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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■カタルニアの鳥は「ピース」と鳴く

2016年10月25日 | その他
またまた今年の夏に、北海道に行った際、無料のバイオリンライヴに立ち会った。旧小学校校舎の体育館での演奏だった。
北海道の短い夏の緑の風景と爽やかな風が通る午後のひととき、地元の方々もたくさんみえていて、のどかでゆったりとした時間だったのが印象に残っている。

しばらくバイオリンの名曲やチェロのアレンジ曲があったあと、パブロ・カザルスの「鳥の歌」が演奏された。
少し、はっ、とした。久々に聴いたからかもしれないし、不意をつかれた感じだったのかもしれない。
明るい曲ではないが、記憶に残る曲。なんだか若い頃の記憶が走馬灯のようにいろいろ蘇ってきて、不思議な時間となった。そう、学生の頃はよく聴いたものだった。誰にもそういう曲はあるだろう。

それがなぜかはわからないが、カザルスとグールドは、学生の頃の至高アイテムだった。音楽関係者には異論もある人もいるかもしれないが、たぶん、よくいわれるフレーズだが、知らないうちに、やっぱり「魂」を感じていたのかもしれないとは、いまはおもう。



カザルスは、1876年、スペインはカテルーニャの生まれだから、日本ではちょうど明治に入って間もない頃である。
まだ十代で演奏家としてデビューし、早くから天才とうたわれたのはチェロの名手であることは周知の通り。
いまはポピュラーなバッハの「無伴奏チェロ組曲全曲」を再発見したのは有名な話しだ。なんとそれまで一人で全曲演奏したのは記録にないそうだ。
ただし、バルセロナで楽譜を見つけ出したのはまだ13歳で、人前で演奏するまで12年かかったということも以前ある人に教えてもらったことがあった。あのカザルスが12年かかったんだから、普通ではない。でもきっとそういう人なのだ。
実は、恥ずかしながら、僕はこれに憧れがあって、還暦になったら「チェロ」を始めたいとおもっているのは、このときからなのだ。

カザルスは演奏会のとき、いつも初舞台のときと同じように緊張し上がってしまうたちだったそうだ。これは僕も同じ(いやいや比較するつもりは毛頭ないしそれはあまりにも御畏れ多いのでそこは誤解なきよう)。でも、演奏が終わるとそれは「あんなに素晴らしい演奏は聴いたことがない」と誰もが絶賛する名演なんだからすごいね(ここが断然普通の人とは違うところ)。
それに、演奏会のあとは、自分が演奏したたったひとつの音符も逃さず頭のなかで再演するそうだ。そうしないと眠れないたちだという(これはないね、終わったことはもう忘れたいし)。
そういう繊細さがあるからこそ、入念な準備をするという話しだ。1時間で数小節しか進まないこともよくあったらしい(やっぱり一流の演奏家というのは頭が下がる)。


カタルーニャといえば、我々の世界だと、アントニオ・ガウディとかパブロ・ピカソとかすぐに出てくるけれど、あの情熱的なイメージの国で、この「鳥の歌」というのが、意外でもあり、深長でもあるのだろう。
この曲は、もともとは、そのカタルーニャの民謡であるが、さらにその元は、この地域の「クリスマス・キャロル」、つまり、キリスト降誕の歌からきている。鳥たちがキリスト降誕を祝っているという様子だ。
ただしカザルスの独奏ではもちろん歌詞はない。


ガウディ設計のサグラダファミリア。
僕が見たときは、まだ全然工事が進んでなかったけど、いまはだいぶできたらしい。



これもガウディ設計の集合住宅「カサ・ミラ」。
まだ20代の頃、この住宅が見えるホテルで数日過ごしたことがある。



それと、いかに天才といえども、カザルスの人生は波乱だった。
きっと、半分は音楽家で、半分は平和主義者だったに違いない。
実際、1936年に勃発したスペイン内戦でフランコ独裁政権ができたことに抵抗して、隣国フランスに亡命し、ピレネー山脈越しのプラドに引きこもり、以来、第二次大戦が終わるまで、そこを出ることはなかったし、人前で演奏することもなかった。抵抗なのだ。
世界のファンや演奏家たちがプラドに通うようになったのは間もなくだった。そして「プラド音楽祭」はできた。たぶん、演奏会の最後で「鳥の歌」が演奏されるようになったのは、この頃からだったのではないだろうか・・・。
ただし、1946年以来チェロは封印した。世界主要国がフランコ政権を支持したからだ。


ピカソの有名なこの「ゲルニカ」は、スペイン内戦に抵抗した絵画でもあった。

それから15年が経ち、ケネディ大統領に共感したカザルスが、再びチェロを持ったのが1961年、僕の生まれた年である。
ホワイトハウスでそれは演奏された。そのときの録音が僕の最初のカザルスだったのだ。


これ、です。

そして1971年、国連の日を祝う演奏会で、カザルス作曲の「国際連合への讃歌」を自ら指揮し、カザルスには「国連平和賞」が贈られた。
このときの最後、愛用のチェロで「鳥の歌」を演奏する前のスピーチがこれだった。
「カタルーニャでは鳥たちはこう歌います。「ピース、ピース、ピース」と。それはわたしたちカタルーニャ民族の魂なのです。」
貫かれているものがある。平和とは命を大切にする人々の祈りでもある。
そうやって聴くと、曲も音楽も意識を遠いどこかへ誘ってくれるようだ。これが学生の頃の記憶なのだ。

いま頃なぜこのことが想い出されるのかよくわからないが、なにげなしに、命の尊さを感じる昨今である。(は/270)


Pau Casals - El cant dels ocells (at the White House)



■「愛」について

2016年09月27日 | その他
おっと、キンモクセイって、秋なんだっけ?・・・う〜ん、相変わらず、花に弱い、と、しばし反省。

それはともあれ、昨日の続きにしようか・・・。
まあ、「愛」なんていうと、柄にもなければ、深く考えたこともないけど、いやでも、このテーマも有史以来の哲学的テーマなので、古今東西、時代によっていろいろな解釈がある。「エロス」や「アガペー」だって美学や宗教の「愛」の因数分解だ。
バリにだって、「スマル・プグリンガン」があるけど、スマル=スマラ=愛の神、というときの「愛」とは何か、ということはよくわからない。バリの「愛」について、今度誰かもっと研究しくれるといいんだけど・・・。


最も有名な「エロスとプシュケー」の彫像(ルーブル美術館蔵)。
ギリシャ神話では、プシュケーの命を奪いに行ったエロスは、その美貌に戸惑い、目的を達成できない。
美とは心を惑わすものでもある。



じゃ、日本に「愛」という概念がそもそもあったかといえば、実はそれはかなりあやしいところだ。というか、無かった、いや、無いことになっている、といった方が正しいだろうか。
えっ、いまさら何? とか言われそうだけど、そう、でも、無いんです。
もっと厳密にいえば、もちろんそれは「ある」んだけど、概念として言語化されたものは無い、といった方が正しいかもしれない。

事実、「愛」という字は、漢字なわけだから中国からの輸入の概念だ。
我が最も尊敬する漢字学者白川先生によれば、「愛」の字は、もともと後ろ向きの人の姿に心を加えた造作字形だという。つまり、原義は、後ろ髪引かれる心の様態のことであったろうか・・・。


金文の「愛」の字(紀元前10世紀頃?)

それに、国語の教科書的にいうと、読みも「アイ」という「音読み」のみで、日本古来の「訓読み」がない、ということになる。
もちろん、古くは「かなし」とか、慣例的には「いとしい」とか「めでる」とか読ませているものもあるが、それは、「人生」と書いて「ライフ」と読ませているようなもの?(すいやせん、またウソつきやした)であって、正式ではない。
ということは、日本には「愛」という概念がなかったんだろうか、ということになるわけである。


©NHK

実際、「愛」が入って来たのは結構古いが、使われるようになったのは、明治以降らしく、西洋的概念とともに普及していったものと考えられる。
でも、その明治でさえ、まだ日常的に使う種類のものではなかった。
有名な逸話だけれど、夏目漱石が、"I love you."を何と訳したがご存知の方も多いだろう。
答えは、「月がきれいだね」だ。
ただし厳密のいうなら、これにははっきりとした文献がなく、一種の言い伝えのようなものとするのが通説だが、まあ、事実はともかく、それでいいではないかともおもう。日本人には、それはそれですんなり入ってくる逸話なのだ。
ついでにいうなら、二葉亭四迷は、ツルゲーネフを訳した際、同じくそれを「死んでもいい」と訳したとされている。
どう?この感性。


この人、何をそんなに考えてたんだろう・・・?


ま、これらの学術的な真偽はともかく、要するに、日本人はアメリカ人のように毎日何度も"I love you."と言わなければ「愛を確かめられない人種」とは違って、普通は「愛してる」などとは言わない、ということだ。
第一、いままで生きてきて、そんなこと言われたことのある人、あるいは言ったことのある人、どれくらいいるだろうか・・・?

もっというなら、最近読んだ「日本語を解く」(新潮選書)という本には、明治の最初は、中国から入ってきた「愛人」という概念と一緒に使われるようになったと書いてあった。
えっ、愛人? とおもうかもしれないけれど、中国語は英語と一緒で、V+Cの構成なので、これは「人を愛す」と読める。ということは、「愛人」とは「人類愛」と捉えることもできる概念である。
それを、二号さんや三号さんのいるお盛んな明治の有力者が、聞こえのいい言葉として使うようになって変化していったというのが主旨である。
なるほどね、ものは言いようだ。また、そういう比喩的に使うのも日本人らしいといえばそうかもしれない。


いや、じゃ、もっと古い話しをするなら、大河ドラマでも有名になった直江兼続の兜に戴く「愛」の字は何なんだ、とか言われそうだけど、実はあれは、軍神と解される「愛宕信仰」から来ているとされているのが歴史的解釈である。
つまり、ここでいう「愛」とは、いまの人が考えるロマンチックな友愛の話しではなく、現実的で信仰的で熾烈な戦いへの強調なのである。


直江兼続の兜(レプリカ)。


そもそも定説では、「愛」の字の日本への最初の導入は、空海であるともいわれている。「愛染明王」の「愛」とされているからである。
「愛染明王」は、いわゆる「明王」なわけだから、一般には密教系で登場する仏尊の一種、朱雀明王なんかと並んで、例の「五大明王」以外の明王の「憤怒尊」である。
ときには、大日如来の化身ともされるし、両界曼荼羅でいうなら、胎蔵界の代表格が「不動明王」で、金剛界の代表格が「愛染明王」だ。
だから、大日如来の東側に不動明王、西側に愛染明王を配置する寺も多いので、見たことのある人も多いだろう。
でも。この場合の「愛」もやはり、いわゆる"LOVE"ではない。むしろ「性愛」や「肉欲」のことであったりする。そう、人間の煩悩を払いのける智慧の象徴なのだ。


「愛染明王図」(MOA美術館蔵/国重要文化財)。

そういう歴史的な日本人の文化のなかの「愛」に我々は生きてきた、わけである。


で、話しは戻るが、この"LOVE"としての「愛」、ルーツは猿の時代だったことが80年代に報告され、大きな話題を呼んだことがある。それが昨日話したコンゴ固有の類人猿「ボノボ」である。
彼らにはまず、「争う」という概念がない。同性間も異性間も、もめ事が起きそうになると、すぐにスキンシップして慰め合うことで和解するそうだ。



その最たるものが、「性交」である。人間以外で、発情期がないのも「正常位」をするのも「ボノボ」だけである。
とくに、自分の子供や家族とは、ともかくスキンシップする。まるでいろんなものがフリーな60年代のヒッピーのようだ。
実際、スキンシップはストレス刺激の低下や情緒や行動力に大きく影響するらしいので、やっぱり、子供にはたくさんの人からのスキンシップが大切なのだ。

そういう意味では、周囲のみんなで大切に育てるバリ人の子供への接し方は正しいことになる。そういうのは誰が教えたということではなく、文化に刷り込まれた知恵なんだろうかね。
いまの我々現代人ですら、スキンシップの量で子供の将来が決まると言っても過言ではない、らしいから、やっぱりそれは人間の人間たらしめる根源なのかもしれない。


一昨年に出版された本。類する本のなかでは一番客観性があり、視点がまとまっている。


「愛」は基本的に見返りを求めない。損得勘定ではない。分け与え分配する動機と力を持っている。
それは「愛」という概念の一面的見方でしかないかもしれないが、概ね、それを本能的に良しとし、それが人類の人類たる知恵として、「家族愛」になり「地域愛」になり「人類愛」や「地球愛」になっていった歴史なのではないだろうか。

いまだ「人類愛」は現実には達成されているとはいえないけれど、もしかして、人類が今後も生き残っていくとしたら、本当は、それが大切なのではないのだろうか、ということもあるのかもしれない。
どこかの影響力のある国の代表こそ、そこに向かわなければならないはずなのだが・・・。

だから、まあ、こんな時代、改めて、いまこそ大切なのは「ラブではございませんこと?」(は/264)


「ラブではございませんこと?」は、「あさが来た」の宜(のぶ)ちゃんの名セリフ。
体当りの演技がすごかったね。



■飛行機の燃料

2016年08月25日 | その他


何年か前に、イタリア在住のデザイナーとミラノで食事をしたことがあった。セコンドのコトレッタ・アラ・ミラネーゼ、いわゆる名物ミラノ風カツレツというのを食べていた。12世紀にはもうその原型があったらしいと教わった。
彼はいろいろ博識で、いわく、東京から飛行機で往復すると、一人当たり約1トンの燃料を消費する、だからあまり無駄な帰京はしないそうだ。

そう言われて、はたと考えた。
往復1トンなら、片道5千kgということになる。1トンとは水1立方メートルの重さのことだから、ジェット燃料なら普通1.1倍くらいの体積比にならないか。
ということは、片道0.5㎥×1.1=0.55㎥、400人乗りなら220㎥、予備を入れると最低でも250㎥くらいは積む計算になりはしまいか。
250㎥といえば、1.2mの高さ×3mの幅×70mの長さのタンクが必要になる・・・。飛行機のどこにそんな場所があるというのだ・・・。
当時はそうおもっていた。が、ま、食事の場所なので、あえて反論はしなかったけど。


毎日、多くの乗客を乗せて飛び立つ飛行機。
羽田なら、毎日5分に1機は離陸しているそうだ。



で、どうも腑に落ちなかったので、東京に戻ってから調べてみたことがある。
そもそも飛行機のジェット燃料は何だかご存知だろうか・・・?
簡単にいえば、成分的には「灯油」なのだ。えっ?とおもうかもしれないが、実際そうなのだ。もちろん高度1万mの高さでは水分が多いと凍結するため、純度の高いケロシン系の種類だそうだけれど。
ケロシン? そう、かつてバリの屋台なんかでもよくあったあのケロシンランプのケロシンだ。


いまは電球になったが、80年代まではランプが普通だった。
ちょっと懐かしい人もたくさんいるのでは?



それから、タンクがどこにあるかというと、実はそれ、両側の主翼のなかに収納されている。
同体部分は、機械類と貨物室になっていて、逆に翼は離着陸等飛行の関係で重い方がいいらしい。風圧からの反り返りを防ぐためでもある。だから燃料は同体に近いところから消費される仕組みだという。
それに、飛行機の翼というのは案外厚みがあって、同体に近い部分の厚さは悠に2m以上あって、細長く平べったく、たっぷり入るのだそうだ。


ここです。

それと、飛行機の燃料積載量というのは、燃費(何人乗っているかにも左右されるが)計算の上で、目的地までの分に、万が一降りられなかった場合、低空(燃費は悪い)で30分旋回し、それでも降りられなかった場合に最寄りの空港まで飛ぶ分を計算して積載することになっているそうなのだ。これは法律で決まっている。
もちろん、厳密な計算の上でギリギリに積載するのは、その方が軽いので燃費がいいからだが、それでも、乗客、乗務員、貨物、燃料、機体を合計するとうん百トンになるわけだから、おそろしいね。
だからいつも手荷物の重さに厳密にもなるわけだ。重量オーバーなら課金される。


貨物カーゴの底の片方が欠けているのは、機体に合せたかたちになっているため。
二つ合わせると、機体の底の形と一致するようになっている。



一機の飛行機にはたくさんの機材や車や人が慌ただしく寄り添う。
なんだか昆虫たちの世界のようでもある、と、ふとおもう。


たとえば、当時のボーイング747などのジャンボジェットの場合、500人以上乗れるわけだから、積載量も半端ではない。
「満タン」なら22万リットル入るそうだから、ということは、220㎥、ドラム缶が普通200リットルだから、約1100本とになる。参照計算してみたら、160トンという重量になる。
乗客と乗務員で500人×60kgとして、貨物500個×20kg、機体150トン、それに燃料160トンとすると、計350トンだ。燃料がいかに重いかがわかる。


大きな飛行機は燃料をたくさん積むので、空港地下にあるタンクからポンプアップして積む込む仕組み。


小さい飛行機だと、タンクローリーだったり、空港によっては、直接積むこともできるそうだ。


これで最大飛行距離が1万2千kmちょっとだそうだから、1リットルで最低でも55m以上は飛ぶ計算になる。なら、ドラム缶1本で10km以上は飛べることになる。
逆に、時速は約950km程度なわけだから、単純計算すると1秒で約4.9リットル消費することになる。1分なら294リットル、約300リットルを消費する。ということは、1分間にドラム缶1.5本分を燃やして飛んでいるということか。
けど、この人数を遠距離、かつ短時間で運ぶわけだから、車移動よりは遥かに燃費はいいともいえる。飛行機とはそういう乗り物なのだ。

ただし、これには、空港待機時の低消費や離着陸の浪費もあるから、実際の定常飛行時はもう少し燃費はいいだろう。
ちなみに、エンジンは稼働させながらも動かないこの空港待機時を「タキスング」というが、ジャンボの場合、1分で約50リットル消費するというから、仮に30分も平地移動とか待機とかしていると、1,500リットル、ドラム缶7.5本分くらい使ってしまう。
搭乗後になかなか出発しないでノロノロやっていると、これも案外バカにならないわけだ。


飛行機というのは、実はバックができない。
なので、駐機場から滑走路に向かえる向きに行くまでは、こういう牽引車が「押す」のだ。
じっと見ていると、見事なカーブを描いて機体が直角にバックする体制になっていった。
実に無駄のない動きと正確なオペレーション。これも熟練の技か。



ということで、最初の結論。
東京-ミラノは9600kmなので、当時のジャンボでも、片道の燃料消費は0.35㎥、往復での0.7㎥、ということは、比重も考慮すると、おそらく0.65トン程度。一人1トンには届かない。
なんだ、やっぱりな、そんなには使わない。けど、かなり近い線、ともいえなくもない・・・か。
いずれにしても、ま、ともかく、あまり「無益な」というか、「無駄な」移動はしない方が地球のためにはいいのかもね。
バリとかよく行く人、どう?(は/257)


■たまには後ろ側から

2016年08月24日 | その他
機械や無機物にも尻尾というか後ろ向きの姿もある。
今日は飛行機の話。



実は、少し前から空港に行くと一瞬だけど妙に目に留まる風景がある。
もちろん、以前から空港にはよく行っていたし、飛行機には常々お世話になっているけど、大半は通路側の席に座るので、あまり窓から外を見ることがなかったのだ。
でも最近、何度か窓側に座ったせいだろうか、飛行機を裏から見る機会が何度か重なったのだ。そう、滑走路までの移動中は、後ろ側から他の飛行機を見るかっこうになるわけである。
ダランもよく飛行機に乗るので、こういう光景はよく見ることだろうけど、気にしたことあっただろうか・・・?

最新鋭の飛行機も、前からみる堂々とした勇姿は映像なんかでもよく見るが、後ろ姿は案外違うし、そのフォルムは前から見るよりかたちがわかりやすいことを発見した。
まあ、先端科学の結晶、究極の機能美というか、それが案外美しかったりする。ジョブズなら「飛行機は後ろがセクシーだ」とか言いそうだ。
ついに、だんだん後ろ姿を見ただけで機種がわかってきたりして、いいのかどうかわからないけど、もっとコレクションしようか、どうしたろうか・・・シャン。
う~ん、久々に、今日の投稿は短くて済みそうだ。

でもまあ、飛行機ネタは他にもたくさんあるけど、今回は視点がタモリ倶楽部みたいになってきたが、こんな誰も気にしないような個人的で些細な、でもマニアックなネタが、ときには気になりだすと気になるわけです・・・。
そういうの、こういうブログに相応しいのかどうかわからないけど、ま、そこはシャレで。たまにはこういうこともあるということさ。




では、その「飛行機のお尻品評会」、しばし、ご堪能あれ。(は/256)


この尖った一つ型は、このB787だけでなく、B767もエアバスの330シリーズなどでも共通だ。やっぱりシンメトリーが普通だとおもうけど。
移動しながらの撮影なので、ドンピシャ真後ろから撮るのはそれなりに難しい・・・のです。



それに対し、B777は不思議なアシンメトリーな形をしている。どうしてこうなのかは知らないけれど、自然は複雑だ。航空工学のなかにも、きっとこういう考え方が好きなエンジニアかデザイナーがいるのかもしれない。


同じB737でも400になると穴は一つになる。ここが後ろからの見極め方のひとつだ。


最後におまけ。
整備か誘導のスタッフ。いつもこうやって手を振ることに決められているらしい。
ちょっと恥ずかしい気もするが、子供たちには人気があるそうだ。
きっと、もっと昔、飛行機がまだ珍しかった頃に始まった習慣だろう。一世一代のフライトもあっただろうしね。安全祈願の振り、なの、かもしれない。
今度、手を振り返してやろうか・・・。



■帰結点と通過点

2016年06月20日 | その他
中学生の頃、友人同士はそれぞれにご贔屓のミュージシャンがいて、各々自分の好きなアーティストを一番に挙げて、あそこがいいとか、彼のあそこはつまらないとか、いまからおもえば誠に勝手な議論をする風潮があった。
ま、そういうのは、いつの時代にもあったろうし、それはそれで楽しんでいる人もたくさんいた。

で、あるとき、当時のヒットソングを出しているシンガーを並べて、「オリビア・エルトン・ジョン・デンバー」と言った人がいた。うまい語呂合わせだ。
でもそこには、誰がチャート1位とか、誰こそが一番とか、そういう話しをするのではなく、その時代のなかで、平等に融和する精神がある。つまり競争に対する「寛容」な姿勢がある。




じゃ、スポーツではどうだろう。
いまはサッカーが主流なので、多くの少年はサッカーをやる。みんながやるからやるという子も多いだろうが、成功すれば報酬もすごいし、最初から相手は世界。ワールドワイドなヒーローもたくさん登場する。
要するに「夢」があるのだ。いまの時代ならそれでいいとおもう。
でもおかげで、運動神経のよい人材や逸材の多くがサッカーに流れ、野球界や相撲界は人材不足になって、ついには外国人が活躍する場になっていった。
今後は、テニスあたりをやる少年が増えるのではないだろうか。でも、それはそれ、時代の流れというものだろう。

僕の場合、子供の頃はご多分に漏れず野球少年だった。当時の多くの日本人少年はそうであっただろう。
もちろん、釜本らがメキシコ五輪で銅メダルと取って以来、サッカーに関心のある人は増えていたが、いまと違って、人口的にはあまり多くなかったとおもう。あくまで少年は野球だった。
時代は、ON、巨人の九連覇は多くのお父さんたちを毎晩TVに向かわせていた。ステテコ姿にTVの野球とビールと枝豆とウチワと蚊取り線香はどこの家にもあった光景、昭和の絵柄である。


ON。ネット甲子園より。

ただ僕は、どうも大多数のそれが気に入らず、最初は長池たちの阪急を応援していたし、途中からはマニエルや梨田の近鉄や市民球団の広島の結果を気にかけるようになっていった。
球団というより、むしろ個人を応援するという面もあったかもしれない。近藤和彦の天秤打法など、よくまねしたものだ。

だがそれも、江川や山本浩二の時代でほぼ終わってしまった。以降、野球は観なくなっていた。
でも、相変わらず、新聞あたりでちょっとチェックするとしたら、それはやっぱり近鉄だった。
そこに、イチローが登場した。球団名はオリックスになってしまったが。ファーストネームで選手登録する人も初めてだった。


近藤の天秤打法。懐かしい。


近鉄の黄金時代を築いた西本監督。本当に尊敬できる監督はこの人くらいだった。日経スポーツより。


広島の古葉監督。柱の影から顔半分出す謙虚さは、よく話題にされた。
でも、初優勝はこの人あってこそ。日経スポーツより。


出張がなく、事務所にいるときなど、必ず見るサイトのひとつに今日のイチローを報告するサイトである。そんなこんなで、チェックし始めてもう10年以上になる。
かといって、特段、ファン、というわけでもない。もっと距離感はあるが、なんとなく少年時代を思い返して、陰ながら応援したい気分はないことはない。

ともかく、イチローは「記録の選手」である。本人のたゆまぬ精進と取り組みはたいへんな努力家であるが、人が評価するのは、記録を出したときである。でも本当は、こうした記録の背景には体調管理こそあって、怪我もせず休まず続けられたからできることなのだ。記録より継続の力、それが基本だろう。
で、一番の記録は、ヒットの数だろう。2004年には262本というメジャーリーグの年間最高年間安打数も記録した。
そうやって、サイトを見ているうちに、自分でなにかしたわけではないのにそんなイチローの記録となんとなく並走してきた感があるというのも不思議なものだ。

イチローは、メジャーリーグや少年たちの野球観を変えたとも言われている。
それまでは、ホームランが一番だったのだ。そこに登場したイチローは、ピッチャーゴロで安打にする。足が速いのだ。かくいう走攻守揃うというのはなかなかできないことなのだ。
いいではないか、ピッチャーゴロ。



で、先日、ついにその積み重ねがピート・ローズの最高安打記録を抜いた。もちろん、日米合算だから、それに反発するアメリカ人は多いであろう。なんたって、メジャーは別格だとおもっている。
こういうときのイチローは、ある種ドライに構えているので、だいたいはオーバーに喜んだりはしない。かつて、国民栄誉賞だって、蹴った。
本当は、こういうのを「クール」というのではないだろう。「クール・バリ」って?

本人に言わせれば、今回のことも「通過点」だというし、アメリカやピート・ローズからの苦言は遠回しにかわす。そこには、すでに「帰結点」を迎えた人と、いま「通過点」を迎えた人の違いがある。
そう、ここは黙って、まだまだつづく結果で勝負だ。来月には3000本安打も達成するだろう。
父親の通称「チチロー」も喜びながらも、褒めちぎりはしない。絶妙な親子関係が見えてくる。


チチロー。Webnewsより。

何が言いたいかというと、今回のイチローの件もまあそう揉めずとも、「寛容と融和」の精神で「イチローズ」の記録、ということでいいではないか、ということ。


ま、ガムランも継続こそ大切。そのためにはビールも控え、友情関係と体調管理と強い精神力が必要なのだ。数々の本番は「通過点」に過ぎない・・・としておこう。
そう、見本はどこにでもある。(は/240)


今回の記録達成時にあいさつするイチロー。
うちに秘めたるものは、本人にしかわからないが、外野は気にせず、このまま「不東」の精神を貫いてほしいものだ。



■「花子」と「はな子」

2016年05月30日 | その他
小学生の頃、おそらく道徳の時間だったとおもうけど、「かわいそうなぞう」というお話を聞かされたことがある。
たぶん、ダランや我々同世代の全国の小学生はみんな読まされたんではないだろうか。

戦中、度重なる空襲に見舞われた東京、戦渦による猛獣たちの逃亡を恐れた上野動物園では、動物たちの殺処分を決定する。
最後まで残ったのはゾウであった。ゾウたちは、毒の混じった餌を吐き出してしまい、厚い皮膚のため注射も打てず、仕方なしに餓死させるという方法がとられることになった。
餌ほしさに芸をしたり、必死に声を出すゾウたちに、それまで我が子のように接していた飼育員たちは、迷い戸惑うが、どうすることもできず、ただ悔しさを噛み締める。ついに最後のゾウ花子が餓死していく、というお話である。
もちろん、戦争の悲劇を表す物語ではあるが、実話だけに、妙に身にしみるお話であった。

戦後すぐ、いなくなったそうした動物たちの代わりに、新しい動物たちが日本にやってきた。
最初のゾウは、49年にやってきた。毎日新聞によるとタイのソムアン・サラサスという人物が「戦争で傷ついた子供たちのの心をいやそう」と私財なげうって日本に送ったゾウであった。彼の子孫はまだ日本に住んでいるという。親日家なのだ。

そのゾウは、戦前人気だった「花子」に因んで「はな子」と名付けられた。右も左もわかならい2歳の雌象だった。
首都圏中心にたらい回しにされたが、それでも当初の予定通り、子供たちのアイドルになって喜ばれた。戦後すぐ、それくらい娯楽もなかった時代である。そう、はな子は最初から戦争に左右された象だったのである。


まだ子象だった「はな子」の画像。(公財)東京動物園協会より。

その後、はな子は、54年に井之頭動物園に移動になった。
そこからがたいへんだ。なかなか動物園に馴染めないはな子は、56年に酔っぱらってゾウ舎に入った男性を死亡させ、60年には飼育員の男性も踏んで死亡させるにいたった。
そうして、いつの間にか「殺人ゾウ」と呼ばれるようになっていった。
ライオンもかなわない3トンの巨体、踏みつけられたらひとたまりもない。脚には鎖をつながれ、檻のなかから出ることすらかなわなくなった。

専門家に言わせると、「象はブドウ一粒踏みつぶさないし、身体にハエ一匹とまっても気がつく」という。そういう繊細な動物。
野生の象たちの間では、死に場所、つまり墓場が決まっていて、死期が近づくと自分でそこに往くという。涙を流す象の映像を見たことのある人も多いだろう。つまり、象は本来、仲間意識や繊細な感情がある生き物なのだ。
だから、はな子が人間に危害を加えたとしたなら、それは正しく故意、なのである。
では、その故意の要因は何か・・・、人間には見世物やアイドルであっても、内面に芽生えたものは、実はストレスと人間不信以外のなにものでもなかったのである。
おもえば、はな子は、来日してからずっとひとりぼっちだった。友だちもいなければましてや結婚相手もいない。動物たちの幸福とは何か。


井之頭動物園の「はな子」。(公財)東京動物園協会より。

そのはな子を立ち直らせたのは、山川清蔵という一人の叩き上げの飼育係であった。殺人から数ヶ月後のことである。
山川は、はな子と正面から向き合い、やせ細り人間不信に陥った彼女に寄り添った。
赴任後、4日目に鎖を外してあげ、毎日、時間をみつけてはただただスキンシップしたそうだ。それでも山川にすり寄るようになるまで6年かかったという。体重が戻ったのは8年後だったそうだ。なんだか「オッペルと象」をおもいだす。

息子さんの宏治さんはいう。お父さんは「一旦閉ざされた心というものは、人間も象も無理にはこじ開けられない」と言っていたそうだ。
山川は同じ仕事に就いた息子には、仕事については何も語らず、ただ「気をつけろ、油断はするな」としか言わなかったそうだ。
要するに「自分が体験しながら身体で学べ」ということだ。動物飼育の教科書などない時代、山川はどのようにしてはな子と向き合ったんだろう。宏治さんはそんな父親にならいいまでは多摩動物園に勤めているそうだ。


山川さんとはな子。

その山川とはな子は30年間寄り添った。山川の姿が見えないとはな子は急に不安になるという付合いの日々が続いた。きっとはな子にとって山川さんは、やっと巡り会えた友人であり、兄弟であり、恋人であったのかもしれない。
その物語は、TVでも放映されたので観た人もいるかもしれない。定年で職を離れた山川であったが、ときどきははな子の様子をうかがいに井之頭に行ったそうだが、自分の姿が見えるとはな子の自分離れができないため、はな子に見えないそうそっと覗く日々だったという。

はな子は、山川さんがいなくなってから、壁を向くようになった話しは有名である。身の危険を感じた飼育員も多かったという。専門家の間では、それは広場の傾斜のせいではないか、と解説する人もいたが、はたしてその程度のことだったかどうか。
はな子は何を考えていたんだろう・・・もはやそれは誰にも推し量ることはできない。


ツイッターより。

そんなはな子を2度ほど観たことがある。もちろん井之頭動物園だ。2度目は山川さんの物語を聞いたから行った。まるで歴史の生き証人を観るおもいだったのを覚えている。
そうね、しばらく行ってないけど、今度、たまには散歩してみるか・・・。


広島に華々しくオバマ大統領が献花した日、その日の前日、はな子は69歳の生涯を閉じた。戦後の日本とともに生きた一生だった。
ここにもひとつの戦争の節目があったのかもしれない、と、ふとおもう。
Seventy-one years ago, ・・・その日は遥かなれど。(は/234)


日経Newsより。


■「世界一良い店」

2016年05月16日 | その他
今朝ほど、音楽プロデューサーの星川京児さんの訃報が届いた。深夜だったらしい。
ま、このギョーカイでは僕なんかよりずっと親しくしていた人はたくさんいるだろうから、ここでとやかくいうのもちょっと気が引けるけれど、でもまあ、そこはそれ。僕なりにかなりショックだった。というより、哀しいというか、残念というか・・・、空虚、そう喪失感が強い。
そう、世界のどこかに穴が空いたようだ。

星川さんを最初に知ったのは、80年代初め頃だったとおもう。もちろんキングのレコードなんかでも携わっていたけれど、僕としてはやっぱり民族音楽専門誌「包(パオ)」の編集長兼発行者というのが身近だった。毎号買っては勉強させてもらった。水先案内人でもあった。
その後、ガムランをはじめて少しした頃からときどき話すようになり、その度ごとに、いろんなこぼれ話を聞くのが好きだった。
あの独特のしわがれた声とくしゃっとした表情が少し懐かしい。


「包」の画像を探したけれど見つからず・・・やっぱりマニアックだったか。(ディスクユニオンHPより)


星川さんといえば、民族音楽や邦楽を中心に世界中の音楽を紹介したことで知られているが、実は60年代や70年代のロック系も相当詳しいし、それ以前の大衆音楽ももちろん専門家だった。レコードを聴きながらいろんなことを教えてもらった。坂本龍一のスコラにも20世紀音楽の特集で出ていたのが記憶に新しい。バグがあって即日回収になったというツェッペリンの伝説的ファーストアルバムも見せてもらったことがある。

で、あるときは、実験音楽を集めたこの本を見せてもらったことがあって、本とその音のCDがセットになったこの日本語版の出版にも携わったと聞いた。
その後、なんとか探して出してゲットはしたが、いまでは日本語版は手に入らないだろう。インポートなら入手可能だとおもう(これが星川さんを代表しているわけではけっしてないので、誤解なきよう)。



なかにはこんな楽器が盛りだくさんに紹介されていた。








これに至っては、もうなんだかわからない。
世界には不思議なことを考える人がたくさんいる、ということを教わった。



それに、星川さんは、anomaという店を根津でやっていて(もうだいぶ前に閉めましたが)、奥様が探求していた中国茶と星川さんのどこからか買ってきた貴重な酒ともちろん珍しい音楽のたくさんあるユニークでマニアックな店だった。
日本では珍しい中国茶で割る九州当たりの焼酎は何杯でも軽く飲めたし、興が乗るとついついどこかの民族楽器を出してきて即興演奏会なんかも始まったりした。こんな店他にない。
よく一緒に行った友人にいわせると「世界一良い店」だそうだ。そうね、世界一だ。

いつだかベジタリアンのかみさんを連れて行くから、と行ったら、「三日前には言ってくれ」といわれ、言われた通りにしたら、まあ驚いた。
たぶん、特殊な仕入れルートがあるのか、あるいは大きな市場にでも行ったんだろう、そういうところでないと手に入らなそうな見たこともない野菜を調達してくれていて、ついでに開発したらしい食べ方も披露してくれた。
詳しくは申し訳ないが忘れてしまったのが残念だが、最古の江戸野菜とか、普通は単なる葉っぱで済ませるようなものでもこうやったら美味しい、とか、醤油と味噌を合わせてつけるとうまいとか、こういう意外な取合せもできる、とか、まあ初体験野菜のオンパレードだったことがあった。
以降、行く度にそれだった。なんという探究心、なんというアレンジセンスだ、とおもっていつも楽しみだった。


きっと、星川さんは、未知への好奇心が普通の人より旺盛なのだ。
未だ見ぬもの、未だ知らない世界の習慣や文物、未だしらない楽器や音楽、未だ味わったことのない酒や料理・・・まだまだ世界には知らないことがたくさんある。どんなにネットやTVや情報が流れていても、人間の営みや価値観にもまだまだ未知のフィールドの深淵がずっとずっと広がっている。
はたして、そうしたことの根源にはなにがあるのか、きっとそういう「世界の秘密」が知りたかったのだ。そしてそれをみんなと分かち合いたかったに違いない。酒でも飲みながら、語り合いながら。
あんな人、ちょっといない。


星川京児、享年63歳。不二の巨星の早すぎる昇天。文字通り、"星"になってしまったが、きっとこれからもずっと何か新しい発見を探求していくに違いない。
今晩は、著書の「粋酒酔音(すいしゅすいおん)」でも読みながら、星川さんの大好きだった珍しいお酒を飲むことにしよう。

謹んでご冥福をお祈りいたします。(は/230)




星川京児さん(音の森HPより)。


■新しい命

2016年04月12日 | その他
赤ちゃんの産声が440Hzであることは有名な話だ。つまり"A"=「ラ」の音程ということになる。


サイトで見つけた図。これが440Hzを表すサインカーブだそうだ。


では、なぜ赤ちゃんは生まれた瞬間に泣くのか、という問題には昔から諸説ある。
医学心理学生理学系の研究では、人間にとって最初に発達する感覚器官が「耳」で、赤ちゃんはお母さんのお腹のなかにいるときから耳は発達を始めるので、赤ちゃんにとって最も初源的な記憶というのは「お母さんの心音」ということになる。つまり最も安心する「音」ということだ。

それが、生まれ出た瞬間に、外環境の雑音世界に放り出されるわけで、当然、「心音」は聞こえなくなり、途端、不安に落ち入る、というわけである。
だから、いまでも、赤ちゃんを泣き止ますCDというのが出ているが、その中身はいわゆる「お母さんの心音」である。我々が聴いても雑音にしか聴こえない。
でもまあ、これが面白いので、知り合いに子供などができたときは、しばらくこのCDをプレゼントしていたりもしたけど。

一方、生物学者などによると、産声というのは、外的から身を守る哺乳類の名残りだという。
つまり、野生の外的にとっては、この「ラ」の音が嫌な音で、そこには近寄らないというのだ。これには確証がないけれど、もともとなぜ赤ちゃんが新月や満月に左右されたり、明け方産まれるかなど、野生の哺乳類に近い時代の名残りは、ないとはいえない。
いまどきは、医者や家族やその他の都合で、「普通の時間」に産まれるので、そもそもそこに人工的調整が入っていることはあまり知られていない。
ちなみに僕は古風で、お産婆さんに取り上げてもらったので、明け方産まれたそうですが。

ともあれ、この440Hzというのは、地域や人種や身体の大小に関わらず人類共有の現象らしい。今度誰か絶対音感のある音大出身者などに立ち会ってもらって実験したい。希望者は申し出てください。または、どこぞの某日大の音響関係の教授でもいいけど。
でも、産声が全員「ラ」の音なら、同時に何人も同じ場所で産まれたら、ユニゾンで「ラ」の大合唱ということになるんだろうか・・・、それとも、前後で「ラ」の休符もあるだろうから、誰かが「・・ラ・・ラ・・ラ・・ラ・・ラ・」などと泣き出したら、四人もいれば、「ラ」のケチャになるではないか。
赤ちゃんケチャができたら末恐ろしい・・・。


タナロットの5000人ケチャ。何もここまですることはないとおもうけど。
バリもだんだんスケールオーバーしてきた気がするのは僕だけだろうか・・・。



ということもあってか、20世紀になってから、オーケストラのチューニングはオーボエの"A"の音となったのは、オーボエが一体型であって、ピッチが一定だからということだが、"A"であるのは、この赤ちゃんの産声から来ているという説もある。
赤ちゃんの産声と西洋音楽のキーピッチが同じというのは、人類と音程の生物学的関係が潜んでいそうな話だ。
ともかく、そうやって新しい命、「赤ちゃん」はこの世に誕生する。


何を言いたいかというと、実は妹に孫ができたという知らせがあった、ということ。
ということは、僕は人生初の「大伯父」になったということだ。
ちなみに「伯父」とは、年上の兄弟、つまり親のお兄さんこと、「叔父」とは弟のことを表している。だから、大伯父とは祖父祖母の兄ということになる。念のため、お間違いなきよう。
さらに、妹は気丈にも5人の子供がいるので、我が兄弟全体としては、日本の少子化には貢献しているということになる(僕はなにもしてないが)。
この5人にもしそれぞれ2人の子供が産まれたら、僕は10人の大伯父になってしまう。お年玉とか考えると末恐ろしい。

で、ふと困ったのは、その逆はどう呼ぶのか知らなかったということだ。我ながら唖然とした。で、早速、周りの人に訊いてみたけど誰も知らない。
そういうことは案外ある。先日もある会議で5者契約になって、契約書によくあるように契約者を「甲」「乙」「丙」「丁」・・・とまでは普通に出てきたのに、大の大人が集まった会議でもその後が出てこない。
意外だった。甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、日本人はどこへいく。

ともあれ、大伯父の逆はどうも「又姪」というらしい。男の子なら「又甥」だそうだ。
いずれにしても、まあ、なんだか春から縁起がいいニュースだった。
この子、いい時代に産まれたのか、どうなのかはわからないけど、きっと産まれた時代がいい時代なのだ。
これから始まるどんな人生の物語であれ、明るい未来に、どうか、たくさんの幸あれ。

「我が輩は「又姪」である。名前はまだない。」(は/226)


初又姪。妹が送ってきた写真。きっと嬉しかったんだろうな。


今日は珍しくたまたま朝から事務所にいる。明日からまた出張。次回は月末か・・・。それまで、ごきげんよう。


■Never Let Me Go

2016年04月04日 | その他

たまには夜桜でも。近所の通り。

今年も無事サクラが満開になった。雨も降ったりするけれど、なんだか少し春めいてきた。
この季節になると、ダランも(こ)ちゃんも僕もほぼ同時に歳をとる。これは永遠なる宿命だ。


そのサクラ、なかでも「ソメイヨシノ」はなぜ一斉に花が咲くのかという話は前に書いた。元来が挿木増殖、彼らはすべてクローン、つまり全部が自分自身ということだ。植物は比較的簡単にそういう増殖ができる。
もちろん生物だから、我々を含めた動物も技術的にはクローン増殖が可能だということは、「ドリー」以来の暗黙の常識になっている。あとは倫理の問題だ。
おそらくそのことに触発されて書かれたであろう文学作品が、先頃、綾瀬はるか主演でTVドラマにもなったので観た人もいるかもしれないが、カズオ・イシグロの「Never Let Me Go」、邦訳「わたしを離さないで」である。



これを最初に読んだのは、もう10年以上前のことだろうか。特段の感情も入れず淡々と、さして大げさな表現や抑揚もなく「一人語り」形式で語られる物語。芒洋と、そしてある意味漠然とした、けれどしっとりとしたやり場のない感情をどこへ持っていったらいいのかという作品・・・。
そんなことで詳細をだいぶ忘れていたが、ドラマを観て、改めて読み直してみた。単行本を紛失したので中古の文庫ながら、またもやその世界に没入してしまった。

もちろん、本とドラマは、劇的な出来事やエンディングなど若干違う。だが、実写化ほぼ不可能といわれたこの作品を今回のTVスタッフは見事に映像化していた。場所は日本にされていたけれど、ほぼイメージに近い。
このスタッフは、「仁」や東野圭吾の「白夜行」と同じクルーではないか、とかみさんが云っていたが、う~ん、そうかもしれない。さすがに鋭い。


TBS HPより。


ネタバレと怒られると困るので詳細は書かないが、この本は、ストーリーや結論を言ったところでさした問題ではないだろう。次第に明らかになるその設定の衝撃性がある世界の像を結んでいくその流れる時間のなかで語られるエピソードの積み重ねや感情の揺れ動きが大切なのだ。
そう、ワヤンと一緒で、結果ではなく、進行プロセスが大切なのだ。

主人公は「キャシー・H(通称キャス)」という女性で、キャスの語るその物語は、強がっているがどこか子供っぽく意地悪なその親友のルースと、ちょっと抜けているけどいつも真実を見つめようとする実直な男友達のトミーを中心とした「彼ら」のいまと過去のエピソードが走馬灯のように構成されている。
要は臓器提供のために生み出されたクローン人間たちの切ない生き方が淡々と描かれているのだ。彼らの育った場所が「ヘールシャム」という特別な施設で、その代表がエミリ先生。そこに登場するのが「マダム」と呼ばれる謎の女性である。

彼女たちは、いったいなんのために「ヘールシャム」をつくったのか、どうして絵や詩を書かせつづけたのか・・・。
そして、当の本人たちは、自らの運命をどう受け入れていくのか。人間の代用品として生を受けた彼らが、それでも生まれてきて良かったとおもえるもの、生きた証をいったい何に求めるのか・・・。
次第にある一点に収縮されていくその物語は、抑制された表現で細部に染み渡りながら、やはり淡々と進む。その淡々が絶妙だ。

そして、繊細で緻密につづられているこのお話を私たちはどう受け止めればいいのか・・・。
現代の設定ながら、まるでSFのようでもあり、まるで幻想世界のようでもある。どこにいるかわからないけれど、もしかしたらどこにでもいそうな存在と曖昧な希望。
本はいろいろ読んできたけど、こういう読後感はあまり経験がない。



カズオ・イシグロ。日本人なのにカタカナ。やっぱりイギリス人か。

カズオ・イシグロは、日本人の両親のもと長崎で生まれたれっきとした日本人であったが、5歳の頃、親の都合でイギリスに渡り住んだという経歴だそうだ。
昨年、講演会の様子をTVでやっていたが、その際の話では、当初は普通に日本に帰るものだとおもっていたそうだが、結局、帰国することはなく、そのままイギリス人になったという。

処女作と二作目は、その日本を舞台にした小説を書き、注目された。イメージのなかの日本、日本人でありながらイギリス人という存在がそうさせたのだろうか、見え隠れする日本的感性が評価された。本人にとって、それが良かったのが不運なのかはわからないが、少なくとも他の大多数とは違う存在として子供の頃は過ごしたであろう。
三作目の「日の名残り」でイギリスの伝統を頑に守る斜陽の執事を描いて、日本の芥川賞のような存在だろうか、イギリスのブッカー賞を受賞し、一躍世界の「イシグロ」になった。



毎回テーマやスタイルが違うのがカズオ・イシグロのいまのところの真骨頂である。いつも、いままでの方法とは別の方法をいつも模索しているんだろうか。ま、そういう「マニエラの作家」でもあるのだ。
なんの根拠もないけれど、どこかでバシッとはまった手法の名作でも書けたら、ノーベル賞もあるのではないかとふとおもってしまう。ある意味で、そういうカリスマ性のある作家でもある。

世界には、日本人がおもっている以上に、多様な人種や文化や存在がある。消え行く伝統もあれば、未だ見ぬ将来もあるだろう。クレオールもいれば先住民もいる。私たちはいま、その可能性とビジョンを文学などで垣間みることができる。
娯楽ということではなく、未知の記憶や世界観を感じてみることは、経験にもまさる認識の扉を開けることにもなるであろう。文学の想像力とはそういうものかもしれない。いまの彼はそういうパイオニアでもあるのだ。
最新作の「忘れられた巨人」はまだ読んでないけれど、ファンタジー的な仕様だそうだ。そこにもどこかに「日本的感性」が隠れているんだろうか・・・。ま、そんな人もいるというお話。
同じ日本人の端くれとして、カズオ・イシグロの今後に注目したい。(は/225)


なんだか、春らしからぬ話題になってしまったけど、ご容赦のほど。
でも、やっと新年度、新学期、これから新しい道を歩みだす人も多いだろう。活気のある季節だ。
とはいえ、今月はいつもにまして東京にいない。たぶんブログも今月は2~3回くらいしか投稿できないかも。次回は25日くらいだろうか・・・。だいぶ間が空くけれど、みなさんお元気で過ごされますよう。
「わたしを忘れないで」。