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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■1千万人のイーダ

2015年04月06日 | 本のはなし


先月、松谷みよ子さんが亡くなった。享年89歳の大往生である。
松谷さんは、児童文学の作家でもあるが、昔話や民話の収集家でも知られている、とかみさんに教わった。
 は「松谷みよ子って誰だっけ?」
 か「えっ? 児童文学の・・・ほら、なら、まず「ふたりのイーダ」を読んだらいい」
 は「ああ、そう・・・なんか昔出会ったような・・・、記憶の奥にくすぶっているなにか・・・」・・・・・ふわふわふわ、パチン。

僕自身は、あまり児童文学は読むタイプではない。
だから子供の頃でさえ、いわゆる世界の名作ものといわれる何冊かは少しは読んだけれど、どうせ、女子供の読むものだ、くらいの感じである(子供なのに)。
童話や絵本、日本の児童文学となると、もっと心もとない。
大学生になってからは、ミヒャエル・エンデやレオ・レオーニくらいは・・・、ああ、そう、「シナのごにんきょうだい」は復刻版を買った。シナが差別用語にあたるそうで、長らく廃刊になっていたものだ。
でも、そういえば、小学生の頃はシャーロック・ホームズにハマっていた時期もあったっけ。そのせいで、バイオリン習いたいと言って親を困らせたこともある。
いまでは、かみさん所有のバイオリンを何度か弾いてみたりするけど、そりゃま、一朝一夕にはいかないわけで・・・、最初、いきなり「天然の美」を弾いたので、かみさんは驚いていたが、ネタは、チンドン屋だ。踊りながら弾くと雰囲気だ。子供の頃習っていたら、もう少しグンデルも上達したかもしれないのに・・・。
ともかく、ま、日本の本となると、とんと記憶にない。もっと後で、宮沢賢治や灰谷健次郎くらいかなぁ・・・。

で、あとがきを読んでみたらよくわかった。松谷さんの先生は坪田譲治で、「びわの実学校」で師事したという。坪田といえば、小川未明とともに早大童話会だ。なんだ、あっちか・・・それなら少しわかる。未明は新潟出身者ということで少しだけ親近感があるけれど、なぜかあまり好きになれなかった。
当時多数いただろうプロレタリア志向の児童文学や人形劇団などの若者たちは申し訳ないけれど、どこか怪しいというか、馴染めないものがある・・・。それぞれ子供は好きなのかもしれないけれど、大人同士は大人社会そのものというか、社会派や理論家であってもいいとして、揶揄や罵倒、追求などあって、心の隙間や遊びがない。小川未明のように短気だとなお始末に悪い。
でまあ、その早大童話会から発生した「びわの実会」は、坪田のつくったサークルが起源である。自宅にあったびわの木から取られたらしいが、その後、雑誌「びわの実学校」からは多くの名作が生まれた。そこに合流したのが松谷だったのである。


坪田譲治

坪田自身は「赤い鳥」などにも共鳴していた人。「赤い鳥」といえば、大正の開放的機運のなか鈴木三重吉によって誕生した近代児童文学の金字塔、表紙絵の清水良雄は、デザイン史をやっているときもよく取り上げられてきた。
後世に「赤い鳥運動」として多くの影響を生むことになるが、三重吉がそうした運動の核として「赤い鳥」を発刊したのは、大正時代の機運でもあろうが、それ以前のおとぎ話や小学唱歌が気に入らず、もっとこれからの子供のためにやるべきことがあると言いたかったのだ。一緒にデザインの黎明期が伺えるのが面白い。
その創刊号では、芥川龍之介、北原白秋、高浜虚子、有島武郎、泉鏡花、徳田秋声といったそうそうたる作家が集まった。「蜘蛛の糸」や「一房の葡萄」などはこのときの作品である。
鈴木三重吉も「広島」の生まれで、東大では夏目漱石の講義を受けた経験がある立派な文学者だ。往時の児童文学黎明期にそうやって苦労した人である。


鈴木三重吉。意外と写真は少ない。



「ふたりのイーダ」でも司修の挿絵は重要である。文学もそうだが、絵画の質の高さは子供たちの奥にある審美眼に大きな影響を残すものだ。
この絵の記憶は微かにあったが、もしかしたら司修の絵そのものに記憶があったのかもしれない。内容は全然知らなかったので、遅ればせながらざっと読んでみた。
でも、200頁を越えるので、子供にもたいへんかもしれないが、ひらがなとカタカナのオンパレードで、カタカナの苦手な大人にも結構面倒だ。急に読むペースがダウンする。


ストーリーは、まず、東京に住む直樹とゆう子の兄妹が、母に連れられて、実家のある広島の「花浦」という駅に降り立つところから始まる。花浦は架空の町である。絵に描いたようなおじいさんとおばあさんが出迎えてくれる。
母親の仕事の都合で、夏休みの子供たちを実家に預けに来たのだ。
直樹は小学4年生、ゆう子はたぶん3才くらいだろう。出版が1969年だから、直樹は私より2才上だ。私にもちょうど同じくらいの妹がいたので、時代的にも設定としても妙に実感がわく。ゆう子の描写がリアルだ。
このゆう子が、別名「イーダ」だ。当時はよくいじめられたり嫌な人がいると「イ~ダ!」と顔をしかめて叫ぶのが流行っていた。というか普通にそういう子はいた。
舞台が「広島」という時点で、もうテーマの一端は予測がついた。

直樹はある日、「イナイ・・・イナイ」とつぶやきながら「歩くイス」に出会い、とある廃屋に導かれるが、ある日、イーダもそこにいて、イスと仲良くしている。イスは、「コノコハワタシガカエリヲマッテイタイーダダ」という。
このよくしゃべるイスの言葉が全部カタナナで苦労する。
でも、イーダは自分の妹だ。イスのイーダであるわけがない。この時点で「ふたりのイーダ」がいることになる。ちょうどおじいさんから「世界の生れ変わり物語」のお話を聞いたばかりの直樹は、もし、妹が生れ変わりだったらどうしようと気になっていく。
で、直樹は、この家のことをいろいろ調べはじめるが、ときどき二人のお守りを頼まれていたりつ子という女性がそれを手伝ってくれた。
で、どうも、その家には、殿様の家具もつくった立派な家具職人がいて、その孫が「イーダ」という女の子であったらしい。家の日めくりカレンダーが、8月6日でそのままになっている。やっぱり・・・。
直樹にはその意味はわからなかったが、今日はちょうど8月6日、りつ子が、直樹を広島に連れて行き、精霊流しをしながら、広島の悲惨が過去を話してあげる。
直樹は、イスにそのことを告げ、イーダはもう帰らないこと、ゆう子には背中にはイーダの証であるほくろがないことをいうと、イスはものの見事にバラバラに壊れてしまう。過去とのつながりが断たれ、おもいが喪失したのだ。
直樹の短い夏休みは終わり、東京に帰るが、りつ子から、ある告白の長い手紙が届く、というエンディング。りつ子は白血病で、何度目かの病院からの手紙であった。

直樹の成長、イーダの童心、りつ子の自分探し・・・奇妙なイスがシュールだが、それはそれ、昔話ならよくあることだ。物にも魂はある。思いあまって外に飛び出すこともあるだろう。もしかしたらこれも子供にだけ見える世界があるのかもしれない。そうして、誰もイメージと現実、世界と歴史を引き取っていくのだ。
これは他人事ではない。直樹やイーダの世代が10年分くらいあったとして、約3千万人で、半分が女性だから、そのうちの3分の2がイーダの経験者だとすると、世の中には、ざっと1千万人くらいのイーダがいることになる。
だから、日本では「1千万人にイーダの可能性はある」のだ・・・、あなたももしかしたら未来のイーダかもしれない。





広島も今年70年。いまだに米大統領は来ていない。沖縄の現在と未来も道の見えない政治だが、それでもこれから少しづつ話をすればいい。ただし、民主主義を失ってはいけない。地元の声こそ民の声だ。
何年か前に出た松尾文夫の「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」という本が脳裏に浮かぶ。オバマならもしかしたら、とおもった人もたくさんいただろう。
オバマが広島に花を手向け、日本の総理が真珠湾に献花すればいいだけのことだ。お互いにforgive usと言えばいい。過去は過去、あいこの引分けでいいではないか。未来はそこから始まる。

今年8月15日、終戦の日、故筑紫哲也なら「敗戦の日」というかもしれない日に、横浜でワヤンが決まったそうだ。果たして演目は何か・・・、ダランは何を告げるであろう・・・。
広島も、戦争を知らない子供たちも、長い戦後はまだ終わらない。(は)



松谷みよ子さん。
今回いろいろ改めて考えさせてくれた松谷さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

■水の中の本

2015年04月03日 | 本のはなし

三鷹に最近出来た「水中書店」という名前の古本屋。無駄のない品揃えがなかなかいい。

ダランとは昔よく古本屋の話をした。中央線には古本屋は多いけれど、どこも一筋縄ではいかない。こだわるせいか廃業する店も多い。逆に息子の代になって良くなった店もある。たとえば西荻や吉祥寺の某書店など。
最近、我が家でお気に入りなのが、三鷹にできたこの「水中書店」だ。かみさんがどこからか見つけてきた。きっとダランもまだ踏み入れていないだろう。

この店主、西荻の名物人間だったらしく、ある意味で古本オタクである。だから品揃えもいいけれど、100円コーナの本でさえ、本が汚れていない。
「今日は暇だからもう一度磨こう」などとツイートしているらしい。良い人間です。

ということで、鷹の台や酸素の帰りなどにときどき寄っている。
たとえば、最近買った本はこれ。


左の2冊が1000円と800円だったけど、その他は全部100円(税込)。良心的だし、本もきれい。
CDは、ノーノとラヴェルとストラヴィンスキーとサムルノリ。
毎日の掃除、ご苦労さまです。本が好きなんだね、きっと。



で、この不思議な店名、以前から聞いてみたかったので、レジで買い物ついでに何気ない素振りで聞いてみた。
 は「店名の由来は何ですか?」
 主「いや~、響きが良かったので・・・」
 は「じゃ、イメージということ?」
 主「そ、そうです。とくに意味はありません。なんとなく~、いい感じかとおもって・・・」

そうなんだぁ、でも、やっぱりいいセンスしてる。人当たりもいいし、プライスも良心的だし、店内のBGMもなかなかだ。
今日も水中で、ぷかぷか浮かんでいる感じ、夢心地だ。本たちも何だか楽しそうに見えてくる。

 は「あ、そういえば、先日この辺にあったNicoのCD売れちゃいました?」
 主「あ~、あれ、売れちゃいましたね~」
 は「ああ、それは残念。じゃ、ついでにこれも」
なんだか、スネークマンショーが始まりそうな会話だ(わからない人は無視してください)。


そういえば、いつだかワヤンのメンバーみんなで沖縄に行ったとき、JALの名人会でやっていた新作落語が僕も(に)さんもお気に入りだった。(に)さん、覚えているだろうか・・・?

名前を忘れたので、探してみたら、林家彦いち、という人でした。
内容は、彼はもともと「掛け声指南」というプログラムにしていたものを、JAL名人会という晴れ舞台に思い入れを込めたのであろう、直前になってやっぱり自分らしいものに、ということで変更したという。
彼は、鹿児島の「長島」という島の出身で、そこがとんでもない田舎ということをネタにして、むしろ人間らしい悲しみとおかしさを表している創作落語に仕立てている。


林家彦いちさん。林家久扇(元の木久蔵)の弟子だという。
自分のことは「猿蟹合戦」の臼に似ていると自虐的。



内容は覚えている、ざっとこういう感じだった。

主人公は「安田」、これは本人だ。
長島がド田舎なので、東京のみんなとは共通体験がないので、合コンなどでは話が合わない、という体験談。
話のたびに、「ふわふわふわ、パチン」と島での記憶のなかに入り込んでいく。これは、記憶の泡が広がって弾ける音だそうだ。これで場面が変わる。

たとえば、テレビの話題が出ても・・・・・ふわふわふわ、パチン。そういえば長島にはテレビは珍しかった。なにしろ、初めての信号機が島の人間が信号機を知らないと困るという理由で設置されたもの。
「交通ルールと信号は守らなければ」と説教するおじさんは軽トラの荷台で、運転手は中学生の息子・・・?とか、
「泳げたいやきくん」の話題が出ても、それはわからないけれど・・・・・ふわふわふわ、パチン。そういえば長島では水泳はいつも海だった。そう、学校にプールがなかったので、本土での大会が初の真水水泳で・・・どぎまぎ、とか、
オイルショックはたいへんだったという合コンの会話も、島には関係なかったので、島は日本史から離れた場所だったとおもい描く。
給食がまずかったという話題になれば、島ではいつも新鮮な魚があって美味しかった、とか・・・、
そのたびに、「ふわふわふわ、パチン」と記憶が蘇る。

彼のお母さんもなかなかのものだ。
食べ物を残すと「鍋お化け」が出るぞ、というお母さん。突然電気が消えたので、台所にあるスイッチを入れ直したら、鍋をかぶりながら後ろを向いているお母さんがいたり、アーノルドパーマーが欲しくて、ねだったら、翌日、傘刺繍の入ったTシャツが置いてあったけど、胸いっぱいの大きさのヘタクソな傘の刺繍だったとか・・・。

そんな安田は、最後まで話についていけず、女性たちからも馬鹿にされつつ、ズレたまま、店を出ると、
「安田は落語家なんだから、もっと話ができないといけないんじゃないの?」とか追い打ちをかけられて、落ち込む。
ふと、大都会の夜空を見上げると、満月だ。それだけは長島で見た月と同じだった。
自分もどこにいようと、人を笑わせて楽しい気分にさせたいという気持ちは、この満月のように、欠けてはいけない、と心に誓う。


「水中書店」と聞くと、ぷかぷかぷか、クラゲのようにそんなお話が蘇ってきた。
月は、東京も、沖縄も、北海道も、浜松も、ま、バリもみんな同じだね。
僕がもし古本屋始めたら、いっそ「泡中書店」にしようか・・・。
ふわふわふわ、パチン。誰にだって想い出はある。(は)

■Who am I ?-フランケンシュタイン幻想(2)

2015年03月27日 | 本のはなし


一昨日のつづき。
この本、三巻組の構成になっている(これも三だ)。
別段、恐怖小説ではない。むしろいろいろ考えさせられる。
わかっているとおもうけど、フランケンシュタインというのは、怪物の名前ではない。怪物を生み出した科学者の名前である。ヴィクター・フランケンシュタインという。

そもそもこの本は、北極探検を目指して船を進める科学者のウォルトンという男が姉にあてた手紙という形式になっている。
ウォルトンが偶然助けた男ヴィクターが、科学のために犠牲もやむなしという信念をもつウォルトンを戒めるために語った自らの体験談こそが、この怪物の物語なのである。


第一巻は、ヴィクターが怪物をつくりだしてしまった経緯にあてられている。ま、「怪物の創造」である。
ざっと展開はこんな感じ。

ジュネーヴ屈指の名家の御曹司として何不自由なく育てられたヴィクターは、ドイツの大学で化学の可能性に開花、若くして飛び抜けた才能を発揮する。
そこで目覚めた名誉欲がモチベーションとなって、あろうことか自室で密かに「生命の創造」という神をも恐れぬ悪徳的行為に没頭する。ついに生み出された命は、果たして、この世の物とはおもえない醜い怪物の様相をもつものだった。
ヴィクターは、悩んだ挙げ句、彼を置き去りにして、逃げてしまう。

その後、ヴィクターの周辺には世にも恐ろしい出来事が起こる。幼い弟ウィリアムが殺され、善良を絵に描いたような少女ジャスティーヌが犯人とされ、無実の罪で処刑されてしまう。
ヴィクターだけが真犯人を知って苦悩する。
怒りに燃えるヴィクターは、アルプス山中に怪物を探し当てるが、逆に、怪物からここまでに至るみじめで孤独な自らの苦悩を聞かされる。
それが第二巻の内容、「怪物からの告白」である。


「おまえがおれをつくったんだぞ。ならばおれはアダムのはずじゃないか。なのにおれは悪いことをする前から楽園を追いやられた堕天使だ。おれにも優しさや善良さがあったのに、のけ者にされたみじめさがおれを悪魔に変えたのだ。おれは独りきりで、みじめなほど孤独だ。おれは命乞いをしているのではない。ただ話を聞いてほしいのだ。」


ミルトンの失楽園初版本表紙。
メアリー・シェリーはこれを何度も読んでいたらしい。


そこで始まる怪物の告白では、生まれたとき、目が覚めると暗く、寒く、怯えていたそうだ。たがて目が見え、耳が聞こえ、感覚がだんだんはっきりしてくると、月や太陽、鳥のさえずりやたき火をみて、自然や環境というものを次第に理解していく。すでに理性があるのだ。
野をさまよい、森に入り、水面に写る自分を見たときの衝撃は凄まじい絶望感だった。
ある村では、何もしていないのに、子供は悲鳴をあげ、女は気絶し、男たちからは石や棒で叩かれた。
以来、彼は人前には出ず、森をさまよいつづけた挙げ句、たどり着いた一軒の農家の小屋に隠れて、その家の暮らしを観察しはじめる。
その家は、ド・セラーという盲目の老人、フェリックスとアガサの兄妹の三人暮らし。貧しいながら、暖かい家庭というものに初めて接し、悲願にも似た憧れをいだく。怪物は、気づかれないように一家を陰ながら助けてあげてもいた。
あるときは、老人の弾くギターとアガサの歌に涙する。この気持ちは何だ。怪物は音楽や芸術も愛せるだけの感受性も芽生えていたのだ。

怪物は、そこで言葉も文字も歴史も学ぶこととなる。知性も理性も優しさもある。ただおぞましく醜いだけなのだ。
「人間というものは、それほど強くて高潔で素晴らしい者でありながら、同時になぜどこまでも悪辣で卑怯な存在なのか。どうして仲間を殺すのか。どうして法律や政治が必要なのか。」
「財産というものは分配されるものであるのに、巨万の富をもつものもいればみじめな貧困にあえぐものもいる。」
と、人間というものに対し、凄まじい嫌悪感にも襲われたりもする。

そして、自分が着ていたヴィクターの服のなかにあった彼の日記を読んでしまうのだ。そこには、実験から自分が生まれるまでの細かい経緯が書かれていた。
彼にとってヴィクターは憎むべき相手であると同時に自分を生んでくれた創造主でもあるという複雑な感情を芽生えさせる・・・。
自分にも愛がほしい。家族がほしい。自分は孤独だ・・・唯一その存在を知っているのはこの世でヴィクターだけなのだ。

次第に怪物は、この一家と友人になりたいというおもいが募っていき、ついに老人が独りになったのを見計らって、家を訪ねることにした。
目の見えない老人は、彼を暖かく向かい入れ、話を聞いてくれた。
怪物が言う。「私は善良な生き方をしてきました。人に危害を加えたこともなければ迷惑をかけたこともない。ささやかながら人助けをしたこともあります。それでもどうしようもない偏見が眼を曇らせ、おぞましい怪物にされてしまいます。」
老人は言う。「私は眼が見えないのであなたの顔はわかりませんが、それでもお話をうかがっているとなんとなしに実直だとおもわせるものを感じる。」
暖かい励ましの言葉をかけつづける盲目の老人に対し、怪物は心を動かされる。
「あなたは恩人です。これまでに巡り会った、たったひとりの恩人です。ご恩は一生忘れません。」
だが、そこへ、フェリックスたちが戻って来て、たちまち、暴力をふるわれ追い出されてしまう。
老人が最後に叫んぶ。「いったいあなたはどなたなのだ!」

淡い希望も打ち拉がれた怪物は、また森を彷徨い。そこで決定的な出来事が起きてしまう。
川で溺れかけている少女を必至で助けたときのことだ。意識を失っていた少女に声をかけようとしたとき、少女の父親がそれを発見し、人殺しの怪物め、と銃を撃ってきたのだ。
怪物は大きな傷を身体にも心にも受けた。これで彼の最後の良心は壊れてしまった。


映画でも少女と出会うシーンだけはホッとする。後が怖いが。

そこまで語った怪物は、最後に、ヴィクターでなければできない頼み事をする。それは自分の伴侶を作ってほしいというきわめてシンプルで困難なものだった。そうすれば、お前に関わることも、人前にも二度と現れない。
それが彼が到達した唯一の解決策だったのだ。


そして第三巻。しぶしぶ伴侶づくりを承諾したヴィクターは、スコットランドの最北端の漁村の小さな小屋でそれを開始する。
しかし、完成直前になって、新たに生み出した彼女を突然切り刻んでしまう。葛藤の末の行為であった。
その瞬間、窓の外に現れた怪物は、絶望に声をあげ、「覚えておけ、お前の婚礼の夜に必ず会いに行くからな」、という名台詞を残して去って行く。
翌日、ヴィクターは、親友クラーヴァルが死に、自身が犯人にされたことを知る。

それでもなおヴィクターは、幼い頃からの最愛の人エリザベスと結婚する。しかし、新婚旅行の最初の夜に、彼女の最後の悲鳴を聞くことになる。約束通りやってきた怪物はエリザベスを殺したのだ。
もうヴィクターには守るものも人生もすでにない。怪物を殺すことだけを目指して、ついに北極近くまで来てしまったのだ。で、冒頭に戻る。
果たして、ヴィクターと怪物の運命は・・・。


あまり知られていないが、この本の副題は「あるいは現代のプロメティウス」という。
プロメティウスとは、ギリシャ神話の人間を創造した男神、人類に火を与えたた神でもある。火は知恵ともとれるので、原発もよく「プロメティウスの火」などといわれることもある。
「失楽園」といい、プロメティウスといい、メアリー・シェリーのテーマは、ある種の畏れでもあったかもしれない。

怪物には名前がない。もちろん、戸籍も住所も証明書もない。孤独とはいったい何だろう・・・。
自らが起こしてしまったことが原因で不幸のどん底に堕ちたヴィクターと、自分のせいではないのにあらゆる苦悩と負の感情を植え付けられた怪物とのやり場の無い対比がある。
そして怪物は、決してヴィクターを殺すことはしない。何があろうと彼は自分の創造主、唯一の望みであるのだ。
ただし、怪物に対し、唯一心を開いたのは、盲目の老人であった。その老人の最後の言葉。「いったいあなたはどなたなのだ」という言葉が重い。
ここでも "Who are you !?" だ。
自分はいったい何者なのだ、というのも怪物の求めるもののひとつだろう。


そういえば先日、偶然TVで観た「ハゲタカ」という映画にも似たシーンがあった。
ある日本の大手自動車メーカーを買収しようとする劉と名乗る中国人投資家は、裏で調べると戸籍を改ざんした謎の中国人だった。「砂の器」だ。彼は劉ではない。彼の出生の秘密、どういう苦労をしてここまで来たかは誰もしらない。
大森南朋演じる鷲津が、その劉に対して投げた言葉が「あんた、誰なんだ」だった。劉は「オレはお前だ」と答えるシーンが象徴的だった。
金を持つ不幸と金を持たない不幸のお話。どっちが勝ちでどっちが負けなのか・・・やっぱり引分けでいけばいいのに。
劉を演じたのは朝ドラの主人公マッサンを演じている玉山鉄二君だとかみさんが教えてくれた。彼はこういう役の方がしっくりくるタイプだ。


左が玉山君。右が鷲津役の大森南朋(麿赤児の息子だ)。

また、その自動車メーカーの派遣社員がもらすこんな言葉もあった。
「派遣を扱うのは人事部じゃないんですよ。調達部。だから部品は誰かであってはいけないんだ」。この誰かであってはいけないという部分が染み込んで来る。
誰だって名前も人格もある。少しだけど個人の歴史もある。人間というのは、そうしたものを奪われたときの喪失感ほど耐えられないものはないのかもしれない、と、ふとおもう。


ついでにいえば、お気に入り映画のひとつボーンシリーズ第二作「ボーン・スプレマシー」にもこんなシーンがある。
過去の記憶がないボーンは、日々その手がかりを探して模索するなか、彼のノートがアップになり、太字でこう書いてあった。
"Who was I ?"



そう、怪物も、Who am I? のなかを彷徨っていたのだ。
自分自身を探し求めている現代人は案外多いかもしれない。名前や戸籍だけではない。自分自身の内側から出て来るものだ。そういう人はアーティストにも多いし、LGBTもそうだ。自分が生きている証のようなものかもしれない。

とくにヨーロッパでは、ギリシャ以来の伝統で、美と醜は善と悪にも等しい差別の表層である。誰もが知っているアンデルセンのみにくいアヒルの子も、そもそも外見の美醜が差別の判断基準だった。
そういえば、先日の打上げで、以前、ワヤンでやったSupraba Dutaで、ただスプラバを一途に愛しただけなのに、ニワタカワチャは、チャラ男のアルジュナの罠にはめられて殺されるのが不条理だ、と言っていたワル好きの女性がいた。ニワタカワチャは、怪力で見苦しいだけなのに、だそうだ。
そうね、もっと前段のニワタカワチャの悪行を知らないと、そう感じるのかもね。キャラクター設定にも、偏見と思い込みは難しい。

フランケンシュタインの怪物まではいかないまでも、世の中には、孤独、復讐心、いわれなき差別、心の傷、ねたみ、貧困、絶望・・・そうしたものがあって、やがてテロや犯罪を生む。負の連鎖でもある。
逆にみれば、偏見と先入観こそが、心眼を曇らせる。我々だって、テロや犯罪も一概に「悪」と思い込んではいないだろうか。

いまの世の中に必要なのは、憎しみや復讐心ではない。オノ・ヨーコがいうように、何かに傷つけられたり、怒ったりしたときは、許し合うこと、Forgive meと言おう。名も無き怪物もきっと、そう言ってほしかったのだ。(は)

■懐古と進歩の狭間で-フランケンシュタイン幻想(1)

2015年03月25日 | 本のはなし


黒部に行く列車のなかで、元旦に出版された新訳の「フランケンシュタイン」の文庫を読んだ。
実は、少し前にほとんど読んでいたんだけど、その他でいろいろ読まないといけない本があって、最後の章は残しておいていたのだ。
物語はスイスアルプスが見える湖畔の町が舞台なので、なら、日本のアルプスでも眺めながら読んでみようか、文庫だし持っていくにはちょうどいい、というくらいの趣向だけど、それでも春も近いというのに雪をいただいた山の景色は、実にそれらがビジュアライズされた光景でもあった。さずがに霊場らしく雪景色の立山がマッターホルンに見えてきた。
横に座っていた(の)ちゃんも、しきりと北アルプスの山並みを撮っている。私はゆっくりとその光景に浸りながら、物語の世界に還って行ったのであった。

ま、こういうゴシックロマンス(ゴシックホラーともいうけど)系は、学生の頃、牧神社や国書刊行会を中心とした古本を買いあさったのが最初であった。
有名なところでは、ホレス・ウォルポールの「オトラント城奇譚」やベックフォードの「ヴァティック」、マシュー・G・ルイスの「マンク」、チャールズ・マチューリンの「放浪者メルモス」など・・・。荒俣宏やその師匠である紀田順一郎が水先案内人だった。
その流れで、ドイツやフランスのいわゆる幻想文学系や、そのままポーなんかにつながるという、まあ、よくあるパターンに陥ってしまったのだ。それこそ、ゴシック・ホラー的な迷路だ。

ゴシックロマンスは、簡単にいうと、18~19世紀イギリスを中心に人気を博した小説群で、中世のお城や大聖堂や屋敷みたいな空間を舞台に繰り広げられる超常的な展開と価値観の迷宮的物語のことをいう。日本でいえば泉鏡花のようなことだろうか・・・。最後は崩壊的だったり退廃的だったりするけど、幻想的でゾワゾワする。
コズミックホラーの覇者であるH.P.ラブクラフトが「恐怖は人類の最も古い感情である」というようなことを言っていたとおもうけど、その通り、まだ世の中に少しは神もいて、「闇」もあった時代、人間は太古の畏怖と急速に進む科学との間で彷徨っていたのだ。
時代的には、ヨーロッパでは、ルソーやヴォルテールなどの啓蒙思想、その後のダーウィンや諸科学思想の時代に入っていて、実はこういう懐古趣味的というかインモラルも含めた日の当たらない世界観は、やっぱり「表」と「裏」というか、光と闇というか、理性と情緒というか、合理と非合理というか・・・、ま、それも人間の一部だということだろう。

ともあれ、その頃の友人には、絶対「フランケンシュタイン」を読んだ方がいいと何度も言われていながら、なぜか読む機会がなく、今日まで来てしまったのだった。たぶん、同名の出版物がたくさんあり過ぎて触手が延びなかったのだとおもうけれど・・・みなさんはお読みだろうか?


作者・メアリー・シェリーの肖像

作者のメアリー・シェリーは、裕福な家の子女ではあるが、もともとは文学者でも小説家でもない。彼女の告白では、この物語の誕生は、あるとき詩人のバイロンの別荘に滞在していたときに、バイロンを入れてちょうど4人ほど泊まっていたゲスト同士が暇つぶしに、それぞれ幽霊潭を創作して発表しよう、ということになったのが発端であったそうだ。
そんなことやったことのない彼女は困り果てた矢先、ある夢を見た。それがまさにフランケンシュタインの原型である。ちょうど、世の中、科学と化学ブーム。電気ショックで生体を動かせるという実験なども行われていた時代で、生命と科学と神と人間といろいろ価値観が交差していたのである。
また、発表当時は作者不詳で出版されていた。理由は女性だったからである。時代的にはしょうがないけれど、これも一種の差別だね。第三版でやっと実名発表した。その際語られた逸話が上記である。

生命倫理というなら、現代にも通じる価値観がすでに芽生えていたといってもいいだろう。人間が侵さざるベき神の領域を科学と化学は越えられるのか。
そういう意味では、科学の時代の成果が交差している点では、SFの元祖ともいわれている。
時代設定はフランス革命の頃。社会も激動の時代に、人間の本質を突くがごとく誕生した鬼っ子がその怪物なのである。いまでもポピュラーに読み継がれているのも、その頃の人と現代人も社会も、根本的には変わっていないということかもしれない。

バリの象徴、チャロナランも、人気の儀礼である理由のひとつには、きっとこうしたある種の普遍的なテーマが潜んでいるからではあるまいか。善と悪という構図もそうだけれど、食人や恐怖や社会の悪霊の世界は人間の鏡でもある。物語を通してそれを示しているのである。
どんな宗教にも恐怖や畏れをテーマにした戒めはある。そこに飛び交う精霊たちを制御するのも、教えを授けるのもワヤンのそもそもの役割であったはず。娯楽はその入口に過ぎない。




で、と、フランケンシュタインというと、二つ思い出す映画がある。
ひとつはご存知ボリス・カーロフ演じる白黒の怪奇映画。これが一般には決定的だった。このイメージが強い人が多いだろう。ただし、映画なだけに、原作とはかなり異なる設定になっている。
たとえば、映画では、フランケンシュタインはマッドサイエンティストであり、怪物は言葉も話せない凶悪な存在で、無差別殺戮の恐怖が題材になっているという点だろうか。第一、彼の脳は、墓場から持って来た犯罪者の脳だったのである。
これらは原作では、ちょっと違う。怪物は言葉も話すし、知性もあってもともとは悪人ではない。むしろ理性も情緒も心もある。自分の意志とは関係なく、ただ怖くて醜いだけで差別され、いわれない孤独を悲しむ哀れな人間だ。
逆にフランケンシュタインこそ、若い学生の名誉欲に取り憑かれたお坊ちゃん研究者で、怪物を作っておきながら、怖くなって捨て去った背信の徒だ。
だからこそ、文学、というか、小説としての奥行きもある。



もうひとつは、ビクトル・エリゼ監督の「ミツバチのささやき」である。
あるとき、村にフランケンシュタインという映画の移動上映がやってきて、それを観た無垢な少女が、怪物や自然のなかにさまざまな幻視と幻想をみるという映画だ。
子供にだけ見える世界もある。精霊の家に偶然いたモンスター(実は逃亡者)に食事をあげるシーンが印象深い。主役のアナ・トレントが実にチャーミングだった。

そう、フランケンシュタインの怪物は、どこにでもいるのだ。そんな記憶をすべての人は裡に秘めて大人になった。怪物とは何か。怪物は実は隣りにいるかもしれないし、あなた、かもしれない・・・。
長くなるので、物語の神髄は、また次回。

桜咲く春なのに、暗い話でどうもすみません。
ま、今夜は、たまには童心にかえって、怖くて幻想的な夢をみてください。(は)