研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

勝利したアナクロニズム(1)

2005-10-23 23:41:08 | Weblog
1760年、イギリスにおいてジョージ3世が即位した。このときのアメリカ植民地の人々の熱狂は、ちょっと滑稽なほどだった。すべての植民地議会では即位を祝す決議がなされ、すべての法廷にはジョージ3世の肖像画がはられ、すべての新聞は「賢明なる君主ジョージ3世」を熱烈に讃えた。デイヴィッド・ヒュームは、「彼らは国王をみたことがないのにねえ」と笑っている。しかし、北アメリカ大陸のすべての場所で、ジョージ3世の即位を慶ぶお祭りが毎日催されていた。その5年後に印紙税法闘争が始まり、15年後には独立が宣言されるのだから、本当に政治とは恐ろしいものだし、歴史とは本当に不思議なものだと思う。アメリカ植民地の人々は、国王が大好きだったし、イギリス人であることを誇りにしていたのだ。

基本的に北アメリカ植民地の社会は、イギリス社会を模倣したつくりになっていた。彼ら自身の社会には、イギリスにおけるような隔絶した貴族階級は存在していなかったが、それでも人々は、ジェントルマンを擬似貴族としてその発言に服し、植民地社会での出世の階梯も、結婚などの姻戚関係などが重視されていた。以前のエントリーにおけるジョン・アダムズの事例が一つの典型である。ブレイントリーの名門スミス家のアビゲイルを妻にすることで、田舎弁護士のジョンは、マサチューセッツ社会の名士となるきっかけを得た。特にニュー・イングランド社会で顕著だったのは、本国イギリスにおける有力者とのつながりであった。イングランドにおける名士とのつながりがあるということが、ニュー・イングランド地方における影響力に直結していた。また、北アメリカ植民地の各邦議会では、イギリス本国に自分たちの立場を代弁する国会議員を奉じていて、例えばエドマンド・バークなんかは、ニュー・ヨーク邦の代弁者となっていた。バークに自分たちの保護者になってほしいと依頼する手紙の恭しさは、なんとも微笑ましいものがあった。

1763年から1774年くらいまでの彼らの鬱屈の根拠は、こうしたイギリス人としての自分たちのアイデンティティが揺らいできたことに対する錯乱もあったのだと思われる。しかし、この段階までの彼らはあくまでイギリス臣民として怒っていたのである。父親に猛然とくってかかる子供みたいなもので、どのみち両者は親子だった。こう考えると、フレンチ・アンド・インディアン戦争(7年戦争)終結後のイギリス本国の判断ミスが巨大な植民地を失うことにつながったといわざるを得ないのだと思われる。

エドマンド・バークは、そもそものきっかけであった印紙税法に猛烈に反対していた。「イギリス帝国のコモン・ローはすでに160年の慣行によって確立している。彼らは、帝国の権威に服することに十分に満足しているのである。しかるに印紙税法は、こうした慣行を無視するものである。こういうことはやってはいけないのだ」と再三議会で発言している。印紙税法に対する反対闘争が激化したことで、イギリス商人たちも議会に法律の廃止を求める運動をするようになり、とうとう内閣が倒壊すると、ロッキンガム公爵を首班とする内閣が成立し、ロッキンガムの懐刀のバークが事態の収集に乗り出した。バークの案は、「印紙税法は即座に廃止する。ただし、権威の所在はあくまで国王とイギリス本国にあるということのみは確認する」というもので、「印紙税法廃止」とセットで「宣言法」を1766年に出した。「宣言法」とは、「印紙税法は、廃止するよ。だけどこれは君たちの主張を受け入れたから廃止したんじゃない。あくまでも政策的理由から廃止したんだ。帝国の法を定める権威はあくまでイギリス本国にあるということは押さえておくんだよ」という「宣言」である。だからといって、実際にその権力は行使しないことは了解ずみなわけで、ただ、最終権威の所在のみを確認しただけで、要は1763年以前の状態に戻ろうという話である。

しかし、もう遅かったのである。アメリカで成長し始めていたエリート層が政治に目覚めてしまっていた。バークのこの事態収集案は、アメリカの民衆を安心させ喜ばせたが、ジョン・アダムズは、「おい。『宣言法』ってなんだ?これは聞き捨てならんな」と言い出した。たしかにアダムズが正しいわけで、「宣言法」の内容が本当なら、今印紙税法が廃止されたところで、これから第二第三の印紙税法がいつでも生まれる可能性があるではないか。そしてそれは事実で、ロッキンガム内閣が倒れると、次の内閣ではやはり課税立法が次々と通ってしまうのである。そのたびに反対闘争が起こり、それを受けてイギリス本国は課税立法に修正を加えていくということが繰り返された。こういうやり取りをした場合、イギリスはさすがであって、まずどかんと大きく課税する。植民地人が狼狽し抵抗運動をすると、「そうかそうか」と言って、減額したり、5つの品目への間接税を4つも廃止してくれたりする。そうすると人間の心理とは面白いもので、その「寛大さ」に感謝してしまうのである。しかし、よくよく考えてみれば、もともとなかったはずの課税が着々と増えていく。要するに嬲られているわけで、横暴極まりない夫がたまに見せる優しい笑顔に、いつも殴られて怒鳴られている妻が、従順に従ってしまうような感じである。しかし、世の中、愚かな女ばかりではないことは当然で、怒り心頭に達した人々が大陸会議に参集し、本当に取り返しがつかない事態に向かっていくことになるわけである。

ここで印象深いのは、イギリス本国において最終的にアメリカの独立を容認した人々と、当のアメリカの運動家との間の意見の相違である。イギリス本国でアメリカ独立を容認した代表的人物として、デイヴィッド・ヒュームとエドマンド・バークを挙げるのが面白いと思う。トーリー史観をもつ歴史家・経験哲学者と、新ホイッグ史観をもつ保守主義者は、そろってアメリカ独立を「仕方ないなあ。独立させてやれ」と考えていた。両者はそれぞれのイギリス史観と政治観から同じ結論に達していた。一方、アメリカの革命家たちがもともと望んでいたのは、「帝国連合論」だった。すなわち、「イギリス本国と北アメリカ植民地は、同じ君主(英国王)を頂く対等なリパブリックである」というもので、「ただし、通商規制においては植民地側の政策的判断でイギリス本国の立法に同意してきた。これは160年の慣行である。ただし、植民地の内政にはイギリス本国は口を出せないし、どうしても出したい場合には、植民地からウエストミンスターに議席が与えられるべきである」というものである。そして「それを無視して課税立法するならそれは『イギリスの古来の国制』に対する侵害行為である」と主張する。