武弘・Takehiroの部屋

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大プロデューサー・横沢彪さんのこと

2024年06月22日 02時58分35秒 | フジテレビ関係

2011年1月11日に書いた記事を一部修正して復刻します。>

   元フジテレビの大プロデューサー・横沢彪(たけし)さんが8日、都内の病院で亡くなった。73歳。横沢さんについては多くを語る必要はないだろう。彼のお陰で、視聴率最悪のフジテレビが、起死回生の復活を遂げたのだから。いわば、フジテレビの最大の功労者の一人である。何かテレビの“申し子”のような存在であった。
 横沢さんは私の2年先輩で、東大を出たあと1962年(昭和37年)にフジテレビに入社した。一時期を除いて、ほとんど制作現場を歩まれた人である。
 私は1964年(昭和39年)にフジテレビに入ったが、もっぱら報道畑にいたので横沢先輩とはほとんど接点がなかった。ただ、2回だけ横沢さんと酒を飲みながら話をする機会があった。以下はちょっとした思い出になるが、その話をしていきたい。

フジテレビに入社する前年(1963年)、採用が内定して会社の職場研修が行なわれた。大学4年だった私は当時、ドラマやドキュメンタリーを作りたかったので、制作現場の研修に参加することになった。山本富士子主演のドラマや「スター千一夜」などの制作現場でみっちりとしごかれた後、われわれ研修生は局の先輩との懇親会に引っ張り出された。
その頃は酒を飲むのが苦手の私だったが、先輩らとざっくばらんに話をしなければならない。こうして、場所はどこだったか忘れたが懇親会に出席した。いろいろな先輩方と話しているうちに、小柄ながら、いかにも才気煥発といった風情の男がわれわれの席の前に現われた。それが横沢さんだったが、彼は「君たちはどうしてテレビ局に入ってきたの?」と単刀直入に聞いてきた。
 何と答えていいか分からなかったが、彼の目の前に座っていた私はとっさに「楽しそうだし面白そうだから」と答えた。すると、横沢さんは「楽しそうだって? (現場は)大変なんだぞ~!」と言って、先輩風を吹かせた。
そのうち酒もだいぶ回ってきたのか、横沢先輩は東大出身だが「君らの仲間で、東大法学部の者が総務だか人事を志望しているんだって? 馬鹿か! そんな者はテレビ局に入ってくる必要はないんだ!」と啖呵を切った。あとは何を話したかよく覚えていないが、まだ駆け出しの制作部員らしい、意気の良い話し方であった。

さて翌年、フジテレビに入った私は何の因果か知らないが、制作現場ではなく報道に配属されてしまった。この後、横沢先輩とは全く縁が無くなってしまう。
 彼はその後、順調にディレクターに昇格したはずだが、労働組合運動にも首を突っ込んだのが響いたのか、制作とは全く違う部署に飛ばされたようだ。当時のフジテレビは“財界テレビ”と呼ばれるほどの体制重視の局だったから、組合運動は経営者から徹底的に嫌われていたと記憶する。
それから横沢さんの不遇の時代が始まったらしい。フジの関連会社にも出向させられ、テレビ制作とは縁もゆかりもない仕事をしていたようだ。当時の彼を知る人からそうした話を聞いたことがある。
しかし、それから数年して横沢さんは制作現場に復帰、水を得た魚のように働き始める。こうして「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」など数々のバラエティ番組が花開き、最悪の視聴率に苦しんでいたフジは見る見るうちに3冠王を奪取することになる。その原動力になったのが横沢プロデューサーであった。
 余談だが、テレビとはバラエティ、ドラマ、スポーツ、音楽といった“娯楽”が主に求められるのだ。視聴者はそれによって楽しみ、癒される。政治や経済、外交問題などを扱うニュース報道も大切だが、大衆はテレビに娯楽・アミューズメントを主に求めているのだ。それが現実である。

さて、私は長年、報道部門で政治や経済など堅いものばかり扱ってきたが、20年ぐらい前だったか、仲間のデスクと一緒に横沢さんと会って「テレビ論」でも聞いてみようかという話になった。ちょうど上司の部長が彼と同期だったので、アポを取ってもらい夜会食することになった。
その頃、横沢先輩はもう日本一有名なプロデューサーだったので、彼の話を聞けば、硬直(?)したわれわれの頭も少しは柔軟になるかな~と期待していたのだ。
ところが、彼と会って話し始めたら、対話の中身がおおかた政治や経済などのことになってしまった。というのは、横沢さんはわれわれからそういう話を聞き出したかったようで、話がそういう方向へ行ってしまうのだ。結局、彼から「テレビ論」をほとんど聞くこともできずに終わってしまったのである。
 詳しく覚えていないが、彼は政治や経済にも非常に関心があったようで、鋭い質問を幾つも浴びせてきた。何にでも好奇心が旺盛な人だったようだ。
 日本のバラエティ番組の礎を築き、「楽しくなければテレビじゃない」を実践した横沢プロデューサー。そのご冥福を祈るものである。(2011年1月11日)


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