小学生の頃、おそらく道徳の時間だったとおもうけど、「かわいそうなぞう」というお話を聞かされたことがある。
たぶん、ダランや我々同世代の全国の小学生はみんな読まされたんではないだろうか。
戦中、度重なる空襲に見舞われた東京、戦渦による猛獣たちの逃亡を恐れた上野動物園では、動物たちの殺処分を決定する。
最後まで残ったのはゾウであった。ゾウたちは、毒の混じった餌を吐き出してしまい、厚い皮膚のため注射も打てず、仕方なしに餓死させるという方法がとられることになった。
餌ほしさに芸をしたり、必死に声を出すゾウたちに、それまで我が子のように接していた飼育員たちは、迷い戸惑うが、どうすることもできず、ただ悔しさを噛み締める。ついに最後のゾウ花子が餓死していく、というお話である。
もちろん、戦争の悲劇を表す物語ではあるが、実話だけに、妙に身にしみるお話であった。
戦後すぐ、いなくなったそうした動物たちの代わりに、新しい動物たちが日本にやってきた。
最初のゾウは、49年にやってきた。毎日新聞によるとタイのソムアン・サラサスという人物が「戦争で傷ついた子供たちのの心をいやそう」と私財なげうって日本に送ったゾウであった。彼の子孫はまだ日本に住んでいるという。親日家なのだ。
そのゾウは、戦前人気だった「花子」に因んで「はな子」と名付けられた。右も左もわかならい2歳の雌象だった。
首都圏中心にたらい回しにされたが、それでも当初の予定通り、子供たちのアイドルになって喜ばれた。戦後すぐ、それくらい娯楽もなかった時代である。そう、はな子は最初から戦争に左右された象だったのである。
まだ子象だった「はな子」の画像。(公財)東京動物園協会より。
その後、はな子は、54年に井之頭動物園に移動になった。
そこからがたいへんだ。なかなか動物園に馴染めないはな子は、56年に酔っぱらってゾウ舎に入った男性を死亡させ、60年には飼育員の男性も踏んで死亡させるにいたった。
そうして、いつの間にか「殺人ゾウ」と呼ばれるようになっていった。
ライオンもかなわない3トンの巨体、踏みつけられたらひとたまりもない。脚には鎖をつながれ、檻のなかから出ることすらかなわなくなった。
専門家に言わせると、「象はブドウ一粒踏みつぶさないし、身体にハエ一匹とまっても気がつく」という。そういう繊細な動物。
野生の象たちの間では、死に場所、つまり墓場が決まっていて、死期が近づくと自分でそこに往くという。涙を流す象の映像を見たことのある人も多いだろう。つまり、象は本来、仲間意識や繊細な感情がある生き物なのだ。
だから、はな子が人間に危害を加えたとしたなら、それは正しく故意、なのである。
では、その故意の要因は何か・・・、人間には見世物やアイドルであっても、内面に芽生えたものは、実はストレスと人間不信以外のなにものでもなかったのである。
おもえば、はな子は、来日してからずっとひとりぼっちだった。友だちもいなければましてや結婚相手もいない。動物たちの幸福とは何か。
井之頭動物園の「はな子」。(公財)東京動物園協会より。
そのはな子を立ち直らせたのは、山川清蔵という一人の叩き上げの飼育係であった。殺人から数ヶ月後のことである。
山川は、はな子と正面から向き合い、やせ細り人間不信に陥った彼女に寄り添った。
赴任後、4日目に鎖を外してあげ、毎日、時間をみつけてはただただスキンシップしたそうだ。それでも山川にすり寄るようになるまで6年かかったという。体重が戻ったのは8年後だったそうだ。なんだか「オッペルと象」をおもいだす。
息子さんの宏治さんはいう。お父さんは「一旦閉ざされた心というものは、人間も象も無理にはこじ開けられない」と言っていたそうだ。
山川は同じ仕事に就いた息子には、仕事については何も語らず、ただ「気をつけろ、油断はするな」としか言わなかったそうだ。
要するに「自分が体験しながら身体で学べ」ということだ。動物飼育の教科書などない時代、山川はどのようにしてはな子と向き合ったんだろう。宏治さんはそんな父親にならいいまでは多摩動物園に勤めているそうだ。
山川さんとはな子。
その山川とはな子は30年間寄り添った。山川の姿が見えないとはな子は急に不安になるという付合いの日々が続いた。きっとはな子にとって山川さんは、やっと巡り会えた友人であり、兄弟であり、恋人であったのかもしれない。
その物語は、TVでも放映されたので観た人もいるかもしれない。定年で職を離れた山川であったが、ときどきははな子の様子をうかがいに井之頭に行ったそうだが、自分の姿が見えるとはな子の自分離れができないため、はな子に見えないそうそっと覗く日々だったという。
はな子は、山川さんがいなくなってから、壁を向くようになった話しは有名である。身の危険を感じた飼育員も多かったという。専門家の間では、それは広場の傾斜のせいではないか、と解説する人もいたが、はたしてその程度のことだったかどうか。
はな子は何を考えていたんだろう・・・もはやそれは誰にも推し量ることはできない。
ツイッターより。
そんなはな子を2度ほど観たことがある。もちろん井之頭動物園だ。2度目は山川さんの物語を聞いたから行った。まるで歴史の生き証人を観るおもいだったのを覚えている。
そうね、しばらく行ってないけど、今度、たまには散歩してみるか・・・。
広島に華々しくオバマ大統領が献花した日、その日の前日、はな子は69歳の生涯を閉じた。戦後の日本とともに生きた一生だった。
ここにもひとつの戦争の節目があったのかもしれない、と、ふとおもう。
Seventy-one years ago, ・・・その日は遥かなれど。(は/234)
日経Newsより。
たぶん、ダランや我々同世代の全国の小学生はみんな読まされたんではないだろうか。
戦中、度重なる空襲に見舞われた東京、戦渦による猛獣たちの逃亡を恐れた上野動物園では、動物たちの殺処分を決定する。
最後まで残ったのはゾウであった。ゾウたちは、毒の混じった餌を吐き出してしまい、厚い皮膚のため注射も打てず、仕方なしに餓死させるという方法がとられることになった。
餌ほしさに芸をしたり、必死に声を出すゾウたちに、それまで我が子のように接していた飼育員たちは、迷い戸惑うが、どうすることもできず、ただ悔しさを噛み締める。ついに最後のゾウ花子が餓死していく、というお話である。
もちろん、戦争の悲劇を表す物語ではあるが、実話だけに、妙に身にしみるお話であった。
戦後すぐ、いなくなったそうした動物たちの代わりに、新しい動物たちが日本にやってきた。
最初のゾウは、49年にやってきた。毎日新聞によるとタイのソムアン・サラサスという人物が「戦争で傷ついた子供たちのの心をいやそう」と私財なげうって日本に送ったゾウであった。彼の子孫はまだ日本に住んでいるという。親日家なのだ。
そのゾウは、戦前人気だった「花子」に因んで「はな子」と名付けられた。右も左もわかならい2歳の雌象だった。
首都圏中心にたらい回しにされたが、それでも当初の予定通り、子供たちのアイドルになって喜ばれた。戦後すぐ、それくらい娯楽もなかった時代である。そう、はな子は最初から戦争に左右された象だったのである。
まだ子象だった「はな子」の画像。(公財)東京動物園協会より。
その後、はな子は、54年に井之頭動物園に移動になった。
そこからがたいへんだ。なかなか動物園に馴染めないはな子は、56年に酔っぱらってゾウ舎に入った男性を死亡させ、60年には飼育員の男性も踏んで死亡させるにいたった。
そうして、いつの間にか「殺人ゾウ」と呼ばれるようになっていった。
ライオンもかなわない3トンの巨体、踏みつけられたらひとたまりもない。脚には鎖をつながれ、檻のなかから出ることすらかなわなくなった。
専門家に言わせると、「象はブドウ一粒踏みつぶさないし、身体にハエ一匹とまっても気がつく」という。そういう繊細な動物。
野生の象たちの間では、死に場所、つまり墓場が決まっていて、死期が近づくと自分でそこに往くという。涙を流す象の映像を見たことのある人も多いだろう。つまり、象は本来、仲間意識や繊細な感情がある生き物なのだ。
だから、はな子が人間に危害を加えたとしたなら、それは正しく故意、なのである。
では、その故意の要因は何か・・・、人間には見世物やアイドルであっても、内面に芽生えたものは、実はストレスと人間不信以外のなにものでもなかったのである。
おもえば、はな子は、来日してからずっとひとりぼっちだった。友だちもいなければましてや結婚相手もいない。動物たちの幸福とは何か。
井之頭動物園の「はな子」。(公財)東京動物園協会より。
そのはな子を立ち直らせたのは、山川清蔵という一人の叩き上げの飼育係であった。殺人から数ヶ月後のことである。
山川は、はな子と正面から向き合い、やせ細り人間不信に陥った彼女に寄り添った。
赴任後、4日目に鎖を外してあげ、毎日、時間をみつけてはただただスキンシップしたそうだ。それでも山川にすり寄るようになるまで6年かかったという。体重が戻ったのは8年後だったそうだ。なんだか「オッペルと象」をおもいだす。
息子さんの宏治さんはいう。お父さんは「一旦閉ざされた心というものは、人間も象も無理にはこじ開けられない」と言っていたそうだ。
山川は同じ仕事に就いた息子には、仕事については何も語らず、ただ「気をつけろ、油断はするな」としか言わなかったそうだ。
要するに「自分が体験しながら身体で学べ」ということだ。動物飼育の教科書などない時代、山川はどのようにしてはな子と向き合ったんだろう。宏治さんはそんな父親にならいいまでは多摩動物園に勤めているそうだ。
山川さんとはな子。
その山川とはな子は30年間寄り添った。山川の姿が見えないとはな子は急に不安になるという付合いの日々が続いた。きっとはな子にとって山川さんは、やっと巡り会えた友人であり、兄弟であり、恋人であったのかもしれない。
その物語は、TVでも放映されたので観た人もいるかもしれない。定年で職を離れた山川であったが、ときどきははな子の様子をうかがいに井之頭に行ったそうだが、自分の姿が見えるとはな子の自分離れができないため、はな子に見えないそうそっと覗く日々だったという。
はな子は、山川さんがいなくなってから、壁を向くようになった話しは有名である。身の危険を感じた飼育員も多かったという。専門家の間では、それは広場の傾斜のせいではないか、と解説する人もいたが、はたしてその程度のことだったかどうか。
はな子は何を考えていたんだろう・・・もはやそれは誰にも推し量ることはできない。
ツイッターより。
そんなはな子を2度ほど観たことがある。もちろん井之頭動物園だ。2度目は山川さんの物語を聞いたから行った。まるで歴史の生き証人を観るおもいだったのを覚えている。
そうね、しばらく行ってないけど、今度、たまには散歩してみるか・・・。
広島に華々しくオバマ大統領が献花した日、その日の前日、はな子は69歳の生涯を閉じた。戦後の日本とともに生きた一生だった。
ここにもひとつの戦争の節目があったのかもしれない、と、ふとおもう。
Seventy-one years ago, ・・・その日は遥かなれど。(は/234)
日経Newsより。