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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■動物はなぜ眠るのか

2017年01月10日 | 動物・植物
どうも、ずいぶんとお久しぶりです。
今年も無事年が明けましたね。改めて、本年もよろしくお願いいたします。

それはそうと、新年からなんですが、年末からどうも毎日眠くてしょうがない。
電車でも飛行機でも、時間があるとあっという間にすぐに眠ついてしまう。
で、ちょうど一昨日のTUNJUK新年会でも話しになったのでおもい出したことがある。
暮れの日曜の仕事帰りにかみさんと吉祥寺駅で待合せたが、早く着いたので、駅ビルと待つことにしてうろうろしているとちょうどいいベンチがあったので、そこに腰を下ろしたら、そこでもいつのまにか眠りこんでしまった。
結局、かみさんに起こされるまで記憶がない。
かみさんに言わせると、あんなに熟睡しているのは見たことないということだった。
まさに「とっても疲れた人」の体だったことだろう。


新考案のピクト


そういえば、まだ20代の頃、人はなぜ眠るのだろうと考えてみたことがあった。そもそも動物はなぜ眠るのか、その眠りの違いはあるのだろうか。う~ん、それを考えると夜も眠れません、ね。
ナポレオンやエジソンは一日3時間しか眠らなかったそうだし(どうも事実らしい)、ダ・ビンチにいたっては、15分づつ何回かに分けて眠っていたという。
世の中にはそういう風に眠らないで済む人もいれば、10時間以上眠らないと調子が悪い、という人もいる。

よくいわれるように、一日8時間眠るとして、眠らずに済めば、人生3分の1はもっと有効に使えるのではないか、という考え方は出てきて当然だろう。でもけしてそうはならない。
いまのところの人間の最長断眠記録は、70年代にアメリカの高校生が達成した264時間12分(約11日間)だそうだが、動物実験などでも明らかなように、人間も含め、動物は眠らないと最後は正気を失い死んでしまうそうだ。

では、なぜ眠らなければ死んでしまうのか。
答えからいうと、睡眠とは、簡単にいえば「脳を休ませ再活性する高度な生存技術」だからだ。要するに、生存に必要な中枢神経系である脳を肥大化させた動物は、同じく肥大化する膨大な情報処理の必要があり、睡眠行為がないとそれが処理しきれず脳がパンクしてしまうということだ。
最後は意識も狂えば、自律神経がコントロールできなくなってしまうのだ。


この本は90年代に出た本であるが、最近の脳科学の進歩とともに、
「睡眠学」というジャンルもずいぶん進んだらしい。世の中にはたくさんの出版物が出回っている。


で、その睡眠の中身、現在の人間の睡眠には、よく知られるように「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」がある。
レム睡眠は、脳はおぼろげに起きていて身体が眠っている状態、夢や金縛りはこのとき起きる。まだ脳が単純だった頃の生物に誕生した睡眠形式である。スタンバイ状態の脳である。そりゃそうね、いつ外敵に教われてもすぐに起きられるようにしておかないといけないわけだし。
一方のノンレム睡眠はいわゆる「熟睡」である。脳はここでリセットされる。高度な大脳皮質をもった人間に生まれた睡眠形式である。
普通、人間の睡眠は、最初の三時間で徐々ノンレム睡眠に入り、以降はレム睡眠とノンレム睡眠を1.5時間ごとに繰り返し、起きる直前はほぼレム睡眠になる。



でも、赤ちゃんは、まだ脳が未発達のため、基本的にはレム睡眠が大半を占め、一日何時間も眠ることになる。実はここで脳を発達させるのだ。
「寝る子は育つ」とはよく言ったもので、何の科学的情報もないのに昔の人はエラいね。



で、睡眠の規則性を支えるものがいわゆる「サーカディアンリズム」といわれるもので、日本語では「概日(がいじつ)リズム」という。一日のなかの生理的リズム、もっと簡単にいえば「体内時計」ということである。生命は、多かれ少なかれこのリズムをもっている。
なぜ「全日リズム」ではなく、「概」(おおむね)かというと、そもそも人間のサーカディアンリズムは25時間にセットされているためである。人はそれを毎日24時間に補正して生きている。ま、リズムのなかの「遊び」と考えればいいだろう。
でも、その遊びがあるから、多少睡眠の時間帯や長さが狂っても、生きていけるのだ。
その他、月単位の周期もあるし、季節周期もある。北欧とバリでは睡眠様式も違うわけだ。
飛行機で地球の裏側まで一気に行ったり、徹夜などして、そこが補正できなくなると、いわゆる「時差ボケ」になってしまうのだ。



そうやって、人間には「三大欲求」というものが備わった。すなわち「食・睡眠・性」である。
そして、これらに共通するのは「快楽」である。でも、それはけして快楽が先にあったわけではなく、個体生存と種の遺伝子を残すための行為に、「快楽」というご褒美を与えられた、と考える方が妥当であろう。

そうこうして、我々は睡眠の欲求のなかで一日を過ごすわけだが、現代とはおかしなもので、夜でもライトを照らし、仕事もし、サーカディアンリズムを無視するかのような活動をする。仕事とはそれが正しいとする価値観が以前にはあった。
でも、それは、生物としての人間と近代文明の行動様式にズレを生みかねない。突き詰めれば、これが睡眠障害や精神障害のもとでもあろう。
やっぱりね、サーカディアンリズムにのり規則正しい生活をする「ダランのお父様」は、正しいのだ。
その価値観はいずれ見直されなければならないね。「脳の癒し」は現代の課題でもある。



だから僕も単純に身体が疲れていたというわけではなく、要するに「脳」が疲れていた、ということだろう。
脳の疲れはなかなか抜けない。いまでも毎日眠くてしょうがない。やっぱり「癒し」が必要だ。(は/275)


新年からややこしい話しですみやせん。
みなさんにとって、今年が、よい一年でありますように。


■擬態する蛾

2016年05月02日 | 動物・植物
みなさん、ごきげんよう。なんだか久しぶりにアップする気がする。4月は出張だらけだった・・・月の半分以上東京にいない。今月もだけど。6月には一段落するだろうか。それまでブログは月に数回になりそうだ。はたしてどうなりますか・・・。

それはそうと、昨日、我が家に舞い込んで来た「虫」はいままで見たこともない虫だった。かみさんに言われて、スタソーマよろしく、殺生せずに柔らかく包んでつまみ出してしまったが、いまからおもうと実に奇妙な形をした虫だったなあ、もしかして貴重な発見だった、のかも。写真撮っておけばよかった。お見せできずにすみません。
でも、なんかなぁ、これも何かの「虫の知らせ」というやつだろうか・・・奇妙な体験。


ともあれ、地球上のすべての生物のうちで、最も多いのがいわゆる「虫」である。
一説には6千万種ともいわれていて、地球は「虫の惑星」だという学者もいる。そういうなかで、毎年新種が見つかるのも「虫」が最多である。
つい先頃も、沖縄の国頭村(くにがみそん)で見つかった新種は、「蜂」に擬態する「蛾」で、専門家の間ではそれなりの話題にのぼっていた。


蜂に見えるが、これは擬態。実際は「蛾」だそうだ。

国頭村は、ダラン一家も長らく住んでいた沖縄本島最北端にある村である。地元ではヤンバル、漢字で書けば「山原」と表記される地域で、まだまだ自然の山や森がたくさん残るエリアである。米兵もいるけど。
那覇辺りに住む人でも行ったことない人もたくさんいるのではないだろうか・・・、車で国道を行くと半日がかりだが、昔一度だけ行ったことがある。
ヤンバルといえば、タモリのネタでも有名な「ヤンバルクイナ」の生息地としても知られている。そういう固有種もいるほど深い自然だということだ。


ヤンバルクイナ。世界の中でこのヤンバルにだけ生息する国の天然記念物だ。
翼が退化?していて、飛ぶことができない、鳥だ。


そこで今回見つかった「蛾」は、台湾や中国などには稀に見る種類だそうだが、沖縄特有の蜂を擬態していることから、どうも地理的影響を受けた新種ということが判明したらしい。
発見したのは、沖縄出身で、いまは九州大学の大学院で研究をしている学生だ。彼によって「テイノタルシナ・アラウンティカ」と命名されたという。
??どういう意味? こういうとき、自分の名前をからませる人もいるけど、そうじゃない場合はたいがいラテン語に頼る傾向にある。日本語名にしたらいいのにといつもおもうけど・・・。

だいたいにして、「ラテン語」とはどこの国の言葉?と学生に質問すると、ほぼ全員中世ヨーロッパの言語、と答えるのが相場だ。
まあ、無理もない。中世はキリスト教の時代だから、カソリックの記述言語としてはラテン語が正式だったのでそうおもうんだろうけれど、正確にいうなら「古代ローマ帝国の公用語」というのが正しい。もちろん分類としては「インド・ヨーロッパ語族」の派生語だ。
つまり、古代ローマの言語だったものが「地中海文化」の担い手としての共通語となり、「パックスロマーナ」を支えたということだね。そのままキリスト教に古語として受け継がれて残っているためにそうおもわれているというわけだ。いまでもバチカンはローマだしね。
だから、「ラテンアメリカ」という言い方も、歴史的にイスパニアやポルトガルなどラテン系言語の人々が統治したために、いまでもそういう呼称になっているというわけだ。


ま、それはともかく、話を戻すと、一般に、虫が蜂に擬態するのは、鳥は毒のある蜂を捕食しないことから、そういう天敵から回避するためだと考えられているということだ。


エダハヘラオヤモリ。ここまでくると職人技だ。


もう見分けがつかない。これも虫の幼虫の保身の術だ。自然は不思議。


こういう生物の「擬態」のことを専門用語では「ミミクリー」という。
近年では、「バイオミミクリー」という本も出版されて、人間がつくる道具や空間や形、つまり「デザイン」にもミミクリー的要素を考察すべきではないかという論説もある。
著者のジャニン・ベニュスという女性は、モンタナのロッキー山脈の山に住みながら世界を考えている稀な人だが、これもある意味、21世紀的思考のひとつでもあろう。
こういうモノマネは、人間にも遺伝していて、人間が学習する過程や周囲と調和する過程などにおいて擬態に近いことをする習性があるという。




たしかにまあ、「学ぶ」の原義は「まね・ぶ」ともいって、すべては模倣から始まるのが人間のスタイルだ。
柔道や書道も、まずはお手本のコピーから修練する。いまあるおそらくすべての「道」がつく技巧はそういう「型」を学び、一旦は「型にはまり」、そして「型を破る」ことで初めて個としての成長がある。昔から同じ方法で育成されるのだ。
まあ、ガムランもそうかな・・・、だとしてら、擬態もガムランとはまったく無縁ではなさそうだ。
ま、ともかく、子供の遊びに「ものまね」があるのはそういう名残りだといわれている。我々はそうやって、新しい知識や技を身につけていく生き物なのだ。無意識の宿命・・・?

世界には「ナナフシ」や「コノハチョウ」や「コノハムシ」など有名な擬態する虫がたくさんいるが、ことは昆虫だけではない。ご存知カメレオンやカエルやフクロウもいるし、バリにはウミヘビに擬態して身を守る「タコ」などもいる。いつだかの「キリンのまだら」も擬態説も消えたわけではない。


ご存知ナナフシ。


ご存知コノハムシ。


ご存知コノハチョウ。枯れている風情がワビサビだ。


カエルもこんなになってしまった。


これ、フクロウです。どこにいるかわかりますか?


バリの海に生息する有名なタコ。ウミヘビの擬態のつもり、だろう。


擬態とは概ねそういう周辺環境に隠れて存在を消すか、毒で守られている生き物のように見えるかして、我が身の安全を模索してきた結果なのだろう。
こういうのは子供心をくすぐる、というか、誰も子供の頃から不思議な方法だとおもっていたとおもうけれど、自然はそれだけ弱肉強食、みんな生き延びるために必死なのだ。
今回見つかった「蛾」も、蜂を「虎の威」として、身を守る術にしている。
もしかしたら昨日の虫も新種だったかな・・・検証しようもないけれど。

地球上の虫の世界、これからもいったいどれくらい新種が発見されるのだろう・・・気が遠くなりそうだ。(は/227)


■「オレオ」の由来

2016年03月08日 | 動物・植物
先日、かみさんと話していて、例の我が車の上の猫「オレオ」の名前には意味があることがわかった。
オレオというから、てっきりクッキーの名前だとおもっていたら、実は尻尾が短いことから来ているそうだ。そう、この猫は可哀想に尻尾が途中で折れてなくなってしまっているのだ。
つまり、漢字で書けば「折尾」。そうか、漢字名だったのか・・・、なんだか「栃尾」の油揚げを思い出すのは僕だけだろうか・・・「尾」しか合ってないけど。いつだか、ダランと(か)さんと一緒に食べましたね。
でもま、とりあえずキラキラネームじゃないからいいかね。


今朝、路上を移動中の「オレオ」。案外、無防備だ。


実はこれには伏線があって、以前、この猫を最初に発見したとき、こんな会話をしたことがあった。

 か「あの猫、尻尾がないね。」
 は「そうね・・・、ああいう尻尾のない猫がよくいるけど、あれは遺伝じゃなくて、生まれてくるときの事故によるものらしいよ。」
 か「へえ。」
 は「猫っていうのは、一回の出産でだいたい5~6匹生まれてくけど、なかには毛色の違うのもいて・・・、それはつまり、雌の猫は発情期になると何匹かの雄と交尾するから、それが同時に生まれてきてしまう。だから親の違う子供を同時に授かるということだな。」
 か「へえ。」
 は「で、彼らは子宮のなかでギューギューになっているわけだから、生まれてくるときにも変な体勢で生まれてくるってことがあって、そのときに結構な頻度で尻尾が折れるらしいよ。」
 か「へえ。」
 は「・・・キミは平さんか?」
 か「えええ・・・?? ・・・でも、尻尾がないといろいろ困ることもあるんじゃない?」
 は「そうそう、猫やリスってのは尻尾でバランスとっているからな・・・、狭い塀の上なんかを渡るときはたいへんかもね。」
 か「塀。」
 は「・・・・・」

なんという会話の夫婦だ・・・ちょっと創作入ってるけど。
ともあれ、ま、そういう次第で「折尾」になったらしい。とりあえず、名前の由来がわかってよかった。


「平さん」(NHKより)。


猫の得意技。よくある光景だが、動物というのはどの種も外的がいない場所、
上から見渡せる場所を好むから、家猫というのは、きっとこういう塀の上が安心なんだろう。



でも、向こうもだんだんこっちに興味を示している風だ。ガムランでも聴きますか?
いや、今度会ったら、ちょっと話しかけてみよう。もしかしたらオレオにとっては迷惑極まりない話かもしれないし、きっと何も考えていないとおもうけど、猫には猫の何らかの動物的本能的期待というやつもあるかもしれないし・・・。
そうやって、新しい出会いはいつも未知の進展が隠れている。今度は異種交流潭だ。
さて、どう出るか。

「我が輩は猫である。名前は折尾、という。」(は/212)


何が言いたいんだ、その表情は。お前、本当は「平さん」というんじゃないの?
かみさんは「ホワイトソックス」とも言っていたけど、別名だろうか。
でも、それだとなんかダイリーグっぽくない?



■猫の名前

2016年02月22日 | 動物・植物
(か)さん家にやって来た猫、なかなかいい感じ。やっぱり、猫は愛嬌があるね。
かつて80年代に「やっぱり猫が好き」という深夜番組があった。毎回たった三人の女性以外出てこないが、そのトークが絶妙だったのが懐かしい。脚本の三谷幸喜を初めて知ったのはそのときだった。猫好きだったのかね。




昨日、たまたまお休みだったので、本屋に行き、久々に立ち読み三昧。以前はこういうこともままあったが、最近では珍しくのんびり本屋で時間を過ごしたのでした。おかげで7~8冊ほど買ってしまったけど。
目についたのは、ムック本から単行本まで、「○○がすごい」というタイトルの本が実に多いということ。
僕の知る限り、たぶんこの手の言い回しの最初は「このミステリーがすごい」というキャンペーンだったとおもうけど、その後は「この植物がすごい」とか「この昆虫がすごい」とか何にでも「すごい」が続いていって、いまではまるで流行語のようだ。
いかに本が売れない時代とはいえ、一度ヒットしたキャッチーなタイトルをどの出版社でもパクる、というのはいただけない。出版社も編集者もそれだけたいへんな時代ということだろうけれど、出版業界もなんとも軽いノリが進んでいる気がする。
で、そのなかにたまたま「猫はすごい」という新刊新書もあったので、ざっと立ち読みしてみた。
ま、そういうことにあやかったせいか、猫は時速50kmで走れるとか、身長の5倍のジャンプ力があるとか、爪がどうのとか、小学生でも読めそうな内容で、さして発見もない中身。15分くらいで読み終わってしまった。

そういうことならもっといろんな見方もあるとおもうけど・・・。
ちなみに、猫の後ろ足の膝、人間とは逆に曲がっている、とおもったことはないだろうか。つまり、普通は身体の前方に尖ってくの字のなるところ、猫は、後ろの方にくの字になっている・・・、または関節がひとつ多い、とか。



実はこれ、「かかと」である。つまり、猫はいつも肉球のある部分で「つま先立ち」しているとうこと。抜き足差し足、なのだ。忍者のようなハンターのような本能がそうさせたんだろうか。
みなさんはそんなこと当り前、とおもっているかもしれないけれど、僕が最初にこれに気づいたときは、それなりの愕然としたのを覚えている。
ま、猫に限らず、動物にはいつも発見があるし、猫ネタならもっとたくさんあるけれど、書ききれないので、それはまたいずれどこかでまとめて。


ところで、最近、いつも我が家の車の上にいる猫に名前がついた。「オレオ」という。もちろん、かみさんが付けた。
糖分を貯めているという意味だろうか?・・・クッキーみたいな名前だ。
ノラだが飼い猫だかわからないので、他にもきっと名前があるかもしれない。
だけど、我が家では「オレオ」なのだ。英語にすれば"Oreo"だ(??)。
なんだか「クオレ」とか「オレオレ」とか「クレオール」とか、バリなら「オレッグ」とか、つい語呂合わせのような連想してしまってよくない。

ともあれ、日本の「オレオ」は、ヤマザキナビスコからの販売が8月の製造分で終了するらしい、と今朝かみさんが言っていた。
どうも、ナビスコのライセンス契約が終了ということらしいので、当然「リッツ」も消えることになる。オレオはともかく、リッツは惜しい、とおもっている日本人もきっと多いはず。ずいぶん普及していたものね。
今後は、アメリカ側の方針にもよるとおもうけど、直輸入か、日本で別途製造か、ということになる。後者の独自製造販売はかなり難しいだろうな。
いずれにしても、日本独自に改良されたあの味は、もう食べられない、ということのようだ。



以前、仕事がらみで「クッキー」と「ビスケット」と「サブレ」と「クラッカー」などの違いを調べたことがあって、それによると、どうもクッキーとは、語源はオランダ語由来で、アメリカで食べられるようになったビスケット、ということだった。つまり、ビスケットが先?
ま、結論としては、国内においては、どこから日本に伝わってきたかで呼称が違うということ。
つまり、イギリス由来はビスケットで、アメリカ由来はクッキー、フランス風にイメージしたいならサブレということになる。
だけどまあ、いまとなっては、むしろ、アメリカの慣例で言った方がわかりやすいかもしれないかな。
当然、本格的には成分の違いでの分類もあるだろうが、普通のアメリカ人は、焼き菓子をクッキー、菓子パンをビスケット、塩味の焼き菓子をクラッカーと大雑把に言い分けているそうだ。
だから、イギリスではクッキーは存在しないし、アメリカではイギリスのスコーンはビスケットと呼ばれることとなるということ。なんだかややこしいね。
でも、とりあえず「オレオ」はアメリカから来たわけだし、どこからみても正統に「クッキー」ということになるわけだ。

ともかく、そうやってクッキーのオレオはなくなってしまうが、残ったのは、我が車の上の「オレオ」だけ、ということになるんだろうかね。
いずれにしても、結局、猫の考えていることまではわからないけど。まあ、自分の名前なんて、どこ吹く風だ。
そういう猫を見ていると、う~ん、そろそろ春かな、という感じもしてくる。この猫はこの猫で、きっとここからまた新しい物語を始めるのかもしれないな。誰が「くしゃみ先生」かはわからないけれど。
「我が輩は猫である。名前はオレオという。」(は/208)




明日からまた香港。土曜に帰って、日曜はグンデル。月曜朝から今度は上海。水曜に帰ってそのまま羽田に一泊して、木曜早朝便日帰りで南紀に行く。
どうしてこういうスケジュールになるのかわからないけど、仕事はそれぞれ動いているけど、身体はひとつ。なかなかままならない。
なので、次回は、たぶん再来週、かな・・・。ともかく、しばらくブログはお休みです。


■日の当たる場所-自然のかたち

2015年09月07日 | 動物・植物


今年の春のある日、近所のコンビニに行ったら、こういう剪定の跡があった。
剪定しないと、敷地からどんどんはみ出すし、日も当たらなくなるし、樹木にもよくないからやるんだろうけど、植物の生命力の形というのは、これを見る限り、なり振り構わないというか、過激だね。

それが先日、同じ場所を見てみたら、あっという間にこんなにこんもりと枝や葉が成長していた。びっちりということは、効率よく、かつ、最も高密度で葉がついているということでもある。なんといっても日当りは栄養源だしね。




植物の枝や茎や葉の付き方のことを専門的には「葉序」(ようじょ)というけど、そこには三パターンあるとされている。なんといっても主流は螺旋状に付いていくというパターンだ。
この螺旋の葉序とは、螺旋状に成長しながら、ある角度で葉がついていくというのが基本だ。
要するに、葉は光合成をするわけだから、影にならないことが大切。普通に考えれば、180度とか120度というのが効率的に感じるけれど、それでは2周目以降には真上から見ると葉が重なってしまってよろしくない。
螺旋葉序は、そう単純ではない。実は、絶対、葉が重ならない角度があるんです。


事務所にある植物の葉。典型的な螺旋葉序だ。

これも学生時代に読んだ話だけれど、実際の例でみると、最初の1周目は葉は反対側に1枚でるので1周で2枚、次は120度で3枚、次の螺旋では144度で、つまり2周で5枚、その次が135度で今度は3周で8枚・・・、その次が問題だ。138.46度。急に変な数字になった。でもこれ、5周で13枚ということなのだ。
並べ直すと、1/2、1/3、2/5、3/8、5/13・・・。そう、これ、分母も分子も、前にも書いたフィボナッチ数列だ。

結果、その先、どういう数字に収束していくかというと、137.5度という不思議な数字に近づいていく。
でもこれには黄金比という立派な根拠がある。公式としては、360度÷黄金比の二乗で求められる。つまり、360度÷1.618÷1.618ということだ。わかるだろうか?
ワヤンは残念ながら平面なので、「クプの木」はこのルール外だけど。

それはともかく、自然界が導きだしたこの不可思議な数字は、太陽を求める生命としての植物が生き抜くために必要な命の知恵から生まれた合理なのだ。
やっぱり自然は不思議だね。(は/152)

■キリンのまだらの科学

2015年07月15日 | 動物・植物
好きな動物を挙げろといわれたら、らくだや象やクジャクもいいけど、たぶん、キリンかな・・・家の台所にはフィギュアもあったりするし。
どこがいいかといわれても困るけど、名前も幻獣っぽいし、かたちもユニークだし、第一、その斑が変だ。




1933年、かの寺田寅彦の弟子のひとりである平田森三が書いた科学エッセイが、生物学者たちの一大反撃にあったことがあった。一般に「キリンのまだら論争」と言われている有名な論争である。
内容は直接読んでいないので又聞きだけれど、科学者同士のわりに、議論というより感情論に近いものだったらしい。

そんなこともあって、この本を最初に読んだのは、大学に入りたての頃、ピカピカの1年生だった。だから、すこしだけ懐かしくもある。小金井の古本屋で200円くらいで買ったような気がする。
この「自然選書」シリーズは、どれもかなり良かったけど、随分前に廃刊になってしまった。残念だね。
美術系の学生にはデッサンという授業があって、もしまじめにやるなら、筋肉の付き方とかの解剖学や植物の成長の仕方とかの諸科学は学んだ方がいいとされていたので、自然科学系は結構読むことになる。ま、ダ・ヴィンチ以来の伝統だ。



で、本の内容はというと、未発表エッセイや雑考や小論考ながら、ごくまともな、というか、非常に示唆に富んで好奇心を刺激するものだった。
たとえば、スパゲッティの割れ方と宇宙線の放線は類似の性質があるとか、お得意の割れ目論はもちろん、綿菓子やサーカス、芝生を横切る近道の発生原理とか、温度計の水銀はお湯に入れると最初は下がるのはなぜかとか、クジラを打つ銛はなぜ平たい方がよいかとか、実験ノートの正しい付け方、とか、ま、そういうことだ。
しかし、師匠の寺田がそうであったように、ごく日常のなかの身近な自然現象をどう物理学で捉えるか、といったある種目鱗な話がつづく。
寺田はなんといっても日本で初めて金平糖のかたちの生成を科学した人だ。ごく普段の当り前のことにも物理は潜んでいることを公に言ったほぼ最初の人だった。

 
寺田寅彦


で、書名にもなっている「キリンのまだら」という小論考が冒頭にあって、これが問題のエッセイである。
内容は、要するに、田んぼや土のひび割れ模様はキリンの不可思議な斑紋と似ているのには、きっとその発生に同じような根拠がある、というものだった。
簡単にいうと、おそらくキリンが成長する過程で皮膚がひび割れ、それが斑になった、という「割れ目」的発想で、逆にいえば、キリンの斑を全部パズルのように組み合わせると楕円球体になるという奇天烈なものだった。
これに猛反発したのが、生物学者の丘英通だった。挙げ句、平田は生物学会全員を敵に回してしまったのだ。
ま、結局、メロンの割れ目はそれで正しかったが、キリンに関しては、今日では、平田説は科学的には正しくないということになっている。普段食べているメロンは、たしかに成長速度と体表維持が揃わず割れてしまうという現象なのだ。
だからって、でもね、それくらいいいじゃない、平田教授の発想、面白いもの、という気がいまでもしてくる。


一方、50年代のイギリスでも、こうした自然の現象を数式で解き明かした人いた。天才数学者として名高いアラン・チューリングである。
チューリングは、コンピュータ科学や人工知能の父ともいわれる数学者だが、第二次大戦中のドイツ暗号機エニグマとの格闘は、シャーロックでも活躍のベネディクト・カンバーバッチ主演映画「イミテーション・ゲーム」にもなった数奇な人なので、知っている人も多いかもしれない。


アラン・チューリング


映画、イミテーション・ゲーム


それが、世に「チューリング・パターン」と呼ばれているもので、ある条件下で反応し合うふたつの物質は、自動的に一定周期のパターンを生む、というもの。実際には局所反応と拡散反応のそれぞれの影響で形が決まるという。
これを「反応拡散系」と呼ばれる数理モデルとしてまとめたものなのである。
とかいっても、さっぱりわからない。数式自体は、さらにどこからどう見ても理解の範疇を越えている。
でもそこをあえていうなら、自然界のパターンや斑文様も、縦波と横波が合わさると一定の波紋になるのと同じように、あるふたつの物質を混ぜることで生まれる規則的なパターンで、その成長過程と結果を数式で説明できてしまうということだ。


シュミレーションで得られるチューリング・パターンの例


そこに、90年代後半、近藤滋という東大出の生物学者が、タテジマキンチャクダイの縞模様は、チューリング・パターンで説明ができると実証したから騒ぎが大きくなった。
近藤教授の理論は、動物等の模様は、受精卵ですでに決まっているという決定論ではなく、成長過程の生体反応で変化するというものだった。
なら、もしかしたら擬態生物の変化や環境による模様の変化も理論化できるかもしれない。
ということは、これで、「キリンのまだら」も普遍的な発生プロセスの説明の糸口が見つかったことになる。
当然、シマウマの縞の生成もシュミレーション可能だ。ただし、どうして縞でなければならないのか、ということは相変わらず残ってしまう。
つまり、生物学者というものは、そういうメカニズムより、なぜそういう適応というか選択をしたのか、という理由を知りたいのだ。

・・・まあ、でも、件の論争から約60年が経って、平田論をバックアップしたかたちになったのが、やはり生物学者だったということが皮肉というか、もしかしたら救いなのかも。


タテジマキンチャクダイ


タテジマキンチャクダイの成長に伴う縞の変化


ある係数を変更すると生成するパターンも変わる


そういえば、寺田も平田が引き継いだ「割れ目」の科学や「自然界の模様」や「リーゼンガング現象」には随分ご執心だった。
そのうち、キリンやシマウマだけじゃなく、ヒョウ、チーター、岩石や植物の模様まで、幅広く詳細に解明されるだろう。もしかしたら、クンバカルナの斑点も解明されたりして・・・。

でも、ま、本当に貴重なのは、なぜそうなったかという解明にも増して、最初にキリンのまだらと田んぼのひび割れがなんか似ていると気がつくことではないだろうか。すべてはそこからはじまるのだ。
概して、直感が正しいとはよくあることだ。(は/127)






クンバカルナ。何度も悲運の死を遂げたね。ご苦労さま。




■シマウマの縞

2015年07月10日 | 動物・植物


シロかクロか、ということなら、シマウマはどうだろう・・・。
シロでもクロでもないし、そもそも縞、ストライプとは何だ、これ。
どこかの民族の刺青のようでもあり、ウルトラマンのダダのようでもある。なんか似てる。

 




さて、ここでひとつ質問です。シマウマは、黒が地で白が図か、それとも白が地で黒が図でしょうか?
つまり、黒い馬に白い縞が入ったのか、白い馬に黒い縞が入ったのか・・・。
答えは、前者が正解です。
やっぱり、黒いシロクマはいないけど、白いクロクマはいるのと同じ原理だろうか。相変わらずわかりにくいけど。
これを聞いて、黒人学者は喜んで、白人学者はがっかりしたそうだけど、意味不明。彼らは何を期待していたんだろう・・・人間心理って面白いね。




ところで、たしか1年くらい前、英ネイチャー・コミュニケーションズに載って話題になったけど、このシマウマに関して、世紀をまたいだ論争に決着がついた、というニュースだった。
どういうことかというと、シマウマの縞模様はなぜできたか、ということ。実はこの「シマウマの謎」は、140年前からダーウィンと例のウォーレスの間に始まっていた論争だったのだ。

最初はまあ、草原のカモフラージュのためとか、色盲の多い捕食動物のオプティカルなまやかし効果とか、体温調節説とか、種や個体の識別を示す問題だとか、いろいろ議論されてきたらしいが、いかんせん、決定打がなかったし、証拠がなかったということなのだ。
昨年、そこに決定だを提示したのが、米カリフォルニア大のティム・カーロたちの研究だった。
彼らの発見した主張は、サバンナで馬に寄生するハエ(病原体をもつ)やアブを避けるため、というもので、対象となる吸血性ツェツェバエやサシバエは、多くの馬科の動物たちを悩ませているが、シマウマには取りつかないんだそうだ。
これは、ハエがなぜか縞のある皮膚には止まらないからなんだそうだけど、う~ん、なんだろう、縞が気持ち悪いのかね。いまや、この問題の方が専門家の間では問題になっている。
でもともかく、これである種の病気は避けられるから、種の保存には有益ということにはなる。


大きくすると、これはこれで怖い。


さらに、これに加えて今年発表になった最深研究では、「シマウマの縞模様は変化する」というものだった。えっ?変化? そう、他の動物では、身体の模様は個体差であって変化するということはない。人間の指紋が個体識別に使われるのと一緒の理屈だ。
だが、シマウマは環境に応じて微妙に変化するということらしい。具体的にいうと、「暑い地方ほど縞の数が多くなる」ということだった。
理由は、縞が多くなると体温が下がり、暑くないうえ、やはりハエの攻撃から身を守ることにもつながるというもの。ハエやノミというのは、主に体温の高い動物に反応するからだ。
なぜ、縞は体温を下げるかというと、それは「うず冷却」という現象らしい。つまり、空気が身体に当たるとき、黒い部分は熱をよく吸収するので気流が激しくなり白の緩やかな部分と干渉してうずを巻くので、皮膚以下を冷却するという理論だ。
そうなら、ま、細かい方がより緻密になるね・・・。





でもね、だからって、縞じゃなきゃいけない、ということにはならないだろう。これをもってダーウィン以来の論争に決着、とかいわれても、イマイチ、ピンとこない。
それに、それならなんで他の馬は真似しないんだ。

そういえば、魔女ランダの足の縞模様だなあ・・・、シマウマも、いっそ、縞模様の方が迫力あるとか、威厳があってカッコいいとか、モテるとか、そういう自発的デザイン的進化理論はないもんだろうか。(は/124)



■白いクロクマ

2015年07月09日 | 動物・植物
(か)さんの北海道は随分大河ドラマでしたね。きっとそれだけ充実していたんだろうか。いいな。最近出張は行っているけど、旅行は行ってないし・・・。上海なんて三話で終わってしまった。
とくにみんな一度は旭山動物園は行った方がいいというし、いずれ行くこともあるだろうか・・・。

う~ん、ペンギンはやっぱり愛嬌がある。でも動物園の定番、シロクマもいいね。たしかにまあね、絶滅危惧種だ。
本当は獰猛だろうけど、おっとりした体型と鼻とか首が長いのが怖さを和らげているのか、本当は怖いはずなのに、なぜか熊類は、童話でもアニメでも、ぬいぐるみやクマモンやキャラクターでも子供たちの基本アイテムだ。横町の熊さんなら、落語でも愛されている。
きっと、なにかホッとさせる包容力のようなものがあるんだろうか。
ま、熊には、黒い種と茶色い種と白い種がいることになる。これは、実はニグロイド、モンゴロイド、コーカソウドの人種と一緒だ。
だけど、人間には、ツキノワグマやパンダのような白黒模様の人はいない。仮にあれは体毛だとしても、人間には模様のある民族はいない。もしかしたら、古代の化粧とはこういうところから発祥したのかもしれないね。




ともあれ、世界にはもっとヘンテコな熊がいる。「白いクロクマ」。カナダ西岸、プリンセスロイヤル島という無人島に稀にみる伝説のクマだ。いつだかナショナル・ジオグラフィックが特集して、随分話題になったのを覚えている。
黒いシロクマはいないけれど、白いクロクマはいるということ。
通称だけどシロクマが北極にいるので、単純にシロクマといってしまうとまぎらわしいから、白いクロクマと呼ぶ習わしになっているけど、それでもちょっとややこしい。
まあ、これ、色素の問題ではなく、どうも遺伝的な問題らしい。ならシロクマといえばいいではないか、というとそうでもない。れっきとしたクロクマなのだ。ここのクロクマの1割程度がそうらしい。彼らの数は少なくても、種が少なくなければ絶滅危惧種にはならない。これもややこしい。



彼らは島に行った人の前にときたま姿を現すことがあったらしく、ネイティヴアメリカンなどでも神話にもなっている。
その遠い昔むかし、地球が凍るひど寒かった時代、人々はそれを乗り越えるために命を大切にする術をたくさん学んだ。一緒に助け合って共同で生きるということだ。
それを忘れないために、白い熊が目の前に現れて、ときどき教えてくれる。白い熊は、神からの聖なる贈り物だ、ということだ。


世の中には、白馬とか、白蛇とか、白彪とか、白虎とか、白鯨とか、白イルカとか、白兎とか・・・、彼らは、メラミンを作れない異常遺伝子のケースと、白い変種として色素が少ない種類とがいることがわかっている。
ただ、どちらもかなり珍しく、それで伝説や神話に登場する聖なる生き物になっていくのだろう。
一般的に「白」は純粋無垢な色だから、ケガレていないとされるのだ。

世界には、他にも幸運を呼ぶとされる生き物もたくさんいて、人間は、そういう珍しいものに期待や価値を見いだしてきたということだろうか・・・。
稀(まれ)には何か秘められている、と感じるわけだ。(は/123)