いつだったか、憂生が何故時代物を書こうとするかを分析してみたいといった。
答えは簡単なきがする。
多分に今の観念では語れない心理を描きたいせいだ。
今の観念で何故かたれないかというと、
今の人々はあまりにも、頭が良すぎる。
頭が良すぎる人をモチーフに使うと設定から覆される。
極端に喩えてみるが、憂生の作品に木乃伊を扱うものがある。
其の木乃伊の魂が抜け出していて、そこらを徘徊しているのであるが、
是を現代観念にてらしあわせると、
まず科学的な証明が必要になり、
抜け出た魂の居場所を言い当てる陰陽師は人心不安誘発の罪にとわれるか、
虚言癖もしくは妄想癖のある異常者にされ、
さらにこんな誇大妄想の人間の言葉をあっさりと信じる村人もあやしい。と、こうなってくる。
沼に沈んだ斧を取りに行く女神の話しがあるが、
この女神の存在を素直に信じるのも昔の物語ゆえであろう。
今の設定なら、まず女神なるものが現われた時から
斧を落した男は自分の精神状態を疑りだす。
それでも素直に鉄の斧をおとしたと告げても、
其の正直さをめでて、金の斧までくれるという女神に
新手の悪徳商売に引っ掛かってはいかぬと用心するだけである。
こんなに賢い今の人を、正直だというだけで、
金の斧を与えられる在り難き物語の設定につっこむことは不可能である。
馬鹿で阿呆で単純。
些細な優しさに感動し、与えられた運命を享受する人々は無理難題を言う殿様さえ敬う。
それはひとえに己がちっぽけな存在としっており、
周りは賢いひとばかりだとしっているから、木乃伊の魂を見通す陰陽師をうたぐりもしない。
愚者の智を知る時代物の往来の人々は物語をすんなりとすすめてくれる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます