金持ち日記

金持ちなるまで続く男の日記

論語

2008年04月30日 00時49分58秒 | Weblog
 金持ちは論語に注目する。

 私はこれからどう生きてゆけばよいのだろうか。一つの羅針盤となればと思い、于丹(著)孔健(監訳)『論語力』を読んだ。複雑になった現代も、本当に大切なものは昔と同じだったりするものだ。そこで孔子の教えに耳を傾けてみた。

子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。

 22の私が意識しなければならないのは「三十にして立つ」というところであろうか。于丹の解釈によると「この段階で必要とされている状態は、あなた自身が曇りのない内省の心、穏やかな心の持ち主であるかどうか。そして、あなたがこれから成し遂げようとしている理想について、自分なりの信念、確固たる意思があるかどうか」とある。

 とりあえず高校生の時に決めた目標だから金持ちを目指す。ただ、お金によって穏やかな心を乱されるわけにはいかない。 死生命あり、富貴天にあり。一生懸命働いてみるが、金持ちになれるかは天に任せようと思う。穏やかな心は、お金よりもずっと価値があるものだと思うから。

大人と子供

2008年04月27日 12時32分24秒 | Weblog
 以前、友人とドライブをしていた際の話である。「大人と子供の違いは何だと思う?」と尋ねたら、予想外にも真面目に答えてくれたので紹介しよう。

 人には3段階あり、3段目にたどり着いた人が大人であると彼は言う。では3つの段階を見てみよう。

①独断的
 子供を見ていると何でも「自分が」という世界である。この時期は独断的にしか行動できない。

②客観的
 少し大きくなると社会を客観的にとらえられるようになる。ただ「どうせ世間は・・・」というニヒリズムに陥りがち。この段階はまだ大人ではない。

③客観的な視点で独断的に生きる
 真の大人とは社会を客観的にとらえ、その中でニヒリズムに陥らず、自分がどう生きるかを知っている人。


 以上が友人の考える「大人と子供の違い」である。彼の考えはヘーゲルの弁証法に通ずるものがあると感じた。

 弁証法とは、あるもの(正)があると必ずそれと矛盾し・否定するもの(反)が生まれ、その対立・矛盾・否定を通してより高いものに総合される(合)、この正・反・合がくり返されて事物が発展していくとする考え方である。

 彼の考えと照らし合わせてみると以下のようになる。
「正=独断的」
「反=客観的」
「合=客観的な視点で独断的に生きる」

 これが正解なのかはさっぱり分からないが、純粋におもしろい考えだと思った。慣れない運転をしながら、これだけの発言ができるのは大したものだと思った。ただ、自分で設定したカーナビの「100M先、左折です」の声に、「機械のクセに俺に命令するな。なんなら電源ボタンでお前を消してもいいんだぜ」と叫ぶ彼は、どう見ても子供のようだった。 

どう生きるか なぜ生きるか

2008年04月25日 14時16分34秒 | Weblog
 金持ちは「生き方」に注目する。

 人生とは山登りであると思う。「登る道違えど、目指す頂は一つ」ではないだろうか。一流の経営者、一流の野球選手、一流の画家・・・・・彼等は違う道を歩いたが、たどり着いた頂点から見る景色は皆同じであると思う。具体的に言うと、どんな経験をしてきたかは十人十色であるが、その中で身につく人生哲学は1つしかないと思っている。京セラ、KDDIを立ち上げ、日本を代表する経営者、稲盛和夫も山の頂上に達した一人であると思う。彼が頂上から見る景色が少しでも知りたくて、稲盛和夫氏の『どう生きるか なぜ生きるか』を読んだ。

 この本で感銘を受けたのは以下の2つ。

①人生は諸行無常であることを知る

②何事にも感謝する心を持つ

 ①人生は諸行無常であることを知る
 お釈迦様が良いこと悪いことが織り成している人生を観て、人生とはなんと厳しいものよ、「諸行無常」と言われたそうだ。ちなみに諸行無常とは「万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ(広辞苑)」である。仕事のミス、人との別れ、重い病気・・・・人生には辛いことや悲しいことがたくさん訪れる。これを不幸だと嘆くのではく、これが人生であるということをしることで少しは心が軽くなる気がする。

 ②何事にも感謝する心を持つ
 諸行無常の人生において大切なのは「よいことに出会おうとも、わるいことに出会おうとも、どんな運命に出会っても、出会った運命に感謝する心で対応する」ことだという。とはいえ、凡人が災難にあった際に災難を心から感謝することはそうそうできることではない。稲盛氏は、感謝することを「理性で覚えて、理性で入れておき、理性でもって使うということが必要になる」とアドバイスする。

 この話を読んで「もしかしたら私はすでに悟りを開いているかも」と驚いてしまった。私が高校2年生の時の話であるが、テストで211番中、211番を取ったことがある。私は211番であることに感謝した。その理由は、将来「211番だったけど、努力してこんなに成功できたよ」と言うことができるから。その言葉で、どれだけの頭の悪い生徒が夢や希望を持ってくれるのかと想像したものだ。帰りの道のりは、一人でニヤつきながら帰った。

 お釈迦様が説かれた修行に六波羅蜜(ろくはらみつ)というものがある。「六波羅蜜とは、これらの修行をすることによって人間の心が浄化され、純化され、そして最終的な悟りの境地に行き着くという修行」であるが、その中に「精進」がある。精進とは誰にも負けない努力をすることだという。その話まで読んでしまうと、高校2年生の時の悟りは勘違いであったことが分かった。せっかく悟りの境地にいると期待したのに・・・・・。

あ~、人生は諸行無常なり。

ごくせん

2008年04月23日 20時10分02秒 | Weblog
 金持ちはごくせんに注目する。

 先日ごくせんを見た。不良だからという理由でひったくりの犯人扱いされる生徒を必死で守る教師の姿に心を打たれた。心から生徒に向き合い、生徒を守り、生徒を叱る、それが真の教師というものなのだろうか。

 そういえば私もよく犯人扱いされたものだ。校内にあるタバコの吸殻や廊下にエロ本が落ちていた時もそうだった。中でも忘れられないのが小学生の時のセロハンテープ事件。先生のセロハンテープが、教室の窓から投げ捨てられていた事件である。その日の帰りの会は犯人探しになった。なぜか私一人、教室の前に出される。ちなみに本当に犯人ではなかった。

先生「お前が投げたのか?」

私「投げてません」

先生「本当のことを言え」

私「本当です」

先生「お前は野球部だよな。あそこまで投げられるのは野球部のお前だろ」

私「いやいや、あそこまでって、5メートルくらしかないですけど」

 先生がクラス全員に言った。

先生「今日は犯人見つかるまで帰さないからな」

 その後も執拗に私に問い詰めてきた。疲れた私はとうとうウソをつくことになった。

私「はい、私がやりました」

先生「ほら見ろ。お前のせいでどれだけの時間が無駄になったと思ってるんだ」

 純粋無垢であった私の心には大きな傷ができた。一方的に攻められ、無実の罪で裁かれる苦しみを、何も小4の私にさせなくてもと未だに思う。生徒を信じることすらできない態度は、ヤンクミとは大違いであった。

 今の日本に、生徒に心から向き合う教師はどれくらいいるだろうか。やっぱり私のような人が教師となるべきか・・・・・・ふとそんなことを考える。

アウトサイダー

2008年04月21日 09時00分36秒 | Weblog
 金持ちはアウトサイダーに注目する。

 城繁幸氏の『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか アウトサイダーの時代』を読んだ。所々反論したくなる箇所もあったが、「価値観が多様化した現在、レールから外れることを恐れるな」との主張には大賛成であった。

 先日、友人と二人で飲みに行った。彼もアウトサイダーと呼べる人物であろう。大学2年生の頃に始めたバーのアルバイトにハマリ、大学には来なくなった。4年生になり、危機を感じたのかアルバイトを辞やめ授業に行くことにしたという。そんな彼が日本酒を片手に、尋ねてきた。

友人「自分の人生について悩んだことある?」

私「・・・・・そりゃ、たまにはあるよ」

友人「・・・・・・・・俺は、今がその時なんだよね」

 声のトーンからおそらく相当悩んでいるように思えた。そういえば、この本の筆者がバーに行った際の出来事がおもしろかったので、一部抜粋しよう。

 ・・・時計の針が零時を回ると、店内の客も、一人二人と家路につく。2時を過ぎた頃には、いつの間にかマスターと二人きりになっていた。
「最後に何か、おススメのシングルモルトを頼むよ」
 ボトルの棚の奥から引っ張り出すついでに、彼はスコッチの話をしてくれた。スコッチは蒸留所のポットスティル(蒸留釜)の中で生まれた後、様々な種類の樽、色々な場所で熟成されることで、千差万別の味わいを見せる。たとえばアイラモルトなら、厳しい潮風にさらされる海辺で年を経るうち、スモーキーなピート香をその身にまとうことになる。その後はバーボンやジェリーなど、風合いの異なる樽に詰め替えられることで、個性を出していくわけだ。
「この仕事をしていると、いろいろな人に出会いますよ」
ラフロイグ15年を注ぎながら、彼は言う。
「そういう意味では、スコッチに似ているかもしれない。回り道や畑違いの経験を積み重ねることで、後から風味がでる、そん気がします」
 ずっとボトルの中だけで過ごしていては、何年経っても味なんて出るわけがない。もし、人生において自分だけの風味を出したいのであれば、大切なのは潮風にあたることだ。・・・。


 彼のアルバイトした期間はきれいなボトルで過ごした時間ではなかった。見た目は薄汚い樽の中だったのかもしれない。ただ、決して無駄な時間ではなかったはずだ。アルバイトが終わる夜中の3時に私を電話で起こし、その日の出来事を目を輝かせながら話したり、誰よりも早く出勤し、一人でシェイカーを振る日々。そして何よりバーで知りえたお客様や働く仲間から得たものは何事にも変えがたいものではないだろうか。

 私が彼に対して思うのは「レールから外れ、潮風に当たった日々を後悔して欲しくない」ということだ。人生80年勝負。潮風に当たってきたこの月日が、将来彼だけにしかない味を作り出してくのだと信じている。

インテリジェンス

2008年04月19日 16時35分54秒 | Weblog
 金持ちはインテリジェンス(諜報)に注目する。

 先日、佐藤優氏の『野蛮人のテーブルマナー』を読んだ。佐藤優氏によると「インテリジェンスは、基本的には国家の機能であるが、その技法は企業や個人にも応用可能である。ビジネスパーソンがインテリジェンスの技法を身につけていれば、情報収集や人脈構築でライバルを出し抜くことができる。また、いい異性をものにしようとする場合にもインテリジェンスの技法は応用可能だ。あるいは浮気がばれかけたときの言い逃れにもこの技法を援用できる」という。TOEFLよりも役に立ちそうなので、その具体的なテクニックを以下に記す。

 まずインテリジェンスの世界でよく行われるのが食事工作。 佐藤優氏によると食事工作の基本は「私は危険な人物ではないということを深層心理に徐々に刷り込んでいく」ことであるそうだ。同一人物と3ヶ月に3回以上、食事をすると、アルコールを伴わなくても、一応の信頼関係はできるという。

 ターゲットを食事に誘う際、人物調査を徹底的にすることから始まる。インテリジェンスの世界では誰にも「値札」がついていると考える。プロはこの値札を正確の読み取り、相応なランクのレストランで食事をするという。佐藤優氏によると「値札が2万円のターゲットをファミレスやマクドナルドに連れて行ってはならない。逆に値札が1000円のターゲットを高級レストランに連れて行ってはならない」という。

 では1回目の食事を、2回目、3回目の接触へとつなげるにはどうすればよいのだろうか。佐藤優氏によると、相手が断れないような小さな物を「貸してくれ」と頼み2回目の接触を作り出すという。借りる際に「あなたにあげる」と言われても「そんなことはできない」と遠慮する振りをすることが大切なのだそうだ。本当は遠慮しているのではく、借りた物を返すという口実で3回目の接触が可能となるからだ。

 インテリジェンスのプロはこのようなテクニックを駆使して、人脈を構築し、必要な情報を正確に得るのだ。インテリジェンス業界では、秘密情報の95%~98%は公開情報の中にあるという。違法活動をしなくとも、誠実に公開情報を分析し、人脈を作ることによって有利な情報を手にできるのである。ちなみにインテリジェンスの中でも非合法な部分をスパイ活動と言うらしいが、私の得意分野であった。

 小学6年生の頃、情報屋として活躍したことがある。メンバーは4人。6時間目が終わると、教室の後ろの窓の鍵をこっそり開け、カーテンで隠すのである。野球部が終わり、夕方の7時頃に仕掛けた窓から侵入。昼休みの練習の成果か、どの教室にも侵入できる技を習得。おもしろい情報が手に入ることもしばしばであった。

 私も、もう大人である。今さら非合法なことはしたくない。インテリジェンスの合法なテクニックを駆使して、金持ちになろうと思う。

温故知新

2008年04月17日 11時06分15秒 | Weblog
 金持ちは大人の見識を持たねばならない。

 阿川弘之氏の『大人の見識』を読んだ。おもしろかったのは「温故知新」という言葉についてであった。

 温故知新とは「故(ふる)キヲ温(たず)ネテ新(あたら)シキヲ知(し)ル」という孔子の言葉である。なぜ孔子は「尋ねる=タズネル」ではなく「温=タズネル」にしたのだろうか?

 阿川氏は他の学者の解釈を引用しながら以下のような説明をしている。

 孔子が言いたかったのは、ただ尋ねるのではなく「アタタメタズネル」ということだ。「温とは、肉をとろ火でたきつめて、スープをつくること。歴史に習熟し、そこから煮つめたスープのような知恵を獲得する。その知恵で以って新シキヲ知ル」

 知識そのものに価値はない。その蓄えた知識(材料)を温め、知恵(スープ)にしていかなければならないのである。孔子はそう言いたかったのだろう。

 先日高校時代の友人と飲みに行った。彼はゲームや漫画に熱中する生活を送ってきたらしいが、そんな生活をすこし後悔しているように感じ取れた。確かに漫画の主人公の名前やゲームのストーリなんて無駄な知識かもしれない。ただ、そんな無駄だと思われている知識から、彼がどんなスープを作り出すのか正直楽しみである。ハチャメチャな彼なら、何かやってくれるのではと陰ながら期待している。

自分の品格

2008年04月15日 19時26分04秒 | Weblog
 金持ちは自分の品格に注目する。

 「国家の品格」や「女性の品格」を大切にする風潮は好ましく思う。ただ、「お前は品格あるのか」と問われれば、「今は忙しいから、後にしてくれ」と逃げ切るつもりでいた。運動不足の私はいつまでも逃げ切る体力がないということに気づき、渡部昇一氏の『自分の品格―ぶれない生き方、ゆるぎない自信 』を読んだ。

 渡部昇一氏はこう述べている。

「できない理由を探すことなく、志を保ち、自分で自分を尊敬できる人間になれ」

 どれも私には問題ない。

 まずできない理由を探すことはしない。様々な科学的根拠を提示し、不可能であることを説明しようとする3流はたくさんいる。しかし私は何事も不可能ではないと思っている。人が鳥のように空を飛べないのは科学的に不可能ではなく、やる気と根性が足りないだけだと思っているし、修行によっては飛べるようになると信じている。

 また、志を保ち自分で自分を尊敬している・・・・・というか、しすぎている。このブログも、将来金持ちになった時に出版する本の原稿という位置づけだ。いづれ本を出すのだからと、このブログの存在は仲の良い友人にもあまり教えていない。金持ちになることを前提に生きているし、その自信もある。

 以上のことから分かるのは、私は品格のある人物であるということだ。薄々自分でも気づいていたが、この本で確信に変わった。

 これからは品格ある男として、真冬の風呂上りに全裸でベランダに出たことを自慢するのは、もう止めようと思う。

未来予想図

2008年04月05日 11時58分33秒 | Weblog
「ずっと心に描く 未来予想図は
 ほら おもったとうりに かなえられてく」というわけにはいかないようだ。

 昨日、私にしては珍しく落ち込んだ。描いた未来予想図は儚く消え去ってしまった。あまりのショックで胸がいたい。就職先を決める大事な時期にも関わらず。

 今はひたすら「人間万事塞翁が馬」と自分に言い聞かせる。

<塞翁が馬 さいおうがうま>
塞翁の馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻ってきた。喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、ために戦士とならう命長らえたという故事(広辞苑)

 一つの事象を不幸だと判断することはできない。それが巡り巡って、幸せを運んでくるかもしれないから。

 人は逆境の時こそ本当の力が試される。とりあえず、今回はいい勉強になった。落ち込むのは今日で終わりにして、また新たな未来予想図でも描こうと思う。