風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

The show must go on...

2013-01-08 12:09:42 | おんなこどもの哲学
ぼくはこのタイトルのクイーンの歌が好きで、
今日もYouTubeに誰かが上げてくれたベジャールのBallet for Lifeのこの曲に触れてなぜか涙した。
ただ、一番好きなのは、最後に舞台に出てくるベジャールの表情かもしれないと思う。

フレディ・マーキュリーとジョルジュ・ドンに捧げてこの作品を創ったベジャールも、
今は境域の向こう側にいる。

ぼくたちはこの地球を無数の死者たちから受け継ぎ、次の世代に委ねて去っていく。
何のために私たちは生きているのか、という言葉でこの歌は始まるけれど、
実のところ、誰にもわからないのだ。
今は、その問いだけが日に日に重みを増して迫ってくる。

たしかなことは、
ぼくたちが生きている以上、そこには生きようとする意志があり、
その意志が、まるで地球そのものの意志のように、
人間の果てしない過ちと試みと悲しみと喜びを担って、どこかを目指していること。

最近、自分の意志を奮い立たせようとして、
ふたたびシュタイナーの「一般人間学」を読んでいる。
そして確信した。
シュタイナーにとって、教育は科学と芸術と宗教を統合し、
一人ひとりの子どものなかの「神的・霊的なもの」をまえに築かれる祭壇であったが、
それは現在の日本語でいえば「おんなこども」なのだと。

おんなこどもは、ぼくにとって新しい神の名だ。
一人ひとりの人間のなかで、地上を生きる神。
一昔前まで、「おんなこどもの出る幕じゃない」といって背後に退けられていた存在、
それが今、個人のなかで認められ、現れ出なければならない。

シュタイナーはそれを「新しいイシス・ソフィア」と呼んだり、
キリストと言ったり、「十字架のうえに眠る幼子」と言ったりした。

個人としてのぼくは、それを「おんなこども」と名づけ、
何度でもそのまえにひざまずき、呼びかけていきたい。

今、ぼくもまた、無数の生者と死者たちとともに、
一人ひとりの個人のなかの、
新しい神の目覚めを待つものである。



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2 コメント

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Unknown (norico)
2013-01-10 23:04:19
思春期、なぜ自分は男の子に生まれなかったのだろう?・・要するに、男の子になりたかった私は、今母親になった。
今は、女性ってなに?女性に生まれるって選択したのはなぜ?女性とはなにか?
の答えも未だ得れず、男性でもない私にとって、
女性とは?男性とは?
この問いかけは、常に私の中を横切る。
死にたいと思ったことが無い私は、
きっと根底では生きることを常に選択していて、
でもそれは入間さんの言うような意思というほどの認識も無ければ自覚も無い。
でも、生きることが好きだという感覚だけは、子供の頃から私の中に漂っていて、今もそれは実感できる。
最近はより、実感が増している。
私は一応女性で、この実感がどこからきているのかを辿ると、女性とは何か?の答えに出会えそうな気がする。
一つ明確なのは、
母という役になった途端、(本当は徐々にだと思うけれど)がらっと、外の世界の景色が変わるということだった。
景色が変わるので、内容はきっと変わらないであろう外側の出来事への反応も、がらっと変わってしまった。
簡単に言えば、
どんなに迷っても、右往左往しても、
『大切なのは、子供の命と幸せかどうか?という以外は、どうってこと無い・・・』という、とてもシンプルな軸が自分の中を貫いているからだと思う。
生きるとは、命の輝きにフォーカスすることなのかなぁ~と子供の顔を眺めるとよく思った。
その後、命の輝きは、子供だけでない、一緒に過ごす人達の中に見いだすかもしれないし、空だったり、ちょっとした中にもたくさん見いだせた。
おんなこども・・・
私はおんなもこどももも、よくわかっていないと思う。
私の一番苦手な、自分には理解できないものと思っていた領域に今自分が居ることが、まったく不思議でならないけれど、入間さんの活動の中から、何か知り得たり、少しは、この領域の理解が深まったら嬉しい。

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Unknown (ぎんもくせい)
2013-01-19 17:26:09
..待つものである。その呼びかけが、個人から発せられた言葉を越えているかのように私の中に響いている。それは私自身への呼びかけとなる。
いつから歯車が狂ってしまったのだろう、と最近思っていた。もっと恐れず自分を表現して、実現しようとしてきた。それは、幼稚であったり社会性に欠けることであったり、組織の中では通用しにくいことであった。もっと大人にならなければ、組織の中で通用するものにしなければと思い、いつしか、外側の基準を重んじるようになっていた。多分、そこから歯車は狂っていった。文字通り音をたてて崩れるように。そして見失っていたことに気づく。本当に大人になるということは、組織の中でうまくやるよいうことではないのに。
自分の中のおんなこどもを虐げてしまったのは自分だったのだ、認めていなかったのは自分だったとふと気づく。私の中のそれを再び救済~言葉は大げさかもしれないけれど~していきたい。もう決して虐げるまいと思う。
以前、通用しなかったのは、そこに責任の自覚が伴っていなかったから。それでも..と思う。何か表現しようとなされたことが、もう少しあたたかく受け止められる場であれたら。
8どもたちや大人たちとの出会いの中で、その人の中の一見、虐げられてしまいそうなこと、でも輝きにもなり得るコトを見つけたら、大切に出会っていきたいと、改めて思うのです。
入間カイさんの、おんなこどもという名で語ることばに力づけられています。
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