研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

Interests概念の変遷からみたアメリカ政治思想史(2)

2010-03-22 16:24:36 | Weblog
3.Utilitarianism Redivivus

こうしたアメリカの政治言説の空間で、ローブローな言説はいかにして公的言葉となったのか。それは道徳的急進性とは別の、マックレイキングの経験主義的側面に注目する必要がある。それは南北戦争を契機として始まった、統計的手法と政治の結びつきである。

「統計」というのは、本来古典学芸を講じる大学には無縁の存在で、これは南北戦争という途方もない消耗戦を遂行する過程で登場した。このfactsを蓄積し現状を説明する手法は、南北戦争後の一世代を経て、レトリックとしての力を持ち始める。統計的見解は、専門家のみならず、法律家にとっても雄弁家にとってもあまりに有用な道具であった。ジョン・デューイが練り上げたプラグマティズムにはこのような時代背景があった。

デューイによれば、デモクラシーにおいて抽象概念(ハイブローな言葉)は、人間を既存の単一体に押し込めるだけで、結局は人間の個別的な悩みを何一つ解決できないのだという。彼にとっては、「行うこと」は常に「個別的な何かを行う」ことである。それゆえ、諸問題は、仮説・実験・結果にわけて個別的にみる科学的手法によって解決が可能になるのである。こうして、ローブローな言説は「科学」と結びつくことによって学問となり、公的な場で問題にしてもよい事柄になった。建国期のアメリカでまったく受け入れられなかった功利主義的な言葉使いが、南北戦争・再建期・金ピカ時代を経て公的に語ってもよいものになり始めた。

4.Empirical Political Science

アメリカ政治学において「ポリティカル・サイエンス」が発達するにはいくつかの思想的背景がある。その一つに、ドイツ観念論哲学への敵愾心がある。ウッドロー・ウイルソン曰く「ドイツ人の思考様式は邪悪である」と。彼によれば、あのドイツ観念論が国家の全能性(主権)を生み出し、第一次世界大戦を引き起こしたのだという。

しかしそもそも、抽象的な政府理論よりも、立法過程や政府機能の研究を目指す方が「正しい」のではないかというのは、アングロサクソン世界においてはなじみやすいものの考え方だったかもしれない。統計的手法は、「独逸国家学」に対抗し得る力強さがあるように思われた。

ただ国家と主権を重視せずに政治を語ることなんかできるのだろうか。というと、確かに可能で、例えばサンディカリズムがあり、ファビアン協会があった。ハロルド・ラスキは、国家主権を相対化し、多元的国家論を唱えた。彼は国家主権の絶対性を否定し、さまざまな中間団体を国家と並立すべきものとして重視した。さて、ではPublicはどう定義すればよいのだろうか。