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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■政治と清貧

2016年06月15日 | 練習日記
ついに都知事が辞職になった。
しかしまあ、なんでここまで粘ったんだろう。理由は単にオリンピックだろうか?
やめたら東京の恥をさらすというけれど、そもそもこのまま行ったって、すでに恥だろう。
それにもっと問題は、誰がこれらをリークしたか、ということも残る。ここまでになるとおもっていたかどうかは別として、得をしたのは一体誰だ。
ま、どっちに転んでもいい迷惑だ。はたして、これで何かが少しでも良くなるのだろうか・・・。

おもえば、東大教授から朝生に出てすっかり有名人になり、国会議員、大臣、党首と上り詰め、都知事、その間、どんな変化があったんだろう。
前の都知事もそうだった。以前現役時代のあるとき久々にお会いした際は、作家時代とは別人になっていた。名誉や権力というものは人を変えるらしい。文字取り、地に脚がついていなかった。
この手のタイプは、逆に他人の経費つかいについては厳しかったりする。二人とも公約である無駄遣いをなくす気持ちは当初は本心だっただろう。だけど、自分が使う分は別なのだ。一回持ち上げられると勘違いしてしまうというか、公僕でも無私にはなれないということだ。
つまり、結局はスケベ根性だけの小者なのだ。それでは大局的な政治家はつとまらない。

その点、善くも悪しくも、田中角栄はやっぱりすごかった(比べるのは変だけど)。たしかに多くなお金は動かしていたし、現代にも影響するような褒められたことばかりではないけれど、たぶんそれは、私利私欲以前に、国や故郷なのだ。
子供の頃見た「角さん」はものすごいオーラがあった。旧山古志村のおばあさんたちは、角さんが来るというので、雪のなかゴザのうえで2時間じっと待っていたそうだ。それを見た田中は涙したという。情には厚かったらしい。うちの母親が言っていた。翌年には見事にトンネルが開通したそうだ。
ま、角栄論は長くなるのでまたいずれ。いずれその功罪の検証は必要だろう。



Webnewsより。

で、こういう一連で対比的にすぐおもい出すのは、ウルグアイの前大統領、ホセ・ムヒカだろうか。ちょうど今年来日講演もあったっけ。
ムヒカは、かつて軍事政権に対抗して左翼ゲリラになった闘志だった。投獄もされたが、ついに大統領として労働者庶民のための政策を実施していった。
で、自身は、「世界一貧しい大統領」として知られている。給料の大半は寄付をし、大統領官邸にも入らず、農園で自然とともに、毎月千ドルで奥さんと暮らしつづけた。これは、貧しいというより「清貧の暮らし」だ。
唯一の財産、フォルクスワーゲンのビートル(年代物らしい)を1億出すから売ってくれというアラブの富豪に、「これは売れない。友人たちからもらった大切な贈り物だ。贈り物は売り物じゃない」と答えたという。


撮影:アフロ。

朝日新聞の記者の質問に対して、こう答えている。
「私は農民の心を持って生まれた。自然が大好きなんだ。」
「貧しい人というのは、限りない欲望を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。私は質素なだけで貧しくはない。」
「モノはカネで買っているのではない。働いた、人生という時間で買っている。だから生きていくには働かないといけない。そして働くだけではなく、ちゃんと生きることが大切だ。たくさん買物をした引き換えに、人生が減ってしまっては元も子もない。」
「成長一辺倒の西洋文明とは違った文化が日本にはあったはずだ。このまま資源の浪費を続けたら地球がもたない。生き方から変えようと言いたかったんだ。子供の頃、近所に日本からの移民がたくさんいて、みんな勤勉でわずかな持ち物で満ち足りて暮らしていた。本来簡素な生き方は日本人にも響くとおもうんだけどね。」
だそうだ。


農園の自邸(朝日新聞Digitalより)。

飢えも戦争もない国、消費や搾取もされない自由、それを自分たち自らが考えてほしいそうだ。
ムヒカは、「幸せとは生きる喜びだ」と笑う。そう、笑えるというそれだけで幸せを感じる人たちも世界にはたくさんいる。
そういわれると、いまの日本もバリも危ういところだ。ま、我々Tunjukはなんとかやってますが・・・。


日本で子供たち用に出版された講演録。

ま、世界には、こんな政治家も、いる。
小さいこといってないで、ドンでもいいし、コツコツでもいい。こういうときこそ、立派といわれる政治家が出てほしいものだ。
政治家とは、こういうことに貢献する人であったほしい。(は/239)

なんか変な終わり方になってしまった・・・。
ああ、ともあれ目の前の問題は明日からまた出張ということだ。
今月も目まぐるしくて、かみさんには迷惑をかける。どうも、すいやせん。出張も清貧にしやす。


■Silent Messages

2016年06月06日 | 練習日記
人間のコミュニケーションについて、「メラビアンの法則」というよく知られた理論がある。
もともとは、70年代にカリフォルニア大学の心理学の教授アルバート・メラビアン博士が発表した理論であるが、感情の起伏を含む人間の対面コミュニケーションにおいて、実は言語の占める割合は7%程度しかないというものである。
博士は、それを"Silent Messages"と呼んだ。
いまでは、一般に、そういう「非言語コミュニケーション」のことを「ノンバーバル」という。会話など普通の言語によるコミュニケーションを「バーバル」ということに対する反語である。



では、そのノンバーバル、言語以外のコミュニケーション要素とは何か。
博士は、声のトーンや質(つまり言語以外に発声する声)などの聴覚的要素と表情や身体表現などを含むボディ・ランゲージ、つまり視覚的要素を取り上げて実験した。
現在では、これらに加え、臭覚や味覚的要素を加えて、もう少し細かい分析が進んでいるが、メラビアンの研究は、人間の意思疎通の現場において、いかにボディランゲージが重要であるかを最初にはっきりさせたという点で画期的であった。

ということで、メラビアンは、人の対面コミュニケーションには大きく分けて三つの要素があり、意味や内容の伝達するのにそれぞれが占める割合は、以下の通りである、と結論づけた。

 言語=7%
 声のトーンや質(大きさや早さなど)=38%
 身体表現(外見やボディランゲージ)=55%

これが「メラビアンの法則」、別名「7-38-55ルール」ともいう由縁である。
これはその後、多くの研究の基準になっていき、いまでもビジネスセミナーなどではよく取り上げられる理論のひとつになっている。

ということは、言葉では「私はそんなことしてません」と言っても、目が泳いでいたり、表情が不自然だったりすると、人々は、すぐにそれがウソだと見抜いてしまえるのは、そういう原理が働くからでもある。
逆にウソのうまい人というのは、こうした行為と言語が一致しているので見分けにくくなるともいえる。詐欺師の鉄則でもある。

以前にも少し書いたが、知り合いで、世界中どこへ行っても全部日本語で通す人がいて、なぜかその人は、現地でコミュニケーションがスムーズなのは、まさにメラビアンの法則がハマっているからだ。
レストランで、表情と身振り手振りで、「姉ちゃん、寒いからそこのドア閉めてくれる?」といえば、店員はすぐにドアを閉めに行くし、「姉ちゃん、暖かいコーヒー二つ」といえば、何も質問なしに、コーヒーがふたつ出てくる。
現場でも、「わるい。兄ちゃん、そこのネジ、取ってくれる」といえば、その通りになる。楽しくすれば、相手も笑うし、言葉はほぼ関係ないし、不自由はない。
コミュニケーションと理解とはそういうものなのかもしれない、といつもおもう。

で、そういう風に、本来この三つの要素や内容は一致しているものだが、そこに相違が生じた場合に、人間は奇異感を覚えるとされている。普通は有り得ないからだ。実fはメラビアンはそこに着目し、その割合を導きだした。
誤解されると困るが、例外的には、顔面に病気のある人や身体が不自由で、ボディランゲージと心理状態が異なる人などがときたまそれに当たる場合がある。言葉以外の手段から心理が読み取れない場合があるからだ。
逆に、そう、若い頃のジョン・レノンがステージで身障者の真似(当時だから許された?)をしてウケたり、竹中直人の「笑いながら怒る人」は、この法則に当てはまらない行為だから面白いともいえるのだろう。不自然なのだ。



笑いながら怒る人



いや、ここまで来て何を言いたいかというと、先日、ダランもご贔屓のNHKで観たLIFEの「うそ太郎」の話し。
星野源君演じるキャラクターはとっても面白い(彼はこのキャラに妙にはまってる)けど、どうもその心理が読めない設定だ。もともと挙動不審だし、ウソが意図的なのか無意識なのかも不明だ。
で、そもそもウソ太郎が「すいやせん、ウソつきやした!」という言葉は本当だろうか、という論理学的問題もある。
つまり、ウソ太郎はもともとウソをつくわけだから、ウソそのものがウソ、ということになりはしないか。本当がウソでも、ウソがウソなら、ウソは本当で、じゃ、ウソが本当なら、本当はやっぱりウソになる。どれがウソだ?

だがしかし、である。その真実を知ろうにも、その心理を知ろうにも、このウソ太郎は、破天荒で声も表情もいつも一緒だし、怒られても笑いながらウソを謝るのだから、どれがウソかホントか、言語以外の手段から見分けることができないのである。メラビアンの法則とは何だったのか・・・。
人間の個性やコミュニケーションというものは、やっぱり複雑だ。そう簡単に分類できるものでもない。
でもこのキャラ、あなどれない。不可思議で、逆説的な人物設定だ。今度、もう少し、その背景を掘り下げてみようか、どうしてやろうか。シャ~(わからない人はごめんなさい)。


出典:pbs.twimg.com

ま、そんなことはともあれ、昨日は、ダランはいなかったが、久々にグンデル隊だけで集まり、グンデル特訓をした。
なんだか久しぶりにパングルを握った感じがしたが、演奏は実に気持ち良かった。新曲のチャガムレガンもバッチリ。あっという間に完璧に弾きこなしたのでした。

あ、「すいやせん、ウソつきやした!」(は/235)


■アンクルンの言い訳-義理か人情か

2015年02月23日 | 練習日記
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

昨日は結婚式とアンクルンの練習が重なってしまい、義理と人情を秤にかけて、ウエディングの方に出席した。
すみません。ま、一生に一度(じゃない人もいるけど)か、練習の一回か(それはそれで重要なれど)、ということか・・・。ああ悩ましい。どっちも一生言われそうだ。

ちょうど「ウロボロス」というドラマの録画を観ていたら、吉田羊やムロツヨシも面白いけど、我が家でいま注目は、滝藤賢一かな。あるときは謎の中国人研修生、あるときはやっさん、あるときはゴールデンスランバーの助演役。その役になりきる感じは、変幻自在だ。もう中国人にしか見えない。
古代は俳優(わざおぎ)というけれど、神を楽しませることのできる特別な人を指していた。ジョニー・デップもどちらかというと、そういうタイプね。
むしろ、ショーン・コネリーから高倉健さんまで、ひとつのイメージを払拭するのにたいへんな人もいる。

ま、「人生いろいろ、男もいろいろ」。


で、一次会は渋谷でMISIAのアカペラ、二次会は次々に友人ミュージシャンの生演奏大会。女優のSTさんも来ていた。
最近、榮倉奈々ちゃんとか、由美かおるとか、ライヴのレセプションですれ違う女優が多い。女優づいている。
僕は不案内だけれど、かなり有名なミュージシャンも揃っていたらしい。確かに白熱のライヴだ。すげえ、って感じ。




アレ・ブレ・ボケもここまでくると芸術的だ。森山大道はやっぱりすごい。

最後は、恒例のケーキとブーケ投げ。
ゲットしたのはなんと男性でした。えっ?どういうこと?
彼のあいさつは「いま、彼氏募集中で~す。よろしくお願いしま~す。幸せになりた~い。」だそうだ。
さすが渋谷区、本物のLGBTだ。

ま、「人生いろいろ、LGBTももいろいろ」、だ。

アンクルンかウエディングか、義理か人情か・・・。
なかなか人付き合いもままならない。(は)



35年ぶり、くらいに通った「竹下通り」。
もういないだろうとおもっていたけど、クレープ屋はまだ並んでいた。

■蓮の華の秘密

2014年12月11日 | 練習日記
         

先日のワヤンの最後、矢が蓮の華に変わるところがウケたそうで、ありがたい話。
だけれど、イマイチ単純に喜べない何かもある。それはバリにはないことをやるわけだから、何か道を外れたものになりはしないか、という懸念からきている・・・。
そう、線路のない伝統ですからね。いろいろ手探りな面もあります。ダランには、我々にはわからない苦労がもっとたくさんあることでしょう。

で、もともとこれを作った動機は単純。こここそ演目を象徴するクライマックスなのに、これまで演出的工夫があまりなかったという個人的感想によるところが大きい。
この部分、ダランに聞いたら、バリでは普通、言葉でそれを話すだけで終わるそうである。それはたぶん、基本的にバリはヒンドゥなので、仏法やその象徴としての蓮の華との距離感が我々とは少し違うため、かもしれない・・・。実際、数年前にバリで観たときも、クライマックスはプルサダとダサバフがムルティに変身して戦う場面であった。ここもすごいですけどね。でも我々の感覚では、やっぱり華に変わる方がピークな感じ。正に分陀利華の現出である。
要するに、そう、その方が物語としてのカタルシスがある、のではないだろうか、ということなのである。

では、そこを新たにもっと盛り上げて強調するにはどうしたらいいか・・・、ということで、このアイディアが浮かんだので、勝手に作ってみたら案外うまくいった。ので、ダランにみせてみた、という次第である。
当初はダランも同じ印象だったらしく、何かやった方がいいとはおもっていたけれど、これでいいかどうか・・・、という感じ。そりゃそうよね、一も二もなく賛成、というわけにはいかなかった。

これ、実際の製作は、かみさんが8割がた手伝ってくれた。設計が僕で施工がかみさんという感じ。
図面だけ作って見せて、用紙と皮細工用のパンチの買い出しまでは行ったが、翌日、仕事から帰ってきたら、おっと、すでにあらかた出来ていた。
軸棒は100均の菜箸、回転軸はカレンダーを貼っていた画鋲、ひもを支えるリングはJALの紙ダグに付いていた金属の輪・・・、という超家内制手工業。JALのリングはかみさんのアイディア。パンチはほとんど彼女が打ったが、黒い紙は自分で打った。コン、コン、コン、夜の作業はさぞ近所迷惑だったことだろう。
創作的、とはいっても、実際の機構は、軸をつくっておいてひもで引っ張るというワヤンでよく使われる手法の応用である。だから伝統を踏襲しているといえば、そうともいえる。ん~、だからまだいいのかなぁ。

とまれ、本番のときは、プマデのコテカンとカンティランの乱れ打ちが実に効果的だった、とおもう。とくに二日目は、連続でそれをやったのが良かった。本来、プマンクの鈴が鳴り続けるといいとおもっていたが、それがなかったのをよく補っていたとおもう。

最近は、通しの合わせをしながら、演出やギャグにもみんな少しは意見や感想を言うようになった。いまとなっては、ダランを軸に、そうやって、みんなで知恵やネタを絞って作り上げていくというのも、我々のグループのチームワークというか楽しみのひとつかもしれませんね。
そういえば、利休も還暦過ぎてからが最も創造的だったというし、北斎も古希を過ぎてから脱皮したそうである。だからきっと、我らのダランもまだまだ、これからもっとクリエイティヴに円熟していくのでは?
楽しみですね、みんながお手伝いしますよ。(は)

■登場人物

2014年12月02日 | 練習日記
         

一昨日、ワヤンの合わせがあった。今回、新しい登場人物が多く、チラシにもほとんど入れなかったので、結構、顔と名前がコンフューズしている。
まず、最初は、物語の前半部、今回のメインキャスト人喰い王プルサダの罠にハマって生け贄になる無敵の王ウィダルバ(目が細い)。
そして、主人公スタソーマの義兄ダサバフと戦い、破れてしまうプルサダの家臣ウィモナ(青い肌と丸い目)。
で、プルサダの乗る怪鳥ウィルマナ(ガルーダにちょっとだけ似ている)・・・「ウィ」だらけ(ここポイント)。
さらに、そのウィルマナを矢で撃ち落とすスタソーマの子供アルダナ(成人したての若者)。アルダナは結局プルサダに殺されてしまうが、その死を悲しむ場面で出てくるアルダナの母(つまりスタソーマの妻)チャンドラワティ・・・。
チャンドラは「月」のこと。きっと月のように美しい、という意味か。
話はそれるけど、沖縄の安里屋ユンタの間の手「マタハリヌ ツンダラ(チャンドラ) カヌシャマヨ」は、八重山の古語らしいが、テレ東ネタでは、インドネシア語がルーツだそうだ(なぜマレー語じゃないんだろう)。「太陽と月は神様」という説と「太陽は平等に我らを慈しむ」という訳が伝説化している・・・。ま、縄文以来、日本と南太平洋はつながっているからねぇ。
で、ここから物語のクライマックス、プルサダとダサバフの死闘、その際は、それぞれワヤンの人形で最大を誇るムルティに変身するも、最終的にダサバフはプルサダに殺されてしまう。
そして、いよいよプルダサとスタソーマの最終決戦。殺生を禁じたスタソーマはいかに・・・。そう、プルサダの射った矢はすべて蓮の華になってしまうのです。ここが分陀利華の所以。仏法な感じ。心や行いが清く正しければ自ずと云々。

これらの登場人物、本番直前なのに、やっと顔と名前を覚えた。
これ、かなりのワヤン通でもたいへんね。相関図も必要そう。
でも、今週末、光塾の公演「スタソーマ後編」をじっくり観れば、きっとわかります。たぶん、2回観ればもっとよくわかります。きっとまだ間に合いますよ。だから2回観たい人はぜひどうぞ。損はしません。(は)

■落花は枝に還らず

2014年12月02日 | 練習日記

文太さんも逝ってしまったことがわかった。
昭和のヒーローとしての銀幕の内側の苦悩は推し量ることができないけれど、引退してからは、無農薬有機農業に本気になった。同時に、日本を二度と戦争には巻き込まない決意。特定秘密保護法や集団的自衛権には猛反対した。脱原発を呼びかけ、東日本大震災のときはいち早く現地に行った。
もっと以前、誰も振り向かなかった在日韓国人のための老人ホームを建てる運動を実現したこともある。ある新聞の孤独な在日老人の話がきっかけだったそうである。恵まれない子供の里親になったこともある。
そういう風に後年、選挙演説に立ったり、政治的発言もあったけれど、引退して、世のために自分にできる何かしなければ、というあれ、本心だとおもいますよ。
そう、いつもどこかで共感できる何かがあった人である。ちょっぴりメセムな気持ち。
1989年、美空ひばりが亡くなった年に実際に昭和が終わったことはあまり知られていない。先日の健さんといい、郷愁はないけれど、これでますます昭和が終わった感じがしますね。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

人間が一番最初にやった文明的行為というのは、葬儀だそうですね。「死」という不可解な出来事が、肉体と魂、彼岸と此岸、転生、祖霊信仰や巫女信仰など、人間にさまざまな設定やイメージを想起するきっかけになったんだとおもっています。
清浄観と生命観の強い日本なら、穢れの発想はやはり「死」から来ているとおもいます。
だから・・・、スタソーマのテーマは実はかなり重いテーマなわけですね。
あら、もうすぐ後編の本番・・・。どうなりますか、ダランの裁量はいかに。(は)

■亀戸餃子

2014年10月17日 | 練習日記


集会の帰り道、30年ぶりに「亀戸餃子」に寄ってみた。午後3時になろうというのに長い行列。20分ほど並び中に入るとすごい熱気。ぎゅうぎゅう詰めでなんとか座ると同時に1枚目の餃子の皿が目の前に置かれた。正面には「注文は二皿からお願いします」の貼紙。メニューは「餃子250円」のみ。夜はアンクルンだというのに不遜にも「じゃ、ビ、ビール」。ま、付き物ですから。
気づくと隣の子供はすでに4皿目。向かいの男性は5皿目。まるで回転寿司じゃない、これ。もしかしてわんこそば?とおもっていると向かいの男性は7皿目を注文。その隣も7皿目。ゲッ、大食い選手権状態。1皿5個なら270キロカロリー・・・、ああ、ダイエットも忘れ、奮闘した私は6皿までいったもののそこでギブアップ(調子に乗って1皿多すぎたと反省)。
それを見ていた隣の女性二人連れ。といっても一人は78歳、もう一人も70オーバー。
「お兄ちゃん、これがいいよ、これ」といって老酒を差す。二人は最初から老酒。
「いや~、この後があるので・・・。そういえば30年ぶりなんですよ、ここ」
「あら、そう。私たちも40年以上通ってるのよ」
「へえ、その頃は若かったんでしょうね」
「ぎゃはは、そりゃもう、今よりはね」(意味不明な会話が続く)
精算後、「写真撮っていいですか?」
「ダメ、絶対ダメ、美容院いってないし」(行っても変わらないとおもうけど・・・)
「そう、残念。じゃ、またどこかで会いましょう」
「うん、ここで待っているからね!」
「えっ? はあ、じゃまたここで・・・」
下町のお年寄り、とくに女性は元気そのもの、餃子4皿と老酒昼間からの飲んでるわけだし。
下町に限らず、バリもそうだけど、アジアはだいたい女性が活発。男はだいたいだらだらしているのが相場。ここでもそうですか。(は)

■原発反対集会

2014年10月16日 | 練習日記


9月23日「原発再稼働するな!さよなら原発全国大集会」に行ってきました。全国から1万6000人が集まったそうです。福島で露呈した惨状、川内原発が再稼働する前にどうしてもやっておきたかった集会。某陰謀説にもある通り、当初予定されていた代々木公園はデング熱を理由に封鎖され、都内のめぼしい公園のほとんど使えなくなっていた。デング熱なんて、昨年だって今年を上回る200人以上が感染しているのに報道も消毒もされていないというのに、今年はなぜか過剰な報道と封鎖。偶然というには誰がみてもおかしいですね。代々木から亀戸中央公園に変更を余儀なくされた上、某大手新聞社は、集会の中止を告知したそうです。ま、迫害というのは、日蓮から大本教までいつの時代もあることなので、それは笑い飛ばすのが一番ですが、いつになっても人間は成長しないものですね。力のこもったスピーチはどなたも見事でした。真実の声を聞け。
そもそもこの集会、28日に鹿児島で行われた川内原発再稼働反対集会の前哨戦として計画されたものです。28日はやはり全国から7500人ほど集まったそうですが、人口160万人の県にこれだけ多くの人が集まったのは意義あることでした。
いずれにしても、原発は止めなくては。

ただ、学生の頃の反原発集会に比べると、随分と年齢層が高い。それだけ切実なんだとおもいますが、当事者とは別に、70年代以降行き場を失いつつあったカウンターカルチャー系、コミュニスト系、マルキスト系の雰囲気の人もたくさんいました。変なたばこの匂いもしていたし。それはそれでいいんですが、昨今の香港の学生集会なんかに比べると、どうも切迫感がないというか、どこか余裕があるというか・・・。香港の学生も「これで政治がすぐに動くとはおもっていないが、やらなければ何も変わらない」と言いながら、気迫が尋常ではない。日本はどうなるんだろう・・・それより、市民グループの起こした「みんなで決めよう「原発」国民投票」

http://kokumintohyo.com

の方がそぐっている気もしてくる。
で、結局、私はデモには参加せず、餃子を食べて、音の森のアンクルンに行ったのでした。
ああ、サンシ覚えてないし、どうしよう・・・行かなくちゃ、でも、今日の問題は、傘がない。
それにしても・・・最近日本のワヤンも阿佐ヶ谷、小原と本火が多くなってきた。電気に頼らないワヤンは、エコだろうか・・・? もっと他のものを消費している気がするけど・・・。ま、たまにはね。

台風一過

2013年09月16日 | 練習日記
台風一過。

過ぎ去ったあとは信じられないほどの青空が広がることも多いのに、今回はどんより。
富士山も霞んで何とか見えている状況です。

ところでみなさんは小さい頃「台風一家」って勘違いしていませんでしたか?

さて、ちょっと街に出てきます。(お)

夏休みの締め

2013年08月20日 | 練習日記
私の今年の夏休みはグンデルの練習で締めくくられましたが、その前に両親と久しぶりに箱根に行きました。
♪~強羅温泉~♪
うちから箱根は行きやすいのですが、大抵、仙石原に泊まるので、強羅温泉に泊まるのは初めてでした。
意外とぬる湯。暑い夏でも丁度よい温度で、長湯ができました。
満足満足o(^o^)o

強羅温泉に近いのもあり、彫刻の森美術館に行ってみることになりました。
ここも久しぶりでした。何十年ぶりかな。
両親にいたっては30年ぶりぐらいでは、と言っていました。
広い敷地に作品が点在しているので、夏の暑い中は厳しいかなぁ、と思いましたが・・・
意外と来ている人が多いのに驚きました。
やはり暑かったのですが、自然が多いので、自然と作品を楽しみながら、ゆるゆる散策できて楽しめます。作品は前に見たときから変わっていなかったのですが、写真の作品は初。(というか、記憶になかったです)
 アントニー・ゴームリー作 「密着」
今年の夏は演奏会が詰ってて、体調面+仕事の忙しさ等から、こなせるか心配でしたが、無事に全ての演奏会が良い形で出来たので、ほっとしていたので、作品に凄く共感!!!
もう少し涼しかったら、隣で私も倒れこみたい心境でした。
ここの美術館は紅葉や桜の樹があったので、四季折々楽しめそうです。

時々、自然や芸術品に触れるのも大切ですね。心の洗濯。

夏がひと段落すると、秋や年末に向けて演奏会あります。なので、当然(?!)練習も続きます。
みなさん、引き続き、楽しみましょ~!
(に)