武弘・Takehiroの部屋

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「道州制」の導入を望む

2024年06月20日 04時40分15秒 | 政治・外交・防衛

<はじめに>
今から30年ほど前には、地方分権の推進や首都機能移転、道州制の導入などが盛んに論じられていた。ところが、今はそういう声がほとんど聞こえてこない。
 一方、その間に日本の人口はどんどん減りつつある。それでも良いという人もいるだろうが、21世紀中に日本がさらに発展し生まれ変わるには、私は「道州制」の導入が必要だと考える。
以下に、2002年と2008年に書いた拙文を一部修正して載せておくので、少々長めになりますが、ご一読願えれば幸いに存じます。(2024年2月2日)

 

「道州制」の導入で『大日本連邦国』の誕生へ

1) 東京への一極集中の弊害を除去するため、地方分権の推進が叫ばれるようになって久しい。 今から9年前(平成5年)には、国会の衆参両院で「地方分権の推進に関する決議」が、全会一致で採択された。 その後、1995年(平成7年)には、「地方分権推進法」が制定され、分権化が着実に進行しているようだ。
 こうした分権化は、ほとんどの人達にとって好ましいことであろう。各地方の地域振興にとっては、歓迎すべきことである。 私は「地方行政」には素人なので、地方交付税や補助金の問題、税源配分の見直しなどについて、ここで論じるつもりはない。こうした問題は、専門家にお任せしよう。
 ただ私が言いたいことは、「地方分権」を推進していけば、将来、21世紀の比較的早い段階で、「道州制」の導入問題が浮上してくるのではないか、ということである。

2) 「道州制」については、既にいろいろ論じられている。 日本を8~15ぐらいの道州に分けて、活力のある効率的な地方行政を進めようというものだが、その場合、道州は一つの「地方政府」となる。 今の「地方自治体」とは根本的に異なる、画期的な、革命的な構想である。いわば、アメリカ合衆国におけるState(州)みたいなものだ。
 この構想について、“経営の神様”と言われた故松下幸之助さんは「廃県置州」と呼んだ。 これは勿論、明治維新での「廃藩置県」をもじったものである。 もし、「道州制」が実現すれば、明治維新以来の画期的な制度改革、いな、革命と言ってよい変革となるだろう。 先に述べた「地方分権」についても、推進論者は、明治維新、大戦後の新憲法体制に次ぐ、第3の革命と呼んでいる。
 有識者や地方の知事からも、「道州制」については、積極的な意見や構想が表明されている。 例えば、大分県の平松守彦知事は、その著「『日本合州国』への道」(東洋経済新報社・1995年1月初版)などで、「九州であれば、『九州府』をつくり、トップには公選の『九州府長官』を置く。そして中央官庁の権限をまずそこに移譲し、国家予算もブロック別に分けて、九州にかかわるものは九州府におろす」等の構想を述べておられる。 なお、平松知事は“一村一品運動”を行なったことでも有名な方だ。
 これは、「道州制」論者のほんの一端を紹介したものだが、積極論を唱える有識者は、意外に多いようだ。 いずれも端的に言えば、地方の活性化、地域の振興などを通じて、日本の再生を目指すものとなっている。

3) 東京一極集中の下では、さまざまな弊害が生じてきており、これをなんとか是正しようという動きが高まっている。 「首都機能移転」も重要な課題だ。東京都民の中には、それに反対する人達もいるが、最早そういう反対が通じるような状況ではないだろう。 東京の“エゴ”は改めるべきである。
 ここで私は、「首都機能移転」や「国会等移転」を論じるつもりはない。 地方分権の推進を、もっと将来的に論じてみたい。もとより「首都機能移転」等は、地方分権と絡む問題だが、もっと大局的な視点から地方分権を考えていきたい。
 先に述べた「道州制」については、近い将来の導入に私は賛成である。 平松知事の構想に賛成かどうかは別として、分権化の行き着く先は「道州制」だと思っている。アメリカやドイツ、更にはECなどの実態を勉強しなければならないが、「道州制」こそ、21世紀の日本を活性化させる最良の制度だと考える。
 私は、日本を「12」ぐらいの道州と特別州(東京と大阪)に分ければ良いと、自分勝手に考えている。これはPHP研究所が平成8年に発表した「道州制」案を、参考にさせてもらっている。 ただし、日本をいくつに分けるかが問題ではない。「道州制」を導入する意義が問題なのである。

4) 「道州制」の導入で、行政経費の大幅な削減、予算の効率的な運用などが可能になるだろう。 また、県単位に比べて、州単位ではより広域的な問題や、共通のプロジェクトを解決しやすくなる。 これらのことは、各州の経済的発展や活性化に大きく貢献するだろう。 県単位から州単位へ、対象がグローバル化していくのである。
 問題は、現在の「県」をそのまま残すかどうかということである。完全に「道州制」とするなら、県を廃止することになる。 いずれはそうなっていくだろうが、各州の自主性と事情で、県の廃止には時間差が生じるかもしれない。 しかし、『改革』というのは、全国的に同時に行われることが望ましいのではないか。
 現在、市町村の合併が急速に進められている。これを「平成の大合併」と言うのだそうだが、約3300の市町村を、出来るだけ早く1000ぐらいにしてしまうというものだ。 これは大変結構なことだが、こうした動きが、将来の「道州制」導入の下地になる可能性がある。
 それと言うのも、多くの有識者が唱える「人口30万の中核都市」を実現していけば、1億2000万人の我が国は、単純計算で400の都市に分割される。 そうなった場合、地方行政の効率化は格段に進み、各都市の発言権が強化される。それは、県単位でなく、各都市単位で「道州」に直接、結びついていくことを可能にするだろう。

5) 現在、「郡」という名称は、ほとんど意味を持たなくなった。「○○郡」などと言われると、「えっ、そんな郡があるの?」と反問してしまうほどだ。 郡制はとっくに廃止されているのに、「郡」という化石だけが残っているのだ。 「郡」は、「県」と「市町村」に挟まれて、その存在意義が消えてしまったのだ。
 地方行政の効率化から見れば、中途半端なものは消えていく運命にあったのだろう。 もし「道州制」が実現すると、「県」というのも存在意義がなくなるかもしれない。 活力のある各都市が、「道州」に直接結びつけばいいからだ。中途半端なものは、「郡」と同じように消えていく可能性が大と言える。
 その場合は、当然「道州議会」が誕生し、「県議会」はほとんど意味を持たなくなる。 例えば、九州全体で「九州議会」の議員を選出し、平松知事の言葉を借りれば、「九州府長官」も公選で選べば良い。 その選挙制度は、国全体で考えれば済むことだ。

6) 明治維新以来、日本はひたすら「中央集権国家」を目指してきた。欧米先進諸国に追いつき、追い越せが合言葉みたいなものだった。 「富国強兵」を旗印にして、日本は見事な「中央集権国家」を完成させた。 この「中央集権国家」体制は、国家目標を立てて何かをする時には、実に素晴らしい威力を発揮する。 特に、戦争をする時には、国家の総力を最大限に活用することが出来る。 現実に「大日本帝国」はそうしてきた。
 戦後の日本も、新体制になったとはいえ、基本的に官僚主導の「中央集権国家」体制を維持してきた。 しかし、今やこの体制は、大きな“ほころび”を見せている。一言でいって、政治が硬直化してしまったのだ。
 よく言われることだが、税収の6割は国が集めて管理するが、国が実際に使うのは4割である。 地方は税収の4割しか集められず、実際は6割を使う。従って、地方は不足分の2割を、国からの交付税交付金や補助金で穴埋めする。 だから地方は、税源配分の見直しなどを強く主張するのだ。
 こうした矛盾を是正していくためには、中央官僚主導の今の政治を大きく変えなければならない。 また、現在の体制が「利益誘導型」の議員政治をはびこらせ、「族議員」の温床になっていることは、多くの人達が指摘する所である。 「中央集権国家」の体制を、今こそ大幅に見直して、地方分権の推進を図らねばならない由縁である。 この国は、地方が疲弊したら、活力を失ってしまうだろう。

7) 話が少しそれてしまったが、「道州制」の導入は、地方の活力を蘇えさせるにちがいない。 「東京一極集中」と「中央集権体制」を、根本的にくつがえす切り札になるだろう。 改革は微温的なものならば、絶対に成功しない。思い切った改革、“地方分権革命”と呼ばれるほどの措置が必要なのだ。
 明治新政府が断行した「廃藩置県」のことを思い出して欲しい。 旧勢力のあらゆる抵抗、あらゆる妨害を乗り越えて達成したのだ。 今の日本人には、そうした気迫、気概はないかもしれない。しかし、日本が全体的に“老衰”しそうになってきた時に、この国は必ず、起死回生の復活を遂げるものと信じたい。
 もし「道州制」が実現したら、どうなるか。 州単位の競争や切磋琢磨が強まるだろう。仮に、12の「道州」が誕生したら、それぞれが400万台から1400万台の人口を擁することになろう。 その競争や切磋琢磨は、今の県単位のとは比較にならないほど、ダイナミックで見応えのあるものになるにちがいない。
 戦後、日本では「国体(国民体育大会)」が行われてきた。都道府県単位で、毎年各地で開催されてきた。 しかし、この「国体」も今では精彩を欠いてきている。どこかマンネリ化してきたようだ。 「国体」を止めるわけにはいかないのであれば、将来は「道州制」のもと、州単位で行おうではないか。 きっと違った意味で、ダイナミックで新鮮な、大規模な“競技会”になりそうだ。

8) 先にも述べたように、「道州」とは一つの「地方政府」である。 この「地方政府」の集合体が、日本国ということである。 つまり、「地方があって、国がある」のであって、「国があって、地方がある」のではない。中央集権体制とは、根本的に異なった発想から生まれるものである。いわば、逆転の発想である。
 それならば、「愛国心がなくなってしまうのか」といった批判が出るかもしれないが、愛国心がなくなることは、絶対にないと言える。日本人であることには、変わりがないからだ。 「連邦制」をとっているアメリカ、ドイツ、スイスなどでは、愛国心はどうであろうか。 はっきり言って、今の日本人よりは、これらの国の国民の方が、はるかに愛国心が強いのではないか。
 下から上に盛り上がっていくのが、民主主義の理念である。官僚的な中央集権国家のように、上意下達では民主主義は育たない。 我々の愛するコミュニティ(地域社会)が集合して「地方政府」となり、その上に「中央政府」が樹立されているという認識こそ、民主主義国家の原点である。 そうした点から、本当に地域を愛し、地方を愛していく心が育ってくるのではないのか。その上に立った愛国心こそ、本物の愛国心と言えるのではなかろうか。 硬直した中央集権国家では、かえって“本当の愛国心”は芽生えにくい。

9) 「道州制」が実現すれば、日本は事実上の「連邦国家」となる。『大日本連邦国』でも良いし、『大日本合衆国(合州国)』でも良い。あるいは『日本連邦』でも良い。 国名はともかく、日本は新しく生まれ変わることになる。 より民主主義が徹底し、より国民主権が確立されることになる。
 税収についても、まず全ての税を「道州」が集めれば良い。国税だとか地方税だとか、区別する必要はない。 その上で、各「道州」が、3割から4割の税収を国に上納すればいいのだ。そうすれば、徴税業務も簡略になり、無駄な経費が省かれる。 国の税務署と、現在の都道府県の税務事務所は、一本化すればいいのだ。 国民生活に密着した部分での税収は、原則として「道州」に優先権を与える。その方が、国民の生活、福祉、環境行政などにとってプラスだと考えられる。 しかし、こうした点は、地方行政の専門家にお任せしよう。
 「小さな政府」が言われて久しいが、国は外交、防衛、通貨管理、ナショナルミニマム等の、国家的見地から必要な仕事をしていけば良い。 国民生活に係わる仕事は、出来るだけ「道州」に移譲していくべきだと考える。 そうしてこそ、国の行政改革も進み、地方の活性化も生み出されると思う。

10) 「道州制」の実現によって、国家は様変わりするだろう。間違いなく、活力が生まれてくると思う。 私は別稿で、今の参議院は不要であり、廃止した方がいいと述べたが、「連邦国家」の日本では、逆に“連邦院”的な議会も必要になってくるかもしれない。 衆議院の他に、「道州」の代表が会する場が必要になってくるだろう(形を変えた「2院制」の存続)。 しかし、そうしたことはまだ先の話だから、ここで詳しく論じることは差し控えたい。
 以上、私は「道州制」についていろいろ述べたが、地方分権推進の行き着く先には、どうしてもこの制度のことが、念頭に浮かんでくるのだ。 明治維新の「廃藩置県」以来、130年以上の歳月が過ぎた。 今や“老大国”になりつつある日本が、21世紀中に活力を取り戻すには、地方の活性化なくして考えられない。
 「憲法改正」や諸制度の改革は必要だが、地方政治の改革こそ、最も重要な課題ではなかろうか。 浅学非才の私には、勉強すべき点がまだまだ多く残っているが、この際、「道州制」の導入について、真剣な議論を交わして欲しいと願うものである。 (2002年3月14日)

 

「道州制」への道

地方分権の推進が叫ばれるようになって久しいが、その行き着く先は「道州制」の導入だと私は思っている。21世紀のいつ頃にそれが実現するかは分からないが、その方向ははっきりしていると思う。
道州制の「道州」とは、一つの「地方政府」を意味する。明治維新の時に、藩を廃止して県を置いた“廃藩置県”になぞらえて“廃県置州”とも言われる。つまり、地方の行政区域が、今の都道府県から道州へと拡大するのだ。その場合、47都道府県は8~15ぐらいの道州に組み込まれるだろうが、その数は問題ではない。要は「地方政府」がいくつも出来るということだ。
例えば、今の東北地方は「東北州」と言ったものになり、東北の有権者がその長官を直接選ぶといった形になる。州議会も当然出来るから、今ある県や県議会の存在意義はほとんど無くなってしまうだろう。これは地方行政の抜本的な改革である。東北全体の行政経費は大幅に削減され、予算のより効率的な運用が可能になるはずである。
また、行政単位が県から州に拡大するため、広域的な問題や共通のプロジェクトを解決するには、非常にやりやすくなるはずだ。例えば、東北全体のインフラ整備などは府議会で決めれば良いので、県単位でいちいち折衝するよりははるかに効率的になる。
こうした利点はあるが、それでは今ある県は一体どうなっていくのか。私は県は無くなっていくと思う。県議会も無くなるだろう。 
日本には以前「郡」というものがあったが、郡は県と市町村の間に埋没して郡制度そのものが廃止された経緯がある。今でも「○○郡」という呼称が一部に残っているが、それはかつての郡制度の“化石”に過ぎない。したがって、道州制が確立すると「県」は昔の郡と同じような運命をたどって消滅するしかないだろう。これは大変な行政改革である。同様に県議会も廃止されて、全ては州議会に統合されていくのだ。(むろん、市区町村議会は別である)

道州という「地方政府」が出来れば、今の中央官庁の権限はそれらの道州に相当に移譲される。「三位一体の改革」と言って、税財源の配分見直しなどが今行われているが、こうした動きも道州制実現への下地と見れば受け入れられやすいだろう。
ここで地方行財政の細かい話をする時間はないが、地方の活性化こそが21世紀・日本の生きる道である。 明治維新によって、日本は中央集権体制を確立した。それは富国強兵を進める上で非常に有効であった。しかし、戦後も東京への一極集中が進んだため、いろいろな問題やヒズミが派生した。このため、地方分権の推進が叫ばれるようになったのだが、実態はどうなっているだろうか。中央と地方の格差は、かえって拡大しているのではないか。
理屈っぽい話は止めるが、私は地方の活性化なくして日本の発展はあり得ないと思っている。上意下達の官僚的な中央集権体制では、地方の活力は生かされない。上から下へではなく、下から上への真の「民主主義国家」が誕生しなければ、本当の活力は生まれてこないだろう。そういう意味で、21世紀の早い段階で道州制が実現するものと思うし、またそれを望んでいる。
愛国心も、上から下へでは強制的になってしまう。下から上へ湧きあがるものこそ本当の愛国心なのだ。 道州制が実現すれば、日本は事実上の「連邦国家」となる。左翼的愛国主義者である私は、これを『大日本連邦国』ないしは『大日本合州国』と呼びたい。(2008年9月16日)


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