玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■カタルニアの鳥は「ピース」と鳴く

2016年10月25日 | その他
またまた今年の夏に、北海道に行った際、無料のバイオリンライヴに立ち会った。旧小学校校舎の体育館での演奏だった。
北海道の短い夏の緑の風景と爽やかな風が通る午後のひととき、地元の方々もたくさんみえていて、のどかでゆったりとした時間だったのが印象に残っている。

しばらくバイオリンの名曲やチェロのアレンジ曲があったあと、パブロ・カザルスの「鳥の歌」が演奏された。
少し、はっ、とした。久々に聴いたからかもしれないし、不意をつかれた感じだったのかもしれない。
明るい曲ではないが、記憶に残る曲。なんだか若い頃の記憶が走馬灯のようにいろいろ蘇ってきて、不思議な時間となった。そう、学生の頃はよく聴いたものだった。誰にもそういう曲はあるだろう。

それがなぜかはわからないが、カザルスとグールドは、学生の頃の至高アイテムだった。音楽関係者には異論もある人もいるかもしれないが、たぶん、よくいわれるフレーズだが、知らないうちに、やっぱり「魂」を感じていたのかもしれないとは、いまはおもう。



カザルスは、1876年、スペインはカテルーニャの生まれだから、日本ではちょうど明治に入って間もない頃である。
まだ十代で演奏家としてデビューし、早くから天才とうたわれたのはチェロの名手であることは周知の通り。
いまはポピュラーなバッハの「無伴奏チェロ組曲全曲」を再発見したのは有名な話しだ。なんとそれまで一人で全曲演奏したのは記録にないそうだ。
ただし、バルセロナで楽譜を見つけ出したのはまだ13歳で、人前で演奏するまで12年かかったということも以前ある人に教えてもらったことがあった。あのカザルスが12年かかったんだから、普通ではない。でもきっとそういう人なのだ。
実は、恥ずかしながら、僕はこれに憧れがあって、還暦になったら「チェロ」を始めたいとおもっているのは、このときからなのだ。

カザルスは演奏会のとき、いつも初舞台のときと同じように緊張し上がってしまうたちだったそうだ。これは僕も同じ(いやいや比較するつもりは毛頭ないしそれはあまりにも御畏れ多いのでそこは誤解なきよう)。でも、演奏が終わるとそれは「あんなに素晴らしい演奏は聴いたことがない」と誰もが絶賛する名演なんだからすごいね(ここが断然普通の人とは違うところ)。
それに、演奏会のあとは、自分が演奏したたったひとつの音符も逃さず頭のなかで再演するそうだ。そうしないと眠れないたちだという(これはないね、終わったことはもう忘れたいし)。
そういう繊細さがあるからこそ、入念な準備をするという話しだ。1時間で数小節しか進まないこともよくあったらしい(やっぱり一流の演奏家というのは頭が下がる)。


カタルーニャといえば、我々の世界だと、アントニオ・ガウディとかパブロ・ピカソとかすぐに出てくるけれど、あの情熱的なイメージの国で、この「鳥の歌」というのが、意外でもあり、深長でもあるのだろう。
この曲は、もともとは、そのカタルーニャの民謡であるが、さらにその元は、この地域の「クリスマス・キャロル」、つまり、キリスト降誕の歌からきている。鳥たちがキリスト降誕を祝っているという様子だ。
ただしカザルスの独奏ではもちろん歌詞はない。


ガウディ設計のサグラダファミリア。
僕が見たときは、まだ全然工事が進んでなかったけど、いまはだいぶできたらしい。



これもガウディ設計の集合住宅「カサ・ミラ」。
まだ20代の頃、この住宅が見えるホテルで数日過ごしたことがある。



それと、いかに天才といえども、カザルスの人生は波乱だった。
きっと、半分は音楽家で、半分は平和主義者だったに違いない。
実際、1936年に勃発したスペイン内戦でフランコ独裁政権ができたことに抵抗して、隣国フランスに亡命し、ピレネー山脈越しのプラドに引きこもり、以来、第二次大戦が終わるまで、そこを出ることはなかったし、人前で演奏することもなかった。抵抗なのだ。
世界のファンや演奏家たちがプラドに通うようになったのは間もなくだった。そして「プラド音楽祭」はできた。たぶん、演奏会の最後で「鳥の歌」が演奏されるようになったのは、この頃からだったのではないだろうか・・・。
ただし、1946年以来チェロは封印した。世界主要国がフランコ政権を支持したからだ。


ピカソの有名なこの「ゲルニカ」は、スペイン内戦に抵抗した絵画でもあった。

それから15年が経ち、ケネディ大統領に共感したカザルスが、再びチェロを持ったのが1961年、僕の生まれた年である。
ホワイトハウスでそれは演奏された。そのときの録音が僕の最初のカザルスだったのだ。


これ、です。

そして1971年、国連の日を祝う演奏会で、カザルス作曲の「国際連合への讃歌」を自ら指揮し、カザルスには「国連平和賞」が贈られた。
このときの最後、愛用のチェロで「鳥の歌」を演奏する前のスピーチがこれだった。
「カタルーニャでは鳥たちはこう歌います。「ピース、ピース、ピース」と。それはわたしたちカタルーニャ民族の魂なのです。」
貫かれているものがある。平和とは命を大切にする人々の祈りでもある。
そうやって聴くと、曲も音楽も意識を遠いどこかへ誘ってくれるようだ。これが学生の頃の記憶なのだ。

いま頃なぜこのことが想い出されるのかよくわからないが、なにげなしに、命の尊さを感じる昨今である。(は/270)


Pau Casals - El cant dels ocells (at the White House)



■秘湯におもう

2016年10月24日 | 出張
久々に高山に行った。
初めて来たのは10代だったけど、個人的には懐かしい場所、好きな町のひとつでもある。いつ行っても、水が豊かできれいなところである。
かつて天領だったこともあり、山間ながら、町は鄙びたイメージではない。茶人なら金森宗和をおもいだすところだろうか・・・。
この先、富山方面に向かえば、かつてみんなで行った世界遺産「白川郷」がある。あれも懐かしいね。以外なことに、それももうそろそろ20年経とうかとしている。光陰矢の如しだ。

岐阜は、90年代から2005年くらいまでは、大々的なプロジェクトがあって随分行ったけれど、それからは数年おきに行く程度になってしまった。でも、当時の関係で、いまでも知人は結構いる。
岐阜は、日本でも有数の伝統工芸に歴史があり、和紙や陶芸や木工では日本を代表する産地でもある。和紙は世界遺産だしね。
そういうつながりで、美術館や博物館関係の友人も多い。先日東京でも開催されたS教授のアールヌーヴォー展のキュレーションに関わった女性も旧知の仲である。やっぱり世間は案外狭いね。


途中で寄ったサービスエリア。日本一標高の高いサービスエリアだそうだ。

そんなこともあり、今回は、新しい海外連携プロジェクトの視察という次第。海外からは2名のディレクターと1名のカメラマンと一緒に行った。朝一番で東京駅で待合せしたら、僕は15分くらい前に行ったのだが、すでに彼らは来ていて1時間も前に到着していたという。
まあ、知らない場所での待合せだしね、気持ちはわからなくもない。つたない英語で新横浜までお相手する。あとは通訳がいるので安心だ。

ま、視察内容はさておき、泊まりは、奥飛騨温泉郷。そう、また温泉だ。どうもここんところつづいてる。
ここは、高山から30分強の山奥、北アルプスの槍ヶ岳や穂高岳への入口でもある。山ひとつ越えれば上高地や野麦峠がある。日本の屋根である。

この温泉、和洋折衷、旅館とアルプスの山荘が合体したような建物で、まあ、山奥で豪奢な感じにするならこういうことなんだろう。ある意味、不思議ではあるが、ある種の安心感もある。
また、社長や女将さんがよくしてくれて、とっても、よかったです。




で、ここも温泉なので、風呂は大浴場も露天もいろいろあるわけだけれど、一番の醍醐味は、館内ではなく、外のケーブルカーで降りる露天風呂。ここだけは混浴でした。あるんですね、まだこういうところ。
ダランが好きなぬるめのお湯ではないけれど、けして熱い、というわけでもない頃合いのいい湯加減だ。


4人乗りのケーブルカーで、約50mの高低差を上下する。その先が混浴露天風呂だ。


その露天風呂。夜だったので、暗くてよく見えない。


夜は、案の定、ニッポン式宴会。いいのかどうかわからないけど、みんなのノリはよかったです。


最近は、畳敷きの和室でもみんなこうだ。お年寄りなどもこの方が座りやすく喜ばれるらしい。


戻り鮎の塩焼き。鮎といえば初夏だが、戻り鮎とは秋に獲れる子持ちの鮎のこと。
これはこれで美味。



社長差し入れの地酒。これがまた・・・。


旬の松茸土瓶蒸しとA5級飛騨牛のぶしゃぶしゃ、失礼、しゃぶしゃぶ。
松茸は今年初。といっても、毎年食べるわけではないが。



朝食は、もちろんこれ。朴葉味噌。飛騨ならではの朝食だ。


帰りに寄った岐阜県ショップに、こんなのありました。


五本指靴下はあったけど、五本指下駄とか雪駄もあるんだね。
履きにくそうだけど、足が抜けたり、鼻緒がとれる心配はなさそうだ。
それ以前に、健康には良さそう、かも。



で、今後、今回の成果をどうしようか・・・とも考える。
そういえば、映画の「砂の器」のなかで、空手形の東北出張した刑事役の丹波先生にこういうセリフがあった。
「ああ、経費で贅沢な旅行させてもらったよ。」
まだ旅行も一大イベントだった昭和のセリフだろうけれど、なんだか身にしみるおもいもなくはない。ニッポンなら、いつの時代だって、「もったいない」や「ありがたい」の心情はあるものだ。これを忘れた格差社会こそ問題だ。


いまは亡き丹波先生が凛々しい。

昨日のNHKでは、世界62人の富裕者と世界下位36億人の資産が同じだということが発表されたといっていた。それぞれの主張はあるだろうけれど、もう少し揺り戻しがないと、世界はどうなるか知れたものではない。
国家規模を越えた企業もぞくぞく出来てきている。その利益の多くがタッックスヘイブンに流れ、政治も動かしているいま、世界をまたにかけた活動には、資源の枯渇も環境変動も問題だが、その企業活動を支えた市場そのものに限界がきているということも指摘されているらしい。
かつては、資本主義と民主主義の組合せは、人類の最終形態といわれていたが、はたしてそれも怪しくなってきた。やっぱり必要なのは、政治ではなく「倫理」だろうか・・・。

が、ま、結局、僕らはともかく目の前のことをまずはっきりさせること。この成果はこれからだ。簡単なプロジェクトではないけれど、恩には報い、形にしますよ、きっと。などと、温泉に入りながら考えた。(は/269)


■「振鷺閣」のサウンドスケープ

2016年10月21日 | 出張
なんだか随分間が空いてしまった。みなさま、お久しぶりです。まあ、いろいろ忙しく・・・。
今日は三連チャンのハードな講義も終わり、ちょっと一息、かな・・・いや、まだまだだけど。

ところで、先週は、初めて松山の「道後温泉」に行った。
「南紀白浜」と兵庫の「有馬」とともに「日本三大古湯」のひとつである。もちろん古来の温泉はもっとあるだろうけれど、天皇が行った温泉だから「古湯」として記録に残っているわけだ。聖徳太子も一遍も入ったらしい。
道後だけが近畿じゃないのは、たぶん、宇佐八幡などに行く途中に寄ったためだろう。当時は海路だったろうから、瀬戸内海の海岸沿いは、いくつかの名所もある。
明治には、漱石の「坊ちゃん」でもモデルになったというから、漱石も足しげく通ったことだろう。


全景。左サイドに見えるのが、皇室専用の「又新殿」玄関。普段は閉められている。

もちろん温泉地なので、宿や湯はたくさんあるが、なんといっても有名なアイコンになっているのが、この「道後温泉本館」であろう。三層楼ともいわれている。百年以上前の建物である。
あろうことか、これも一律の耐震補強建物に指定されたらしく、来年、補強工事が行われるということで、地元ではいろいろ問題も起きているらしい。これで鉄骨の補強とか入るのかね・・・・ま、安全第一だろうけれど、やり方は考えた方が・・・。
ともかくこれ、普通の日本人なら誰でも一度は見たことがあるフォトジェニックな建物である。もちろん国指定の重文にもなっているので、玄関付近では、記念撮影をするカップルや外国人で賑わっていた。


正面玄関付近。

朝は6時から夜は10時半まで入れるが、ここには、それなりの入浴の決まりがあって、それは、建物の使用方法と関係して4つのコースを選ぶことができるようになっている。
僕も初めて入ったので、それまではよく知らなかったが、まず、正面入口を入り玄関付近にある改札でコースを選択して料金を支払う仕組み。この時点ですでに靴は脱ぎ、下駄箱に自分で入れる。
あとは自分で決めたコースを進むわけだが、基本の風呂は、一階の「神の湯」だ。ここがいわゆる公共浴場?になっていて、二階以上は、そのコースによって制限されていて、料金も異なっているのである。まあ、外国人の多いこと。

その「神の湯」二階は、料金も倍。けれど、ゆっくりできる大広間にお茶やおせんべいが用意されている。ま、ここまでが庶民の湯ゾーン、分かりやすくいえば、エコノミークラスだ。
それ以上は、一階奥にある「霊の湯」を使用するコースが用意されていて、この湯は比較的少ない人数でゆっくり入れるようになっている。ま、ビジネスクラスだね。料金も「神の湯二階」のさらに倍。
僕は庶民なのでここは入れませんでしたが、一応、試しに何気なく入ってみようとしたら案の定門番に阻止されました。ここではJALカードも通用しません(ダラン専用ネタですみません)。
ただし、ここは別棟になっていて、最初から二階の使用がセットになっている。「神の湯二階」とは違う「霊の湯二階」ということで、若干プライベート感があるらしい。でもサービスはやっぱりお茶とおせんべいということだが。

さらに「霊の湯」には三階があって、ここからはまた別コース。完全個室制で、料金もさらにその倍。そう、いわばファーストクラスだ。でもやっぱりサービスはお茶とおせんべい。けして「なだ万」の懐石が出てくるということはない。
さらに超プレステージVIPには「又新殿(ゆうしんでん)」という棟がある。ここは、やんごとなき高貴な方々専用の湯となっていて、専用玄関も用意されている。ただし観るだけなら特別料金を払えば観るだけは観れるそうだ。


「神の湯」二階。一応、さっと覗いてみたらこんな感じだった。
きっと漱石の時代から変わらず昔ながらなんだろうね。


そんな解説パンフを読みながら「神の湯」に入ったが、山部赤人の万葉和歌など刻まれていて古風な風情だった。泉質は、天然掛け流しのアルカリ湯だそうなので、お肌すべすべの爽快系だ。温泉好きな(に)さんなんかにはいいだろうね。
番台というか改札では、手ぬぐいやタオルもレンタルしていて、手ぶらの外国人などには重宝だろう。
ま、何事も経験。とりあえず、「道後温泉」には来ました。


トップにあるのが「振鷺閣(しんろかく)」といって、朝6時、正午、夕6時に太鼓を叩く。
これを聞いて時間を知ったという。いまでは日本音風景百選に選ばれているそうだ。
一番上にいるのが「白鷺」で、この湯で怪我が直ったという伝説に基づいたシンボルになっているらしい。
ここからだと、二階も三階も、少しだけ様子が伺える。



朝観るとこんな感じ。


本館横にある「玉の石」。
伝説では、出雲の大国主が傷ついた少彦名を癒すため、この湯に連れて来たら、すぐに治癒されたという謂れになっている。
それに因んで立て看板には、この石に水を掛け、「二礼二拍手」すべし、とあったので、一応、やってみた。
果たしてその効果は・・・。



で、実際に泊まったのは、この本館の目の前にあるホテル。「神の湯」入浴券がセットになったプランだったのだ。
そもそも道後に泊まったのは、古い友人と会うためで、当初は彼のデザインしたホテルに泊めてもらうはずだったが、そこがたまたま団体が入って満室で、こうなったという次第。
夜は、一緒に豊後水道の鯛などつまみながら近況と昔話というお決まりのコースになった。
でも、翌朝は早かったが、行きも帰りも車で送ってくれて助かった。やっぱり友人はいいね。

オマケで、道すがら見つけた松山の路上観察を少し。


路面電車の道後温泉の駅。明治情緒を目指したらしいが・・・。


道端で見つけたトマソン。このドア、狭過ぎ。松山恐ろしか。


眼科でビルも凄いが、この時計、なんともね・・・よくやるよ。


最近、温泉に行く機会が増えているが、新築からこういう文化財級まで、いろいろある。客層も変わっていくだろうし、旅館側の構えも少しづつ変わっている。きっといまが過渡期なのだろう。
さてこれから、ニッポンのONSENはどうなりますか・・・。(は/268)


三陸国際芸術祭@六本木アートナイト2016

2016年10月16日 | メンバーつれづれなるままに

この土日は梅田一座の一部のメンバーが(か)さんの別荘に行って盛り上がったようです。
私は残念ながら行けない組でした。残念無念!!!

というのは、下記のイベントに参加するための練習(特訓?!)がこの土日にあったからです。

10/22(土)に去年から始まりましたアジアと三陸を芸能で繋ぐSanriku-Asian Network Project(サンプロ)というプロジェクトのイベントにTerang Bulanのメンバーとして参加します。
岩手の臼澤鹿子踊とコンテンポラリーダンスとバリのバロンで盛り上げます。
無料なので、是非是非、お気軽にお立ち寄りください。


三陸国際芸術祭@六本木アートナイト2016
http://sanfes.com/sanfesinfo/1073.html

ROPPONGI ART NIGHT 2016
http://www.roppongiartnight.com/2016/programs/2796


主催プログラム
10月22日(土)
12:00~13:00 「シシの系譜」上演
13:00~13:45 鹿子やバロンやガムランに触れてみよう
主催:NPO法人JCDN
協力:国際交流基金アジアセンター

会場:六本木ヒルズアリーナ


今日は私の誕生日でした。
ガムラン漬けの一日でした。ありがたや~

でも、次回はみんなとの旅行、参加したいですねヽ(^-^)ノ♪
(に)

■記憶の中のMAC

2016年10月01日 | 北海道・広島
ダランは活発だな・・・。僕はここのところ、どうも疲れが溜まっている。歳のせいにするのは怒られそうだが、それでも寄る年波ということもあるし、睡眠不足もたたっているのかもしれない。今日も土曜なのにしっかり仕事をしている。

来週はまた、撮影→岐阜→高山→名古屋→広島→南房総と家にも帰らずロードがつづく。金曜は都内の大学で後期の講義がはじまるし、連休にはグンデルもある。ああ、まだまだ疲れそうだ。
などと悲観的な気分になってもしょうがない、と、行かなきゃいいのに飲みにも行く。ま、ほとんど付合いですが。

たとえば、先日行ったバーは、以前から一度行こうとおもっていたところだが、二度ほど満席で入れずやっと入れた店である。
入口もよくわからない扉を開けると、中は真っ暗。目が慣れるまで時間がかかる。逆に店を出ると、夜の街がまるで昼間のようだった。ま、それだけ東京の街は明るのかもしれないし、やっぱり店が暗すぎるのかもしれない。

こういう暗さのバーなら、他にも知っている。そのバーなんか、店に入るとまず、怖くて足を踏み出せない。そう、何も見えないからだ。
こういう暗さ、まるで昔の映画館のようだ。子供の頃、映画館に入る前には、よく片目をつぶっておくように言われたものだ。そう、そうすれば、少なくとも、片目は暗さに馴れる準備が整うからである。そうおもうといまの映画館は明るいね。近代の街とは、明るくなることだったのかもしれないね。


このバーには、ドリンクもフードもメニューというものが一切ない。そんな野暮なこと、という意味だろうか。
で、フード(あて)は、小振りの干物と野菜のみ。
このなかから好きなものを好きな数だけ選んで炙ってもらう、という仕組み。
今回は、岩海苔入り畳鰯・赤貝の天日干・ホワイトアスパラにしてみた。醤油のひとたれが絶妙だ。
今度は、日干明太子の薄切りにしてみよう。



ま、バーというのは、個性があっていい。ゴールデン街だって、店の個性だけでもっている。そうやって、店も客も時を重ねていくのだ。

広島でもよく行くバーがある。名前を「MAC」という。店主の愛称から取られている。
もう十年以上前、広島に通っているうち、気になる店構えだったので入ったのが最初であった。だいたいにして、無造作な看板ひとつ。あとはなにもない。ボロい階段を上がった先の入口だって、まるで、香港かどこかで麻薬の取引とかに使われるなアジトな雰囲気だ。
だいたいこういう店はきらいではない。新宿なんかでもよく行くタイプの店だ。中に入れば案の定、インターナショナルでフレンドリー、というか、要するに、雑作がない。店にも外国人が多かった。


裏ぶれた駐車場の脇のビルの2階にある。小さい看板しかない。


こんな階段を上った先にある。


看板もない、いかにも怪しそうな扉。


店内はこんな感じ。CDと落書きで埋め尽くされている。


トイレも落書きだらけ。ま、トイレというのはそういうものですが。

最初に入ったとき、一人か二人だったので、店主のマックさんといろいろ話し込んだことがある。
本人も実はミュージシャンで、店内には数千のCDが山積みされている。ああ、あのアルバム聴きたい、とかいうと、その山のなかから、すっと取り出してくるのは、もう「芸」に近かった。
それに、若い頃は世界中歩き回ったバックパッカーだった。いかに貧乏旅行したかとか、こんなバカな出会いがあったかとか、話しは弾んだ。
年齢は僕よりちょっと上だとおもう。やっていることは違うけど、同じような世代ということもあってか、同じような時代や人生観や価値観を生きてきたというか、音楽や旅行や酒やまあそういう話しは尽きないのである。


僕の好きな壁。マックさんが行った世界中の国の最小単位の紙幣が貼られている。
ある意味、壮観だ。


後でわかったことだが、マックさんが店にいることは、実は非常に稀なんだらしい。そういえば、その後行ってもいっこうにいなかった。そういえば、10年以上通って、店であったのは、数回しかない。
そのかわり、広島の「流川」とか「薬研掘」といった飲屋街ですれ違うことは何度かあった、とうか、むしろそっちの方が多かった。

じゃ、その間、店には誰がいるかというと、奥さんの「ゆり」さんだ。さすがマックさんの奥さんという感じの人。ある意味一心同体なんだろう。いつもサービスしてくれる。
この店では、オンザロックを頼むと、700円くらいでトリプルくらいの量が入ってくる。つまり、量ったりせず、ボトルからグラスが溢れそうになるまで入れてくれるのだ。
だいたいにして、三軒目くらいに行くのに、ここでこれを飲むと、いつも、どうやって帰ったんだか覚えていない式になるというわけである。


最後に行ったとき。

この店が、残念なことに、ビルの解体で、移転することになったのが、昨年暮れだったろうか。みんなを連れて行けなかったのが心残り。店はすでに記憶のなかにしかない。
残念だね、今度はどこへ、などと言っていたら矢先、あろうことか、今度は、マックさんが急死した。ガンだという。これも運命だろうか。でも、葬儀には、ミュージシャン仲間や常連がたくさん集まって盛大だったそうだ。マックさんらしい。

ゆりさんが、今後どうするかはわからないが、店は個性だ。できればまた店を再開してほしい。死せどもマックさんの店として。僕にだって、多少のマックさんの想い出はある。またきっと行きますよ。
マックさん、謹んで、ご冥福をお祈りいたします。(は/267)


街ではよく会うんですけどね・・・右がマックさん。


というわけで、来週と再来週のブログはお休みです。今後はいつアップできることやら・・・みなさん、ごきげんよう。