玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■桜の森の満開の下

2015年03月31日 | その他

事務所の近所の公園の桜。母子が賑やかに遊んでいた。

今年も無事、桜が満開になった。

奈良時代までは、「花」といえば「梅」のことを指していた。
桜もあったらしいが、桜は、特段日本原産ではない。むしろ日本にとっては外来種だ。民俗学上は、豊穣を意味する田の神を卜占するアイテムのひとつだったから、要するに、桜が咲けばお祭りをしたのだ。
サクラとは、普通、「咲く」・「ら」である。「ら」は等などに通じる群を表す語なので、「咲くものたち」のようなニュアンスだろうか。「咲く」というものを代表する樹ということであろう。
一方で、吉凶を託すとすれば、「サ」・「クラ」という説も昔から根強い人気がある。
「サ」は田や穀物なども隠喩するというし、サ神信仰も昔からある。サケやサカナのサも同じ。サガミやサイワイのサも同じである。祭りや神事の用語などでよく出て来る「サ」という響きはそういう昔から神聖な音だったのだ。「クラ」はもちろん、座、神の台座だ。
華やかさと神秘さを持っていて、季節のシンボルにもなっていったから、日本人には馴染みやすかったんだろう。
それもあって、平安を少し過ぎた頃になると「花」といえば「桜」になっていく。日本史に詳しい人なら知っているとおもうけど、桜好きであった嵯峨天皇が境目だ。



吉野山の桜。山桜なので色々だ。

まあ、そうやって、世に、桜の名所とか、有名桜とかもできるわけだけれど、その後の桜には、どうも死の匂いがつきまとう。
だいたい桜の名所には古戦場が多い。というか、古戦場の鎮魂のために日本人は桜を植え続けてきたのではないかとすらおもう。東京の開花宣言の基準になる桜も靖国神社の桜だし。
だから、桜は血を吸ってほのかに赤みがさすなどといわれてもいた。
そうした精神性を明らかにしたのは、本居宣長である。「無常観」に加え、日本相伝の「もののあはれ」をかぶせたからだ。それ以来、ず~っと、日本人は、桜に独特の記憶と想いを寄せてきたのだ。
それに、学校や公共施設などにはよく植えられてきたので、日本人としては、どうも、人生の節目には桜と出会うことになってしまった。通過儀礼の付き物のようなものだ。
東大に合格すれば「サクラサク」、落ちれば「サクラチル」だ。昔、地方からおいそれと上京できなかった学生のための電報サービスがそれだ。



高尾にある多摩森林科学園の桜。日本にある全種類があるそうだ。

以前、農水省管轄の桜の研究施設が高尾にあり行ったことがある。誰でも入れるので、ぜひどうぞ。
そこには、日本にある桜の種類が全部あるという。だから、2ヶ月近くに渡って、さまざまな桜を楽しむことができる。
面白かったのは、「アメリカ」という名前のついた品種。これは一旦、ワシントンに渡った桜が改良され、逆輸入されたものだという。アメリカ??
まあね、創作の可能性が高いとされるが、ジョージ・ワシントンも桜の枝を折ったらしいし、きっと昔からあったのだ。

ついでに、ひとつ思い出したことがある。
以前、ダラン所有のアンクルンお披露目公演もやった白川郷の仕事をしているとき、郷内の御母衣ダムの際に「荘川桜」という古木桜があって、多くの観光客で賑わっていたのを見せてもらったことがある。
地元の人に教えてもらったその桜のいわれはだいたいこうだ。
高度経済成長を支える電源を確保するため、この地にダム建設が決定した。住民の反対と無事和解できたのは、電源開発総裁の高橋達之助の熱意によるものだった。涙の握手だったそうだ。
和解のその日、ダム底に水没する村にあった樹齢400年を越える桜の大木を見つけた高橋は、これをなんとか救いたいと考えた。
しかし桜は繊細で最も移植の難しい種。老木となればもっと難しい。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と昔から言われている。
さまざまな専門家が知恵を絞り、言い合いながら、ダムにもましてこの難事業は始まったそうだ。
大きなダムの小さなこだわり。この命のリレーが、ダムに沈む村人たちの気持ちを結びつけたという。
なんとか運び上げたものの、問題は、豪雪の冬を越せるのか・・・。春、無事、桜の老木は生き残った。
いまでは毎年見事な花を咲かせ、多くの人々のよりどころになっているという話。
昭和だ。けど、地元の精神的シンボルになっている。
詳細を忘れていたので、ちょっと調べてみたら、これに詳しかった。

http://www.sakura.jpower.co.jp/story/sto00100.html


庄川桜。いまでも多くの人が集まって来るという。


ま、そうこうして、よく今年の桜は早いとか遅いとか、これも温暖化の影響か、などとニュースになったりして、春になれば桜が咲く、と、みんな普通におもっている。
でも、時計をもっているわけでもスマホで話したり打合せしているわけでもないのに、地域ごとに、いっせいに咲きだすことの方が実は「自然の奇跡」というか、不思議だ。
実はこれにははっきりとした理由がある。それはほとんどの桜がソメイヨシノだからだ(またカタカナだ)。
上記のごとく、ソメイヨシノ以外の桜を想像すればわかる通り、全部咲くタイミングは違う。だから、桜が一斉に咲いているわけではなく、ソメイヨシノが一斉に咲いているのだ。
では、なぜ、ソメイヨシノはそんなに一斉に咲くことができるのか。
それは、ソメイヨシノが種子高配ではなく接ぎ木で増やすためだ。つまり彼らは子孫を残さない。要するに同一遺伝子の存在なのだ。ま、早い話が、彼らは親子でも親戚でも兄弟でもなく、日本中、全部自分自身ということ。わっかるかなぁ~。
想像してみてください。なら、こんなに息が合ったものはない。なにせ自分しかいないわけで・・・。
でも、そういう風にいうと、何かソメイヨシノも哲学的だ。
で、なぜ、全国に広まったかというと、それは成長が早いから。案外単純だ。


かの西行も桜好きで知られている。有名過ぎるけれど、これ。

  願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

「きららぎの望月」とは2月15日、つまりお釈迦様の入滅の日のことである。
私も桜の季節に生まれたので、できれば桜の季節に往生したいとおもっている。
「桜の森の満開の下」、坂口安吾のエンディングの描写は、実に映像的で狂おしかった。(は)

■花の名前

2015年03月30日 | その他

昨日の我が家の隣の桜並木。たった一日で随分咲いた。すごいね。

花の名前を覚えるのは昔から苦手だった。そりゃ、ま、誰でも知っているような花や植物はわかるけれど、ちょっと見ただけでは、どうしてか判別がつかない。
我が家のベランダでも、いま、数種類の植物が花をつけていて、季節になれば、虫も来るし鳥も来る。
毎日かみさんに、「ほら、○○の花が咲いたよ」などと言われても、そのときは「ああ、うん、そうね」とか言っているけど、数分後には記憶が飛んでいる。
要は、そういうときは思考停止しているのかも。幼い頃に何かあったかな・・・とおもっても、父親が毎年数十本の菊の花をさかせるのを自慢していたことくらいで、とんと記憶にない。多分、それ以外、縁がなかったのだ、きっと。
そうでなかったなら、いま頃はきっと、いとうせいこうのように「植物ベランダー」だ。


ともあれ、名前を知らないということは、名前がないと同じこと、曖昧で抽象的なものになる。
道路も五日市街道とか、名前が付いているから、実態化する。名前がない道は、単に「道」だ。ストラーダだ(あ、そうだ、関係ないけど、(の)ちゃん、フェデリコ・フェリーニの「道」はやっぱり名作だ、観てなかったらぜひ観たらいいよ)。


ザンパノが来たよ!と叫ぶジョルソミーナがなんともいい。

民族学者のミルチャ・エリアーデは、カリブ海だかどこかの原住民のことを記述したなかで、名前を付けることで視覚的にも実態化する、と書いていた。そう、名前がないものは「見えない」から「ない」にも等しいのだ。
それは言語にも反映される。
僕の従兄弟は、アラビア語の研究者で、通常、アラビア語には「らくだ」という言葉はないそうだ。厳密にはもちろんあるらしいけど。つまり、老いたらくだとか、メスとかオスとか、痩せたらくだとか、二つこぶのらくだとか、そういう区別の言葉はたくさんある、けど、みたいな。
ということは、要するに、頻度の高い身近で大切なものほど、言葉が細かく分岐しているということだ。
日本はほとんど「らくだ」とは関係ない社会なので、「らくだ」という言葉がひとつあれば済んでしまうということ。
ま、確かに、かつての日本では、細くても太くても全部スパゲッティだった。イタリアでは、カッペリーニとかフィットチーネとか、もっと細かく名前がついている。イタメシが増えるに従って日本でも細かく言うようになったけど。
一昨日の話じゃないけど、薔薇だって、イングリッシュローズだけで百種類以上あるというし、それぞれにみんな名前がついているんだね、きっと。ともかくイギリス人は紅茶と薔薇が好きなようだ。
とくに六月がいいらしい。よくジューンブライドっていうけれど、ま、ヨーロッパでは雨も少なくとてもいい季節で、一通りの農作業も終わって、結婚には一番いい季節なわけです。六月に結婚とか考えている人、日本はいい季節とはいえないのでは?




古代から日本では、名前を呼ばれることは、支配を受けることとイコールだった。だから支配されないためには、本名=諱を隠すし、偉い人の名前は読んではいけないのだ。
こういうのを民俗学では「実名敬避俗」という。
天皇の実名をいうようになったのは、戦後の「ヒロヒト」からだ。それまでは、見ることも憚られるし、まして名前を呼ぶなどもってのほかだった。
だから、商売の女性や芸能人には、源氏名や芸名があるし、作家にはペンネームがある。仮想以外の支配を受けないためだ。
し、目上の人の名前を呼ぶことは失礼に当たる。だからみんな、社長とか部長とか役職で呼ぶのだ。お父さんとかおじさんもそうね。妹や弟は名前で呼ぶのに、お兄さんは、お兄さんだし、かわいいペットや愛玩物には名前を付ける。

ま、日本では、名前とはそれくらい呪術性の裡にあったということである。一種の言霊信仰である。
フランケンシュタインの怪物にも名前はない。名前を付けていれば状況は変わったかもしれないのにね。
ともかく、私は、植物や花の名前を覚えられないので、怪物の初期段階に近い、曖昧で、ただきれいとかいいにおいというだけのインターフェイスなのだ。
だいたい、最近の花や植物にはカタカナが多すぎる。
桜や梅や紫陽花や菫や夜来香とか書いてくれれば情緒もあるし、わかりやすいのに、ヒヤシンスとかキンモクセイとか、クシナダヒメが入っていてもきっと気がつかない。漢字にできそうなのにカタカナにしているからわかりにくいのだ。


そもそも、「花とは、その植物の生殖器である。人は生殖器を見て喜んでいる」、とは、かの三木成夫先生の言である。たしかに、この先生、ある種の変人だけれど、私は変人はきらいではない。
三木先生はもともと解剖学者であるが、芸大でゲーテの形態学も研究していた人。「胎児の世界」という名著があって、胎児は、数億年の生命の歴史を辿りながら成長する、ということを明言した人である。
だから妊娠まもない胎児は、魚のような形をしているし、羊水は海の成分と一緒だという。早産の子供はヨーロッパ人でもモンゴル系の顔をしていて、そういう病名までついている。
でまた、その赤ん坊は、お母さんのお腹からねじれながら出てくるそうですね。人体は、脳も消化器系も耳もへその緒お全部「ねじれ式」だそうだ。排卵は月の公転と同一だから、女性は宇宙の動きを身体で知っている、とか、いろいろそういうことを言っていた・・・。
ま、それはそうですが。植物をそんな風に観たのでは、身も蓋もない。花は昆虫や動物たちを惹き付けるために色や形を進化させたわけで、生物界の大恩人です。




と、なんだかんだ今日もずらずら書いてしまったけど、ともかく、私は花にはどうも単純な接し方しかできないようだ。
なにか弱い立場のときに、ときどきかみさんに買っていく花も、チューリップ(たまたま新潟の県花だから知っているとしかおもえない)とか、ゆりとか、そういうわかりやすい子供っぽいものになってしまって、申し訳ない、といつもおもう。
でも、そういうものを文句もいわず、受け取ってくれるのだからありがたい。女性は花が好きだね。

ともあれ、春になって花が咲くのをみるのはやっぱり和む。どんな花でも春を告げている。北海道とかはまだまだだろうけど。昨日もダランの実家の裏庭に春の花が咲いていた・・・名前は知らないけれど。
やっぱりここでも「」庭(には)縁がある(つまんないオチ)・・・。

最後に、かつての公共広告でこういうのがあった。

「花には水を、妻には愛を」。

今日もそろそろ家に帰る時間のようだ。(は)


■薔薇の名前

2015年03月28日 | その他
「薔薇」といえば、日本ではゲイのことである。女性の場合は「百合」だ。これはもともと60年代末、三島由紀夫の「血と薔薇」という雑誌からきていて、古代ギリシャで、男性同士は薔薇の木の下で愛を交わしたことの由来があると聞いたことがある。
その後、「薔薇族」というそういう趣味の雑誌が出たけど、彼らの書く物語は「やおい」などといわれていた。「やおい」とは、「やま」も「おち」も「いみ」もないストーリーだからだ。学生時代、お前の設計は「やおい」だな、とか言い合っていた。変な人たち。
あ、誤解ないように、私はそれ、ではありませんので。念のため。


 

ところで、「薔薇の名前」といえば、ご存知ウンベルト・エーコの同名小説が有名である。映画にもなった。
でも、このお話、なかなか奥深くて、ナンカイ読んでも難解だ!??
ストーリー展開はそう難しくはない。物語は、老僧メルクのアドソが若い頃を回想するという設定で、時は14世紀、ウィリアムという修道士が「清貧」を巡る宗教的論争に決着をつけるため、あるベネディクト修道院に教皇庁とフランシスコ修道会の代表団を集めて話し合いをもつ、という一週間の展開を描いているだけだ。
その間、いろいろ複雑な殺人事件などもおき、その原因を調べるうちに、書物のなかに教義にや隠匿にも関係する重要な手がかりを見つけるが・・・、という推理小説仕立ての物語である。

フランシスコ修道会とは、我が家でのいつか必ず行こうと約束しているアッシジの聖フランチェスコに始まる清貧と無所有を旨とする修道会である。ウィリアムもこの会の修道士で、「オッカムのカミソリ」で知られるオッカムのウィリアムがモデルだといわれている。
オッカムは神と理性や科学は矛盾しないとする合理性の持ち主であり、「オッカムのカミソリ」とは、簡単にいうと真理は単純なほど正しい、という考えを示すものである。


イタリア、アッシジの聖フランチェスコ修道院。
ある時間になると、周囲から無数に鳩が集まって中に入っていくそうだ。幻想的だ。
アシンメトリーな建築が珍しい。東洋の影響を指摘する人もいるが果たしてどうか・・・。


たとえば、我が家でもたぶん「101回」は観たであろうジョディ・フォスター主演の「コンタクト」という映画がある。この原作は、アポロ計画を率いたカール・セーガンであるが、お話のなかで、合理主義で実証主義の科学者エリーが、一時慰めあった宗教学者パーマーとの会話で出てくる。
物語はいつもこの二人に代弁される科学と宗教のなかで生きる人間の真理と矛盾を交互に繰り返していく。

 エ「「オッカムのカミソリって知ってる?「単純な説明ほど正しい」・・・
   神は宇宙を創造したが自己の存在証明は放棄した。
   あるいはもともと存在しない神を拠り所を求めた人間がつくり出した。
   どちらが単純?」
 パ「でも、神のいない世界は僕には考えられない。」
 エ「私は証拠のないものは信じられないし、宗教なんて思い込みでは?」
 パ「君は父親を愛していた?」
 エ「ええ、もちろん、心から。」
 パ「証拠は?」
 エ「・・・・・」




いずれにしても、この「清貧」とは何か、ということはなかなか難しい。貧困や貧しいということとは違うし、普通の世界の生活者では体得できない境地をいう。
これについては、今年になって「いと高き貧しさ」という本をざっと読んでみたけれど、中世には、すでに厳密なルール化が進み、ルールを守ることがだけがルールになっていった感がある。
いつだかの「グランド・シャルトルーズ修道院」とかの映画でも、厳密なものは規則であった。これについては、結構根深い問題もあるので、またいずれ。
これ以上、この話をするとまた長くなるので、今日はなし(もう長くなっているけど)。





ところで当時、印刷技術がない時代。すべての書物は書き写されていた。日本でもそうだけど。聖書はおもにこうした修道院の写本室で黙々と写されていたわけで、その描写が見事で美しかった。
また、本を読むとは、イコール音読であり、いまでも神父の説教やお坊さんの読経などがそうであるように、声と一緒なのが読書であったのだ。だから声も響くようになる。
その後、グーテンベルクの時代、世界で最初に印刷されたのは「聖書」であった。それで多くの人たちが読む機会に恵まれ、「聖書に戻ろう」(=後のプロテスタント)が起こり、教皇の時代は終わることになる。
メディアの発達と世の中の進歩は密接だ。




で、何が難解か、というと、その時代背景と、作品中に巧妙に仕込まれた暗号の意味を読み解く作業が謎掛け的に連鎖しているところである。
主題が中世の書物に隠されているというあたりがまた、トマス・ピンチョンやボルヘスのように迷宮構造なのだ(ピンチョンの新訳が出たけど・・・まだ買ってないけど密かに楽しみにしている)。書物はいつの時代でも、隠された記号であり、そのリテーリングこそ、後世の人間の知恵なのだ。
だから、いまでも勘違いしている箇所やわからないで通り過ぎている部分はたくさんあるとおもう。

だいたい、タイトルにしてからがそうだ。「薔薇の名前」の「薔薇」とは何か、「名前」とは何か・・・一度も出てこない。
表面的には、アドソが人生に一度だけ愛し合った隠された女性のことを指す、というのが一般的である。
でも、話はそう簡単ではない。
オッカムのウィリアムは唯名論者で、ま、簡単にいうと「実在」とは「事物」のことであり「名前」は単にそれを示すものにすぎないとする考えであったことが理由とおもわれるが、名前そのものに本質はないとするかのごとくの謎めいたエンディングでもある。
アドソの元恋人は、「薔薇という名前」の観念なのか、「実在」だったのか・・・。信仰や神の名前は実在か観念か、その肉体や精神は・・・。なんだか神学も論理学的で面倒だ。こういうのはオースリア人かドイツ人あたりに任せよう。


そもそも何の話をしたかったというと、「薔薇の名前」とかけて、「花の名前」の話をしたかったのに・・・。
バリネタも入れるの忘れた。でも、バリに薔薇はあるんだっけ?
長くなったので、つづきはまた次回。(は)



今朝の我が家の隣の道。
桜で有名な道路だけど、まだ3分かな・・・。

■しゃべるねこ

2015年03月28日 | その他
世の中には、しゃべる猫がいるらしい、と教えてもらったけど・・・。



それとも、ソラミミねこ? 飼い主の贔屓目?
う~ん、ま、この飼い主、ちょっと友人にはいないタイプね。(は)

■Who am I ?-フランケンシュタイン幻想(2)

2015年03月27日 | 本のはなし


一昨日のつづき。
この本、三巻組の構成になっている(これも三だ)。
別段、恐怖小説ではない。むしろいろいろ考えさせられる。
わかっているとおもうけど、フランケンシュタインというのは、怪物の名前ではない。怪物を生み出した科学者の名前である。ヴィクター・フランケンシュタインという。

そもそもこの本は、北極探検を目指して船を進める科学者のウォルトンという男が姉にあてた手紙という形式になっている。
ウォルトンが偶然助けた男ヴィクターが、科学のために犠牲もやむなしという信念をもつウォルトンを戒めるために語った自らの体験談こそが、この怪物の物語なのである。


第一巻は、ヴィクターが怪物をつくりだしてしまった経緯にあてられている。ま、「怪物の創造」である。
ざっと展開はこんな感じ。

ジュネーヴ屈指の名家の御曹司として何不自由なく育てられたヴィクターは、ドイツの大学で化学の可能性に開花、若くして飛び抜けた才能を発揮する。
そこで目覚めた名誉欲がモチベーションとなって、あろうことか自室で密かに「生命の創造」という神をも恐れぬ悪徳的行為に没頭する。ついに生み出された命は、果たして、この世の物とはおもえない醜い怪物の様相をもつものだった。
ヴィクターは、悩んだ挙げ句、彼を置き去りにして、逃げてしまう。

その後、ヴィクターの周辺には世にも恐ろしい出来事が起こる。幼い弟ウィリアムが殺され、善良を絵に描いたような少女ジャスティーヌが犯人とされ、無実の罪で処刑されてしまう。
ヴィクターだけが真犯人を知って苦悩する。
怒りに燃えるヴィクターは、アルプス山中に怪物を探し当てるが、逆に、怪物からここまでに至るみじめで孤独な自らの苦悩を聞かされる。
それが第二巻の内容、「怪物からの告白」である。


「おまえがおれをつくったんだぞ。ならばおれはアダムのはずじゃないか。なのにおれは悪いことをする前から楽園を追いやられた堕天使だ。おれにも優しさや善良さがあったのに、のけ者にされたみじめさがおれを悪魔に変えたのだ。おれは独りきりで、みじめなほど孤独だ。おれは命乞いをしているのではない。ただ話を聞いてほしいのだ。」


ミルトンの失楽園初版本表紙。
メアリー・シェリーはこれを何度も読んでいたらしい。


そこで始まる怪物の告白では、生まれたとき、目が覚めると暗く、寒く、怯えていたそうだ。たがて目が見え、耳が聞こえ、感覚がだんだんはっきりしてくると、月や太陽、鳥のさえずりやたき火をみて、自然や環境というものを次第に理解していく。すでに理性があるのだ。
野をさまよい、森に入り、水面に写る自分を見たときの衝撃は凄まじい絶望感だった。
ある村では、何もしていないのに、子供は悲鳴をあげ、女は気絶し、男たちからは石や棒で叩かれた。
以来、彼は人前には出ず、森をさまよいつづけた挙げ句、たどり着いた一軒の農家の小屋に隠れて、その家の暮らしを観察しはじめる。
その家は、ド・セラーという盲目の老人、フェリックスとアガサの兄妹の三人暮らし。貧しいながら、暖かい家庭というものに初めて接し、悲願にも似た憧れをいだく。怪物は、気づかれないように一家を陰ながら助けてあげてもいた。
あるときは、老人の弾くギターとアガサの歌に涙する。この気持ちは何だ。怪物は音楽や芸術も愛せるだけの感受性も芽生えていたのだ。

怪物は、そこで言葉も文字も歴史も学ぶこととなる。知性も理性も優しさもある。ただおぞましく醜いだけなのだ。
「人間というものは、それほど強くて高潔で素晴らしい者でありながら、同時になぜどこまでも悪辣で卑怯な存在なのか。どうして仲間を殺すのか。どうして法律や政治が必要なのか。」
「財産というものは分配されるものであるのに、巨万の富をもつものもいればみじめな貧困にあえぐものもいる。」
と、人間というものに対し、凄まじい嫌悪感にも襲われたりもする。

そして、自分が着ていたヴィクターの服のなかにあった彼の日記を読んでしまうのだ。そこには、実験から自分が生まれるまでの細かい経緯が書かれていた。
彼にとってヴィクターは憎むべき相手であると同時に自分を生んでくれた創造主でもあるという複雑な感情を芽生えさせる・・・。
自分にも愛がほしい。家族がほしい。自分は孤独だ・・・唯一その存在を知っているのはこの世でヴィクターだけなのだ。

次第に怪物は、この一家と友人になりたいというおもいが募っていき、ついに老人が独りになったのを見計らって、家を訪ねることにした。
目の見えない老人は、彼を暖かく向かい入れ、話を聞いてくれた。
怪物が言う。「私は善良な生き方をしてきました。人に危害を加えたこともなければ迷惑をかけたこともない。ささやかながら人助けをしたこともあります。それでもどうしようもない偏見が眼を曇らせ、おぞましい怪物にされてしまいます。」
老人は言う。「私は眼が見えないのであなたの顔はわかりませんが、それでもお話をうかがっているとなんとなしに実直だとおもわせるものを感じる。」
暖かい励ましの言葉をかけつづける盲目の老人に対し、怪物は心を動かされる。
「あなたは恩人です。これまでに巡り会った、たったひとりの恩人です。ご恩は一生忘れません。」
だが、そこへ、フェリックスたちが戻って来て、たちまち、暴力をふるわれ追い出されてしまう。
老人が最後に叫んぶ。「いったいあなたはどなたなのだ!」

淡い希望も打ち拉がれた怪物は、また森を彷徨い。そこで決定的な出来事が起きてしまう。
川で溺れかけている少女を必至で助けたときのことだ。意識を失っていた少女に声をかけようとしたとき、少女の父親がそれを発見し、人殺しの怪物め、と銃を撃ってきたのだ。
怪物は大きな傷を身体にも心にも受けた。これで彼の最後の良心は壊れてしまった。


映画でも少女と出会うシーンだけはホッとする。後が怖いが。

そこまで語った怪物は、最後に、ヴィクターでなければできない頼み事をする。それは自分の伴侶を作ってほしいというきわめてシンプルで困難なものだった。そうすれば、お前に関わることも、人前にも二度と現れない。
それが彼が到達した唯一の解決策だったのだ。


そして第三巻。しぶしぶ伴侶づくりを承諾したヴィクターは、スコットランドの最北端の漁村の小さな小屋でそれを開始する。
しかし、完成直前になって、新たに生み出した彼女を突然切り刻んでしまう。葛藤の末の行為であった。
その瞬間、窓の外に現れた怪物は、絶望に声をあげ、「覚えておけ、お前の婚礼の夜に必ず会いに行くからな」、という名台詞を残して去って行く。
翌日、ヴィクターは、親友クラーヴァルが死に、自身が犯人にされたことを知る。

それでもなおヴィクターは、幼い頃からの最愛の人エリザベスと結婚する。しかし、新婚旅行の最初の夜に、彼女の最後の悲鳴を聞くことになる。約束通りやってきた怪物はエリザベスを殺したのだ。
もうヴィクターには守るものも人生もすでにない。怪物を殺すことだけを目指して、ついに北極近くまで来てしまったのだ。で、冒頭に戻る。
果たして、ヴィクターと怪物の運命は・・・。


あまり知られていないが、この本の副題は「あるいは現代のプロメティウス」という。
プロメティウスとは、ギリシャ神話の人間を創造した男神、人類に火を与えたた神でもある。火は知恵ともとれるので、原発もよく「プロメティウスの火」などといわれることもある。
「失楽園」といい、プロメティウスといい、メアリー・シェリーのテーマは、ある種の畏れでもあったかもしれない。

怪物には名前がない。もちろん、戸籍も住所も証明書もない。孤独とはいったい何だろう・・・。
自らが起こしてしまったことが原因で不幸のどん底に堕ちたヴィクターと、自分のせいではないのにあらゆる苦悩と負の感情を植え付けられた怪物とのやり場の無い対比がある。
そして怪物は、決してヴィクターを殺すことはしない。何があろうと彼は自分の創造主、唯一の望みであるのだ。
ただし、怪物に対し、唯一心を開いたのは、盲目の老人であった。その老人の最後の言葉。「いったいあなたはどなたなのだ」という言葉が重い。
ここでも "Who are you !?" だ。
自分はいったい何者なのだ、というのも怪物の求めるもののひとつだろう。


そういえば先日、偶然TVで観た「ハゲタカ」という映画にも似たシーンがあった。
ある日本の大手自動車メーカーを買収しようとする劉と名乗る中国人投資家は、裏で調べると戸籍を改ざんした謎の中国人だった。「砂の器」だ。彼は劉ではない。彼の出生の秘密、どういう苦労をしてここまで来たかは誰もしらない。
大森南朋演じる鷲津が、その劉に対して投げた言葉が「あんた、誰なんだ」だった。劉は「オレはお前だ」と答えるシーンが象徴的だった。
金を持つ不幸と金を持たない不幸のお話。どっちが勝ちでどっちが負けなのか・・・やっぱり引分けでいけばいいのに。
劉を演じたのは朝ドラの主人公マッサンを演じている玉山鉄二君だとかみさんが教えてくれた。彼はこういう役の方がしっくりくるタイプだ。


左が玉山君。右が鷲津役の大森南朋(麿赤児の息子だ)。

また、その自動車メーカーの派遣社員がもらすこんな言葉もあった。
「派遣を扱うのは人事部じゃないんですよ。調達部。だから部品は誰かであってはいけないんだ」。この誰かであってはいけないという部分が染み込んで来る。
誰だって名前も人格もある。少しだけど個人の歴史もある。人間というのは、そうしたものを奪われたときの喪失感ほど耐えられないものはないのかもしれない、と、ふとおもう。


ついでにいえば、お気に入り映画のひとつボーンシリーズ第二作「ボーン・スプレマシー」にもこんなシーンがある。
過去の記憶がないボーンは、日々その手がかりを探して模索するなか、彼のノートがアップになり、太字でこう書いてあった。
"Who was I ?"



そう、怪物も、Who am I? のなかを彷徨っていたのだ。
自分自身を探し求めている現代人は案外多いかもしれない。名前や戸籍だけではない。自分自身の内側から出て来るものだ。そういう人はアーティストにも多いし、LGBTもそうだ。自分が生きている証のようなものかもしれない。

とくにヨーロッパでは、ギリシャ以来の伝統で、美と醜は善と悪にも等しい差別の表層である。誰もが知っているアンデルセンのみにくいアヒルの子も、そもそも外見の美醜が差別の判断基準だった。
そういえば、先日の打上げで、以前、ワヤンでやったSupraba Dutaで、ただスプラバを一途に愛しただけなのに、ニワタカワチャは、チャラ男のアルジュナの罠にはめられて殺されるのが不条理だ、と言っていたワル好きの女性がいた。ニワタカワチャは、怪力で見苦しいだけなのに、だそうだ。
そうね、もっと前段のニワタカワチャの悪行を知らないと、そう感じるのかもね。キャラクター設定にも、偏見と思い込みは難しい。

フランケンシュタインの怪物まではいかないまでも、世の中には、孤独、復讐心、いわれなき差別、心の傷、ねたみ、貧困、絶望・・・そうしたものがあって、やがてテロや犯罪を生む。負の連鎖でもある。
逆にみれば、偏見と先入観こそが、心眼を曇らせる。我々だって、テロや犯罪も一概に「悪」と思い込んではいないだろうか。

いまの世の中に必要なのは、憎しみや復讐心ではない。オノ・ヨーコがいうように、何かに傷つけられたり、怒ったりしたときは、許し合うこと、Forgive meと言おう。名も無き怪物もきっと、そう言ってほしかったのだ。(は)

■音の森による森の音-ガンブー公演のご案内

2015年03月26日 | 上演情報


4月19日、神谷町の青松寺の観音堂で、音の森主催のガンブーの公演がある。
青松寺は、永平寺別院、東京でも由緒あるお寺である。ま、そこで奉納しよう、ということらしい。





人使いの荒い主催者は、まったく関係ない私にチラシを作るよう指示を出してきた。いいけど、別に。
「でも、画像もないし、内容もよくわからないし・・・どうするの?」
「何か考えて~。ついでに気の利いたキャッチコピーも。」
いつものことだ。
だけど、今回は、図像探しには結構苦労した。それが見つかれば情報は少なくても、ま、なんとか・・・。

で、私は、こういうコピーを考えたて差し上げた。

 「音の森の森の音」-フォレスト・ガンブー

森ビルだし、ついでにアカデミー賞とか取りそうだし、ちょうどいいじゃん、とおもったけど、即却下された。
まあね、あんまりふざけんな、ということか・・・?

ともあれ、昨日、無事入稿しました。指定日には間に合います。

で、概要は以下の通り。踊りとガムランの名手、コマンさんがエッセンスをわかりやすく構成してくれています。興味ある人はぜひどうぞ。(は)


奉納 Gambuh ~バリ島の古典芸能~

日時:2015年4月19日(日)14時30分開場/15時開演(上演時間約1時間)
会場:萬年山青松寺 観音聖堂(港区愛宕2-4-7)
   最寄り駅ー東京メトロ日比谷線「神谷町」3番出口より徒歩8分
        東京メトロ三田線「御成門」A5出口より徒歩5分

出演:Sari Mekar(サリ・メカール)
Nyoman Sudarsana
大竹真理子/大野里美/中野愛子/安田冴/足立真里子/伊藤祐里子/
櫻田素子/田中沙織/塚崎美樹 / 新留美哉子 / 根岸久美子/
皆川厚一/宮元真佐人/渡辺泰子

入場無料

主催・お問い合わせ:音の森ガムラン・スタジオ
大田区大森北6-26-18-3F     
E-mail gamelan@otonomori.jp
http://otonomori.jp/




■懐古と進歩の狭間で-フランケンシュタイン幻想(1)

2015年03月25日 | 本のはなし


黒部に行く列車のなかで、元旦に出版された新訳の「フランケンシュタイン」の文庫を読んだ。
実は、少し前にほとんど読んでいたんだけど、その他でいろいろ読まないといけない本があって、最後の章は残しておいていたのだ。
物語はスイスアルプスが見える湖畔の町が舞台なので、なら、日本のアルプスでも眺めながら読んでみようか、文庫だし持っていくにはちょうどいい、というくらいの趣向だけど、それでも春も近いというのに雪をいただいた山の景色は、実にそれらがビジュアライズされた光景でもあった。さずがに霊場らしく雪景色の立山がマッターホルンに見えてきた。
横に座っていた(の)ちゃんも、しきりと北アルプスの山並みを撮っている。私はゆっくりとその光景に浸りながら、物語の世界に還って行ったのであった。

ま、こういうゴシックロマンス(ゴシックホラーともいうけど)系は、学生の頃、牧神社や国書刊行会を中心とした古本を買いあさったのが最初であった。
有名なところでは、ホレス・ウォルポールの「オトラント城奇譚」やベックフォードの「ヴァティック」、マシュー・G・ルイスの「マンク」、チャールズ・マチューリンの「放浪者メルモス」など・・・。荒俣宏やその師匠である紀田順一郎が水先案内人だった。
その流れで、ドイツやフランスのいわゆる幻想文学系や、そのままポーなんかにつながるという、まあ、よくあるパターンに陥ってしまったのだ。それこそ、ゴシック・ホラー的な迷路だ。

ゴシックロマンスは、簡単にいうと、18~19世紀イギリスを中心に人気を博した小説群で、中世のお城や大聖堂や屋敷みたいな空間を舞台に繰り広げられる超常的な展開と価値観の迷宮的物語のことをいう。日本でいえば泉鏡花のようなことだろうか・・・。最後は崩壊的だったり退廃的だったりするけど、幻想的でゾワゾワする。
コズミックホラーの覇者であるH.P.ラブクラフトが「恐怖は人類の最も古い感情である」というようなことを言っていたとおもうけど、その通り、まだ世の中に少しは神もいて、「闇」もあった時代、人間は太古の畏怖と急速に進む科学との間で彷徨っていたのだ。
時代的には、ヨーロッパでは、ルソーやヴォルテールなどの啓蒙思想、その後のダーウィンや諸科学思想の時代に入っていて、実はこういう懐古趣味的というかインモラルも含めた日の当たらない世界観は、やっぱり「表」と「裏」というか、光と闇というか、理性と情緒というか、合理と非合理というか・・・、ま、それも人間の一部だということだろう。

ともあれ、その頃の友人には、絶対「フランケンシュタイン」を読んだ方がいいと何度も言われていながら、なぜか読む機会がなく、今日まで来てしまったのだった。たぶん、同名の出版物がたくさんあり過ぎて触手が延びなかったのだとおもうけれど・・・みなさんはお読みだろうか?


作者・メアリー・シェリーの肖像

作者のメアリー・シェリーは、裕福な家の子女ではあるが、もともとは文学者でも小説家でもない。彼女の告白では、この物語の誕生は、あるとき詩人のバイロンの別荘に滞在していたときに、バイロンを入れてちょうど4人ほど泊まっていたゲスト同士が暇つぶしに、それぞれ幽霊潭を創作して発表しよう、ということになったのが発端であったそうだ。
そんなことやったことのない彼女は困り果てた矢先、ある夢を見た。それがまさにフランケンシュタインの原型である。ちょうど、世の中、科学と化学ブーム。電気ショックで生体を動かせるという実験なども行われていた時代で、生命と科学と神と人間といろいろ価値観が交差していたのである。
また、発表当時は作者不詳で出版されていた。理由は女性だったからである。時代的にはしょうがないけれど、これも一種の差別だね。第三版でやっと実名発表した。その際語られた逸話が上記である。

生命倫理というなら、現代にも通じる価値観がすでに芽生えていたといってもいいだろう。人間が侵さざるベき神の領域を科学と化学は越えられるのか。
そういう意味では、科学の時代の成果が交差している点では、SFの元祖ともいわれている。
時代設定はフランス革命の頃。社会も激動の時代に、人間の本質を突くがごとく誕生した鬼っ子がその怪物なのである。いまでもポピュラーに読み継がれているのも、その頃の人と現代人も社会も、根本的には変わっていないということかもしれない。

バリの象徴、チャロナランも、人気の儀礼である理由のひとつには、きっとこうしたある種の普遍的なテーマが潜んでいるからではあるまいか。善と悪という構図もそうだけれど、食人や恐怖や社会の悪霊の世界は人間の鏡でもある。物語を通してそれを示しているのである。
どんな宗教にも恐怖や畏れをテーマにした戒めはある。そこに飛び交う精霊たちを制御するのも、教えを授けるのもワヤンのそもそもの役割であったはず。娯楽はその入口に過ぎない。




で、と、フランケンシュタインというと、二つ思い出す映画がある。
ひとつはご存知ボリス・カーロフ演じる白黒の怪奇映画。これが一般には決定的だった。このイメージが強い人が多いだろう。ただし、映画なだけに、原作とはかなり異なる設定になっている。
たとえば、映画では、フランケンシュタインはマッドサイエンティストであり、怪物は言葉も話せない凶悪な存在で、無差別殺戮の恐怖が題材になっているという点だろうか。第一、彼の脳は、墓場から持って来た犯罪者の脳だったのである。
これらは原作では、ちょっと違う。怪物は言葉も話すし、知性もあってもともとは悪人ではない。むしろ理性も情緒も心もある。自分の意志とは関係なく、ただ怖くて醜いだけで差別され、いわれない孤独を悲しむ哀れな人間だ。
逆にフランケンシュタインこそ、若い学生の名誉欲に取り憑かれたお坊ちゃん研究者で、怪物を作っておきながら、怖くなって捨て去った背信の徒だ。
だからこそ、文学、というか、小説としての奥行きもある。



もうひとつは、ビクトル・エリゼ監督の「ミツバチのささやき」である。
あるとき、村にフランケンシュタインという映画の移動上映がやってきて、それを観た無垢な少女が、怪物や自然のなかにさまざまな幻視と幻想をみるという映画だ。
子供にだけ見える世界もある。精霊の家に偶然いたモンスター(実は逃亡者)に食事をあげるシーンが印象深い。主役のアナ・トレントが実にチャーミングだった。

そう、フランケンシュタインの怪物は、どこにでもいるのだ。そんな記憶をすべての人は裡に秘めて大人になった。怪物とは何か。怪物は実は隣りにいるかもしれないし、あなた、かもしれない・・・。
長くなるので、物語の神髄は、また次回。

桜咲く春なのに、暗い話でどうもすみません。
ま、今夜は、たまには童心にかえって、怖くて幻想的な夢をみてください。(は)

■日本三大がっかりの裏側

2015年03月24日 | 北海道・広島


ということで、またまた札幌。何度も行っているのに市内ぜんぜんどこも行っていないので、もっといろいろ観てみよう、とおもいたち、まずは札幌定番の時計台を見に行った。次回、暖かくなったら、大通り公園の電波塔、北大のクラーク像に行こうかとおもっている。

で、その時計台。「日本三大がっかり」に選ばれるだけあって、一見、小さい。ビルの谷間。「へえ、こんなところにあったんだ」という感じ。
じゃ、他の三大がっかりは何? と言われると困るけど・・・一応、高知のはりまや橋は入っているらしいが。
ちなみに、世界三大がっかりは、シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫の像、である。
その不名誉のせいで、数年前、シンガポール政府は威信をかけてマーライオンを大きくしたそうだが、それもどうも中途半端、らしい。まだ観てないけど。小さくてもいいのにね。




この世界三大○○や日本三大○○というこれ、実は日本独自のものもあって特に日本人好みの言い回しらしい。世界三大美女にどうして小野小町が入っているかを考えればわかるような気もする。
日本三景や日本三大祭とか、日本三筆とか、まあ、無数にある。他にも、三宝とか三種の神器とか、御三家とか、一富士二鷹三茄子などの言い方も・・・、いろいろあるわけです。
かの有名な空海の「三教指帰」も、空海が学生時代から出家に至る動機を示した品であるが、蛭牙公子が亀毛先生(儒教)にならい、次いで虚亡隠士(道教)に説かれ、仮名乞児(仏教)に教えを乞うて、結局、仏教の優位性を説くという寓話のような話である。筑摩の空海全集の五巻か六巻に入っていたとおもう。三教の比較で結論を出すのが大切なのだ。

実は、アジアでは「三」という考え方は大切だ。だから、三大ランキングでも三大ユニットでも三大コントラストでもいい。要は優劣ではなく、代表選びのゲームのような場合もあるし、たとえ話や教えの比喩の場合もある。
一見、二項対立で説明されがちがバリも、実は、トリ(「三」)が大切なのだ、と密かにおもっている。その一端は、最近のワヤンを観ている人ならわかるだろう。いずれきっと、別の機会に論説しよう。
ま、そのワヤンでも、ダランはまず先に人形の入った箱を三回叩く。これによっては人形を起こし、ワヤンが始まるのである。この三回は「天・地・人」の三界を意味し、世界のすべてを創出し、目覚めさせるという意味があるという。

日本神話の三柱でも、仏教の三尊でも三千大千世界でも、キリスト教の三位一体でもいいけど、ともかく「三」なのだ。
なぜキリスト教の話が出るの?とおもうかもしれないけれど、「父と子と聖霊」とされるこの三位、父はヤハウエ(エホバ)、子はイエスでいいとして、最後の聖霊というのは本当は誰もよくわかっていない。実はこれ、内緒だけど、アジアの深いところでつながっているのではないかと密かに勘ぐっている。だから「三」なのだ。
人類も一見、男性と女性に分かれているが、実は哲学文化史上は、神観念が入ってくると、そこに「両性具有」が入り込んで三角形になる。
両性具有とは、ガッチャマンのベルクカッツェのことではない(失礼)。形でいえば円、完全を意味していて、日本語でいえば「真」に近い概念になる。だから天皇は「真人」ともいう。
ああ、また、この辺の話をすると長くなるので別の機会に・・・。
で・・・、何だっけ?




そう、ま、ともかく、この時計台、周りが大きくなり過ぎたのかもしれないが、「へえ、こんなに小さいんだ」というのが誰もが口を揃えて言う。以前一緒に同行した芸大教授のKHさんも同じことを言っていた。
ま、がっかりするということは、それだけ期待が大きいとか、写真が堂々としていたとか、いろいろ理由はあるわけで、実際の時計台は国の重要文化財に指定されている立派なモニュメントです。開拓の象徴です。中に入ればわかります。

パンフレットによると、もともとは札幌農学校の演武場、英語ではMilitary Hallと書いてあったので、要するに武芸練習場ということだが、ま、屋内体育館という意味もあろう。明治11年に建てられたものを昭和に入ってから現在の地に移設したらしい。
当初は、時といえば鐘、つまり吊り鐘が設置されていたそうで、その後、時計に変えられたという話。何十キロもある重りを毎日巻き上げて時を刻んだということだからさぞたいへんだったことでしょう。
機械仕掛けの時計はいつ見てもシビレるね。この機械美と繊細さと大げさ加減が絶妙だ。アメリカにあったものの移設だそうです。
2階は現在もホールとして使用可能で、ときどきコンサートや講演会なども行われている。つまり、レンタル可能。バリ島のワヤンなんていかがでしょうね・・・? ちょうどいいサイズとおもいますが。




ともかく、まあ、世の中には、大岡越前の「三方一両損」とか、勝者と敗者に二者にこだわる欧米に比べ、日本には「引分け」という概念がもともとある。遠くは聖徳太子の頃からある概念で、「和」を乱すことへの配慮とも考えられている。勝ちと負けと引分けの三者揃い踏みだ。
日本の経済や社会でも「勝ち組」とか「負け組」とか、富裕層だ貧困層だとか言ってないで、僕は「引分け組」です、と宣言でもしてやろうか、と密かに考えていて、あるときダランと話したところ、妙に話が盛り上がり、必要以上に酒が進んでしまったことがある。
酒はほどほどに、勝負ではなく、引分けにしよう。(は)



こんな展示もありました。
まあ、歌に歌われるだけ親しまれてきた、ということでしょうね。
昭和歌謡史、いずれやらなければ。



で、お決まりはこれ。
スタンプマニアとしては条件反射のコーナーです。



ちなみに、全然関係ないけど、今日行った千駄ヶ谷の駅にこんなのがあった。
どうも、スタンプは子供たちの関心をひくらしい。
いつからやってんだろう・・・やられた。
けど、ここには、吉祥寺も小金井も国分寺もない。

■リバーシブル・ワヤン

2015年03月23日 | 上演後記


昨日は、本州初、ワヤン・アンクルンのお披露目会があり、満員御礼でした。感謝。
現場はいつもに増してアドリブ満載、手も切れそうな鋭い鍵盤に向かいながら、なかなかスリリングだった。
でも、いつもの通り、メンバーの(に)さんがみんなを引っ張っていって、なんとか無事終了。ほっ、である。

予定通り、アノマンも大活躍。風とともにやってきて、風とともに去っていった。そこがいいのだ。
又三郎のようでもあり、木枯らし紋次郎のようでもあり、風車の弥七のようでもあり、風神のようでもあり、風立ちぬ、だ。
何かとともにやってきて、何かが起きずにはいられない。いいこともあるけど、悪いこともある、かもしれない。
アノマンは、南風か、東風か、北風か、西風か・・・。悩ましい問題だ。


    俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(部分)


ダランの解説では、アンクルンでワヤンをやるのは80年代の産物で、クロボカン辺りで、葬儀のときに、ビマ・スワルガをやるために生まれた、という。
アンクルンなので、何となく葬式的な響きがある。20年前だったら、仮にそう言われても、葬儀的な音には聞こえなかったであろう。人間のイメージというものは流動的なものだ。いまでは、葬儀的な音と空間に感じてしまうから怖い。
でもまあ、普段パルワをやっているとグンデルの激しいけれど密やかな響きに馴れているが、アンクルンはやっぱり大音響だ。やり馴れていないせいもあるだろうけど、ダランの声やリズム系の楽器がよく聞こえないとやりにくい。カジャールやクレナンやゴングなどの配置も直前で変えたりした。
ま、何事も実験。演奏も上演も、きっとだんだん良くなるのだ、きっと。

ということで、これから何回か上演して、精度を上げていこう、という話になった。
そこで、チラシは、毎回、1アイテムづつ色が増えていくことになっている。



最後はこうなる。
これになる頃にはきっと、武道館かどこかで一人10万円くらいの入場料の公演になること間違いなし、です。
みなさん、それを目指してがんばりましょうね・・・?





ところで、この配置、どうなんですかね・・・?
会場の都合もあり、ほぼクリルと楽器の配置で占領されている。本来クリル正面の影絵を観る人のスペースは数名分しかとれない。ワヤンが初めての人もいて、当然、クリルの前に陣取っている。あとの常連はぐるりと周囲を囲む。演奏者にはなかなか緊張感のある配置である。
ま、そういうこともあってか、お披露目会の前説で、ダランがついつい、クリルの前の影絵側に座っている人に対し、「裏」側で影を観ている人は・・・と言ってしまっていた。
そう、普段のダランの前説は、
 「人形が出る前は、表の影側には何もおきませんので、
  どうぞ、自由に「裏」側に回って、
  演奏の様子や「裏」でどんなことをしているか、ぜひ、見てください」
などというようなことを言うのがお決まりになっている。
その度に、「我々は裏側の人間だ」とおもってしまう。

でもね、こういう配置だと、ダランも「裏」と「表」が逆転しちゃうんですね、イメージのなかで。
表が裏で裏が表だ。じゃ、表の裏は裏で、裏の裏は表なら、裏の表はどっちだ・・・?? 明日は~どぅっちだ~(「明日のジョー」を知らない人は無視してください)。
ま、ともかく、今回は、めでたく初めて「裏」の「表」で演奏したことになりました。リバーシブル・ワヤンだ。

それはそうと・・・、はたして、「神様」はどちらから観ているでしょうね・・・?
そんなことを考えながら、余裕でメセムを弾いていたのでした。(は)

ワヤンの朝 2015.3.22 音の森アンクルン

2015年03月22日 | ワヤンの朝(か)

「ワヤン日和」
今朝はとても良い天気、絶好のワヤン日和です。白モクレンが満開です

今日は音の森ガムラン・スタジオでのワヤン・アンクルンの本番です。
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音の森で続けてきた「ガムラン・アンクルンでワヤンをやってみよう講座!」の発表会。
「アノマン使者に立つ」本邦初上演の演目です。
お猿さんの神様「アノマン(ハノマン)」が大活躍するとても楽しいお話です。
アイアイ・・アイアイ・・
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出演は
「音の森ガムラン・スタジオ」の精鋭のみなさん。
「梅田一座」からは、ダラン:梅田、アンクルン演奏:長谷部+錦織、クテンコン:片倉+小林
が参加します。
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今日のこの公演での私の最も重要な任務は、「マイクを忘れないで持って行く!」ことです。
今日も楽しくワヤンが出来るといいな。(か)
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「音の森ガムラン・スタジオ」の精鋭のみなさん