研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

Interests概念の変遷からみたアメリカ政治思想史(3・完)

2010-03-24 18:28:45 | Weblog
5.The Disappearing Public

1922年、ウオルター・リップマンは『世論』を書いた。世論とは、ステレオタイプ化された頭の中の擬似環境なのだという。さらに1928年のエドワード・バーネイズの『プロパガンダ』では、そもそもpublic opinionなるものは広告活動によって形成されたものであることが示される。もはやルソーはおろかウイルソンからもかけ離れたものとなっていく。一般意志は本当に存在しない、そんなものはルソーの戯言だと言うのは歯切れが良いが、本当に「存在しない」のだと居直るのも学問としてはそれなりに困ったことである。

この危機意識は、圧力団体を研究する人々にこそむしろ感じられたかもしれない。活発な意志を打ち出す圧力団体と、無力感から投票に行かない有権者の存在が重なり、結局は私的目的によって世論が操作される懸念は深刻なものとなる。E・ペンドルトン・ヘリングによれば、議会が耳を傾ける意見は、個人として語る市民の声ではなく、一定の目的に向かって組織された団体のコーラスであるという。彼はすでに19世紀の段階で、政党は政策決定において有していた独占的な支配権を失っていたと考えた。

ではpublicは、どこに打ち建てられるのか?

デューイは、そもそも近代社会において「パブリック」なる概念は一つの力を持ちえないと考えていた。しかし彼は、intelligenceの組み合わせによって、巨大な社会を巨大なコミュニティーに再構成できるかもしれないと考えていた。これは凄い。具体的にはどんなものなのだろうか。具体的なことは分からなくてもその雰囲気を伝える断片だけでも分かれば、それは大きな発見だったであろう。

しかしこの問題に関する彼の独創性はここで終わる。ここで彼は多くの思想家の墓場となる「教育」を口にせざるを得なくなる。「教育論」という万能薬の味をいったんおぼえると、思想家の思索はそこで終わり、あとは退屈なカリキュラム論に終始する。

こうしてジェイムズ・マディソンの想定したSocial Wholeは、流産したまま今日に至る。

6.The Rhetoric of Realism

Publicが存在していないことと、popular politicsが存在していることの間の断層が、民主社会には重大な懸念材料である。その一方で、レトリックとしてのcommon goodが無くなったことはない。これがイデオロギーという怪物になったことはあるし、分断する社会の紐帯になる可能性もある。さしあたり、commonの範囲を国家とするか、地域とするか、世界とするか、宇宙とするかで議論は悪い意味で深まるらしいことは、近年の日本がよく示している。Commonという観念が必然的に排除を前提とするのだとしたら、次は「包摂」というのがテーマになってくるのもまあそうなんだろう。

ホーフスタッターは『改革の時代』の中で、「革新主義時代において高められた道徳的な言葉をニュー・ディール期に使用し続けたのは保守派であった」と指摘している。彼によれば、ニュー・ディーラーたちは、抽象的な政治概念に不信感を持った、pragmatic realistsだったのだという。この点で、ニュー・ディーラーというのは、革新主義時代の知識人とは真逆の人々だったのだろう。リベラルな知識人が理念に不信感をもち、「リアリスト」を自任し、interestsを語る。何か変な感じがするが、確かにアメリカ政治史ではそうなっている。理念的ではない彼らの「理念」を、ホーフスタッターは、the new opportunismと読んでいる。西洋政治思想史の伝統では、interests同様、opportunism(機会主義)は下品な意味で使われてきた。福田歓一の『政治学史』によれば、「マキャベリズム」(マキャベリその人の政治思想とはとはまた別の位相の)というのは、「機会主義の教説」になるのだという。マキャベリの主張が、当時のハイブローな言説に対する、ローブローかつ「リアル」な見解だったことを考えると、ホーフスタッターのthe new opportunismという特徴付けは、気味が悪いほど正しい。しかし同時にこの概念史は、ヨーロッパ政治思想史の延長上にアメリカ政治思想史を読むことの限界を示している。以上の理屈だけでアメリカ政治思想史を語るなら、アメリカのリベラルの歴史は失敗の物語にしかならないからだ。