金持ち日記

金持ちなるまで続く男の日記

宇宙人

2007年06月27日 00時36分26秒 | Weblog
 目覚めると体のどこかが痛い。背中だったり、肩だったり、一番多いのは指だったり。いったい夜に俺は何をしているのか?

 先日、自称空手の達人である友人の家に泊まりにいった。バイトで疲れていたため友人より早く眠りについた。寒そうにうずくまっている私を見て憐れに思ったのか、友人が毛布をかけてくれたらしい。その瞬間、私は友人の手をつかみ、眠ったまま「こっちに来いよ」と言ったらしい。まぁ~気持ち悪いったらありゃしない。ウソであって欲しいと心から願ったが、真実をねじ曲げることは金持ちでもそう簡単にはできない。おそらく毎晩こんなことをしているのだろう。

 私は毎晩窓を開けっ放しで寝ている。宇宙人も簡単に入ってこれるようになっているのだ。おそらく、宇宙人にも「こっちに来いよ」とか言っているのだろう。その宇宙人が「人間のくせに命令するな」と怒って、私の体を痛めつけているのだろう。それしか考えられない。

 謎はすべてとけた。これからは「こっちに来てくれないかな」という謙虚な心で宇宙人に接してみようと思う。

 謙虚な心、今私に一番足りない要素である。私にできないことはないとおもっているし、私の考えがこの世の心理であるとも思っている。

 宇宙人は、そんな私を見つめなおすいい機会を与えてくれた。
ありがとう!宇宙人!

神様Ⅰ

2007年06月26日 02時32分29秒 | Weblog
 金持ちは神様に注目する。

 神様は本当にいるのだろうか?我々を見守ってくれているのだろうか?ふと、考えることがある。

 神様を意識したのはカトリック幼稚園に通っていたころからだ。よくイエス様の話を聞かされた。純粋な私に、毎日そんな話をするものだから、いつのまにか敬虔なクリスチャンとなった。ちなみに親はクリスチャンでもなんでもない。その幼稚園がバスの送迎があるという理由のみで私をそこへ行かせたのだ。もう「おやおや」である。

 そんな私も高校生くらいになると神様を詐欺師だと思うようになった。世界中で苦しみ、悲しんでいる人がたくさんいるのにどうして神様は助けてあげないんだろうか?もしや神様なんていないのではないだろうか?存在する証拠なんてなに一つない。終いには「神を試してはならぬ」とか言う始末である。そんな神様に落胆した。そして無心論者になった。

 ただ、時折神様にお祈りをする自分がいる。友達が死んだときも、彼が天国で安らかに過ごせるよう、毎晩神様にお祈りしたものだ。夏の高校野球、9回裏になると決まって神様に力を貸してくれるよう祈っていた。

 自分でも分からない。神様を信じているのかいないのか。答えを知りたい。

キュン死に

2007年06月20日 18時24分59秒 | Weblog
 金持ちは「キュン死に」に注目する。

 バイト先では女が権力を握っている。なんたって10人中8人が女であるからしょうがない。

 話はいつも女の妄想に付き合わなくてはならない。理想の男とか理想の恋、理想の告白のされ方とか、絶対に起こるはずもない妄想が繰り広げられるのである。

 先日は「どんな時にキュン死にするか」ということであった。23歳の自称夢見る少女はこう答えた。

少女「やっぱ私、抱きしめられたいな。夜の10時くらいに私がご飯を作っているの。そしたらソファーから彼がきて、私を何も言わずに後ろから抱きしめるの。もう離して、とかいってみたりして。やがっちも女の子からこうされたらキュン死にするでしょ?」

私「そりゃー、誰だってしますよ。」

 その後、お客さんが入ってきて、話はそこで終わった。夜の10時くらいになるとお客さんはほとんど帰っていき、私は裏で洗い物をしていた。

 すると、ある女性が何も言わずに後ろから抱きついてきた。そして彼女がつぶやいた。

「・・・・・・・・・やがっち・・・・・・・・・・キュン死にした?」

 
 振り返ると59歳のおばさんであった。キュン死にというか、単純に死にたいと思ったものだ。

 「キュン死に」するにはどんなシチュエーションかが問題ではなく、相手がだれかが問題であるのだ。59歳のおばさんはそんな大切なことを教えてくれた。

お茶販売

2007年06月18日 17時58分43秒 | Weblog
 金持ちはお茶販売に注目する。

 先日、児童館祭りのお手伝いにいった。お手伝いの内容とは、ペットボトルのお茶を売ることであった。少なからず経営学を勉強している身としては腕の見せ所である。

 最新の経営学の手法を取り入れ、消費者の購買心理までを考えた緻密な販売戦略を立てた。また、世界のトップ企業が実践するあらゆるマーケティング手法をお茶の販売に注入した。販売開始20分で12本を売りさばいた。小学5年生の二人の少女がやってきたのはちょうどその頃であった。話を聞くと、私のお茶販売を手伝いたいということであった。


私「お前らみたいなガキの出る幕じゃねー。これは遊びじゃねーんだ。このお茶販売には緻密な論理と世界最高峰のノウハウが駆使されているのだ。たかだか12歳の小娘が理解できるようなレベルじゃねーよ!!!」


 と言おうか迷ったが、とりあえず「いいよ」といった。彼女たちは早速お茶を販売し始めた。それは私が求めていた緻密な論理とは程遠いものであった。

少女A「そこの可愛いおばさ~ん!!!お茶かって~!!!!」

少女B「おねが~い。買ってちょうだい。ほんとうのお願いだら買って~」

少女A「そこのきれいなお姉さん!!!!お願い!お茶買って~~~~!!!!!」

 アホ丸出しである。緻密な論理はどこへ行ったのだろうか。そんな最新の理論も分からないバカな少女とお茶売り始めて30分が経った。彼女たちが売り上げたペットボトルの数・・・・・・・・なんと・・・・・・・・・・・・・・・・・48本。

 MBAが企業を潰す(私はこの考えに反対ではあるが)とはよく聞く話だが、その言おうとしていることは分かった気がする。商売とはなにか?二人の少女はそんな大事なことを私に教えてくれた気がする。

2007年06月16日 01時19分54秒 | Weblog
 先日、夜の11時30分に電話が鳴った。受話器をとると母であった。

母「今日は何の日か覚えている?」

私「・・・・しらん」

母「あなたの妹の誕生日だよ。今、お風呂に入っているから10分後に電話してあげてね。ちなみに15歳になったから覚えといてね。」

 その後電話をすると妹が受話器をとった。じっくり話すのは1年ぶりであった。中学校での出来事や勉強の話、家族の話など話題は様々であった。おしゃべりな妹だから長時間の電話になった。

私「誕生日プレゼントもらった?」

妹「うん。」

私「何もらった?」

妹「電子辞書のケース」

私「ふーん。・・・・・・・・・えっ!ケ・ケ・ケ・ケースだけ?

 あまりに憐れな妹である。ケースだけでは何もできないではないか。

 私が中学生のとき、真夏だからだったのか、学校に扇風機のリモコンを家から持ってきた男がいた。持ってきた意味がさっぱり分からない。休み時間に学校の扇風機に向かって、ボタンを押している彼が惨めであった。自分で「ピッ」とか言って扇風機を作動させたつもりになっていたのだ。

 妹もそうはならないか非常に心配である。英語の授業に電子辞書のケースをあけ、見えないボタンを必死に押しまくる妹の姿を想像すると、あまりの哀れみに涙が止まらない。

 あ~、妹が心配である。妹のためなら、貯金を全額引き落としてでも電子辞書を買ってやる兄であるつもりだ。惨めな妹が一刻も早く電子辞書を手にすることを切に願う。

人間は考える葦であるⅡ

2007年06月15日 11時44分03秒 | Weblog
 金持ちは「人間は考える葦」という言葉に注目する。

 「人間は考える葦である」という言葉について今日は考えてみたい。

 この言葉の意味をしって私はある疑問が生まれた。それは、「人間は思考によって宇宙を越えるのだろうか?というより、人間は思考によって宇宙を超えていいのだろうか?」ということである。

 元来日本人は、周囲にあった森や川、自然などに神秘的な何かを感じていた。人間には、人間の力ではどうしようもない畏怖する何か、いわゆる「something great」の存在が必要である。それがなければ、人間はおごり高ぶり、人間の非力さを見失い、結局人間にとって悪い結果を生むことになる。

 パスカルの「人間は考える葦である」というのは、思考の力を重要視するあまりに、「something great」を見失わせてしまうのではと危惧する。

 パスカル自身にはそのような心配はなかった。それは彼が熱心な宗教家であったからだ。彼にとって「something great」は神であった。

 絶対的な神を持つわけでもなく、自然もなくコンクリートに囲まれて育った現代の都会の子供に「人間は考える葦である」といっても、彼らにこの言葉の真意は伝わらないのではないだろうか。彼らには「現代科学が自然をも超越する」という意味に解釈してしまうのではないだろうか。

 「人間は考える葦である」という言葉は、常に「something great」がセットであると考えるべきであろう。

プラグマティズム

2007年06月11日 02時47分12秒 | Weblog
 金持ちはプラグマティズムに注目する。

 プラグマティズムとはアメリカで生まれた独自の哲学である。実用主義と訳するようだが、簡単に言えば「役に立つものが真理である」という考えである。今までの哲学を、「知識だけで生み出した、実際には役にたたないもの」とみなしているようだ。・・・・・・・ということはソクラテスやパスカルをバカにしているのか?中学校の教科書に名前すら出てこないような平凡な哲学者がよく言うよ、と思ったものだ。そんな考えが先日変わることとなった。



若菜「昨日、何の日だったかわかってる?」

私「う~む、・・・・・さっぱり」

若菜「私、ちゃんと言ったのに。昨日、誕生日だったんだけど」

私「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

若菜「もしかして、忘れてた?」

私「うっ、あっ、えっ、・・・・・・・」


 まずは動揺を悟られまいと、平然を装う。そして、この逆境を乗り越えるにはどうしたらよいか偉大なる哲学者に問いかける。

 ソクラテスならこの状況でどうしたのだろうか。きっと彼はこう答えただろう。
「私は、あなたの誕生日を知らない、ということを知っている」・・・・・却下である。

 パスカルならこの状況でどうしたのだろうか?きっと彼はこう答えただろう。「人間は考える葦である」意味わかんないけど、それらしくごまかせるのではと思ったりする。・・・・・やっぱり却下である。

 他の哲学者ならどうか。考えてみる。そこではじめ気づいた。私はソクラテスとパスカルしか哲学者を知らないということを。とりあえず「自然に還れ」とか言ったのほうがよいのか考える。教養のない彼女は「お前が帰れ」と反論するのは目に見えている。・・・・・よって却下である。

 結局、偉大なる哲学者は役に立たなかった。結局、述べた名台詞は、私が3歳の頃に覚えた「すいません」の一言であった。「あいつら、ちっとも俺の役にたってねぇな」と偉大なる哲学者をバカにすると同時に、平凡なプラグマティストに共感することになった。

人間は考える葦である

2007年06月09日 01時07分03秒 | Weblog
 金持ちは「人間は考える葦である」という言葉に注目する。

 パスカルがかつて「人間は考える葦である」と述べたことはあまりにも有名である。ただ、その意味を分かっている人は意外に少ない。というか私が知らなかった。そもそも“葦”の意味が分からない。気になって、気になって、授業中に睡眠をすることが多くなったので広辞苑で調べてみた。『葦=イネ科の多年草』だそうだ。調べてよかった。危うく得意の知ったかぶりで「“葦”ってのはな~、・・・・特に意味はないんだ」と言って友人をなくすところであった。

 「人間は考える葦である」とはどのような文脈で述べられたのか、パンセからそのまま抜粋しよう。

 人間は一本の葦にすぎない、自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を圧し潰すには、全宇宙が武装するを要しない。一吹の蒸気、一滴の水でも、彼を殺すに充分である。しかし、宇宙が彼を圧し潰しても、人間は彼を殺すものよりなお高貴であろう。なぜかといえば、彼は自己の死ぬことと、宇宙が彼を超えていることを知っているが、宇宙はそれについて何も知らないからである。そうだとすれば、我々のあらゆる尊厳は思考の中にある。

 つまり、人間は思考によって宇宙よりも偉大なんだということである。また、彼はこのようにも述べている。「空間によって、宇宙は私を包含し、一点のように私を併呑する。思考によって、私を宇宙を包含する。」人間は考えるがゆえに、尊厳があると言えるのだということだ。

 先日、私の友人に座右の銘を聞いたら彼はこう答えた。「・・・・・我思う、・・・・・・・・ゆえに我思う」

 いったい彼はいつまで思い続けているのだろうか?そんな彼だが、パスカルが聞いたら、彼を人類の模範としてパンセの中に記したのであろうと思ったものだ。

ノブレスオブリージュ

2007年06月07日 00時08分44秒 | Weblog
 金持ちは「ノブレスオブリージュ」に注目する。

 小泉政権末期くらいからやたらメディアは格差問題をとりあげるようになった。小沢代表も「日本は世界でもっとも格差の激しい国になった」と国会で述べていた。

 確かに格差が広がっていることは間違いないだろうが、彼らになぜか違和感を感じる。小沢代表の発言は言いすぎとして、それほど日本の格差は激しいのだろうか。金美齢氏は真っ向から反論している。わざわざ本までだしたのだ。その名も「日本ほど格差のない国はありません!」というタイトルである。

 とはいえ、完全に格差がなくなることはありえない。程度の差はあれ、格差は世の常である。そこで金美齢氏はノブレスオブリージュを説く。マスコミは金持ちの悪口を述べるのではく、金持ちたる義務を果たすことを求めるべきであるというのである。私も同感である。

 ノブレスオブリージュの代表がメディチ家であろう。ルネサンス期の芸術を花咲かせた超金持ちである。メディチ家は高貴なるものとしての義務をしっかり分かっていた。そして数多くの芸術家を支援するのである。メディチ家に支援された有名な芸術家をあげると、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ、ボッティチェリなどがいる。

 社会の厳しさから逃げ回り、働きもせず、自分のしたいことも分からない人を社会のクズと呼んでいるが、ノブレスオブリージュを備えていない金持ちもまた、社会のクズであると、私は思う。

クオリア

2007年06月04日 00時07分48秒 | Weblog
 金持ちは「クオリア」に注目する。

 認知学の世界でクオリアという用語がある。上智大学名誉教授である渡部昇一氏は自然科学を例にこのクオリアを説明していて非常に分かりやすかった。

 現在、自然科学あるいは外科医療の発達によって、能の血流が非常に精密に計れるようになってきている。たとえば、速読をすると脳のどの辺りでどのぐらいの血流が盛んになるかが的確に把握できるそうである。しかし一方で、読んだ本が童話であるのか、バイブルであるのか、お経であるのか、あるいはポルノであるのかについてはさっぱりわからない。また、読んでいる人が悲しんでいるのか、楽しんでいるのかもわからない。これはつまり、自然科学も進めば進むほど、わからない分野がはっきりするようになる。・・・〈中略)・・・この「分からないもの」のことを、最近の学問では「クオリア」という。

 友人がバーで働いている。彼はカクテルの奥の深さについて少しは分かってきたみたいだ。私から見ればカクテルなんてシェイカー振ってればできるものと思っているが、彼にとってはそうもいかないらしい。シェイカーにどのような氷をどのような順番で入れていくか、どれくらいの長さ振れば、どれくらい氷が溶けるのか、その間にアルコールの分子がしっかりとばらばらになっているか試行錯誤しているようだ。バーテンダーの世界は10年シェイカーを振って半人前といわれるようになるらしい。彼はバーテンダーという世界のクオリアの存在に気づいたのだろう。

 桜木花道も当初、バスケットボールをただの「玉入れ」とバカにしていたが、その後、いかにバスケットボールが奥深く、人生までもを左右するものとなるか気づくことになる。

 ソクラテスの「無知の知」もクオリアについて語っているのではないかと思う。あらゆる物事を追求すればするほど、自分が何を知らないかより明確になってくる。このクオリアを認識することをソクラテスは「無知の知」と呼んだのだろう。

 ちなみに私はこの世の真理が分かってきたと思っている。だから友人から「むちむち」と呼ばれているのだろう。