風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

アントロポゾフィー指導原理 (60)

2008-11-09 23:16:29 | アントロポゾフィー指導原理
60.
この捉われのない態度による考察をさらに「感性(感じること)」に向けることができる。すると、感情や感覚は生体(からだ)のなかから立ち上ってくるように見えるが、生体によって生み出されるのではないことが分かる。なぜなら、感性の「生命」には、生体から独立した実質が備わっているからである。人間が生体と結びついた「自己」を感じようとすれば、その「自己」は自然界のなかにあるものとして感じられる。しかし、人間は自分自身を理解しつつ、感性界と結びついた「自己」を感じることができる。するとその自己は、感性界をともなって、ある霊性領域に存在するものとして感じられるであろう。この霊性領域が、第二ヒエラルキアの領域である。(訳・入間カイ)

60. Die Ausdehnng dieser unbefangenen Betrachtung auf das Fühlen zeigt, daß die Gefühle aus dem Organismus aufsteigen, daß sie aber nicht von diesem erzeugt sein können. Denn ihr Leben trägt ein vom Organismus unabhängiges Wesen in sich. Der Mensch kann sich mit seinem Organismus in der Naturwelt fühlen. Er wird aber gerade dann, wenn er dies, sich selbst verstehend tut, sich mit seiner Gefühlswelt in einem geistigen Reiche fühlen. Das ist dasjenige der zweiten Hierarchie. (Rudolf Steiner)


この60項はかなり難解ですが、
ボクとしては、
「感性の《生命》」ということばに注目したいと思います。
つまり、
私たちの感情や感覚には、独自の「生命」があるということです。

この「生命」ということばは、
前項でも、思考との関連で出てきました。
そこでは、
私が「考える」とき、
そこで「生きている」のは、思考ではなく、
私自身であるということでした。

しかし、「感性」(感情・感覚)との関連では、
私が「感じる」とき、
私の感性そのものが「生きている」というのです。

別の言い方をすれば、
思考に対しては、「私」が生命を与え、
「私」に対しては、感性が生命を与えるということです。

具体的に考えてみましょう。
私たちの感性は、身体に関しては
いわゆる「五感」(シュタイナーは12の感覚があると考えましたが)として
意識されます。
それが「生体と結びついた自己」ということです。

皮膚に針が刺されば「痛い」と感じるし、
まばゆい光をみれば「眩しい」と感じる。
その感覚とともに、私は「自分は物質の世界(自然界)にいる」と感じるわけです。

だから、一見、
感覚というものは、生体のなかから発生すると思われるのです。
しかし、自分自身を本当に理解したならば、
自分がその時々で感じる感覚や感情は、
それ自体が独立した「生命」をもっているというのです。

なぜなら、
感じるということは、
そこに「何かがある」ことを感じることだからです。

外から何らかの刺激があれば、
私たちはその刺激を受けた自分の身体を感じますし、
その刺激そのものを感じます。
つまり、何もないのに何かを感じることはないのです。
たとえ、それが錯覚であったとしても、
その錯覚を呼び起こした「何か」が存在しているわけです。

そして、私が何かを感じるということは、
つねに「私自身」(自己)を感じているということです。
私がないのに、
私が何かを感じることはありえないわけです。

思考の場合は、それとは逆です。
私が何かを考えているとき、
私は自己を忘れ、
その「何か」の考えのなかに没頭します。
それによって、その「何か」が生きてくるのです。
つまり、私がその何かに「生命」を与えているわけです。

感情や感覚は、反対に、
感じることによって、
私は自己を意識することになります。
肉体のなかの自分、
あるいは感情に浸った自分を意識します。
そこでは、感性が
「私」(自己)に生命を与えています。

つまり、感性には固有の生命があり、
その生命によって、
私は「自己」を意識できると考えられるのです。

そのような「理解」をもって、
「感性をもった私」というものを意識するとき、
私は、
「私に私を意識することを可能にしてくれた力」として
感性というものを捉え始めます。

そのとき、私は
霊的な領域に身をおく自分というものに気づくのです。

私はどこから「感じる力」を得ているのか?
それは身体そのものではありえない。
身体は「感性」を引き起こす誘因ではあっても、
感覚を感じている意識そのものではない。
感性は、身体に対しても、
外からの刺激に対しても「感じて」いる。
この「感じる意識」はどこから来るのか?

そのような問いが、
私たちのまなざしをある霊的な領域へ導くのです。
そして、その領域をシュタイナーは
「第二ヒエラルキア」の領域と呼んだのです。


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1 コメント

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Unknown (kenshin)
2008-11-10 22:45:00
よく同じ風景にいても家内の感動の言葉と私のとは違います。森のなかでアボリジニの長老の精霊を見た家内と見えない私とは違います。
一人一人の感性と言われるものは違うのですね。これは輪廻転生、一生懸命生きてきたかどうかに今があるのでしょうか。第二ヒエラルキアの領域はなんでしょうか。
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