金持ち日記

金持ちなるまで続く男の日記

私の履歴書 プロジェクトB 4話

2008年02月29日 22時30分53秒 | Weblog
 野球同好会ができて半年がたった。ずっと応援してくれて、同好会の顧問もしていた先生に呼ばれた。ちなみに彼は、野球部のためなら俺の名前を使えと自ら顧問を買って出た熱い人である。

先生「高校の規則では1年間同好会として活動しないと部への昇格はない」

私「そうみたいですね」

先生「でも一年経つと、お前たちは公式戦が1回しかない。だから特別に半年で部への昇格を生徒総会で決議することにした。いつもお前等は頑張っているしな」

 我々同好会の情熱は、既存のルールを変えた。そして生徒総会で部への昇格の決議が行われた。生徒会長の「異議はありませんか」の声と同時に、サッカー部が次々と手を挙げて異議を唱え始めた。あの瞬間は泣きたい気持ちであった。

 そんな中、一人の少女が手を挙げた。「私は野球部を認めたいと思います」・・・・・嬉しかった。

 多数決が行われることにより、賛成者は拍手を求められた。体育館には物凄い拍手が鳴り響いた。

 野球部誕生であった。その日私は野球部初代キャプテンとなった。

私の履歴書 プロジェクトB 3話

2008年02月27日 22時11分52秒 | Weblog
 野球センス溢れるさとし君に練習方法などを教えてもらいながら同好会は活動していた。そんなある日、同好会設立を協力にバックアップしてくれた先生からこんな話が来た。
「今度高体連があるから、野球同好会で何か応援団みたいなのを結成して全校生徒の前で披露してくれないかな」
その先生のお願いならばと、快く引き受けた。代表で私が応援メッセージを述べ、その後3・3・7拍子でしめるという内容にした。

 同好会を全校生徒にアピールする絶好の機会であったため、全力で取り組んだ。全校生徒の前でスピーチをすることになった私はデール・カーネギーの『人を動かす』という本を何度も何度も読みながら、スピーチの内容を考えた。

 ワールドカップ直前の時期であったため、ジネディーヌ・ジダンのストーリーを織り込んだ内容にした。前半は大爆笑、ジダンの話の時には感動のあまり体育館が静まり返った。・・・・完璧なスピーチであった。

 その後の3・3・7拍子も盛り上がった。昼休みにグラウンドに集まり毎日練習した成果だった。

 大成功を収めた野球部同好会による応援団。教室に戻るとクラスメートから代絶賛されたことは忘れられない。

 たぶんつづく

私の履歴書 プロジェクトB 2話

2008年02月23日 01時02分41秒 | Weblog
 先生にお願いしても野球部設立は叶いそうもなかった。しかたなく作戦2を実行しなければならなかった。
「どうか僕たちに、大好きな野球をやらせてください」と校長に直談判した。緊張のあまりに足の震えが止まらなかったのを今でも覚えている。

 以前校長先生に直談判して怒られた先輩がいるという話も聞いていただけに、逃げ出したい思いであった。そんな中、私を後押ししてくれたのがさとし君であった。彼がいなければ、私が野球部を作ることはなかったと想っている。

 校長はしばらく考えている様子だった。「この高校に来た以上は、やりたいことはやらせてあげたい」と予想外の返答だった。今までささやかれてきた「野球部を作るのは不可能だ」との声はその日を境になくなった。

 高校のルール上、同好会として1年活動し、その活動が認められれば部へ昇格ということであった。様々な手続きを終え、同好会が発足した。メンバーは20名程度。ボールを投げられることが幸せだった。バットを振れることが幸せだった。この時期は野球ができるということがどんなに幸せなことかを教えてくれた。

 サッカー部があったため、週1しかグラウンドは使えなかった。他の日は、バスケットコートよりも小さな場所でキャッチボールをした。

 サッカー部から見れば週に1回グラウンドが使えなくなるわけだから反発もすごかった。反発の矛先は私に来た。当時1年生であった私は反論するわけでもなく、じっと耐えるのみであった。

 そんな日々を過ごしていると、休み時間に見知らぬ先輩が私に会いにきた。彼もまた野球がしたかった一人であった。彼はこう語りかけてきた。
「俺は受験だから野球同好会には入れない。でもお前たちを応援しているからな。サッカー部が文句行ってきたら俺に言え。俺があいつ等を黙らせに行くから。」・・・・・彼の想いが嬉しかった。徐々に野球同好会を応援してくれる人は増えていった。


  つづく

私の履歴書 プロジェクトB1話

2008年02月16日 07時22分57秒 | Weblog
 金持ちは「私の履歴書」に注目する。

 日経新聞の記者がいつ取材にきても困らないように、「私の履歴書」の内容を先に考えておきたい。就職活動に役に立ちそうだし。
では、はじまり、はじまり。

高校生
 
 人には人生を左右する大きな出来事が数回あると思う。私にとって、高校時代にプロジェクトBを成し遂げるために仲間と共に戦った日々は私の人生を大きく変え、一生の宝となっている。今日はそんなプロジェクトBの記憶を書き留めておきたい。








「プロジェクトB」
~私を変えた感動と奇跡のストーリー~

 沖縄1の進学校を受験。努力は裏切らなかった。小5の夏に引き算の繰り下がりができなかった私が、高1の全国模擬試験で偏差値70台を取るほどに成長。ちなみにその2年後に偏差値30台を取るほどに衰退したことは日経新聞の記者には言わないつもりだ。

 勉強に専念すべき進学校であるという理由から野球部はなかった。それでも野球への愛を断ち切ることができず、野球部立ち上げを決意。ついにこの私が立ち上がった。担任の先生に相談したら、無理だといわれた。立ち上がった私は、すぐに着席。そしてハンドボール部へ所属。楽しい日々を過ごした。

 高1の夏、こんな噂を聞いた。

「2組のさとし君が野球部をつくろとして担任の先生にお願いしたみたい。そしたら無理って言われたんだって」

 私以外にも野球をしたい人がいることを知る。さとし君だけではない。今まで幾多の先輩が立ち上げようとチャレンジしてきた。幾多の先輩が野球をしたいと願った。みんな心から野球が好き人たちであった。自分のために、そして野球がしたくてもできなかった先輩のためにも野球部設立を決意。再び、この私が立ち上がった。全クラスの担任に相談したら、全先生に無理だといわれた。今度はあきらめなかった。

 つづく

私の履歴書 中学生Ⅱ

2008年02月14日 09時50分40秒 | Weblog
 金持ちは「私の履歴書」に注目する。

 日経新聞の記者がいつ取材にきても困らないように、「私の履歴書」の内容を先に考えておきたい。就職活動に役に立ちそうだし。
では、はじまり、はじまり。

中学生Ⅱ
 Y塾に合格しうかれていたある日、3年生の不良グループのトップから声をかけられた。彼は私の幼馴染で、ずっと兄のように慕ってきた存在であった。話はずれるが、彼と幼馴染ということで私の中学生ライフはVIP待遇だった。入学式には全学年の不良が私に会いに来てくれたり、中学1年にしながら先輩たちとタクシーで下校という日々もあったくらいだ。おそらく資金源はカツアゲだと思う(笑)

 話を戻そう。彼はまじめな顔で話始めた。

彼「昨日の夜、お前の家に行ったんだけど、Y塾の入塾テスト合格したんだってな。」

私「うん。」

彼「もう、不良グループやめれば?」

私「どうして?」

彼「俺はこんな道に進んでしまったけど、お前はY塾でちゃんと勉強して、ちゃんとした道を歩め。もう不良グループとは関わるな。」

 その日、不良グループを脱退した。

 小6の担任や幼馴染の先輩など、私はいろんな人に愛されているのだと痛感。彼等の想いに報いるためにも、王道を生きることを決意。その日以来、悪事の一切を絶った。唯一の悪事といえば、ちゃんとした制服を持っていなかったため、その後も違反ズボンで登校したくらいだ。

 勉強はかなり頑張った。塾はまじめに行ったし宿題も極力やるようにしていた。今までサボってきた分も取り戻さなければならなかったから、必死であった。

 そんな日々を過ごし、中学生活は終わった。

私の履歴書 中学生Ⅰ

2008年02月13日 14時05分51秒 | Weblog
 金持ちは「私の履歴書」に注目する。

 日経新聞の記者がいつ取材にきても困らないように、「私の履歴書」の内容を先に考えておきたい。就職活動に役に立ちそうだし。
では、はじまり、はじまり。

中学生
 30年後の自分を考えるようになる。今のままではダメだと気づく。吾13にして学に志す。沖縄県で最もレベルの高い塾へ行こうと決意。調査の結果Y塾に出会う。その塾は最下位の生徒が県1の偏差値を誇る高校に合格するようなとんでもない塾であった。さらに調べてみると入塾テストがあることを知る。頑張って勉強していざ入塾テストへ。やはり現実は甘くなかった。当然の如く不合格。

 チャンスは2度あることを知り、さらに勉強してもう一度挑戦。やはり合格点には達せず。テスト結果の報告で塾からはこのような電話がかかってきた。

塾「残念ながら合格点には達しておりません。・・・・・・・しかし、1回目のテストから飛躍的に点数が伸びております。おそらくしっかり勉強なさったことでしょう。ということで、今後の可能性を見込んで、合格といたします。」

 この塾に入れたことは、私の人生を変えた。なにより、勉強の仕方や楽しさを教えてくれたことは生涯の宝となった。

私の履歴書 12歳

2008年02月12日 12時02分31秒 | Weblog
 金持ちは「私の履歴書」に注目する。

 日経新聞の記者がいつ取材にきても困らないように、「私の履歴書」の内容を先に考えておきたい。就職活動に役に立ちそうだし。
では、はじまり、はじまり。

12歳
 野球部キャプテンに就任。時には「愛のムチの、愛のないバージョン」でチームをまとめる。最後の大会、私のさよならホームランで地区優勝を決める。ヒーローの心地よさを初体験。

 ある日、友人とどこに旅行に行きたいかとの会話中「俺は、どちらかというと福岡よりも九州に行きたい」と意味不明な発言をし、頭の悪さを露呈する。

 私と友人の電話があまりに短すぎるということで、こっそり姉が計測。結果は6秒。瞬時に必要な情報を正確に流すというITの最先端をゆく。

 理科の時間に使用するマッチを盗み、友人と放課後に授業の復習をする。学校の机を燃やし、酸素の存在を実感する。

 卒業を間近に控えたある日、担任の先生から誰もいないところへ呼ばれる。

先生「お前は、中学校になったら不良になるのか?」

私「ならないですよ」

先生「このままでは危ないぞ。どうして髪を染めた?」

私「別に髪を染めたから不良になるとは限らないですよ」

先生「確かにサッカーの中田も金髪だしな。ただ、俺はお前が心配なんだよ。髪を染めていると先輩から呼ばれたりして徐々に不良になっていくんだ。俺の教え子にもそういうやつがいた。俺はお前にそうなって欲しくないんだ。お前にはちゃんんとした道を歩んで欲しいんだ。」

 その言葉を聞いて学校で初めて大泣き。怒鳴られたり、殴られたりはよくあることだったが、先生が私のことを心配してくれていることがうれしかった。その日、不良にならないことを決意。

 決意が弱かったのか、数ヵ月後不良のトップに就任。調子に乗って荒れた日々を過ごすが、先生のあの言葉が忘れられず、一線は超えなかった。

私の履歴書 誕生~9歳

2008年02月10日 14時00分27秒 | Weblog
 金持ちは「私の履歴書」に注目する。

 日経新聞の記者がいつ取材にきても困らないように、「私の履歴書」の内容を先に考えておきたい。就職活動に役に立ちそうだし。
では、はじまり、はじまり。

誕生
 あの日はいつもにまして太陽が光り輝いていた。太陽までが、後に日本を代表する金持ちを祝福していたのかもしれない。


5歳
 キリスト教の幼稚園に入園。1年間半袖登校を貫く。寒くて寒くて死にそうな日は神様にお祈り。少しだけ温かくなった。そんな死ぬほど寒い日々を過ごしたためか、5歳にして生きる喜びを知る。


9歳
 長距離走沖縄県3位のS君に校内マラソン大会で勝つという目標を立てる。毎朝早く学校へ登校し、グラウンドでマラソンをした。何日も何日も走り続けた。食事にも気をつけ、早寝早起きも実行。マラソンの本を買ってきて、走るフォーム、呼吸の仕方、大会当日の朝ごはん、すべてを実行。予行演習では初めてS君に勝ち、自信をつけて本番に挑む。本番当日、S君が怪我で欠席。その年、ぶっちぎりで1位になるもうれしさはなかった。6年間、結局S君には一度も勝てなかった。あの年のS君の怪我を恨むと同時に、彼は私の中で永遠とライバルとなる。