大阪二日目の会場は、いわゆる「お不動さん」だった。「報恩院」というから、口語訳すれば「恩返しの寺院」ということになる。
見たところ、近畿何十何ヶ所の巡礼にも指定されているらしいし、横で観察していると、たびたび巡礼らしき人がやってきては納経をお願いしていた。みなさん何のご恩を返しているんだろう・・・、恩を返すとは、ま、人々の生きるつながりというか、「因果」なことでもある。でも、ここはそういう人々の生活に息づいている場所ではありそうだ。

まあ、お不動さんということは、不動明王だから、基本は真言宗だ。前日のワヤンが浄土真宗だったから、ま、宗派もいろいろ、会場もいろいろ、人生もいろいろだ。
真言宗は習合文化の最先端でもある。からか、はわからないけど、面白かったのは、このお不動さんの「庭」は、まあ、たくさんの神仏で賑わっているというか、それらが回遊式に配置されていて、ある種独特の小世界がつくられている。
実はこれ、日本の寺院や「庭」宇宙の常套手段でもあるが、ここには、お地蔵さんなどの菩薩系、秋葉さんなどの大権現系、五輪塔に、なんとチベット密教系のマニ車まである。それぞれの宇宙が配置されている。

それと、この庭には、もう枯れているのかわからないけれど、一本の立派な樟の木が象徴的に立っていた。見るからに樹齢が古そうだ。
まったくの推測だが、菩提樹じゃないけれど、たぶん、この木の下にこのお不動さんは生まれたのだ。だから神社ならこれはご神木のような霊験あらたかな場(=庭)なんだろう。
いまでは周りは高い建物で囲まれてしまったが、ここはそっとそういう場所を守ってもいるのかもね。一度、結界を潜ってしまえば、そういう気配がある小さな「庭」宇宙が構成されているわけだ。
で、その樟の木を守るようにいるのが、この不動明王と対の脇侍たちなのだ。

密教では明王は五王、つまり、降三世、軍荼利、金剛夜叉、大威徳、と不動明王だね。
明王は基本的に炎に包まれて怒りの形相をしている憤怒尊である。なかには歌舞伎じゃないけれど「日月眼」のにらみをきかせていたり、よくもまあこんなに怖い顔をしているのかともおもうが、簡単にいえば、その意味は、すべての煩悩を焼き付くし、憤怒の形相を見ても動揺しない心の平安をもたらす智慧の尊者、ということに昔からなっている。
これも、インドで最終形態を迎えた密教の必然性というか、ヒンドゥとの習合のかたちなのだ。だからむしろワヤンともなんとなく無縁ではない。
またさらに、不動明王はシヴァの化身とされているから、まあ、荒ぶる神ということだろうか。とくに激しい存在だ。日本でいえばスサノオのようなものだろうか。
ヴィシュヌは帝釈天ということになっているし、必ずしも一定もルールで決まっているというより、まあ、臨機応変、イメージの振り分け配置がされているといった方があっているかもしれない。
ま、この辺がややこしいけど。
ワヤンにもそういうスチュエーションはよくある話だ。今回の演目からして、スタソーマは仏陀の化身というか生れ変わりとダランが説明していたね。
この場合の仏陀=釈迦だろうけれど、密教では、釈迦も大日如来も同じ如来=ブッダ(悟った者)だ。不動明王はときたまその脇侍になったりもしているから、さらにややこしい、ね、この世界。
まるでチェスと将棋の違いというか、アジアというのは、成(化身)ったり生まれ変わったり、生き返ったり、複雑なルールと事情が絡んでくるわけだ。

そうこうしていると、簡単な当時リハも終わり、お昼を前に、向かい合わせの高津神社に行ってみたら、ちょうどお祭りのようなものをやっていたので、みんなで覗いてみた。
祭りといっても、神社の祭礼とか縁日とかではないらしい。だから出店もテキ屋系ではなく、ある種のソーシャルネットワークのようなかたちで集まったとおぼしき価値観共有型の集合体だった。
たとえばこんな感じ。

トマトジャムで食べる米粉ニョッキだそうだ。
ある意味ミスマッチだったようで、あまり売れそうもなかったせいか、
途中から名称が「米粉のだんご」に変更になっていた。中身は同じなのに・・・印象の問題?

韓国式ごま粥。無添加だったので、黒ごまペーストをこれはかみさんの土産に買ってみた。
途中からなんだか「美人売り子シリーズ」になってしまった。

「とん超」? 聞いたことがない。
昆布だしに大豆、餅米、うるち米、天然塩。
これこそかみさん向けだったが、賞味期限=当日、ということで断念。
どんな味なんだろう・・・気になる。

大阪らしく「たこせん」はいいとして、「そばナゲット」に、なぜかアイヌの木彫り・・・。
スタッフは若くて爽やかだけど・・・わからない。

なぜかジャマイカ料理?・・・「アルタイフード」か?・・・わからない。

ダランがどうしてもその場を離れがたかったというカレーの店。
チャパティか米を選べるらしい。
ダランは、たぶん、このインディカ米に反応したのだ、きっと。アジアだなぁ。

「梅之橋」という名称を見逃さなかった。
先を歩くのは、ここにもいた、昨夜の例の怪しいおっちゃんたちだ。
神社とお不動さん、対比的なふたつの庭を挟んで、マハバラタのワヤンの本番になった。複雑だけど、それが日本というものだ。
それにしても、この日のダランは新キャラが炸裂し、笑いという点ではこれ以上はなかった。なんといっても、リハ時点ではオラン・ロンボクだった人形が、本番でいきなりオラン・オキナワになってしまった上、もうそれは超暴走状態なのだ。
珍しく僕も笑いをこらえるのに必死だった。でも、こういうアドリブこそがライヴ感だね。
ダランは、ワヤンはお笑いではないというけれど、きちんと物語の筋と主題を通せば、お笑い部分もたくさんあっていいではないだろうか、楽しいに越したことはないし、みんなあんなに楽しそうに笑っていたことだし。彼らきっとまたワヤンを観に来てくれるだろう。
ま、いずれにしろ、これは観た者でないとわからないだろう。写真なくてすみません。なにせ、上演中は手が離せなかったので。
興味ある人は、次回、名古屋や年末の光塾にぜひいらしてくださいませ。
そうそう、ギータ・クンチャナのみなさん、演奏も臨機応変についてきていて、素晴らしかったです。
再来年またやるっていうから、いまから楽しみです。また呼んでくださいね、きっと行きますから。
今回は、ご苦労さまでした。そして素敵な時間をありがとう。
また、大阪メニューの打上げ、ご馳走さまでした。この「恩返し」はまたいずれ・・・、う~ん、そうやってできていくんだね、人のつながりというものは。
これも「報恩院」のなせるわざ?
みなさんに、これからもたくさんのいいことがありますように。
2015大阪編、おしまい。(は/170)

見たところ、近畿何十何ヶ所の巡礼にも指定されているらしいし、横で観察していると、たびたび巡礼らしき人がやってきては納経をお願いしていた。みなさん何のご恩を返しているんだろう・・・、恩を返すとは、ま、人々の生きるつながりというか、「因果」なことでもある。でも、ここはそういう人々の生活に息づいている場所ではありそうだ。

まあ、お不動さんということは、不動明王だから、基本は真言宗だ。前日のワヤンが浄土真宗だったから、ま、宗派もいろいろ、会場もいろいろ、人生もいろいろだ。
真言宗は習合文化の最先端でもある。からか、はわからないけど、面白かったのは、このお不動さんの「庭」は、まあ、たくさんの神仏で賑わっているというか、それらが回遊式に配置されていて、ある種独特の小世界がつくられている。
実はこれ、日本の寺院や「庭」宇宙の常套手段でもあるが、ここには、お地蔵さんなどの菩薩系、秋葉さんなどの大権現系、五輪塔に、なんとチベット密教系のマニ車まである。それぞれの宇宙が配置されている。

それと、この庭には、もう枯れているのかわからないけれど、一本の立派な樟の木が象徴的に立っていた。見るからに樹齢が古そうだ。
まったくの推測だが、菩提樹じゃないけれど、たぶん、この木の下にこのお不動さんは生まれたのだ。だから神社ならこれはご神木のような霊験あらたかな場(=庭)なんだろう。
いまでは周りは高い建物で囲まれてしまったが、ここはそっとそういう場所を守ってもいるのかもね。一度、結界を潜ってしまえば、そういう気配がある小さな「庭」宇宙が構成されているわけだ。
で、その樟の木を守るようにいるのが、この不動明王と対の脇侍たちなのだ。

密教では明王は五王、つまり、降三世、軍荼利、金剛夜叉、大威徳、と不動明王だね。
明王は基本的に炎に包まれて怒りの形相をしている憤怒尊である。なかには歌舞伎じゃないけれど「日月眼」のにらみをきかせていたり、よくもまあこんなに怖い顔をしているのかともおもうが、簡単にいえば、その意味は、すべての煩悩を焼き付くし、憤怒の形相を見ても動揺しない心の平安をもたらす智慧の尊者、ということに昔からなっている。
これも、インドで最終形態を迎えた密教の必然性というか、ヒンドゥとの習合のかたちなのだ。だからむしろワヤンともなんとなく無縁ではない。
またさらに、不動明王はシヴァの化身とされているから、まあ、荒ぶる神ということだろうか。とくに激しい存在だ。日本でいえばスサノオのようなものだろうか。
ヴィシュヌは帝釈天ということになっているし、必ずしも一定もルールで決まっているというより、まあ、臨機応変、イメージの振り分け配置がされているといった方があっているかもしれない。
ま、この辺がややこしいけど。
ワヤンにもそういうスチュエーションはよくある話だ。今回の演目からして、スタソーマは仏陀の化身というか生れ変わりとダランが説明していたね。
この場合の仏陀=釈迦だろうけれど、密教では、釈迦も大日如来も同じ如来=ブッダ(悟った者)だ。不動明王はときたまその脇侍になったりもしているから、さらにややこしい、ね、この世界。
まるでチェスと将棋の違いというか、アジアというのは、成(化身)ったり生まれ変わったり、生き返ったり、複雑なルールと事情が絡んでくるわけだ。

そうこうしていると、簡単な当時リハも終わり、お昼を前に、向かい合わせの高津神社に行ってみたら、ちょうどお祭りのようなものをやっていたので、みんなで覗いてみた。
祭りといっても、神社の祭礼とか縁日とかではないらしい。だから出店もテキ屋系ではなく、ある種のソーシャルネットワークのようなかたちで集まったとおぼしき価値観共有型の集合体だった。
たとえばこんな感じ。

トマトジャムで食べる米粉ニョッキだそうだ。
ある意味ミスマッチだったようで、あまり売れそうもなかったせいか、
途中から名称が「米粉のだんご」に変更になっていた。中身は同じなのに・・・印象の問題?

韓国式ごま粥。無添加だったので、黒ごまペーストをこれはかみさんの土産に買ってみた。
途中からなんだか「美人売り子シリーズ」になってしまった。

「とん超」? 聞いたことがない。
昆布だしに大豆、餅米、うるち米、天然塩。
これこそかみさん向けだったが、賞味期限=当日、ということで断念。
どんな味なんだろう・・・気になる。

大阪らしく「たこせん」はいいとして、「そばナゲット」に、なぜかアイヌの木彫り・・・。
スタッフは若くて爽やかだけど・・・わからない。

なぜかジャマイカ料理?・・・「アルタイフード」か?・・・わからない。

ダランがどうしてもその場を離れがたかったというカレーの店。
チャパティか米を選べるらしい。
ダランは、たぶん、このインディカ米に反応したのだ、きっと。アジアだなぁ。

「梅之橋」という名称を見逃さなかった。
先を歩くのは、ここにもいた、昨夜の例の怪しいおっちゃんたちだ。
神社とお不動さん、対比的なふたつの庭を挟んで、マハバラタのワヤンの本番になった。複雑だけど、それが日本というものだ。
それにしても、この日のダランは新キャラが炸裂し、笑いという点ではこれ以上はなかった。なんといっても、リハ時点ではオラン・ロンボクだった人形が、本番でいきなりオラン・オキナワになってしまった上、もうそれは超暴走状態なのだ。
珍しく僕も笑いをこらえるのに必死だった。でも、こういうアドリブこそがライヴ感だね。
ダランは、ワヤンはお笑いではないというけれど、きちんと物語の筋と主題を通せば、お笑い部分もたくさんあっていいではないだろうか、楽しいに越したことはないし、みんなあんなに楽しそうに笑っていたことだし。彼らきっとまたワヤンを観に来てくれるだろう。
ま、いずれにしろ、これは観た者でないとわからないだろう。写真なくてすみません。なにせ、上演中は手が離せなかったので。
興味ある人は、次回、名古屋や年末の光塾にぜひいらしてくださいませ。
そうそう、ギータ・クンチャナのみなさん、演奏も臨機応変についてきていて、素晴らしかったです。
再来年またやるっていうから、いまから楽しみです。また呼んでくださいね、きっと行きますから。
今回は、ご苦労さまでした。そして素敵な時間をありがとう。
また、大阪メニューの打上げ、ご馳走さまでした。この「恩返し」はまたいずれ・・・、う~ん、そうやってできていくんだね、人のつながりというものは。
これも「報恩院」のなせるわざ?
みなさんに、これからもたくさんのいいことがありますように。
2015大阪編、おしまい。(は/170)
