俳句(らしきもの)を作ってみると
物語の、文章・構成に、役にたつ。
と、思わされる。
俳句を作っていくとき
ー書かなくても判る事は書かないー
と、いうのがある。
俳句ではないが、歌。
ー月がとっても、青いから、遠回りして帰ろうー
このなかに、
今日は朝から空気が澄んでいて
やはり、夜になれば、月が冴えている。
とか、
月が青いということは、冬に近いか、冬である。
ゆっくり、帰るにそうほど寒くない季節
とか
私は、ゆっくり帰ることができる時間的猶予が有り
きぜわしく、帰途を急がなくても良い。
などなど、
いろんな背景が映し出されている。
俳句の様に、言葉を選ぶようにすると
文章のほうでも
ー書かなくても判る事を省くことができるー
俳句は二重季語を禁じるが
それでも、対象の持ち方で
二重季語の禁を脱することがある。
巧く説明できてないと思うが
秋月夜 ころころころと コオロギが
(↑↓ちょっと、適当すぎるwww)
秋月夜 どこにいるのか コオロギは
秋月夜 ころころころと コオロギが
これは、秋とコオロギの二重季語の俳句と評価される
秋月夜 どこにいるのか コオロギは
もちろん これも、二重季語であるけれど、
冴えた月明りに、こおろぎを見つけられないかということで
秋月夜は、季語というより、「照明」の意が多い。
ー秋と月夜ーも、二重季語であるがwww
文字数合わせに取り敢えず。
そして、俳句の短さゆえに
主観・客観が、ごっちゃに成りやすい。
誰が思ったかわからない。とか
他が思ったことや、事実を
主観で表現したり、
どっちの事か判らない。
とか、
具体例が浮かんでこないが
例えば 1フレーズ
ーねんねこばんてん 手を入れる 隙間からー
(適当なので、矛盾するかも)
たぶん、ねんねこばんてんだから、赤ちゃんを背負っている。
赤ちゃんの手が外に出ているので ねんねこばんてんの隙間に赤ちゃんの手を入れてやる
とも
母親?が、赤ちゃんが良く寝入ったか?母親がねんねこばんてんの隙間から手をいれて、確かめる
寒くないか・冷えてないかと赤ちゃんの身体を触ってたしかめるために 手を入れる
とも
ひどい1フレーズで、あるが
そんな風に、主観・客観(と、いう言い方では、合わないが)
(赤ちゃんの手・母親の手)か、どちらのものか
はっきりしない書き方になれてしまうと
誰が主で誰が客 なのか、ぶれてしまう。
ーねんねこばんてん 手を入れる 隙間からー
「ねんねこばんてん 寒くないかと 手を入れる」
こう書くと、
赤ちゃんの手が外に出ていて 母親が 赤ちゃんの手を入れてやる
赤ちゃんが寒くないかと 母親が ねんねこばんてんの中に手を入れる
どちらにしても、
あかちゃんを気遣う母親が、「主観」になる。
俳句(もどき)を作ってみると
文章の楽さ、と
文章のむつかしさ、とを見せられる気がする。
着眼点がよくても(興があっても)
文章なら、書くことが出来るが(すっきりしてないがwww)
俳句にするのは、むつかしいと感じる。
いつだったか
青葉のころだな。
山をみていると、
風が強く、若葉をひっくりかえしていた。(裏返していた)
青葉の裏がわは、若葉色より、もっと、白い。
それが、山一面の木々 風にあおられる。
山白し。
山青し、と、いう言葉はある。
山笑う、なんてのもある。
山白しは、雪山だろう・・・・
なにか、ひとひねりできないかと
考えるだけで、終わっている。
俳句はむつかしい。
その俳句の説明をしてみる文章もこの程度。
文章もむつかしい。
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