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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■5人目の・・・

2016年03月15日 | その他
ビートルズといえば、「5人目のビートルズ」という言い方がよくある。
たいがいは、初期メンバーでベース担当だった「スチュ」、つまり「スチュアート・サトクリフ」のことだったり、リンゴの前にドラマーをやっていた「ピート・ベスト」、または名マネージャーだった「ブライアン・エプスタイン」のことをいうことが多い。
ま、多かれ少なかれ、バンドというのはそうやっていろんな人が関わりあったりして歴史をつくっていくわけだけど。


ブランアン・エプスタイン。
この人がマネージャーに名乗り出なかったら、ビートルズはどうなっていたか・・・。
まだ社会的認知のなかった60年代にゲイであることを認め、センセーショナルな種もまいたこともあるが、最終的に解散に至ったのも、きっと彼がいなくなってしまったことも遠因しているだろう。



関係ないけれど、我が「Gender Tunjuk」も4台のグンデルに対し5人が通常メンバーだ(正式にいうなら休部メンバーも入れると6人だけど)。いつも入れ替わりながら演奏やクテンコンをこなしている。
我々の場合、5人というのは、誰かが参加できないときの5人ではなく、5人でGender Tunjukなのだ。そうやって歴史はつくられていく。とか言っちゃって。


で、ま、話を戻すと、もともと優秀な画家の卵であったスチュは、ステージでもほぼ後ろを向いている写真が多い。これはポールに言わせれば、もともとミュージシャンには向いてなく、写真を撮られたりすると緊張して演奏をトチる可能性があるので、そういうときは後ろを向いているようにと助言したそうだ。
だからだろうか、最初のハンブルグ巡業(計三回の巡業に行っている)の際にクラウス・フォアマンに紹介されたカメラマン志望の女学生「アストリッド・キルヒャー」と恋に落ちそのまま婚約。二度目の巡業の際には早々脱退してしまった。
その後、ビートルズがメジャーデビューする直前、脳出血で急逝しているので、彼はビートルズの栄光をみることはなかった。ま、そういう悲運なというか、繊細な性格と運命だったんだろう。

ちなみに、初期ビートルズの代名詞であるマッシュルームカットは、アストリッドがスチュのために編み出したヘアスタイルである。
アストリッドはその後もいろいろビートルズとは関わりをもち、写真もたくさん残している優秀なアーティストだった。


スチュとアストリッド。
スチュはルックスも抜群で、もともとジョンの大親友。ポールはよくヤキモチを焼いたそうだ。


一方、ピートはいまも健在でその後もミュージシャンとして活動していった。しかし当時は、いかんせん、プロデューサーのジョージ・マーティンにダメだしをくらったドラマーだった。つまり、ビートルズをデビューさせたいならドラマーを換えろ、というわけである。メンバーにとってはなかなか厳しい選択だったことだろう。
そんなこんなで名誉と億万長者を逃したピートはいまでも悔しさを秘めている。

そこで無理矢理頼まれて加わったのが「リンゴ・スター」だったのである。
当時のリンゴは、リヴァプール一のバンドの押しも押されぬドラマーで、ジョンと同じ年であったが、少し早く生まれていたのもあってか、ビートルズは下に見られていた。ま、しょうがないから手伝ってやるかという感じである。
でも手伝ってよかったね、その後のああいう体験は普通ならできるもんじゃない。


ピート・ベスト。運命の分かれ道、彼もよくよく可哀想な境遇だ。


そんな経緯もあって、ともかく「ビートルズの5人目」は何人もいる。どこから見るかで違うだろうし、それにその5人目にビートルズは支えられてきたのだともいえる。
けれど、こと音楽的なことをいうなら、やっぱり「5人目のビートルズ」といえば「ジョージ・マーティン」だといつもおもうのである。

もともとは彼はクラシック系の出身で、EMIでもクラシック系の冗談音楽なんかをプロデュースしていた人物だが、最初にビートルズを見いだし、世に送り出したのは彼である。彼がオーディションしてくれなかったら、ビートルズは世に出たかどうかもわからない。
最初はビートルズのために他の人が書いた楽曲も用意していたらしいが、オリジナルにこだわるメンバーの強い希望で二枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を倍のアップテンポにさせ最初のチャート1位を生み出したのも彼である。


ビートルズ現役中のジョージ・マーティン。
彼らとの共同作業は、毎日が新しいことずくめだったと回想していた。
いろんな意味で、変化の大きな時代だったんだろう。


その後も「レット・イット・ビー」以外のビートルズのほぼ全部の選曲とアレンジとプロデュースを携わっていった。何曲かは自身のピアノでレコーディングにも加わったから、そういう意味では演奏者でもある。
ジョンやポールにピアノを教えたのも、コード進行や録音効果を教えたのも、メンバーの生み出すイメージを音にしてあげていったのも彼である。
「イエスタデイ」でストリングスを入れたのも、ポールの要望に応えて「ペニー・レイン」でピッコロ・トランペットを招いたのも、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」でオケをアレンジしたのも彼なのである。
そういう彼がプロデューサー兼アレンジャーだったからかはわからないけど、ビートルズの曲は古くならない、といつもおもう。

他にも、ポールが独立してから、007シリーズ「リヴ・アンド・レット・ダイ」の音楽を依頼されたときも、さすがに007ということで、ちょっとビビったポールは最後には結局マーティンに頼った。で、生まれたのがあの曲である。
ちょうど中学生の頃、ポールが音楽をやったというので早速その映画を観に行ったが、これ、もしかしたらジョージ・マーティン?とふとおもったのを鮮明に覚えている。当たっていたから覚えているのかもしれないけど。
他にも挙げたら切りがない。


そのジョージ・マーティンも先週亡くなった。享年90歳だったそうだ。
ジョンのときもジョージのときもショックだったが、かみさんからこの一報を聞いたときは、平生を装いつつ内心かなりショックだった。
それでというわけではないが、この日曜は久々にビートルズ三昧。CDを聴いたりDVDを観たりした。
ついでにジョージ・ハリソンの持っていなかったCD「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」(DVD付)も買ってしまった。映像はなかなかいいですよ。

ポールはすごいな、とおもう頃もあったし、やっぱりジョンだろう、とおもうときもあったし、でもやっぱリンゴのドラムスこそビートルズには絶妙だ、というときもあったが、だんだん年齢を重ねていくと、やっぱり「ジョージは深い」ということに気がついていく。

そういう意味で、ビートルズはまだまだ聴ききれていないのかもしれない・・・この際、もう少し、きちんと聴いてみよう。
そして、その影にはいつも「5人目のビートルズ」、ジョージ・マーティンがいたことを忍んで。(は/217)


晩年のジョージ・マーティン。いまではすでにヒストリーだ。


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