<以下の文を復刻します。>
右端が望月優子(映画『カルメン故郷に帰る』より)
古いDVDを見ていたら、名優・望月優子(本名は鈴木美枝子さん)が出てきた。年配の人なら知っていると思うが、彼女は庶民的な“母親役”をやると天下一品の味が出ていた。歳に似ず、母親役が似合っていたのだと思う。調べてみると、1977年12月に60歳で亡くなっているから、若すぎる死だと言えよう。
そこで望月優子にまつわる話を少ししたいのだが、彼女は54歳の時、なんと日本社会党から参議院議員に当選し政治家になったのである。いわゆる“タレント議員”だ。これが彼女にとって幸せだったかどうか分からないが、ブルーリボン主演女優賞を受賞した人にしては思い切った転身である。
望月優子の政治家としての活動はまったく知らないが、ただ一つ、彼女の記者会見だけは覚えている。それは私が某テレビ局の記者として、社会党など野党を担当していたからである。あれは日中国交正常化が実現する直前(1970年代初頭)だったと思うが、ある日、望月優子が会見することになった。
名優を一目見たいという思いもあって、会見室で待っていると彼女が1人で現われた。話は中国訪問のことで、別に大したものではなかった。要するに、自分も政治家として活躍しているんだということを報告したかったのだろう。周恩来首相との会合を長々と話していたと思う。周恩来首相を盛んに褒めていた。そして、周恩来と親しくダンスをしたことを自慢げに語っていた。
話の中身は大したことがないので、どこの記者も記事を書かなかったと思う。もちろん、私も記事にしなかった。要するに、訪中の自慢話だったのである。ただ、望月優子と相対していて悪い気分ではなかった。この人の映画はいろいろ見たし、その名演技はよく覚えている。だから、早く女優に戻ってほしいと思ったものだ。
それが名女優との唯一の思い出だが、その後の彼女のことはよく知らない。ただ、次の参院選(1977年)で彼女は落選し、その年の12月に60歳の若さで亡くなったのである。あっ気ないものだ。もし、彼女が女優であり続けたら、どんなに良かっただろうにと思うのだ。なまじっか政治家に転身したために、彼女は命をちじめたのではないか・・・
〈あとがき・訂正〉
望月優子さんについて、以下に姪の方からコメントが届きました。望月さんの死因と病名については「乳がん」とのことですので、記事の末尾の部分を削除、訂正させてもらいました。(2018年12月29日)
ウィキペディアの「望月優子」・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%84%AA%E5%AD%90
何で急逝されたか、ちゃんと父親に聞いてみようと思うきっかけをありがとうございます。
送信は大丈夫です。よく読めました。
望月さんは“母親役”が天下一品でしたが、彼女の「荷車の唄」も見事なものですね。大切にしてあげてください。
望月さんのことで何か分かったら、差し支えなければ教えてください。
コメント ありがとうございました。
望月さんについては未だに関心がありますよ、あれだけの名女優でしたから。これからも、何なりと教えてください。
お父さんは私と同じ早大の同窓生でしたか、奇遇ですね。
ぜひ、よろしくお伝えください。
また何かありましたら、いつでも立ち寄ってください。
優子叔母さんの実母が、私の父の母です。 私の祖母。
祖母は、訳あって、叔母を里子に出し、再婚しました。優子叔母さんと 父は、異父兄弟です。
私の祖父は 中村 茂一です。祖母は、中村 タケノ。 東京 台東区御徒町で、鍍金業を営んでいました。
祖母は、再婚後 女 男 女 男 女 女 女 2男5女 をもうけています。私の父は、長男です。
私が聞いているのは、優子叔母さんの里親の住まいも (文京区?)近くに在り、里親との関係も悪く。訪ね訪ねて ある日突然 実母を訪ねて来ました。 まだ踊り子になる ずっと前の 子供の頃の事です。 祖母も優子叔母さん= 娘の事は気に掛けていましたが、再婚後 子沢山の貧乏暮らし。当時は、それが普通だった様ですが・・・再婚相手の手前、7人の子供を抱え、祖母も温かく迎える事は、難しい状況でした。 叔母さんを追い返す事しか出来なかったようです。
それでも 有る物を食べさせ、持たせたそうです。
その後 ちょくちょく 叔母さんは、訪ねて 来る様になりました。 祖母は、昔の人ですし、立場上優しく接するのは憚れたと想像出来ます。
後年 優子叔母さんが、私の両親に、実母の仕打ちを嘆いているのを、見聞きしています。 叔母さんは、本当は、実母が恋しくて、抱きしめて 強いては一緒に暮らしたい。 引き取って欲しかった と。
祖母は、祖母で、あの時は 辛かった。苦しかったと。 祖母には、どうする事も出来なかった。どうしてと責める 優子叔母さんを、見た事があります。
ここまでは、両親と優子叔母さんの話していた事と、 祖母と優子叔母さんが話していた事を聞いての話しです。
私の父は、明るく 人好きな 楽しい人でしたので、優子叔母さんは、時々 御徒町の家に遊びに来ました。当時祖父母は、御徒町を離れ 杉並に隠居していました。
子供の私にも 解るくらい 頭の良い人で、嗄れ声で、タバコを吸いながら よーくしゃべっていました。自分の意見を強く言う人でした。
両親も私も 女優一筋でいて欲しいと思っていました。
優子叔母さんの死因は、乳癌です。 何故か? 一切の医療を受けず(拒否していたと 聞いています。) 亡くなったと、父から聞いています。
私の父を含め 異父兄弟 4人が亡くなりました。 叔母さんを知る 人も少なくなりました。
叔母ちゃんから 川端 康成 も 田邊 茂一 も、私のファンで、有島 一郎の初恋の人は 叔母さんだと 聞いています。
中村(旧) 茂木 和代
いろいろ有難うございます。望月さんは正直で真っ直ぐな方だったのですね。
女優一筋で進んで欲しかったと、私もそう思います。残念なことでした。
なお、死因・病名を教えてもらいましたので、記事の末尾の部分は削除、訂正させてもらいました。
重ねて、いろいろ有難うございました。
どの映画かは忘れましたが、踊りのシーンがあり、上手いので驚いたことがあります。
彼女には監督作品があり、東映教育映画の『海を渡る友情』で、在日朝鮮人の帰還を題材としたものです。
現在では、北朝鮮帰還運動は、社会党のやった事とされていますが、それは大嘘です。帰還事業は日本赤十字社の事業で、赤十字の名誉総裁は皇后です。自民党も大賛成で、でなければ外国に行く出国事業ができるわけもありません。
望月さんの映画で最高は木下恵介の『日本の悲劇』だと思います。
これを大船撮影所で最初に見たとき、篠田昌浩は、
「これ以上の作品は到底できないな」と絶望に似た気分になったそうです。
数年前に深夜テレビで”日本の悲劇”を観ました。戦後女手一つで二人の子供を育てる物語。
あの時代ではあっただろうと思うストーリーを彼女は見事に演じていました。
美人女優にはない特異な女優さんでしたね。