玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■新しい命

2016年04月12日 | その他
赤ちゃんの産声が440Hzであることは有名な話だ。つまり"A"=「ラ」の音程ということになる。


サイトで見つけた図。これが440Hzを表すサインカーブだそうだ。


では、なぜ赤ちゃんは生まれた瞬間に泣くのか、という問題には昔から諸説ある。
医学心理学生理学系の研究では、人間にとって最初に発達する感覚器官が「耳」で、赤ちゃんはお母さんのお腹のなかにいるときから耳は発達を始めるので、赤ちゃんにとって最も初源的な記憶というのは「お母さんの心音」ということになる。つまり最も安心する「音」ということだ。

それが、生まれ出た瞬間に、外環境の雑音世界に放り出されるわけで、当然、「心音」は聞こえなくなり、途端、不安に落ち入る、というわけである。
だから、いまでも、赤ちゃんを泣き止ますCDというのが出ているが、その中身はいわゆる「お母さんの心音」である。我々が聴いても雑音にしか聴こえない。
でもまあ、これが面白いので、知り合いに子供などができたときは、しばらくこのCDをプレゼントしていたりもしたけど。

一方、生物学者などによると、産声というのは、外的から身を守る哺乳類の名残りだという。
つまり、野生の外的にとっては、この「ラ」の音が嫌な音で、そこには近寄らないというのだ。これには確証がないけれど、もともとなぜ赤ちゃんが新月や満月に左右されたり、明け方産まれるかなど、野生の哺乳類に近い時代の名残りは、ないとはいえない。
いまどきは、医者や家族やその他の都合で、「普通の時間」に産まれるので、そもそもそこに人工的調整が入っていることはあまり知られていない。
ちなみに僕は古風で、お産婆さんに取り上げてもらったので、明け方産まれたそうですが。

ともあれ、この440Hzというのは、地域や人種や身体の大小に関わらず人類共有の現象らしい。今度誰か絶対音感のある音大出身者などに立ち会ってもらって実験したい。希望者は申し出てください。または、どこぞの某日大の音響関係の教授でもいいけど。
でも、産声が全員「ラ」の音なら、同時に何人も同じ場所で産まれたら、ユニゾンで「ラ」の大合唱ということになるんだろうか・・・、それとも、前後で「ラ」の休符もあるだろうから、誰かが「・・ラ・・ラ・・ラ・・ラ・・ラ・」などと泣き出したら、四人もいれば、「ラ」のケチャになるではないか。
赤ちゃんケチャができたら末恐ろしい・・・。


タナロットの5000人ケチャ。何もここまですることはないとおもうけど。
バリもだんだんスケールオーバーしてきた気がするのは僕だけだろうか・・・。



ということもあってか、20世紀になってから、オーケストラのチューニングはオーボエの"A"の音となったのは、オーボエが一体型であって、ピッチが一定だからということだが、"A"であるのは、この赤ちゃんの産声から来ているという説もある。
赤ちゃんの産声と西洋音楽のキーピッチが同じというのは、人類と音程の生物学的関係が潜んでいそうな話だ。
ともかく、そうやって新しい命、「赤ちゃん」はこの世に誕生する。


何を言いたいかというと、実は妹に孫ができたという知らせがあった、ということ。
ということは、僕は人生初の「大伯父」になったということだ。
ちなみに「伯父」とは、年上の兄弟、つまり親のお兄さんこと、「叔父」とは弟のことを表している。だから、大伯父とは祖父祖母の兄ということになる。念のため、お間違いなきよう。
さらに、妹は気丈にも5人の子供がいるので、我が兄弟全体としては、日本の少子化には貢献しているということになる(僕はなにもしてないが)。
この5人にもしそれぞれ2人の子供が産まれたら、僕は10人の大伯父になってしまう。お年玉とか考えると末恐ろしい。

で、ふと困ったのは、その逆はどう呼ぶのか知らなかったということだ。我ながら唖然とした。で、早速、周りの人に訊いてみたけど誰も知らない。
そういうことは案外ある。先日もある会議で5者契約になって、契約書によくあるように契約者を「甲」「乙」「丙」「丁」・・・とまでは普通に出てきたのに、大の大人が集まった会議でもその後が出てこない。
意外だった。甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、日本人はどこへいく。

ともあれ、大伯父の逆はどうも「又姪」というらしい。男の子なら「又甥」だそうだ。
いずれにしても、まあ、なんだか春から縁起がいいニュースだった。
この子、いい時代に産まれたのか、どうなのかはわからないけど、きっと産まれた時代がいい時代なのだ。
これから始まるどんな人生の物語であれ、明るい未来に、どうか、たくさんの幸あれ。

「我が輩は「又姪」である。名前はまだない。」(は/226)


初又姪。妹が送ってきた写真。きっと嬉しかったんだろうな。


今日は珍しくたまたま朝から事務所にいる。明日からまた出張。次回は月末か・・・。それまで、ごきげんよう。


■Never Let Me Go

2016年04月04日 | その他

たまには夜桜でも。近所の通り。

今年も無事サクラが満開になった。雨も降ったりするけれど、なんだか少し春めいてきた。
この季節になると、ダランも(こ)ちゃんも僕もほぼ同時に歳をとる。これは永遠なる宿命だ。


そのサクラ、なかでも「ソメイヨシノ」はなぜ一斉に花が咲くのかという話は前に書いた。元来が挿木増殖、彼らはすべてクローン、つまり全部が自分自身ということだ。植物は比較的簡単にそういう増殖ができる。
もちろん生物だから、我々を含めた動物も技術的にはクローン増殖が可能だということは、「ドリー」以来の暗黙の常識になっている。あとは倫理の問題だ。
おそらくそのことに触発されて書かれたであろう文学作品が、先頃、綾瀬はるか主演でTVドラマにもなったので観た人もいるかもしれないが、カズオ・イシグロの「Never Let Me Go」、邦訳「わたしを離さないで」である。



これを最初に読んだのは、もう10年以上前のことだろうか。特段の感情も入れず淡々と、さして大げさな表現や抑揚もなく「一人語り」形式で語られる物語。芒洋と、そしてある意味漠然とした、けれどしっとりとしたやり場のない感情をどこへ持っていったらいいのかという作品・・・。
そんなことで詳細をだいぶ忘れていたが、ドラマを観て、改めて読み直してみた。単行本を紛失したので中古の文庫ながら、またもやその世界に没入してしまった。

もちろん、本とドラマは、劇的な出来事やエンディングなど若干違う。だが、実写化ほぼ不可能といわれたこの作品を今回のTVスタッフは見事に映像化していた。場所は日本にされていたけれど、ほぼイメージに近い。
このスタッフは、「仁」や東野圭吾の「白夜行」と同じクルーではないか、とかみさんが云っていたが、う~ん、そうかもしれない。さすがに鋭い。


TBS HPより。


ネタバレと怒られると困るので詳細は書かないが、この本は、ストーリーや結論を言ったところでさした問題ではないだろう。次第に明らかになるその設定の衝撃性がある世界の像を結んでいくその流れる時間のなかで語られるエピソードの積み重ねや感情の揺れ動きが大切なのだ。
そう、ワヤンと一緒で、結果ではなく、進行プロセスが大切なのだ。

主人公は「キャシー・H(通称キャス)」という女性で、キャスの語るその物語は、強がっているがどこか子供っぽく意地悪なその親友のルースと、ちょっと抜けているけどいつも真実を見つめようとする実直な男友達のトミーを中心とした「彼ら」のいまと過去のエピソードが走馬灯のように構成されている。
要は臓器提供のために生み出されたクローン人間たちの切ない生き方が淡々と描かれているのだ。彼らの育った場所が「ヘールシャム」という特別な施設で、その代表がエミリ先生。そこに登場するのが「マダム」と呼ばれる謎の女性である。

彼女たちは、いったいなんのために「ヘールシャム」をつくったのか、どうして絵や詩を書かせつづけたのか・・・。
そして、当の本人たちは、自らの運命をどう受け入れていくのか。人間の代用品として生を受けた彼らが、それでも生まれてきて良かったとおもえるもの、生きた証をいったい何に求めるのか・・・。
次第にある一点に収縮されていくその物語は、抑制された表現で細部に染み渡りながら、やはり淡々と進む。その淡々が絶妙だ。

そして、繊細で緻密につづられているこのお話を私たちはどう受け止めればいいのか・・・。
現代の設定ながら、まるでSFのようでもあり、まるで幻想世界のようでもある。どこにいるかわからないけれど、もしかしたらどこにでもいそうな存在と曖昧な希望。
本はいろいろ読んできたけど、こういう読後感はあまり経験がない。



カズオ・イシグロ。日本人なのにカタカナ。やっぱりイギリス人か。

カズオ・イシグロは、日本人の両親のもと長崎で生まれたれっきとした日本人であったが、5歳の頃、親の都合でイギリスに渡り住んだという経歴だそうだ。
昨年、講演会の様子をTVでやっていたが、その際の話では、当初は普通に日本に帰るものだとおもっていたそうだが、結局、帰国することはなく、そのままイギリス人になったという。

処女作と二作目は、その日本を舞台にした小説を書き、注目された。イメージのなかの日本、日本人でありながらイギリス人という存在がそうさせたのだろうか、見え隠れする日本的感性が評価された。本人にとって、それが良かったのが不運なのかはわからないが、少なくとも他の大多数とは違う存在として子供の頃は過ごしたであろう。
三作目の「日の名残り」でイギリスの伝統を頑に守る斜陽の執事を描いて、日本の芥川賞のような存在だろうか、イギリスのブッカー賞を受賞し、一躍世界の「イシグロ」になった。



毎回テーマやスタイルが違うのがカズオ・イシグロのいまのところの真骨頂である。いつも、いままでの方法とは別の方法をいつも模索しているんだろうか。ま、そういう「マニエラの作家」でもあるのだ。
なんの根拠もないけれど、どこかでバシッとはまった手法の名作でも書けたら、ノーベル賞もあるのではないかとふとおもってしまう。ある意味で、そういうカリスマ性のある作家でもある。

世界には、日本人がおもっている以上に、多様な人種や文化や存在がある。消え行く伝統もあれば、未だ見ぬ将来もあるだろう。クレオールもいれば先住民もいる。私たちはいま、その可能性とビジョンを文学などで垣間みることができる。
娯楽ということではなく、未知の記憶や世界観を感じてみることは、経験にもまさる認識の扉を開けることにもなるであろう。文学の想像力とはそういうものかもしれない。いまの彼はそういうパイオニアでもあるのだ。
最新作の「忘れられた巨人」はまだ読んでないけれど、ファンタジー的な仕様だそうだ。そこにもどこかに「日本的感性」が隠れているんだろうか・・・。ま、そんな人もいるというお話。
同じ日本人の端くれとして、カズオ・イシグロの今後に注目したい。(は/225)


なんだか、春らしからぬ話題になってしまったけど、ご容赦のほど。
でも、やっと新年度、新学期、これから新しい道を歩みだす人も多いだろう。活気のある季節だ。
とはいえ、今月はいつもにまして東京にいない。たぶんブログも今月は2~3回くらいしか投稿できないかも。次回は25日くらいだろうか・・・。だいぶ間が空くけれど、みなさんお元気で過ごされますよう。
「わたしを忘れないで」。



■小散歩

2016年04月01日 | 日常のお話
先日の日曜は、かみさんと「今日は浪費はせず、散歩でもしまひょ」ということになり、昼をかねて、武蔵境まで歩いてみた。
一応、なんとなく目的もあった方がいいだろうということで、以前、千倉で紹介してもらった「自家焙煎のコーヒー豆屋」を探しにいく、というまあ、あてどもない気楽な散歩だが、晴れた初春ということもあり、実に気持ちがいい。
まだ2分くらいの桜並木やまだ通ったことのない住宅街を通りながら、たわいもない話をする。ちょっとわかりにくいジョークなんかいうと、かみさんが笑ってくれるので気持ちが和む。ときにはこういう時間も大切だな、とおもう。

それでもときどき、明日の打合せはどんな話をしよう、とか、いま頼まれている原稿はどの方向で仕上げようか、とか、そんなことも頭をよぎったりもするが、桜の玉川上水辺りでそんなことも消えていく。
ふと、風や自転車の子供がよぎったりすると、なんだか細かいことが吹き飛ぶようだ。逆に、そういうときにいいアイディアがおもいついたりすることもある。
結局、仕事と休息は行きつ戻りつだ。それが人生、というものだろうか。ああ、新しく始めたクンダンやグンデルの新曲もどうしよう・・・。




そうこうしていると、ついに、そのコーヒー豆屋を見つけた。
自家焙煎とは聞いていたが、売っているのは、全部、世界中の「生豆」のみ。そのどれか、もしくは組合せを選んでその場で好みの深さに焙煎してもらうというシステム。そんな店、なかなかない。
待つこと15分くらいか?、サービスで出されるコーヒーを飲みながらゆったり待つ仕組み。狭い店内は常連だろうか、たくさんの人で賑わっていた。
 は「酸味は少なく、マンデリン系の苦みの深い豆が好きなんですが・・・、どれがお薦めですか?」
 店「それなら、モカ何々か、やっぱりマンデリンがいいかとおもいます」
 は「じゃ、お薦めのモカ何々にしてみようかな、でもモカというからには酸味は大丈夫ですかね?」
 店「はい、これは問題ないとおもいます」
 は「じゃ、それを200g、ディープローストで、あとはお任せします」
 店「わかりました、あちらで少々お待ちください」
 は「ああ、ついでに、そのネルもください」
てな感じ。

店主は、早口だけど、聡明そうで優しい感じのいい人だった。
そう、いいバーテンダーとか、際立ったコーヒーを淹れる人というのは、こういう動きの早い人が多いとおもうのは僕だけだろうか。きっと、そういう人だからこそ、いろいろ熟達していくんだろうね。
コーヒーの好みが近いダランも一度騙されたとおもって行ったらいい。ともかく鮮度はグンバツ。そういうのも経験では? もしかしたら別の世界が見えてくる、かも。




焙煎器。観察していたら、ここで高速焙煎した後、専用パンでじっくり仕上げをしていた。
仕事は丁寧だ。



近くのベジタリアン系インド料理でお昼にし、ついワインも少々。ま、休日だし。
で、帰り際、
 は「支払いはカードでもいいですか?」
 イ「はい、でも現金でもいいです」
 は「んん?じゃ、カードで。はい、これで」
とカードを渡すものの、端末機の使い方を間違えたらしく、端末機を僕に見せ、
 イ「取り消しはどのボタンですか?これ、なんと書いてありますか?」
 は「あ、はい、取り消しはこれですかね」
 イ「あれ、おかしいな・・・現金でもいいですが」
 は「いや、カードで払います」
そんな会話が延々つづく。結局なんとかカードで払ったものの、やっぱり手数料が惜しいらしく普段はカードは使わないのだろう。
外国ならよくありそうな話だが、昨今の日本では珍しいやり取りだった。あるんだね、そういう店も。

ここから東小金井にいけば、新しいガード下ショッピングもできるが、今回はそちらへの行かず、違う道を探しながらまた散歩して家に帰ることにした。
そういえば、最近若い人の間では、(か)さんも住む「東小金井」のことを「ひがこ」というらしい。じゃ、「武蔵小金井」は「むさこ」か。吉祥寺は「ジョージ」で、国分寺は「ぶんじ」だ。
高架も進み、なんだか中央線もだんだん変わってきた気がする。それも時代の流れか、いいのかわるいのかわからないが、すべては受け入れよう。そこに進化もある、かもしれない。
そんなことを空気で感じるのも散歩の体感か。

途中、いくつか、ヘンテコな家もあったり、近いのに全然知らない風景があったり、やっぱり車じゃなく、歩いてみるといろいろ考えたり、体感したりすることがあっていい。普段のせわしない時間が延びるみたいな感覚だ。小さな散歩にも大きな発見がある。


「血管住宅」と命名。


「血管住宅」とは真反対のような窓のない斜壁コンクリートの現代住宅。
これは・・・「かぶき(傾き)小屋」といえばいいだろうか、「国士無窓」なら役満上がり。
おかげでここは「ウォールストリート」だ。



Tunjukお気に入りのマーボードーフの店。陳健民の直弟子、だそうだが、はたして・・・。


そんなこんな、久々ののんびり休日は「小さな散歩」、我が家だけの「ちいさんぽ」な一日だった。(は/224)