玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■ギョ!

2015年04月28日 | 路上観察


鯉魚から魚つながりじゃないけれど、先日、鷹の台の帰りの電車の広告にこういうのがあった。
流石だね。

そういえば、思い出したけど、以前に、アルジャ研究家で知られるAMさんの出版の内祝いで、ブックカバーをつくったけど、そのときに、こういうコピーを入れたことがある。
世界の「声」の音楽と民族がテーマの本だったので、そういうネタも入れたわけだけれど、バカっぽいね。
LIFEのうっちゃんネタのわからない人はつまらないかもしれませんが・・・。




 □「声」を出す魚がいるそうだね。
 ◎うそでしょ。魚は声出さないでしょう。
 □うそじゃない。じゃ、紹介しようか。話す魚、サカナさんです。
 ▲おはようギョざいます。千葉の銚子から来ました。ギョらんの通り、魚です。
 ◎変な発音。でも~、「びっくりびっくり」。
 ▲ギョめんなさい。発音悪くて。
 ◎いや~、自然の驚異というやつか。
  でも、発音悪いな・・・。コケコッコーって言ってみて。
 ▲キョケキョッキョー・・・。
 ◎じゃ、午後五時は?
 ▲ギョギョギョじ・・・、ギョギョギョじ。
 ◎やっぱりなんか変。でも楽しませてくれてありがとう。
  「はい、百万円」、といいたいところだけど、「はい、五十五万円」。
 ▲ぎょっ、ギョじゅうギョまんえん?
  ギョめんなさい、僕、嫌われてる?


こうなったら、ゴルゴ13だって、ギョるギョ13だし、マッハゴーゴーゴーならマッハ・ギョーギョーギョーだ。
豪華客船ならギョーかきゃくせん・・・なんか言いにくい。指圧の心は母ギョキョろ、ギョだいギョてんのう、ギョかやまとしらかわギョう・・・、ま、いいか。
というわけでということもないけれど、僕もギョールデン・ウィークは、またサッポロになってしまいました。
浜松祭り行けなくて残念。みなさん、ギョめんなさい。(は)


ポールは元気そうで何より。僕が観たときはいくつだったか・・・。
ま、ダランも我々もポールを見習って、息の長い芸能人生でありますことを。

■鯰猫(ねんびょう)

2015年04月25日 | その他


ダランの住む浜松の公認キャラクター「家康くん」の前は、やっぱり「ウナギイヌ」だったらしい。
先日の話のつづきじゃないけれど、じゃ、大津ならナマズだろうか、ということで、「鯰猫(ナマズネコ)」というのを描いてみたが、はたしてどうだろう・・・?
これは、ネコのお父さんが、東海道を旅していたら、大津でナマズのお母さんと恋に落ち、産まれたもの。ネコなのに、地震を予知できる、ということで、いまや関東でもひっぱりだこ?


ナマズネコ。赤塚先生、ごめんなさい。


そういえば、今年2月。神戸公演の帰り、ダランとダランの学生のKと立ち寄ったのが、大津のSAであった。
正面が琵琶湖。左に見えるのが比叡山か。
歴史の教科書に出てきそうな舞台であった場所を目の前にするとなんとも不思議。
実は、滋賀県は、まだ足を踏み入れたことがない。



まあ、禅とか魚とか恋とか言っているうちにおもいだしたが、岡本かの子のごくごく短い小説に「鯉魚(りぎょ)」という短編がある。



岡本かの子は、ご存知岡本太郎のお母さんである。はじめは歌人として活動していたが、一時精神の病も患ってから、仏教に救いを求めるようになっていった作家である。そのせいで、晩年は、仏教に関連する小説が多い。
話は違うけど、岡本太郎は、破天荒な芸術家の印象がある人が多いとおもうけど、実は、かなりの文才があって、写真などは実に素晴らしい作品群である。これもかの子の血筋だろうか。


岡本かの子。モガだ。




で、この「鯉魚」、物語としては、やはり先日来の臨済禅の寺に「臨川寺」というところがって、「梵鐘は清波を潜って翠巒に響く」という詩境の場所。


臨川寺門(京都)。


周囲を流れる保津川。


室町時代、禅寺ということもあり、食事のときは生飯(さば)という施餓鬼の飯(悪道に苦しむ餓鬼に施すこと)を取分けておき、それを川に投げるという習慣があった。
その担当であった沙弥(出家した修行中の若者)の昭青年は、ある日、川へ行くと、うずくまって倒れている早百合姫という美しい娘に出会う。
娘はもともと細川方の下野守教春(しもつけのかみのりはる)の一人娘であったが、応仁の乱で両親ともはぐれ、何も食べるものがなく、川に身を投げて死のうとも考えていたという境遇。さめざめ泣くばかり。
昭沙弥は、生飯を差し出し、その場は助けるものの、路頭に迷う人の多い時代、修行中の寺で世話するわけにもいかず、やうなく近くの苫屋の船にかくまうことにする。

毎日、飯を運ぶうち、それは十八と十七の青年と乙女。秘密で会ううちに恋が芽生えるのも当然。寺の僧達の間でも、どうも最近昭沙弥の様子がおかしい。魚も寄りつかなくなったという噂が流れる。
あるとき、早百合姫が、とんと行水もしていないので、清らかな川で汗を流したい、寂しいから一緒に入ってほしい、という。
もともと修行の身であり、これは難題。葛藤もあった昭沙弥も躊躇するが・・・、若気の至り、輝くばかりの若い二人の恋。案の定、それを寺の僧達に見つかってしまう。

僧達は、昭沙弥を捕まえ、住持である三要のもとに引き出すが、話を聞いた三要は、「一緒にいたのは確かにおなごか、鯉魚(りぎょ)と間違えたのではないか」といい、「わしは見とらんのでわからんから、これは、昭公と大衆と法戦をして、そのうえで裁くとしよう」ということになった。
自分はいいが、早百合姫まで罪に問われることになってはと必至の昭沙弥。法戦の相手は強者大衆大勢、こちらは一人、もし少しでも問答に詰まったら姫を救うことはできない。
問答の声は次第に高鳴るなかで、昭沙弥は、ただひたすら「鯉魚(りぎょ)」とだけ答えつづける。
  「仏子、仏域を穢すときいかに」
  「鯉魚」
  「そもさんか、出頭、没溺火抗深裏」
  「鯉魚」
  「ほとんど腐肉蠅を来す」
  「鯉魚」
  ・・・・・・・

これではまったく問答にならないが、昭沙弥の死にものぐるいの迫力は次第に他を圧倒していく。鯉魚、鯉魚と答えているうちに、不思議にも鯉魚という万有の片割れにも天地の全理が宿っていることに気がついていく。逆に大衆は黙っていく・・・。
そこで三要は「昭公がいま別の生涯あるを知ったのは、長い間、生飯を施した鯉魚の功徳の報いだ。」と法戦を終わらせる。
昭青年はこれを機に落髪して僧になり以降、鯉魚庵を開いて、将来名器の噂が高い。一方の早百合姫も道に志のある身となって、舞いの才を発揮して都の名だたる白拍子となって、生涯、鯉魚庵の檀越となった。
以降、間違いがあってはいけないということで、生飯は住持の老体の作務となった。


う~ん、禅機はどこにあるかわからない。
でも、これで僕も誰に何を質問されても怖くない。血液型を訊かれたら「新潟」と答え、答えようのないことを訊かれたら、ひたすら「鯰猫(ねんびょう)」と答えることにしよう。
シュールだ。でも、そこにはきっと、万物の理、生命の不思議、イメージの複合、精神の高揚、禅とナンセンス、いろんな時代のいろんな事情がからみあっている気がしてくる。
裁判ならきっと執行猶予がつくに違いない。(は)

■すたすた坊主とナマズ

2015年04月20日 | その他
2年ほど前に、かみさんと渋谷のBUNKAMURAで白隠の展覧会を観たことがあった。
白隠慧鶴(はくいんえかく)は江戸中期の禅僧である。臨済宗中興の祖などともいわれているが、宗派にはよく中興の祖というのがいて、江戸時代、あまりパッとしなかった臨済宗の場合は、白隠によって、復興したということだ。
もともと禅宗は、鎌倉当初は大小20以上の宗派があったらしいが、明治以降は、曹洞、臨済に二分されたわけで、黄檗(おうばく)を含めた三宗を数える場合もあるが、見解はいろいろ。流派的には、この臨済が最も多いといわれている。
ちなみに、曹洞宗の開祖はご存知道元、臨済宗は栄西、黄檗はいんげん豆の隠元である。
ただし、鎌倉から室町にかけて、日本の諸芸はこの臨済宗の僧侶の影響が大きかった。とくに茶道との関係は深く、墨跡や書、禅画や山水画、文芸には歴史的な進化を遂げた。
室町の後半になると、一遍を開祖とする時宗=同朋衆・阿弥衆の遊行するものたちの活躍が目覚ましいわけだけれど(ここは長くなるのでカット)、その端緒は、臨済宗であったのだ。

だからまあ、歴代スターも多い。圜悟克勤や無学祖元や一休宗純や夢想疎石・・・、安国寺恵瓊も一応そういうことになっている。
建長寺を筆頭とする鎌倉五山や南禅寺を筆頭としたいわゆる京都五山や大徳寺も鹿苑寺(金閣)も慈照寺(銀閣)も臨済宗。夏目漱石の「門」に出てくるのもこの臨済禅である。
ちなみに、我が良寛は、曹洞宗の僧であったけど。
ま、ともかく、禅は、座禅、教科別伝、不立文字、以心伝心な人たちである。


白隠筆。すたすた坊主。


で、白隠は、無数に描いた達磨図で有名だが、我が家で気に入っているのは、この「すたすた坊主」だ。
すたすた坊主とは、笹と桶をもち、注連縄をまいただけの裸坊主で、基本的には物乞いだが、金持ちの代理で寺社に参拝するバイトをする坊主のことだ。
どうも、故郷である沼津近郊には、本当にこうした坊主がいたらしく、人々の幸福を願って代参する様を布袋になぞらえたものである。
他にも、寿老人やふざけた布袋なんかもいろいろあってユニークだ。悟ってないとこういうのは描けない、のだろう、きっと。

山水画の祖といわれているのは、如拙である。雪舟がそういったかららしいけど、唐絵の祖である。その如拙に「瓢鮎図」がある。いまでは国宝になっているが、なぜ、ひょうたんとナマズなのか、謎が多い。
たぶん、これに起因してか、江戸時代には「大津絵」というのもあった。東海道五十三次の五十三番目の宿、大津がルーツの土産物絵であるが、ま、へたうま、というか、素朴絵の一種でもあるが、これも禅僧の手になるものたちであったそうだ。白隠もきっと観ただろう。


如拙筆「瓢鮎図」。鮎は鯰の古字。


ちなみに、東海道五十三次は、華厳経から来ている。華厳経の最終章「入法界品」で、善財童子という少年が文殊菩薩の指示によって53名の知者を訪ね、最後に普賢菩薩によって法界に入る、というストーリーのもので、起承転結があり、どうも最後に組み込まれた可能性が高いとされている。
厳密には、55箇所訪ねるんだけれど、説法しない人物や文殊そのものが再登場だから、一般には53ということになっている。
20代の頃は、参禅もしていたけれど、こういうのは訳もわからずよくトライしていた・・・、要は理解したかったのだけれど。
東海道は、天海あたりか、幕府がこれになぞらえて街道を整備したものである。でも実際は二週間程度の行程だったらしいので、すべての宿に泊まるわけではない。ただし、旅なんて滅多にしないので、最初と最後の宿には必ず泊まるのが常識であった。だから品川は栄えたのだ。


歌川広重の「大津宿」。
昔は安藤広重といったけど、いまは歌川が主流だ。



日本の華厳宗総本山は、奈良の東大寺。東大寺は別名総国分寺でもあって、全国の国分寺のヘッドクオーターでもある。我々のスタジオのある国分寺とも遠い因縁があるわけだ。
何か縁がある。
大仏は毘盧遮那仏だから、要は太陽仏、大日如来(摩訶毘盧遮那仏)ともアマテラスとも「てぃ~だがま」とも通じている。
何か縁がある。
この華厳の世界観は壮大だ。大仏の台座の蓮弁には、須弥山世界が線画で描かれているけれど、華厳では、本来、須弥山はひとつではない。
簡単にいうと、ひとつの須弥山世界が千個集まったのが小千世界、それが千個集まって中千世界、それがさらに千個集まったのが大千世界。これが世にいう「三千大千世界」というもので、ひとつの三千大千世界に須弥山は10億あることになり、これが一人の仏(=如来)の力の及び範囲とされていた。それが融通無碍で相互につながり合っている、というわけだから、眼がくらむ。
これを仏国土、つまり「浄土」と呼んでいたのである。毘盧遮那仏は、この三千大千世界の蓮弁の上に結跏趺坐されているわけである。
まあ、だいたい銀河宇宙のようなもので、とりわけ、お隣のアンドロメダ銀河は、阿弥陀の極楽浄土という感じだろうか。恒星の数ほど須弥山はあるわけだ。
スタソーマが修行に行ったのはどこの須弥山だろうね。
何か縁がある。




ま、その大津絵、俗な世界の話なので、仏画とは関係ない題材もあったらしいが、この瓢簞鯰が注目だ。たぶん、如拙の「瓢鮎図」のパロディーだとおもわれる。だから人が猿になっている。茶化したいときはいつもそうだ。
ま、パロディーも立派な反芸術ですが。
歌舞伎の「暫」にも鯰坊主が出てくるし、江戸時代には、地震や災害を鯰が起こすと考えられていたので、それと戦う鯰絵というのもあったけれど、どうもこういうもののルールはこの辺にありそうだ。
ナマズは悩ましい。


大津絵の代表的題材のひとつ。瓢鯰図。



という次第で、現代でも禅僧はいろいろ表現していて、妙心寺の住職が描いた墨跡に、こういうのがあった。「のらり くらり」。
朝ドラの大泉洋のようでもあり、ある意味、泯さんのようでもあり、なかなか普通の人には達成できない境地だ。




一方、こういうのもある。



右は「気は長く、心は丸く、腹立てない、人は大きく、己は小さく」、
左は「気は長く、心は丸く、腹立てない、口つつしめば、命ながかれ」と読む。

まあね・・・。(は)


おまけ。
ナマズではないけれど、赤塚先生のウナギイヌというのも何か「それ」に通じるものがある。
「泥棒猫」のイヌのお父さんは、盗みに入った魚屋でウナギのお母さんに一目惚れして、駆け落ちの挙げ句産まれたという設定になっている。イヌだけれど、身体がヌルヌルしていて掴みようがないそうだ。
一時は浜松のマスコットになっていた時期もあったそうだから、
何か縁がある。


■歩き方研究会の行方

2015年04月16日 | その他


昨年、鷹の台でこういう冊子を配布していた。
どうも武蔵美が資金を出し、学生ボランティアがつくっている冊子らしい。これはすでに第16号。
この号の特集は「鷹の台くいだおれストリート」。地元鷹の台のさまざまな飲食店をリサーチしてマップにしてある。
我々のスタジオもこの鷹の台にあるので、行ったことのある店もあれば知らない店もあっていろいろ参考になる。
おもえば、もう二度と来ないだろう、とおもっていた鷹の台だったが、奇遇にもダランのスタジオがここにあったので、いまでは、学生のときより通っているかもしれない。因縁だね。






ところで、この冊子の後半で紹介されているサークルがユニークだった。毎回いろんなサークルを取材しているらしいが、今回のサークルは「未知研究会」だそうだ。
会長がつくった動機は、ママチャリで仙台まで行ったとき、その350kmの時間と出会いは、新幹線の2時間半とは異なる「未知なる距離との出会い」だったそうだ。知ってそうで知らない現代社会のなかの未知。それは同じ価値観のなかから発生するものではなく、自分にとっての豊かさを考えることから選択する時代、なんだそうだ。
なかには、セミを食べる学生がいて、昨日のセミより美味しかったなら、それはその分豊かになる、らしい。
価値とは何か・・・。

そのサークルには、無数に部会があるそうで、たとえばこんな感じ。
◎石部・・・石ころを拾う。
◎自我部・・・自己を解放してくれる非日常の未知を探る。・裸足生活/布禁止生活等
◎幻覚きのこ部・・・きのこを求めて山中を彷徨う。
◎術部・・・さまざまな「術」を学ぶ。・雨乞い/水晶育成等
◎転生部・・・ゴミの可能性に着目して作品に転生させる。
◎叫部
◎未知食部・・・蝉/竹虫/ミルワーム/コオロギ等。
◎火おこし部・・・ゲリラ火おこし。
◎人間大凧部・・・人間を凧に括り付けて飛ばす。死者は出さない。
◎UFO召喚部
◎いただきます部・・・「いただきます」のあり方を考える。・醤油づくり/鶏をシメる等。
◎修行部
など。








まあ、バカげているが、若いからしょうがない。
かくいう僕も、学生の頃、「歩き方研究会」というサークルを主宰していたことがあって、「人の歩き方見て我が歩き方直せ!」が合い言葉で、メインテーマはあらゆる概念からフリーになること、ニュートラルとは何か、を考えることだった。
そうおもって見てみると、世間には実にさまざまな歩き方の人がいるものだ。それぞれに理由があったり、生い立ちや人生が潜んでいたり、身体は口ほどに物を言う。
テーマの動機をもらったのはモンティ・パイソンのこれだ。




ま、そんな哲学的なテーマに取り組みながらも、実際は、単なる飲み部だったんだけれど・・・。
でも、飲み会も単なる飲み会ではつまらないので、かなり概念フリーな議論をして、そういう題材を出した人間が評価される。それを祝福と呼んでいたけど・・・不遜だね。
二人の会もあれば、四人くらいのときもあった。三人のときは、たとえば、焼き鳥屋にある道具を使った焼き鳥将棋とかをし、一人は審判になる、というクリエティヴな競技をやったり、喫茶店では、水を何杯まで飲んでも怒られないか、とか、ワンプレート・サラダバイキングで一回に最高どれくらい取れるか、とか。
最高に取ったやつは、皿の中央にまずポテトサラダを盛り、そこにスプーンを何本も差して皿の直径を大きくするというものだった。スプーンの上にレタスを敷けば、立派なサイズになる。恥も人の迷惑顧みず・・・けど、ある意味建築的だ。

だから、部活では上記の「未知研究会部会」にあるようなことはほどんどやった。
電気を使わないで一夏過ごしたやつもいれば、公園きのこ採り&新作料理や廃材リズム楽器、UFOを呼び出しにも行った。ブラックライト効果検証会とか、石や枯れ木を拾ってきて品評会をやったこともある。ししゃもや骸骨と命名された枯れ木はもうそれにしか見えなくなる。
まだまだ公には言えないようなこともたくさんあったけど・・・それはご想像にお任せします。
でも、ま、やってみなければわからないこともたくさんある。
価値とはやはりモノより経験だ。理解とは頭より身体だ。(は)


あ、そういえば、以前アップした「しゃべるねこ」も動画貼付けておきました。ご報告まで。

■CFのドラマトゥルギー

2015年04月15日 | その他


先日やっとYOUTUBEの貼付け方がわかったので、もう少しやってみようか。どうしようか。
この言い方、NHKで久々に再開されたLIFEのネタ、ムロツヨシ演じる「平成の指示待ち妖怪どうしたろうかしゃん」の言い回しに似ている・・・!?
どうしてやろうか、そうしてやろうか(わからない人は飛ばしてください)。


で、ま、CF(昔はCMと言っていたけど最近の映像はCFが多い)やPV(プロモーションビデオ)のつづきだけど、一口にCFやPVといっても、いろいろだし、やっぱり限られた短時間で、ウケたり、泣かせたり、考えさせたり、コンパクトであるだけに、その演出は難しい。
これもワヤンの勉強だ。

覚えているものだけ少し。
まずは、アダルト系のウケから。(の)ちゃんは観なくて結構。

TOYOTAの南米のCF。
BRICs諸国や途上国では、概して、エアコンの効きはプライオリティが高いらしい。そのエアコンがいかに優れているかを表現した作品。





もうひとつ、ドイツの家電メーカーの作品。満足げな夫がなんとも・・・。





これは有名な作品だけど、ペプシの敵対的CF。
こういうの、日本では精神風土上、難しいとおもうけど・・・でも、いいセンスしている。





これは最近のPVだけど、ある航空会社のクリスマス一日だけのサプライズ企画。
ハッピーとはこういうサプライズもあるんだね。





同じハッピーといえば、これはコーラのHappiness Machineというシリーズ企画のひとつ。
愛し合っていることがわかれば、コーラがもらえる人格ある自販機。
愛にはさまざなな表現があるものだ。





世界は広し、といえども、同じ人間同士、愛や幸福の気持ちというのはそう変わるものではない。だけど、そこには若干の差異がある。それはいずれまた・・・。そろそろ、柄にもなく幸福論も少しやらないとか・・・。(は)


おまけにもうひとつ。かみさんに教えてもらったホンダの一輪車を使ったPV。
なかなかアートだ。


■蜩ノ記

2015年04月13日 | たまには映画


「蜩ノ記」は、何年か前に直木賞を受賞した小説の題名である。
一応、正確なところを表記しておくと、直木賞は正式には直木三十五賞という。直木三十五にちなんで菊池寛が制定した文学賞だ。同時制定された芥川賞が純文学が対象であるのに対し、直木賞はいわゆる大衆小説を対象に与えられる。だから、ミステリーもあれば娯楽小説もある。ま、いまさらですが。

で、この「蜩ノ記」は、時代小説というか、武士の美徳や当時の社会の規範とともに生きる主人公の一貫した生き方が描かれている。簡単にいえば、武士道(とは後世の言葉であるが)とその背景にある儒教的価値観の世界の「正しい」生き方を物語っているのである。
主人公の戸田秋谷は、10年後に切腹を言い渡された武士。妻と一男一女の子供とともに山奥の貧しい農家に幽閉されている。10年後というのは、それまでに藩の家譜を編纂するという仕事が残っていたからだ。戸田の見張り役についた壇野庄三郎は次第に戸田の生き様に教えられていく。ふたりは、家譜をまとめているうち、戸田が貶められた事件と藩の隠された過去を知る糸口を見つける。はたしてその顛末は・・・。



いつだかダランとこの本の話になって、ふたりとも、どうしても作家名が出てこず、ま、いいか、となったが、作者は葉室麟である。藤沢周平をおもわせるしっとりした作品になっている。
その頃ちょうど、百田尚樹の「影法師」と藤沢周平の何か似たような小説を読んでいたので、ディテールは少し混乱していたが、先週、DVDになったのを改めて観てみたという次第。映画なので小説を端折った感は否めないが、それなりによくできていた。
どうも、「阿弥陀堂だより」や「雨あがる」を撮った黒沢組の作品らしい。「阿弥陀堂だより」は小説も読んだけれど、淡々としているが、これも、なんとも染み入る出来。映画では、北林谷栄の存在感が素晴らしかった。
「雨あがる」も好きな映画である。ルビーに指輪もいいけれど、バカ殿を演じさせたら日本一の三船史郎がいい味を出していた。これもしっとりくる。







だけど、ま、この武家社会、後継ぎがいなければ、即、御家断絶、改易の憂き目にあう。
だから男子を生むことは御家の大事なのだが、ただし、次男ともなれば、逆に家禄は継げないので、何もしなければ部屋住みの宿六になり正式な婚礼もあげられない。実際は、事実婚の女中のような人があてがわれるらしいが、もしそうなりたくなければ、養子に行くしかない。
そうなると、親が権力者か文武に秀でた才能でもないとそれは望めないという厳しい社会なのである。

また、江戸時代も半ばを過ぎると、商人や金貸しが幅を利かせ、身分こそ低いが実権はある社会。賄賂もあれば、逆に金貸しは大名や有力な武家に金を貸すことで、財を広げたりする。
ま、持ちつ持たれつだろうけれど、当時は米本位だから、とかく悪天候や飢饉があれば、一気に藩の財政は切迫する。だからその運営はたいへんらしかった。
藩もたいへんなら武家もたいへん。武士の家計簿は厳しかったのである。

その御家騒動と藩財政の立て直しが、ふたりの藩士の運命を分けた。片方は御家老、片方は10年後に切腹を命ぜられた主人公である。どちらも藩のため、殿のため、御家のため、にそれぞれ違う道と方法をとった結果のお話である。

以前、ある人が、こんなことを言っていた。
  中国人は道徳心が無いから儒教が生まれた。
  日本人は勇気がないから武士道が生まれた。
  アングロサクソンはずるいからフェアプレーの精神が生まれた。

どうも、武士道は、かつての日本人の美意識と規範がつまったものだったらしい。
ここにもし、四番でエースの野球選手がいて、それまでみんなで何年も積み上げてきた全国大会とか国際大会とかの決勝戦があったとして、もちろん彼がいなければ勝てないかもしれない。その当日、その母親が危篤になったとしたら、その選手は、病院へ向かうべきか、決勝戦を全うすべきか。
アメリカ人や中国人なら、だいたい病院へ行くのが正しいという価値観である。個人主義か「孝」の精神だろう。
以前、闘莉王だかだれかサッカー選手が、親の危篤を隠してワールドカップに出ていたことがあって、同僚の胸をつまられたことがあった。
いまはそうでもないだろうけれど、かつての日本人ははたしてどうだったろうか・・・。自己犠牲とは、武士道に通底する「精神の保守」なのだ。昔の人は、選択肢がなくて可哀想だけど、せめて残された者たちが癒され、誇りをもって生きていける結果にしてほしい。悔いや憎しみは引分けにしなければならない。

いずれにしても、いつの世もゆるやかに価値観は変化する。かといって、昔の伝統がすぐに失われるわけではない。長くつながった精神風土のなかで、少しづつ、変わっていくのである。
だから、いつの時代も、そのちょっと先の「正しい行い」を見定めなければならない。ダランも「トリ・カヤ・バリスダ」と言ったではないか。(は)


そういえば、先週のブログでうまく貼付けられなかったYOUTUBEがうまくいったので、改めて。

■ディアは人形つかい

2015年04月10日 | その他


昨年、NHKの学校教材用番組で、アジアの子どもドラマシリーズというのがあって、そのなかで、マレーシアのドラマがこれ(携帯では観られないかもしれません)。

http://www.nhk.or.jp/sougou/abu2014/?das_id=D0005180205_00000

内容は、都会に住む兄弟が、親の都合でしばらく田舎の祖父母の家に行くことになり、普段は、TVゲームやタブレットゲームをしているのに停電などあってそれができない。
おじいさんからワヤンを観せてもらい、妹の方はそれにはまり人形をつくったり、自前のストーリーでダランをやる、というお話。
随分期待して観てみたけれど、さすが教育番組、つまらなかった。
でも、マレーシアの人形やワヤンの上演シーンが少しだけあって、そこは面白かった。似てるね、バリと。
現代と伝統も幅がある。昔はワヤンこそ映画であり、教育であり、地域の交流であったろう。ローテクだけど、手間ひまかかっているところがいい。

で、まあ、教育番組だからしょうがないけれど、吹き替えは微妙だ。
吹き替えは元はアメリカ文化。アメリカ人はきっと世界中米語で話しているとおもっているらしい。その影響で、日本も昔は吹き替えが多かった(いまでもTVのゴールデンはそうだけど)。
かみさんは吹き替えの映画は観ない。役者に申し訳ないそうだ。
でも、慣された我々は、すでに一部の役者は声と一緒のイメージになってしまっている。
アラン・ドロンやクリント・イーストウッドは、野沢那智じゃないと雰囲気でないし、ジャン・ギャバンは森山周一郎じゃないとしっくりこないし、コメディだと広川太一郎が出てこないと雰囲気ではない・・・な~んちゃったりなんかしてからにして。
翻訳もそうだけど、文学レベルが合ってこないと読む気がしなくなるのと似て、独特のイメージが定着してしまっちゃったりなんかしているわけで、この~。
でも、上の三人はみんな亡くなってしまった。跡継ぎはたいへんだ。


野沢那智さん。いまからおもうとどことなく大泉洋とかぶらないか?


森山周一郎さん。こういう声を渋い、というんだろうな。シブい紳士だ。


広川太一郎さん。タモリとの掛け合いが面白かった。


吹き替えのない映像もたくさんあるが、たとえばその代表は、CMだろうか。映像だけで物語をつくるのは、監督の技だ。
有名なのは、3.11で放映中止になってしまったけど、これは結構好きでした。九州新幹線の開通記念のCM。



個人的にはこれがよかったかな。「森の木琴」というNTTの作品。全部一発本番の実写だそうです。すごい。



全然話しが逸れるけど、80年代にイカ天という番組の後がまで、エビ天という素人が3分以内の動画を作って応募するというのがあって、優勝したのはこれでした。全部素人。でも監督は編集がうまかった。



話はアジアに戻るけど、毎年、タイの保険会社のCMが話題に上る時期がある。だいたいいつも感動巨編だ。
どうしていつもタイなんだろう、とおもうけど。YOUTUBEにあるので、たとえば、こんな感じ。

たしか昨年の放映。



これは少し前。ま、こんなのも。



でも、ま、これが一番いいかな。




ドラマをつくって人々を唸らせるのは難しい。だから、ワヤンは難しい。(は)


上記URLは、うまく拾えなかったら、カット&ペーストしてみてください。
それでも観られない人はあしからず。
ラた、マいしゅう。

■テンポラリーかパーマネントか

2015年04月09日 | その他

神戸・長田区にあった紙管の建築

今朝ほど、もう一人のスタッフと一緒に、久しぶりに建築家の坂茂さんにお会いした。特別親しいわけではないが、3年ぶりくらいだろうか。パリ帰りだそうだ。
坂さんといえば、紙管でつくった建築などで有名だが、そもそも建築構造材としては不適格だったものを不燃の処理をして国交省に認めさせたのは、坂さんだ。
日本は木と紙の国、といったのは、柳田国男だ。「三匹の子豚」ではないが、西洋の石とコンクリートに比べると一見弱そうで、仮設にしか見えないが、仮設か常設か、という問題はそれでは決まらない。RC(鉄筋コンクリート)でも、街の商業建築のように数年でスクラップにされる建築もあれば、紙と木でも茶室のように保存される建築もある。
バリだって、石造りの文化もあるけれど、多くの住宅は、木と草でできている。高温多湿なアジアには、それぞれ風土の建築というものがある。西洋の概念と価値観だけで評価されるものではないだろう。
要は、それぞれの時代の人々に愛されるか、文化としての価値をもつか、そうでないかの違いである、と、最近つくづくおもう。


坂さんが最初に紙管を使ったのは、95年の神戸の震災のときだ。
これは以前に聞いた話だが、居ても立ってもいられなかった彼は、まず神戸に行き、その焼けただれた悲惨な状況を目の当たりにしたという。そこで一番気になったのが、焼けた教会跡に集まる信者たちだったそうである。
そこで、神父に、仮設の教会をつくらせてほしいと申し出たところ、神父は「教会があったときより、いまの方が教会らしい。見てください。信者たちの顔や集まり方・・・問題は、教会があるかないかではない」。と言われて断られたそうだ。
それでも毎週通ううちに、神父も折れ、じゃ、数年以内の仮設という限定なら・・・ということで、これをつくったそうだ。
ところが、廃墟に集まる信者たちの気持ちは熱い。次第にコンサートや集会も開かれるようになり、れっきとしたコミュニティが形成され、復興のシンボルにもなっていったそうだ。もう愛される場所になったということだね。
10年後、結局、この教会は、撤去されることになったが、期せずしてそこに起きた台風で壊滅状態になったフィリピンから申し出があり、いまはそこに建っているそうだ。フィリピンでは仮設ではなく、パーマネントのコミュニティスペースになっているという。
因果で運命だ。でもよかったね、捨てられなくて。


紙管は心材や包みとして日用品のなかでごく普通に使われている

彼はその後も、トルコ、インド、スリランカ、四川省、ニュージーランドと、地震や自然災害で被害があったところには必ずボランディアで行って、建築家にできる援助を申し出た。ソマリアの難民キャンプにも行って、テントをつくった。
彼のポリシーは、現地の材料でつくること、誰でもつくれる設計にしてボランティアでつくること、である。
紙管は実はどの国にもある。基礎はいつもビールのプラスティックケースに砂を入れて固定する。コーラのケースは使わないと決めていたが、フィリピンだけは、サンミゲルが提供してくれなかったので、やむなくコーラにすがったそうだが。惜しいね。

3.11にもすぐに行った。
プライバシーがない避難所を見て、紙管の柱に提供された布を垂らして囲いをつくる案をもっていたときのことだ。しかもスポンサーまで探して。
ところが、役所からノーが出た。理由は、見渡せないので自分たちが管理できないから。中で酒でも飲まれたら我々が困る、ということだったそうだ。
これで、彼は怒りが頂点に達した。辛いのは誰だ。自分たちは毎晩家で酒飲んでるだろう。
だが、別の避難所では、大いに歓迎された。管理者が学校の先生だったからだ。そこで初めて被災者からも感謝されたという。少しでも気が休まるときがなかったのだ。
みなが喜んでいる様子を視察に来た先の役人は、「あの~、うちにもぜひ」だそうだ。ま、結局、やったらしいけど。バカはどこにでもいる。

政府支援の仮設住宅がまたひどかった。法律では平屋指定になっているし、音も漏れるし、隣の建物が接近していて景色もない。贅沢はいえないとみんな我慢していたのだ。
そこで、狭い敷地に予定の世帯を入れなければならない女川町で、コンテナを使って3階建ての提案をした。
音ももれないし、テラスもある。光も入るし、空気も抜ける。予定の世帯数も無事入った。費用はほぼ同じだったそうだ。
仮設のつもりが、いまでは、ここを出て行きたくない人たちでコミュニティが出来ているという。住み心地がいいのだ、きっと。


コンテナを構造材兼用に使用し、市松に配置。間は外気の入る空間になる。
日本人は、風が抜ける空間にずっと住んできたが、それが壁になってしまったのはいつからだろうか。



そんな話を思い出しながら、考えた。
仮設か常設かとは、素材や構造ではない。長く愛されるものか、使い捨てられるものかで決まる。
ハノーバーの環境万博のときは、唯一、彼の作品だけ、再利用され、ゴミは出なかった。紙だからだ。環境がテーマなのに、仮設もいろいろ、これもデザインだ。

そんな活動が評価され、坂さんは、昨年、建築のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞した。長い歴史のなかで、日本ではまだ6人しか取っていない。数年前は、仕事にも困っていた様子だったが、いまでは世界中飛び回っている。きっと建築で、誰かを助けているのだ。(は)



坂さん。

■後世への伝言

2015年04月08日 | その他


昨日のつづきというわけではないけれど・・・。
映画「仁義なき戦い」のラスト、戦後やくざの抗争の果ての葬儀の場面、文太さん扮する広能は、祭壇前の供花の名前を次々にピストルで打ち抜いて、最後に騙された元親分山守に、こう言って映画は終わる。
「山守さん、タマはまだ残っとるが~よ」

昨年の11月1日に文太さんが病気を押して、沖縄知事選に立候補した現代の知事の応援演説に出て、
「政治の役割は二つ。国民を飢えさせないことと、絶対に戦争をしないこと」
と言ったあと、上記を引用して、「仲井眞さん、タマはまだ残っとるが~よ」と言ったのが有名になった。
多くの人に共鳴と勇気を与えた文太さんは、それから間もなく、11月28日に帰らぬ人となった。
沖縄にはまだまだいろいろある。だからこれは、一種の後世への伝言だ。

あと、今週の新聞に、こんな投書もあった。タイトルは「大田中将に顔向けできるのか」。
内容は、仕事で沖縄に行った若者が、ふと旧海軍司令部壕に行っておもった話。
ここは、大田実中将が時の海軍次官に
「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
と打電して自決した場所だった。
日本の捨て石となったこの場所を前に、後世を託された現在の指導者たちは、大田中将に顔向けできるのだろうか、と括られていた。
これも立派な後世への伝言だ。


旧海軍司令本部壕内部。


大田実中将


いまの政府は、世論を配慮して、ようやっと官房長官や防衛大臣が知事に会うといったパフォーマンスともとれる行動をしているが、中身は変わっているとはおもえない。一時は知事の権限剥奪までしようすれば、国民の反発は当然だ。

別の日も、某TV番組で、古賀氏降板の放送に対し、放送内での口論があったという。これは日頃リアルタイムで民法のニュースを見る機会が少ないせいで見逃していたのをダランが教えてくれた。
ま、現代の為政者というものは、圧力の証拠は残さないだろう。秘書かなにかが、記録の残らない連絡をするか、会うかで、臭わせれば、あとは勝手に動き出す。

ただ、古賀さんがわかりやすいことを言っていた。
 「多くの日本人と共通して いるんじゃないかなと思うんですが、
  「原発輸出大国」じゃなくて「自然エネルギー大国」だと。
  あるいは「武器輸出大国」じゃなくて「平和大国」だと。
  「ギャンブル大国」なんかやめて「文化大国」だという、
  こういう国を目指してほしいなあというふうに思うんですよ。」
これが古賀さんの後世への伝言になってしまわないことを祈る。


テレビに出演中の古賀さん。パネルは局が作ってくれなかったので、自分で作ったそうだ。
やり過ぎ、という人も多いけど、いまどきなら希代の気骨の人、だ。



要するに、民主主義が危ないのだ。
いま、自由主義や資本主義には、「新」が付いて、「新自由主義」や「新資本主義」になって、簡単にいえば、「自由経済資本主義」になっていった。これをグローバリズムといってごまかしているだけだ。
いま、デフレと格差にあえぐ国民は、鼻先に人参かスイーツをぶら下げられているだけなのだ。選挙の勝利や支持率は、すべてOKといっているわけではない。権限の乱用、権利の剥奪、情報の制御、敵対者の排除・・・これらは一種の横暴だろう。原発の内情だって誰も知らされていない。
もともと民主主義と資本主義も自由主義もイコールではない。本来の理念でいえば、社会主義だって民主主義だ。民主を柱に民の声を代理で政治するのが、誰なのか、ということだ。
この話は簡単でないし、その近代史はとても大切なので、今度じっくりやりましょう。

で、ま、その同じ新聞に、選挙に行ったことがない女性と今度結婚するという男性の話も載っていた。
彼女の家は、たぶん親が興味なかったんだろうけれど、一度も選挙に行ったことがないという。開票日は好きなテレビが観られない日、だそうだ。
一方の男性は、選挙は家族の行事で、投票に行った後は、家族で食事をするのが恒例だったそうだ。
彼女に「選挙って意味あります?」と聞かれたが、まずは投票に参加することから意味が生まれるのではないだろうかと括る。
夏に家族になったなら、新しい家族のルールとして選挙に誘うつもりだそうだ。愛があるんだね。

そうやって、自分の家族にだって、誰にだって、「後世への伝言」はある。民法改正もやっと変わる時代、選挙についてもいろいろ変わるだろう。いずれ選挙権ももっと若い人にも届くはずだ。
たとえ、お笑い番組やくだらない映画で国民が「白痴」化されているとはいえ、まずは選挙に行くことから始めなければならない。それがおもうようにできない国だってまだまだたくさんある。
民主主義、選挙はいまの我々の尊い義務と権利だ。(は)

■てぃ~だのイーダ

2015年04月07日 | その他


文太さんが沖縄に来たあの昨年11月1日。出迎えた現知事だったか名護市長だったかいまとなっては忘れたけれど、意外と知られていないが、その際のことを新聞にこう書いていたのを覚えている。
「病の身体を押して部屋に入ってきた文太さんは、ただ、ああ、沖縄そばが食べたい」と言ったそうだ。
いいね、このあいさつがわりの言葉。はっきりとした決意を秘めながら、まわりを和ませつつ、それでいて文化の深いところと共鳴している感じ・・・、食は文化と共に食べるべし、とは私の訓のひとつだ。

私もときどき沖縄のそばが食べたくなる。ただ「ああ、沖縄そばが食べたい」とおもうことがある。だから、沖縄に行くと、ソーキとかそばとか買って来るけれど、普段のランチなんかでもときどき食べる。
そうしてたまに行く店が事務所近くの、これ。「太陽人」。「てぃ~だんちゅー」と発音する。
いつだかメンバーのみんなと沖縄に行って、車で移動中、「てぃ~だこ」というホールだか集会場だかがあって、あれは「太陽子」ではないか、とダランの奥様が運転しながら言っていたのを、この店に行く度にいつも思い出す。
実は、この店の地下は、いまイタリアンの有名シェフの店になっていて、ランチでも5千円以下では食べられない。
でも、ここ、実は、私がガムランを始めて間もない頃、ダランとKMさんがグンデルを披露した場所でもあったことに最近気がついた。そうだ、ここだ。私もまだ初々しかった頃(ガムランについてですが)なのでよく覚えている。曲はムラ・ンゲローでした。ま、スカワティと一緒にやるんだから、そうなりますわね。


そう、「てぃ~だ」とは太陽のこと。沖縄でもシンボリックな言葉と概念のひとつだ。
いまさらいう話でもないが、沖縄の信仰には多義性があって、大陸からの信仰や日本からの信仰形態、風土の祖先信仰などの観念が入り組んでいる。
ま、尚氏の中山や琉球王国時代に、西洋でいうところの王権神授説式に体系化され、いまに至るのではないだろうか。当時は祭政一致で、王と例の聞得大君(きこえのおおきみ)を頂点とするノロたちのバランスで成立していた。ということは、大陸的な母系社会や女性霊力信仰も入っているということだ。

で、なかでも、吉野裕子や桜井徳太郎や古くは折口信夫や柳田国男も書いている通り、東方系信仰は定番である。
たとえば、ニライカナイは東の海の向こう側の異界であるが、なぜかといえば、それは太陽が生まれる方位だからである。日出ずる国の方角だ。だから、東方信仰は、太陽信仰とも重なる。伊勢のアマテラスと同じことだね。
その太陽が、西に死んで再び生まれるのが「太陽の穴」(てぃ~だがな)。それは沖縄の聖地「久高島」だと言われている。世界遺産、斎場御嶽(せーふぁーうたき)から見る久高島が神々しい。
何度目かに沖縄に行った際、一日費やして、斎場御嶽から久高島まで渡り、神々が到来したと伝えられるカベール岬の浜まで自転車で走破したのが昨日のことのようだ。


斎場御嶽から見る久高島。ぽっこり空いた空間に黒く平らに島が浮かび上がる。


カベール岬までの道景。なんか神秘的な想いを馳せる何かがある。


少し横道にそれるが、10数年前、やっと法的に日本の国旗になった「日の丸」も、元は太陽を意味している。文化史的には、そのルーツは、勘合貿易の九州の貿易商人たちであるというのが定説だが、万国津梁の沖縄も、中間貿易としては、日の丸と使っていたらしいことが何年か前に界隈を賑わせていた。本当のところ、どちらが先かはわからないだろう、きっと。
私見としては、むしろ、隼人の人たちより、沖縄の人たちの方が、このデザインには必然性がある気がしているが・・・もしそうなったら、沖縄は日の丸を生んで、日の丸に呪われた地でもあるということになりはしないか。因果だ・・・。
でまあ、この「日の丸」、その後の20世紀の忌まわしい印象が残るということなら、いっそ変えればいいのにといつもおもう。でも、デザイナーが問題だね。なら、もう一度、沖縄のデザイナーに頼んだらいい。


琉球交易港図屏風(部分)。那覇の港を描いているらしい。


ともかく、ま、児童文学つながりでいうなら(最近はどうも昨日のことを引きずるようになった)、この太陽と沖縄で思い出すのが、灰谷健次郎の「太陽の子」だ。
お話は、神戸に移り住んで沖縄料理店を営む一家とそこに集う沖縄出身者や神戸の人のお話。そこの子供が「太陽の子」(てぃ~だのふぁ)、ふうちゃんなのだ。太陽はみんなを明るくする。
地元を離れたウチナンチューは、戦争も偏見もみんな抱えて生きている。さらにそこにキヨシという不良少年が入ってきて、ふうちゃんとキヨシの奇妙なふれあいがつづく。何度となくつい衝撃的な感情に揺れてしまう。
最後はあまりに行き場のない事態ではあるが、これも人の世、人間とは何か、のテーマが通底する。興味ある人はぜひどうぞ。
ここでも戦争は多くの人の重荷になっている。


いまは文庫になっているらしい。


昨日のブログもそうだけど、広島や沖縄を戦争だけで語るのはよくない。けれど、歴史は誰にも消せるものではない。
ダラン一家のおかげで、沖縄には何度も行かせてもらった。おもえばそれなりに毎回いろんな体験をしてきたような気もする。小さな発見もあったし、驚きの光景もあった。
昨今のニュースを見ていても、沖縄の長~い歴史と文化のなかでも、この70年は何だったんだろう、とおもうことがある。そして、それらはどう解決されていくのだろう・・・。
ちょっとだけ不遜かもしれないけれど、沖縄そばを食べる度にそうおもう。食は文化とか簡単にいうけれど、そう考えると、そばの奥にず~っとその底に、いろんなものが沈んでいるような気がしてくる。
てぃ~だが、誰にもあまねく照らす神さまなら、てぃ~だの文化をイーダに背負わせてはいけない。
明日あたり、久々にまた、沖縄そばを食べてみよう。こーれーぐぅすうをたっぷり入れて。(は)