以前、友人とドライブをしていた際の話である。「大人と子供の違いは何だと思う?」と尋ねたら、予想外にも真面目に答えてくれたので紹介しよう。
人には3段階あり、3段目にたどり着いた人が大人であると彼は言う。では3つの段階を見てみよう。
①独断的
子供を見ていると何でも「自分が」という世界である。この時期は独断的にしか行動できない。
②客観的
少し大きくなると社会を客観的にとらえられるようになる。ただ「どうせ世間は・・・」というニヒリズムに陥りがち。この段階はまだ大人ではない。
③客観的な視点で独断的に生きる
真の大人とは社会を客観的にとらえ、その中でニヒリズムに陥らず、自分がどう生きるかを知っている人。
以上が友人の考える「大人と子供の違い」である。彼の考えはヘーゲルの弁証法に通ずるものがあると感じた。
弁証法とは、あるもの(正)があると必ずそれと矛盾し・否定するもの(反)が生まれ、その対立・矛盾・否定を通してより高いものに総合される(合)、この正・反・合がくり返されて事物が発展していくとする考え方である。
彼の考えと照らし合わせてみると以下のようになる。
「正=独断的」
「反=客観的」
「合=客観的な視点で独断的に生きる」
これが正解なのかはさっぱり分からないが、純粋におもしろい考えだと思った。慣れない運転をしながら、これだけの発言ができるのは大したものだと思った。ただ、自分で設定したカーナビの「100M先、左折です」の声に、「機械のクセに俺に命令するな。なんなら電源ボタンでお前を消してもいいんだぜ」と叫ぶ彼は、どう見ても子供のようだった。
人には3段階あり、3段目にたどり着いた人が大人であると彼は言う。では3つの段階を見てみよう。
①独断的
子供を見ていると何でも「自分が」という世界である。この時期は独断的にしか行動できない。
②客観的
少し大きくなると社会を客観的にとらえられるようになる。ただ「どうせ世間は・・・」というニヒリズムに陥りがち。この段階はまだ大人ではない。
③客観的な視点で独断的に生きる
真の大人とは社会を客観的にとらえ、その中でニヒリズムに陥らず、自分がどう生きるかを知っている人。
以上が友人の考える「大人と子供の違い」である。彼の考えはヘーゲルの弁証法に通ずるものがあると感じた。
弁証法とは、あるもの(正)があると必ずそれと矛盾し・否定するもの(反)が生まれ、その対立・矛盾・否定を通してより高いものに総合される(合)、この正・反・合がくり返されて事物が発展していくとする考え方である。
彼の考えと照らし合わせてみると以下のようになる。
「正=独断的」
「反=客観的」
「合=客観的な視点で独断的に生きる」
これが正解なのかはさっぱり分からないが、純粋におもしろい考えだと思った。慣れない運転をしながら、これだけの発言ができるのは大したものだと思った。ただ、自分で設定したカーナビの「100M先、左折です」の声に、「機械のクセに俺に命令するな。なんなら電源ボタンでお前を消してもいいんだぜ」と叫ぶ彼は、どう見ても子供のようだった。