクシーを使ったのかもしれないじゃないですか。それ以前に、初めて行く場所の可能性をなにゆえ否定しているのですか」などとは口には出さない。考えるだけである。
つまるところ、僕は脳内レベルでは限りなく「面倒な」おっさんなのである。口に出すかどうかは紙一重。そしていつの日か、自制が利かずに、つい言ってしまう時が来そうで怖い。
どこに出しても恥ずかしくない真性「面倒な」ジジイになるのは、時間の問題のようだ。
(三谷幸喜のありふれた生活800のひとつ。 朝日新聞)文のまとめ方などが参考になったので一部分だが、転記した。
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