研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ベンジャミン・フランクリンの風景(2)

2005-06-29 23:37:32 | Weblog
デイヴィッド・ヒュームが、『イングランド史』(The History of England from the Invasion of Julius Caesar to the Revolution in 1688)をまとめて出版したのは1762年であった。これを2年後の1764年に手に入れて読んだ若者がいた。それは、トマス・ジェファソンである。ジェファソンは、この書をのめりこむような熱心さで読んだ後、危険な書物であるとして、以後50年にわたり、執拗にこの書への非難を繰り返している。

我々にとってヒュームといえば『人性論』を代表作とする経験論哲学の巨人であるので、同時代における『イングランド史』の衝撃は想像しづらいかもしれない。彼は、この「イングランド史』をもって当時イギリスを支配していたポール・ド・ラパンのようなホイッグ主義史観に取って代わり、英国のヒストリオグラフィーのトップランナーとなった。すなわち、トーリー史観の創始者である。彼のトーリー史観とは、第一にノルマンコンクェスト以前の時代に存在していたとされる「アングロ・サクソン・デモクラシー」と「古来の国制」という神話は実際には存在していなかったということ、第二に英国国王は古来より、その特権を擁護するのみで、その権力行使は実際には抑制的であったということ、それゆえ第三に17世紀の内戦は、王権の簒奪行為を原因に起こったのではなく、庶民による国王の特権への侵害によって起こったのだということを主張するものである。要するに、「アングロ・サクソン・デモクラシー」、「古来の国制」というホイッグがその革命の根拠とした神話の全目否定である。ホイッグにおいて、「革命」とは、「本来のあるべき姿」に立ち返る行為である。それゆえ、「本来我々はこうであった」という過去が必要である。国王の暴政にたいして、本来の「イギリス人の自由」を回復する行為こそ「名誉革命」であった。しかしながらヒュームは、その過去の神話を否定したのである。これは、ジェファソンやアダムズのような、アメリカン・ホイッグにとっても無視しえない問題であった。無視しえないというのは政治的に無視しえないということである(彼らは、個人としてはヒュームの『イングランド史』に魅了されていた)。これは、アメリカ革命の正当化根拠にとって危険だったのである。ヒュームの『イングランド史』が出版されたのは、1764年だが、これはフレンチ・アンド・インディアン戦争(ヨーロッパにおいては七年戦争)が終了した翌年であり、英国議会がアメリカへの「印紙税法」を可決した前年である。そして、この印紙税法こそは「イギリス人の自由」への最初の侵害行為として、アメリカ革命のきっかけとなったものである。アメリカン・ホイッグたちは、実に英国国制の原則にもとづいてイギリス本国に抵抗運動を行ったのであった。ところが、ヒュームの言うとおりだとすると、そもそも「イギリス人の自由」なるものは過去に存在していたわけではなく、文明の進歩とともに次第に形成されやものにすぎなくなってしまう。彼らの考える「古来より存在している英国国制」なるものは、フィクションになってしまうのである。

革命家としてのアダムズやジェファソンが、ヒュームの歴史をどれほど恐れていたかということは、すでに両者が大統領職を退いた晩年の書簡においてまで、この問題についてのやり取りをしていることからもうかがわれる。1816年11月25日のジェファソンからのアダムズへの手紙には次のようにある。

  「この書物(『イングランド史』)は、かの国の愛国者たちがうらやむ巨大な常備軍よりも
英国国制の自由の原則を奪っていくものです」

 これにたいしてアダムズは、1816年12月12日の手紙で次のように応える。

  「その歴史は、トーリーを増やし、ホイッグを減少させるものです。・・・それは1688年の
革命(名誉革命)の最もよき効果の多くを破壊するものです」

名誉革命の結果強化された英国議会主権にたいして戦いを挑み、勝利し、独立国家アメリカ合衆国の大統領職を務めた二人が交わした会話だと考えるとき、これは実に興味深い。彼ら、あるいはアメリカ革命の人々の世界観が実に古典的な英国理解にもとづいていたことが分かる。つまり、彼らは新大陸の新たな人々というよりも型の古いイギリス人のようである。

ベンジャミン・フランクリンが、ぎりぎりまでアメリカの独立に躊躇していたことはすでに述べた。この躊躇の理由は、もちろん実にさまざまなわけだが、たくさんあった理由の一つに、どうやら、フランクリンがこのヒュームの歴史観に魅了されていたということもありそうなのである。実際、フランクリンは、アダム・スミスをはじめとするスコットランド啓蒙の人々と仲がよく、例えばアダム・スミスとは、ロンドンのカフェでともに『道徳情操論』を語り合うほどの間柄であった。特にヒュームはフランクリンを尊敬し、もともとトーリーとしてアメリカの独立運動に漠然とした批判的見解をもっていた彼は、フランクリンへの好意からアメリカに同情的となっていた。アダムズやジェファソンは、その政治的立場から、ヒュームへの敵愾心をもっていたが、フランクリンときたら自分の政治的立場も考慮せずヒュームを賞賛するのだから、アダムズなどはフランクリンの言動にしばしば苦虫を噛み潰すような顔をしていたという。

ヒュームの『イングランド史』とは、要するに、イギリスがブリュアの言う「財政・軍事国家」に脱皮する歴史的必然性を論証していたと考えられる。イギリスは名誉革命以降、ウォルポールの時代を経て、財政・軍事国家を形成し始めていたが、こうした歴史的経緯のなかにいなかった北米植民地の紳士たちは、古典的英国国制の世界に生きていた。両者の世界観の違いが露見したのが、1763年のフレンチ・アンド・インディアン戦争終結以降なのである。

フランクリンに政治家としての資質が欠けているとしたら、それはヒュームの歴史観が理解できてしまったことであろう。この柔軟な知性をもっていた老人は、ヨーロッパに起こっていた新たな動向が理解できたのである。しかしながら、こうした柔軟性というのは、時として「軽薄さ」と感じられる場合が、特に政治的領域においては多い。政治家の力の源泉とは土着性である。しかしながら、フランクリンは国際的であり、柔軟でありすぎた。「アメリカ建国の父たち」のなかで、際立って年長であったフランクリンを他の若い建国者たちは、少々もてあまし、やや不快の念をもって眺めていた形跡がある。

こうして、イギリス帝国辺境の新大陸において、当のイギリス自身が卒業していたイギリスのもっとも古典的な政治思想が温存され、その古い理念がアメリカ革命のエネルギーになっていったというのは、歴史の逆説として非常に面白い。

1 コメント

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Unknown (みんなのプロフィール)
2005-07-01 12:45:57
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