玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■Never Let Me Go

2016年04月04日 | その他

たまには夜桜でも。近所の通り。

今年も無事サクラが満開になった。雨も降ったりするけれど、なんだか少し春めいてきた。
この季節になると、ダランも(こ)ちゃんも僕もほぼ同時に歳をとる。これは永遠なる宿命だ。


そのサクラ、なかでも「ソメイヨシノ」はなぜ一斉に花が咲くのかという話は前に書いた。元来が挿木増殖、彼らはすべてクローン、つまり全部が自分自身ということだ。植物は比較的簡単にそういう増殖ができる。
もちろん生物だから、我々を含めた動物も技術的にはクローン増殖が可能だということは、「ドリー」以来の暗黙の常識になっている。あとは倫理の問題だ。
おそらくそのことに触発されて書かれたであろう文学作品が、先頃、綾瀬はるか主演でTVドラマにもなったので観た人もいるかもしれないが、カズオ・イシグロの「Never Let Me Go」、邦訳「わたしを離さないで」である。



これを最初に読んだのは、もう10年以上前のことだろうか。特段の感情も入れず淡々と、さして大げさな表現や抑揚もなく「一人語り」形式で語られる物語。芒洋と、そしてある意味漠然とした、けれどしっとりとしたやり場のない感情をどこへ持っていったらいいのかという作品・・・。
そんなことで詳細をだいぶ忘れていたが、ドラマを観て、改めて読み直してみた。単行本を紛失したので中古の文庫ながら、またもやその世界に没入してしまった。

もちろん、本とドラマは、劇的な出来事やエンディングなど若干違う。だが、実写化ほぼ不可能といわれたこの作品を今回のTVスタッフは見事に映像化していた。場所は日本にされていたけれど、ほぼイメージに近い。
このスタッフは、「仁」や東野圭吾の「白夜行」と同じクルーではないか、とかみさんが云っていたが、う~ん、そうかもしれない。さすがに鋭い。


TBS HPより。


ネタバレと怒られると困るので詳細は書かないが、この本は、ストーリーや結論を言ったところでさした問題ではないだろう。次第に明らかになるその設定の衝撃性がある世界の像を結んでいくその流れる時間のなかで語られるエピソードの積み重ねや感情の揺れ動きが大切なのだ。
そう、ワヤンと一緒で、結果ではなく、進行プロセスが大切なのだ。

主人公は「キャシー・H(通称キャス)」という女性で、キャスの語るその物語は、強がっているがどこか子供っぽく意地悪なその親友のルースと、ちょっと抜けているけどいつも真実を見つめようとする実直な男友達のトミーを中心とした「彼ら」のいまと過去のエピソードが走馬灯のように構成されている。
要は臓器提供のために生み出されたクローン人間たちの切ない生き方が淡々と描かれているのだ。彼らの育った場所が「ヘールシャム」という特別な施設で、その代表がエミリ先生。そこに登場するのが「マダム」と呼ばれる謎の女性である。

彼女たちは、いったいなんのために「ヘールシャム」をつくったのか、どうして絵や詩を書かせつづけたのか・・・。
そして、当の本人たちは、自らの運命をどう受け入れていくのか。人間の代用品として生を受けた彼らが、それでも生まれてきて良かったとおもえるもの、生きた証をいったい何に求めるのか・・・。
次第にある一点に収縮されていくその物語は、抑制された表現で細部に染み渡りながら、やはり淡々と進む。その淡々が絶妙だ。

そして、繊細で緻密につづられているこのお話を私たちはどう受け止めればいいのか・・・。
現代の設定ながら、まるでSFのようでもあり、まるで幻想世界のようでもある。どこにいるかわからないけれど、もしかしたらどこにでもいそうな存在と曖昧な希望。
本はいろいろ読んできたけど、こういう読後感はあまり経験がない。



カズオ・イシグロ。日本人なのにカタカナ。やっぱりイギリス人か。

カズオ・イシグロは、日本人の両親のもと長崎で生まれたれっきとした日本人であったが、5歳の頃、親の都合でイギリスに渡り住んだという経歴だそうだ。
昨年、講演会の様子をTVでやっていたが、その際の話では、当初は普通に日本に帰るものだとおもっていたそうだが、結局、帰国することはなく、そのままイギリス人になったという。

処女作と二作目は、その日本を舞台にした小説を書き、注目された。イメージのなかの日本、日本人でありながらイギリス人という存在がそうさせたのだろうか、見え隠れする日本的感性が評価された。本人にとって、それが良かったのが不運なのかはわからないが、少なくとも他の大多数とは違う存在として子供の頃は過ごしたであろう。
三作目の「日の名残り」でイギリスの伝統を頑に守る斜陽の執事を描いて、日本の芥川賞のような存在だろうか、イギリスのブッカー賞を受賞し、一躍世界の「イシグロ」になった。



毎回テーマやスタイルが違うのがカズオ・イシグロのいまのところの真骨頂である。いつも、いままでの方法とは別の方法をいつも模索しているんだろうか。ま、そういう「マニエラの作家」でもあるのだ。
なんの根拠もないけれど、どこかでバシッとはまった手法の名作でも書けたら、ノーベル賞もあるのではないかとふとおもってしまう。ある意味で、そういうカリスマ性のある作家でもある。

世界には、日本人がおもっている以上に、多様な人種や文化や存在がある。消え行く伝統もあれば、未だ見ぬ将来もあるだろう。クレオールもいれば先住民もいる。私たちはいま、その可能性とビジョンを文学などで垣間みることができる。
娯楽ということではなく、未知の記憶や世界観を感じてみることは、経験にもまさる認識の扉を開けることにもなるであろう。文学の想像力とはそういうものかもしれない。いまの彼はそういうパイオニアでもあるのだ。
最新作の「忘れられた巨人」はまだ読んでないけれど、ファンタジー的な仕様だそうだ。そこにもどこかに「日本的感性」が隠れているんだろうか・・・。ま、そんな人もいるというお話。
同じ日本人の端くれとして、カズオ・イシグロの今後に注目したい。(は/225)


なんだか、春らしからぬ話題になってしまったけど、ご容赦のほど。
でも、やっと新年度、新学期、これから新しい道を歩みだす人も多いだろう。活気のある季節だ。
とはいえ、今月はいつもにまして東京にいない。たぶんブログも今月は2~3回くらいしか投稿できないかも。次回は25日くらいだろうか・・・。だいぶ間が空くけれど、みなさんお元気で過ごされますよう。
「わたしを忘れないで」。



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