<脳梗塞の記録を参考までに復刻します。 2013年>
脳梗塞になったことを書こうと思ったが、極めて屈辱的だから書けなかった。まるで人間モルモットだ。病人だから仕方がないが、何もできない。哀れなものだ。人間が単なる物体、物になる。認知症の方がもっと怖いが・・・1月22日夕方、圏央所沢病院に救急車で緊急入院。救急車を使ったのは初めてだ。集中治療室に入り、脳のMRI検査などを受ける。血圧検査は上が20 . . . 本文を読む
筆者は若いころ単純だったので(今でも単純だが。笑)、「祭壇の前に立ち 偽りの愛を誓い・・・」の意味が分からなかった。ようやく意味が分かり、かえってこの歌が好きになったのである。 岸洋子さんが歌う。
http://www.youtube.com/watch?v=hgdd10szXc4 . . . 本文を読む
〈2018年7月に書いた以下の記事を復刻します。〉
〈おことわり〉この記事を書いているうちに、長生きするよりどう生きるか、どう死ぬかが重要だという話になってしまった。途中からテーマが変わってしまったので、はじめにお断りしておきます。
先日、大学時代の同窓会を高田馬場の早稲田で開いたが、その時、妙に気になったのが大学の創設者・大隈重信の「人生125歳説」である。これは大隈の持論だと言われるが . . . 本文を読む
しかし、翌日になると武男は体調が回復したのか、朝食の時に春恵にあやまった。「昨日はごめんね、不機嫌な様子をして」春恵は特に返事をしなかったが、気を取り直したようだった。太郎と次郎はそれぞれ友だちの家へ遊びに行ったりしたので、2人はしばらく応接間でくつろぐことになった。武男の問いに春恵が答えるには、彼女はアメリカ・ウィスコンシン州のミルウォーキーの近くの高校に留学することになり、ある篤志家の住まいに . . . 本文を読む
1)ゴッホ展に“割り込む”
その日は10月末の日曜日だった。その月の中ほどから、東京・上野の国立博物館で「ゴッホ展」が開かれていたから、青木武男はぜひ見学したいと国電(現在のJR)に乗って鶯谷駅に着いた。もう正午過ぎだったろうか。武男はそれほど待たずに、国立博物館に入れると思っていた。というのは、「ゴッホ展」が大変な人気で混雑していると聞いていたが、開館時刻が午前9時だっ . . . 本文を読む
こういう“叙景歌”はもう消えたのだろうか。文部省唱歌で、1932年(昭和7年)の作品とされる。聴いていると心が洗われる感じだ。
牧場の朝・・・http://www.youtube.com/watch?v=OPdSbZbvPxY . . . 本文を読む
過去の作品をまとめる必要が出てきたので、この場を借ります。ご了承ください。
http://blog.goo.ne.jp/yajimatakehiro/e/3ec5a00ef55f07eb52405332dae0aea1http://blog.goo.ne.jp/yajimatakehiro/e/ea2a083bc5bf3c058c54e0a04ec28611http://blog.goo.ne. . . . 本文を読む
第十六場(同じく9月12日夜。北京・中南海にある毛沢東の執務室。 周恩来、汪東興、江青がいる所に、毛沢東が入ってくる)
江青 「あなた、よく御無事で!」
周恩来 「おお、主席、心配していました」
毛沢東 「九死に一生を得たぞ。 林彪を逮捕したか」
汪東興 「黄永勝や呉法憲達はすでに逮捕しましたが、林彪夫妻は北京を出て、北載河にいます。 従って今、公安部隊が北載河に急行しています」
毛沢東 . . . 本文を読む
第十三場(同じく9月11日の夕刻。上海市革命委員会の一室。 毛沢東と王洪文)
毛沢東 「やれやれ、君には随分世話になったな。 万事、手際良くやってくれたので、わしの遊説も実に順調にこなせた。明日はここで、最後の大演説をぶってやるぞ。 君は、張春橋や姚文元らとは仲良くやっているのかね」
王洪文 「はい、張春橋同志らとは、いつも心を一にして仕事をしてきました」
毛沢東 「そうか、上海の連中は若く . . . 本文を読む
第九場(8月上旬。 北京・中南海にある毛沢東の居宅。 毛沢東、江青、張春橋)
江青 「どうしても行くというのですか」
毛沢東 「ああ、行かねばならない」
江青 「本当に危険ですよ。林彪一味は何をするか、分かったものではありません。 あなたにもし万一のことがあったら、私はどうなるのでしょうか」
毛沢東 「ハッハッハッハッハ、お前も年を取ったな。取越し苦労をするな。 わしはこれまで、どんな危険 . . . 本文を読む
第五幕(4月下旬。 北京・中南海にある毛沢東の執務室。毛沢東、周恩来、康生、江青、張春橋)
毛沢東 「林彪のやつ、泡(あわ)を食って北京に戻ってきたが、その後の動きはどうかね」
康生 「相変らず、自宅に黄永勝達を呼んでは対策を練っているようです」
江青 「林彪一派が、私達の住まいに爆弾を仕掛けるという情報もありますよ。気を付けなければなりませんわ」
毛沢東 「それはデマだろう。 しかし、追 . . . 本文を読む
第五幕 林彪死す
第一場(1971年1月上旬。 北京・中南海にある毛沢東の執務室。毛沢東、康生、江青、張春橋)
江青 「新年を迎えて、今年こそは陳伯達と、林彪グループを放逐する時が来たようですわね」
毛沢東 「まず、陳伯達を抹殺してやる。その後に、陳伯達批判を利用して、それに余り乗り気でない林彪一派を追い詰めていく。 黄永勝や呉法憲達の権限を奪い取っていけば、林彪自身も手足をもぎ取られたよう . . . 本文を読む
第五場(12月下旬。 北京・中南海にある林彪の居宅。林彪、葉群、黄永勝、呉法憲、林立果)
黄永勝 「いや、ひどい目にあったものだ。 衆人環視の中で、私や葉群同志ら五人の陳伯達批判が足りないと、名指しで追及されたんだからな」
呉法憲 「毛主席が、林彪副主席も陳伯達批判に同意しているのだ、君達もやらなくちゃいかんと凄い目付きで迫ってくるので、やることにしますと答えてしまった。 それにしても、あれは . . . 本文を読む
第四幕 毛林体制に亀裂
第一場(約3年半後の1970年7月下旬。 北京・中南海にある陳伯達の家。陳伯達のモノローグ)
陳伯達 「なにもかも面白くない。 文化大革命で俺はあれほど活躍し、劉少奇や登小平ら実権派の連中を根こそぎ葬り去ってやった。おかげで俺は、去年の九全大会で、毛沢東、林彪、周恩来に次いで、党内でナンバー4(フォー)の地位に就くことができた。
ところがどうだ。その後、党内で大きな . . . 本文を読む