玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■ガソリンと地酒の店

2015年06月30日 | 出張


先日、会津に行ったら、途中でこんな店があった。
車で移動中だったので、カメラを構えた頃には隣の車の邪魔が入ってしまったけど、これ、「ガソリン・酒の店」という看板表示でした。その横ののぼりには「IN 酒・洗車」の文字。
う~ん、ま、同じような成分といえなくもないとはいえ、「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」の背反の関係なのに、それを一緒に売ってしまうというのは、さすが地酒自慢の地方のなせる技か。
なんとも不思議な光景。珍百景か。地方には不思議なものがあったりする。


ところで、この会津は数年ぶり。子供の頃何度か行ったことがあって、白虎隊の碑とか、栄螺堂とか、野口秀雄の生家とか、磐梯山などいろいろ記憶に蘇る。ので、何となく町や自然の雰囲気は知っている。
でも、今回は、そういう観光的な時間はなく、単に仕事。新作仏壇をデザインしたので、その展示会があったのだ。
最近、両界曼荼羅とか仏壇とか、多聞とか、どうも仏教系だ。たまにはヒンドゥ系やインド古代叙事詩系もやらなくては。

新作仏壇とは、たとえばこんな感じ。


最初につくった壁掛け用厨子。同類の数タイプがある。案外ロングセラーだ。


床置きタイプ。3種類の木と色のパターンがある。


卓上タイプ。これが意外と重宝されている。これにも数種類ある。


茶室のなかに展示してみた。


でも、これが結構売れていて、世の中少しは変わってきた感はある。
たとえば、家を新築した人やマンション住まいで大きな仏壇は置けないような人、押し入れが狭いので、家具のように置きたい人など、動機はさまざまらしいが、様式重視というより、どうせなら、好みにあったものがいい、ということのようだ。
そういえば、勘三郎さんの家でも、裏千家でも買ってくれたらしい。

そんなこともあり、社長とは、まず、「祈りの文化」から考えましょう、ということで、Pray for Oneというプロジェクトを立ち上げ、ものや道具ではない、祈りという行為と心についての啓蒙活動から入っている。
その拠点は、ここ。4年ほど前につくったギャラリー兼ショールームだ。




仏壇というのは、いろいろ様式があるとおもっている人が多いけれど、ま、あるにはあるが、その原型は「浄土」である。もともとは浄土門系の宗派の専売特許のようなものなので、たぶん最初は、極楽浄土、平安末期の末法時代に権力者たちがつくった浄土模型であろう。
もちろん、仏舎利の箱という意味では、厨子などの装置はあったけれど、仏壇に発展するのはずっと後のことだ。
一般に普及しだすのも江戸に入ってからで、家康が檀家制度をつくり、それを固定してから本格化したといわれている。江戸時代の檀家制度とは当時の一種の住民台帳のようなものとして機能していたらしい。会津も漆や木工の技術をつかってその頃からつくっているという。

檀家というのは、檀那(だんな)をする家のこと。檀那とは布施、つまり寄付をすることだ。そこからお金をもってくる人のことをダンナ様と呼ぶようになったといわれている。だから、本来ならダーンナーである。うちの旦那は金ももってこないから、じゃ、旦那様じゃないね、ということになる。
ともあれ、ま、それ以降、宗派や寺を変えることができなくなったのだ。たぶん、その名残りがいまでもつづいているとおもわれる。


でも、実はこれ、売れなくなったという仏壇界で、いま話題沸騰の仏壇なのだ。
この世界も独特で、いいのか悪いのか、新作を発表すると、翌月には似て非なるコピー品が出回ってしまうのが常である。でも大丈夫。オリジナルはオリジナルだ。絶対同じものにはならない。

実は、これらへの取り組みを始めたのは、まだバブルの終わりの頃。だから本当は結構長い活動になるが、やっと芽が出てきたというべきか・・・。
当時の世の中は、バブルのせいもあって、「イタリア仏壇」とか「ロココ調仏壇」とか意味の分からないものもたくさんあった。仏様もブランド志向だったんだろうか? ワンレン・ボディコンの仏様なんてイケたものじゃないとおもうけど・・・、螺髪のボディコンもイケてないけど。
そう、つくってはいけないものはつくってはいけないのです。それはものをつくる人の最低の倫理だね。ものづくりと商売は別。経済も商売もものづくりもワヤンも文化が大切なのだ。
だから、いくら時代は変わっても、仏壇のデザインは一朝一夕にはいかないのだ。

そんなんで、ま、いまのところ、近未来は、極楽もこんな感じなんだろうか・・・?
まだまだいいようなそうでもないような。伝統のなかのものづくりやアイディアの組合せはいつも難しい。
でもやっぱり、ガソリンと酒は一緒にしない方がいいとおもうけど。(は/118)



おまけ。工場にあったドリル一式。タモリ倶楽部向けのマニアック感がいい感じだ。


■多聞の時間

2015年06月29日 | 

多聞名物そば豆腐とB

美も富も関係なく、我にかえってみると、最近は妙な疲労が蓄積していて困ったもんだ。
でも、そこをおして、昨日、久々に深大寺のそばや「多聞」に行ったみた。
なんとか晴れていたし、行ってよかった。午後遅めだったので、並ばずに入れた。ここは屋外席が気持ちいいのだ。
ここは、ダランも(か)さんも行ったことがある店。最近は浮気してその近くの「湧水」という店に行くことが多かったけど、たまには食べたくなる店のひとつでもある。




多聞とは、たぶん多聞天のことだろうか・・・。
多聞天といえば、別名毘沙門天。持国、増長、広目とともに仏教四天王のひとつ、北を守る仏神だ。ちなみに、方位でいえば、東が持国、南が増長、西が広目と決まっている。
毘沙門天となると、なぜか七福神にも加えられているけど、これも元を正せば、きっと例のインドでヒンドゥが広まってきてできた化身のひとつだろう。
仏像などでよく見るときは、中国の戦士のような鎧をつけて、邪鬼を踏みつけているのが通例だ。東大寺金堂とか興福寺の四天王像がそれだね。つまり、南都から平安にかけての仏教で扱われることが多いのだ。
深大寺も天台宗の寺院だからであろう、そういう意味ではまさにそれだ。深大寺は、武蔵野にあって、浅草寺と並ぶ江戸では最古の寺のひとつなのだ・・・。

なんてことを密かに巡らしつつ、要はそば。かみさんが好きな「多聞そば」もあるけれど、その前に名物「野草てんぷら」でビール、というのが僕の定番だ。
で、その後、「深大寺そば」。このそばは並で普通の店の大盛りくらいあるけれど、そこをさらに中盛りで頼む。だから通常の店の三倍はある。多いとはわかっていても、ここに来るとついついこれを頼んでしまう。わるい癖である。
みなさんもお近くにお出かけの際は、ぜひ一度。


名物「野草てんぷら」。これがいつも実にいい感じ。


多聞の深大寺そば中盛り。大盛りは普通の人が見たらびっくりする。でも、ざるを裏返してパラパラくらいしかないそばやよりこっちだろう。


案の定、お腹いっぱいになり、隣の植物園をしばし散歩する。
季節柄、いろんな草花が咲いていたけれど、かみさんが教えてくれた「アなんとか」という花がきれいだった。でもやっぱり長過ぎて覚えられない。ま、そのうち覚えるでしょう。




帰り道、かみさんにはいつも運転してもらってわるいな、とおもう。
どんなに疲れていても、たまには日曜の時間も必要だ。こういうときは仕事のことも、日常のことも、何も考えないことにしている。それだからきっと何かを守護する時間になる。これも多聞の時間なのだ。(は/117)

■富と美

2015年06月29日 | アート

琵琶湖沿いの風景

大津といえば滋賀、滋賀といえば近江、近江といえば近江商人・・・なんか儲かりそうな響き。僕らには縁はなさそうだけど。
近江商人とは、近江出身で、近江以外で商売をしている人のことをいうそうだが、以前、彼らには謎が多いとどこかの経済学者が言っていたのをおもい出す。
彼らは、大坂商人と並ぶ双璧の商魂というか商才を発揮した人たちで、皇室とのつながりをいう人もいる。結局、住友財閥は近江商人だし、三越伊勢丹以外のほとんどの百貨店は、多かれ少なかれ近江商人の出だ。元を正せば、先頃シェールガスから撤退した伊藤忠や世界のトヨタもこの地がルーツだという。
江戸から明治にかけての彼らの動きは並ではなかった。

でも、なぜこの地からそういう人たちがたくさん出たのかはわからない。きっと農耕的体質ではなく、華僑のように外に出て行く気質風土なんだろう。ま、昔から交通の要所だし、昔には珍しかった動くことにためらいがない人たちなのかもしれない。
「払って得をする」とか「売手よし、買手よし、世間よし」とかの金言でも有名だけれど、それはある意味で、彼らの商法は日本の風土に合った発想だったのかもしれない。ウィンウィンの関係とは言っている場合じゃない。利益以前に、みんなが納得するハッピー加減ということが大切なのだ。
実際、明治から昭和初期は、こうした人たちが文化に金を使ったので、日本の芸術は保存されたともいえる。数寄者はみんな財界人だった。そういう意味では、渋沢栄一以降の経済人は、経済=文化の関係を紳士的に知っていたということになる。実はここが近代文化の大切な歴史ポイントなのだ。




同じ金持ちつながりで、先日の日曜、仕事に出るついでに、BUNKAMURAでボッティチェリとルネサンスの展覧会をかみさんと観たけど、これはちょっと風変わりな企画で、英語のタイトルは、Money and Beauty、つまり、パトロンとしてのフィレンチェの商人やメディチ家と芸術家の関連をなぞることで企画構成されていた。
なんたって、導入部が、富の源泉、フィオリーノ金貨の展示から始まっている。
ルネサンスは、人間復興や文芸復興というけれど、遠く十字軍に発する東西交易の発達、つまり芸術がどんなに交易や商業的成功に支えられということ、富の蓄財というかその分配が芸術の育成にとっていかに歴史的な貢献をしたか、という流れになっている。

でも、ルネサンスとはいえ、ボッティチェリの頃のテーマはまだ宗教がらみだ。有名なヴィーナスの誕生の部分図もあったけど、やっぱり圧巻は「受胎告知」。キリストの受胎を告げる大天使ガブリエルの到来を待つマリアの図。横幅にして10mはあろうかという大作で、普段は公開されていないというから貴重な鑑賞機会だ。


「受胎告知」


サンドロ・ボッティチェリ(自作に潜ませた唯一の自画像といわれているが)


そのメディチ家も発祥は多くの謎に包まれていて、昔から、どうも薬とか医学関係の商売人だったという説が有力である。なんといっても、英語でいうメディスンに近い響きがそれを物語っている。昔でいう屋号のようなものだったろう。
で、たぶん時代の目鼻が利いたんであろう、彼らは、14~15世紀にかけて貨幣経済の先頭をいく銀行家として成功した。日本もその百年後くらいには貨幣経済に入って、江戸時代を通してちょっと特殊な金融システムが発達していったけど、世界もこの頃から金融というシステムが社会的に定着していったことが伺える。
その最盛期を成したのが、有名なコジモ・ド・メディチなのである。その後のロレンツォを含め、以降18世紀頃まで、政治から外交まで当時のフィレンツェ共和国の実質支配者となった。


コジモ・ド・メディチの肖像

いまではイタリアは共和国であり州制ではあるが、統一されたのはたった百年ちょっと前だから、それまでは独立小国の集まる地域。いまでも我々が想像する以上に地域相互の意識はかなり違う、というか違う国という意識をもっている不思議な国だ。ま、イギリスもそうだけど。
でも、もっと驚くのは、かつて紀元前後にローマ帝国であった最盛期には、いまのヨーロッパ全土の半分を国土にしていたわけだから、彼らのなかには、いまでも、フランスやドイツやスペインは自分たちの国から独立した国だくらいにおもっているということだ。
国の誇りというか、地続きの地の歴史は根深いのだ。

ともあれ、当時のフィレンツェは、ヨーロッパでも最も栄えた都市であるのは事実。先に書いたけど、フランス王家に嫁いで、フランス料理の基礎を伝えたカトリーヌ・ド・メディシスもメディチ家の家系である。メディチ家は、名実ともにヨーロッパの盟主であったわけだ。
だから、ま、ボッチチェリもミケランジェロもダ・ヴィンチも、彼らがいなければ活躍の場がなかったわけで、裕福なものが芸術家を囲うのは歴史的には社会還元ともいえなくもない。バリ島だって全部でないにしても、裕福な階級があったから芸能が伝承されたといえる部分もある。
以降、20世紀まで、芸術家はパトロンなしでは成り立たなくなった。
この展覧会は、そんな時代のスタート地点を描きたかったのかもしれない。


その後、メディチ家はその後衰退し断絶するのでわかりやすいけれど、それに取って代わって、同じ金融発祥でヨーロッパで悩ましいのは、なんといってもいまでもつづくロスチャイルド(ロートシルト)家の存在だ。
フランクフルトの小金貸しのユダヤ人が、たった100年でヨーロッパの富の半分を牛耳るまでになったその暗黒の歴史は実はそのまま世界の裏面史でもある。
そもそも、イギリスの中央銀行は国家によってつくられたものではない。三男ネイサンのつくった銀行がルーツだし、証券取引所も彼の支配下にあった。つまり、このロートシルト5兄弟のユダヤマネーがアメリカとヨーロッパを動かしてきたのだ。どうも近代の不思議な政治の動きやその闇の一部はこの辺にある、といわれている。
IMFだって無縁じゃないし、日本の戦後資金にも昔からいろんな噂がある。
この話、このままいくと長くなるのでまた次回。詳しい話を知りたい人は、広瀬隆の「赤い盾」を読まれたい。




それにしても、ま、近江商人もメディチ家も、富=金の時代の申し子のようなものだ。芸術家はいつも翻弄される存在だ。
ボッティチェリの最後は、貧困のなかで人知れず死んでいったそうだ。ただ、偉大な芸術家のなせるわざ、作品だけはいまに生きている。(は/116)

というわけで、次回展はエリック・サティだそうだ。20世紀ネタだ。これは行かないとね。

■大津の夕べ

2015年06月24日 | 旅のおはなし
ということで、大津の打合せと宿泊は、豪華なホテルでした。
その部屋からの眺め。ちょうど、琵琶湖の先に夕陽が沈むところ。右側が比叡山だろうか・・・。美しい日本の風景だ。




支配人が気を利かせて用意してくれた部屋が、なんとスイートルーム。到底ひとりじゃ持て余す広さだけど、なんとも居住まいが悪い。ま、こんな感じ。
この他に、ベッドルームとドレスルームとバスルームとトイレ×2と前室がある。窓からは琵琶湖が一望というロケーション。




ま、打合せも無事終わり、ざっと館内を案内してもらったところ、2階のエステがあって、なかなか高級感もあって落着いた雰囲気だったけど、聞いたところでは、これ、偶然、大学の同級生のデザインでした。奇遇。こんなところにそんなものがあるなんて。




夜は、当然、近江牛の鉄板焼き。ポイヤックのワインとともに。
どうも、いつも気づくのが遅く、撮影のときは残りものになってしまう・・・。



ついでに、これは先日神戸でいただいた神戸牛の鉄板焼き。




たぶん、両方ともなかりお高いとおもわれるが・・・。
それにしても、これらどこが違うんだろう。たしかに両方とも美味しかったけど、実は違いがよくわからない。
ま、サシのたっぷり入った牛肉というのはどれも、それくらい高レベルということもあるけれど、どうも判別つきにくい(なんてのは贅沢だろうか?)。

関西の牛の世界というのは、それはそれで実はかなり複雑な歴史と経緯があし、闇の歴史もある。
でも、関西では、普通、肉といえば牛だ。カツもトンカツといわない限りは牛カツだし、カレーも中華まんも全部牛だ。
だから発達したんだろうけど、これら、よくいう黒毛和牛というヤツは、松坂牛も神戸牛も飛騨牛も米沢牛も宮崎牛も全部、名前は忘れたけど、たった一頭の但馬牛から繁殖したものである。
なかでも神戸牛は定義が厳しいらしく、兵庫生まれ、兵庫育ちの但馬牛のうち、牛自身の体重から霜降度合や肉質等級が厳密な基準以上のみがそれを許されるらしい。
神戸で食べたときも、誰々の生産したどういう等級の肉であるかなど、いちいちもったいぶって説明された。

バリはヒンドゥなのに、なぜか牛も少々食べるようだが、日本はそもそも歴史的に牛を食べていなかったとおもっている人が多いが、あれは奈良時代に仏教の影響で、食肉が禁止されたためで、それより以前の縄文、弥生とも、当然食べていたわけです。
しかも、いま流行のジビエかとおもいきや、定住農耕の始まった弥生時代には家畜化されていたという説もある。
その後も、明治になるまで、隠語で語られるほどに少しは食べられつづけていたということになる。
いずれにしても、観る動物もいれば、食べられる動物もいる。ま、業が深い話しだ。(は/115)

■NYのレス・ポール

2015年06月19日 | その他


音楽つながりだけど、先日、これ、レスポールのシグニチャーモデルがオークションに出ていた。某大学教授でもないととても僕らの買えるようなものではないが、ま、ときどきこういうのも出る。


スタジオのレス・ポール


そういえば、2004年にたまたまニューヨークにいて、たまたま午後がオフになった日があって、たまたまその日が月曜だったので、これは神の思し召しとばかり、マンハッタンのイリジウム・ジャズ・クラブを予約したことがあった。ジュリアードのあるリンカーンセンターとタイムズ・スクエアの間くらいのブロードウエイである。
なぜ行きたかったかというと、なんとそこでは毎週月曜の夜に、伝説的ギタリスト、レス・ポールが現役でプレイしていたからである。すでに90近かったとおもう。
もう、誰がみても晩年だったということもあり、噂では、これが最後とばかりに、ジョージ・ベンソンやラリー・カールトンといった有名ミュージシャンもNYに来ればよく飛び入りしていたという。さすがレジェンドである。

ところが・・・それもつかの間、現場が不測の事態に落ち入り、結局、その夜はパーになってしまった。とある公務員と一緒だったが、別に僕のせいではなかったけれど、なにかときちんとしないといけないタイプ、付き合わないといけないはめになったのでした。




レス・ポールといえば、もちろんギタリストであるが、実はある種の発明実験家でもあった。
たとえば、いまでは当り前になっているエフェクターのディレイマシンの初期バージョンや、オーバーダビング方式の録音の装置をつくって、いろいろ実験したりと若い頃は随分勢力的だった。
勝手に試作ギターをつくって何度もギブソンに持ち込んだらしいが、その最終形態が、ギブソン初のソリッドギター「レスポール」である。オリジナルは1952年発売。その復刻のシグニチャーモデルなのだ。
50年代生産のこのレスポールモデルは、いまでは「オールド」と呼ばれ、1本500~800万くらいのかなりの高値で取引されている。オールドはピックアップだけでも、数十万円になっている。

ソリッドギターというのは、正確にはソリッドボディギターといって、それまでのギターはすべてアコースティックギターをモデルにしていたため、どうしても外枠をつくって中央かまたはバイオリンのようにサイドにサウンドホールを空けるというものだったが、エレキギターならそれが不用にできるとして開発されたものである。
要するに、音を拾う電気的なピックアップがあれば、ギターは板でいい、という発想だ。
それに対し、共鳴胴をもつエレキは、ホローギターといわれている。


で、その後、このレスポールというギターは、いろんなギタリストたちに愛用され、とくに60年代半ばにエリック・クラプトンが、マーシャルアンプとの組み合わせで、ゲインさえ上げれば簡単に歪み(ディストーション)音を出すことに効果をあげてからは、クラプトン、ジェフベック、ジミー・ペイジのいわゆる三大ギタリストだけでなく、多くのハードロック系ギタリストたちに愛用される楽器となった。

 
60年代のクリーム時代のエリック・クラプトン。右はレスポールとマーシャルのアンプの黄金コンビ。


とくにジミー・ペイジは、60年代はテレキャスターを使っていたが、70年以降はこのレスポールに変え、スタジオ録音のときはあまり使わなかったらしいが、ライヴでは多用した。
彼の代名詞ともなった通称No.と呼ばれるレスポールは、多くのロックファンのアイコンになった。58年製のオールドである。一説には、69年に、どうも、ジョー・ウォルシュから300ドルで譲り受けたものらという伝説的逸話が伝えられている。
そういえば、北京オリンピックの閉会式に出てきたときも、これを弾いていた。
ダランもこの世代なので、きっと懐かしいはず。
ジミーは、それに手を加え、ピックアップをクローバーに変え、ネックを薄く削り、ボリュームスイッチも改良して、21種類の音質を出せるギターにカスタマイズした。
このギター、もし売りに出されたら3千万はくだらないだろうといわれている。まあ、お金に換えられるものでもないですが。


ジミー・ペイジ。やっぱり衣装が派手過ぎ、ストラップ長過ぎ。


ま、そんなこんなですが、レスポールの生演奏を逃したのは実に悔やまれる。まあ、そんなこともあったのです。(は/114)


晩年のレス・ポール。なんか優しそうで幸せそう。

■JAZZの極北

2015年06月18日 | その他
先日の(か)さんの投稿を見過ごしていた。オーネット・コールマンが亡くなったとは知らなかった。そう・・・、それはなんか感慨深い。この系統は、以前はそれなりによく聴いた。ご冥福を。


オーネット・コールマン


きっとたくさんの人がそうであるように、僕の場合も、フリー・ジャズの入口はジョン・コルトレーンだったけど、結局、コールマンやエリック・ドルフィーやセシル・テイラーとか、ま、アルバート・アイラーやスティーヴ・レイシー、最後はデレク・ベイリーやアンソニー・ブラックストーンとかになっていくわけです(知らない人はごめんなさい)。誰か忘れている気がするけど・・・ま、いいか。
当時は入手困難だったNYの「ファイヴ・スポット」なんかの名演がいまではかなり安く手に入ります。


ジョン・コルトレーン

 
エリック・ドルフィー


ただ、フリージャズというのは、そこまでいくと後がない。最後は精神しか残らないわけです。
聴く方も聴く方で、かなりそういう気分じゃないと聴けたもんじゃない。聴く方にも気持ちの準備が必要なほど、次第に上り詰めていったというか、研ぎすまされていったわけです。
そういう意味では、ま、JAZZの極北(北海道ではありません)でもあるわけですね。
ま、現代音楽ならジョン・ケージとかの活躍した時期と重なるので、「絶対音楽」と併せて、「音楽の極北」の時代だったといえるかもしれません。

そこで、フリーを本来の即興という位置づけに変えて、フリー・インプロヴィゼーションとして演奏を見いだしたのが、たとえば、フリーの延長ならミルフォード・グレイブスとか、もう少し一般的ならキース・ジャレットとかになるということになるだろうか・・・。
プログレッシヴ・ロックなら、キング・クリムゾンとかフランク・ザッパとかがかなりこれをやったし、ロックじゃないけれど、アート・アンサンブル・オブ・シカゴはフランスのブリジット・フォンテーヌとかと組んだりして、なかなかエキサイティングな時代でした。
だから、70年代以降の音楽は、JAZZならフュージョン系(ほとんど聴かなかったけど、いまからおもうと、やっぱりマイスルはすごかった)、現代音楽なら「ミニマルミュージック」、商業音楽なら「アンビエントミュージック」などに活路を見いだしていったわけです。
あれ? 何だっけ・・・?


そう、日本なら、山下洋輔や坂田明や吉沢元治から阿部薫という感じだろうか・・・。日本のフリーはレベルが高かったですね。でも、中村誠一さんなんかは、先日観たときには、もうすでにフリーじゃなかったですが・・・、いまはなかなかね、フリーはね。
まったくのフリーというわけではないけれど、生活向上委員会のライヴもよく行った。西荻の「アケタの店」だ。彼らは通称、生向委(せいこうい)と呼ばれていた。
最近は若い人だとおもうけど、それが新鮮らしく、コマーシャルなんかでも、よく○○向上委員会などというフレーズを耳にするけど、あれ、全部、生向委から取っているとしかおもえない。
80年代初頭の頃は題名のない音楽会に出たり、タモリと競演したりして、結構派手にやっていたけど、リーダーの梅津和時さんは、その後、忌野清志郎と一緒にやっていて、最後は棺も担いでいたな。
だんだん分散していった感じ。変態七拍子とか、また復活してほしいバンドのひとつだけど。


孤高の若き天才、阿部薫


生向委のファーストアルバム。そもそもふざけてる。


ま、ジャズにハマる人には大きく分けて二種類いて、一方は、女性ヴォーカルとか、スウィングやビ・バップ系からクールくらいまでの往年のジャズワールドの好きな人。もう一方は、その後のフリージャズに入っていく人。あまちゃんの音楽をやった大友良英なんかも、ノイズをやる前は、たぶんその口だったとおもう。
前者は、いつまでもジャズのファンであることが多いけれど、後者は、いまはあまりジャズを聴いていないという人が多い。
そう、フリーに入る人は、結局、燃え尽きてしまうわけです。

で、結局はそれをアカデミックに昇華していって現代音楽に狩猟するか、一方で、それらのルーツになっている民族音楽とかを聴く時間が多くなったり、それがこうじて、Gamelanなんかやる粋狂な人が世の中にはいるわけです。
ま、だいたいそんなところですが。

でも、フリーを通ったかどうかは大きい経験値ですね。今日帰ったらたまには聴いてみよう。きっとやっぱりいいね!と言う気がする。(は/113)

■I shall return.

2015年06月17日 | 昭和
京都から大津に向かうタクシーのなかから、ふと覗くと、こんな店があった。
「アイ シャル リターン」、京都で、しかも中華料理なのに、なぜ?・・・不思議。はたして味は?




I shall return.といえば、ダグラス・マッカーサーが、フィリピン戦から一時オーストラリアに撤退した際に発した言葉といわれている有名な言だね。
今年は戦後70年ということで、NHKなんかでもいろいろ特集しているし、本もさまざま出版されていて、広島なんかでもいろいろ企画が広がっている。
ついでに、僕もまあ、いろいろ昭和史を改めて何冊か当たってはみたりしたので、この話は当然出てくる。
でも、当時の日本人がそれを知っていたかどうか、むしろ、アメリカ人に伝えられた名言だったろう。
その頃の日本はなんといっても連戦連勝の破竹の勢い。米軍としては、いくら大統領命令といえど、マッカーサー自身は、数万人の同胞を見捨てたとして、かなり後味の悪い後退になったはずであるが、その後、実際復帰したわけだから、いまに伝えられているんだろうか。史実はよくわからない。




とかく、なんでもそうだけど、通史というのは、なんか足りない。ステレオタイプ化された話が多いし、実感がない。
ダランのお父さんや杉浦先生たちの年代なら、昭和はほぼ全部リアルタイムの体験だろうけれど、戦争を知らない子供たちだった我々のような者にとって、「昭和」という時代のことは、ほぼ学校でも教わってこないので、実際、自分たちが生きた半分の昭和しかしらないのだ。
だから、いまの日本人は、中国や韓国がなんて言ってきてもピンと来ない人の方が多いくらいだし、逆に彼らは徹底的な戦後史教育で反日洗脳されていて、それが常識のなかで浸透している。
ま、何事も、倫理や善悪、常識とか当り前と思い込んでいるものというのは、それを疑わない限り、客観視できないものだ。それは我々だって同じこと。

でも、たとえ書物でも、当時のアメリカの思惑や日本の事情が少しづつわかってくると、いままでおもっていた以上に、ちょっとした偶然や隠れた意図で昭和史は推移していったことだけはわかる。そこには敬意もあれば失意もある。勘違いも思い込みもある。
だから、もしかしたら誰かのちょっとした行き違いで、日本だって共産国になっていた可能性だって普通にある。そう考えると、いまの日本はその政治的最善手を取ってきたかどうかもわからないし、このままでいい国だとは誰が言えるだろうか。


話は飛ぶけれど、そういえばシュワちゃんも映画「ターミネーター」のなかで、I'll be Back.という名セリフが流行ったことがあったね。
アメリカ人というのは、一度危機に落ち入って、その後成功するというパターンが好きなんだろうか。何事も、ヒーローというのは、一度挫折して、そこから復活するのが感情移入の基本かもしれない。アメリカの場合、ワヤンと一緒とはいわないけど、最後は必ずヒーローが勝つのだ。




で、このI shall return.とI'll be Back.は一見似ているけれど、微妙な背後関係とかニュアンスはどう違うんだろう・・・。日本語にしたら大差ない気がするけど、語感からいうと、shallの方が少し堅いというか、have toが入っている感じがするかな・・・。
だとすると、シュワちゃんの方は、willだから自分の意志を貫く決意として表明したのに対し、マッカーサーはもっと背負っているものが大きいというか、どうしてもそうしなければならない責任のようなものを表しているということだろうか。
要は、個人的決意と集団的責任ということ?・・・どうかなぁ。でも、状況はそうだね。
じゃ、朝、家を出るときに、"I shall return."と言ったら、かみさんはどんな反応をするだろう。出張なら、"I'll be Back."でもいいか・・・? いずれにしても怒られそうだけど、ま、今度実験してみよう。


そんなこんな詰まらないことを考えなていたら、初の滋賀県に突入したのでした。山間が開け、琵琶湖が見えてくると随分空気が違う気がする。
そのうち、念願の三井寺や近江神宮や比叡山とか、白鬚神社や彦根とか、樂美術館とかも行ってみようか、どうしようか。




しかし、なぜ、あの中華は、「アイ シャル リターン」なのだろう・・・?
結局、その謎は解けないままだ。

いずれにしても、70年前、マッカーサーは約束通り帰って来た。そして日本は無条件降伏したのだ。
そうそう、僕は、大学生の頃「ポツダム宣言」は読みましたよ、一応ね。
ほとんど覚えてないけど・・・ま、そんなもんです。(は/112)

■祇園と美人茶屋

2015年06月16日 | 旅のおはなし
で、まあ、日本の料理や文化といえば、ひとつは京都。というわけではないけれど、ちょうど、5月末の暑~い日、京都と大津に行った。
京都は約一年ぶりだろうか・・・、大津はなんと初めて(サービスエリアは行ったけど泊まったことはない)。初滋賀県である。これでまだ足を踏み入れていない県は、徳島と高知と熊本と鹿児島の4県になった。最後はどこだろう。

京都は祇園に用があって行ったけど、どんなに暑くても、水が流れていたり、樹木があると気持ちがいい。古い町並みは狭い敷地にうまくできている。周辺は外国人だらけ。さすが京都というか、白川沿いの風情ある町は人気がある。


とうとうと流れる白川沿いには、いまでは高級なレストランが並ぶ。



 




祇園では猫までだるそうに寝そべっていたけど、観光客はおかまいなし。猫はなすすべなし。


祇園とは、祇園祭りの祭主である八坂神社がかつては祇園社という名称であったことから来ていると聞いた。ただし、有名な山鉾は町衆がやるので、厳密には別なんだそうだ。ダランは何度か行ったらしいけど、僕はまだ観ていない。今年も観れそうにない。
でも、高山や九州の日田の祇園山鉾は観た。全部ルーツは一緒だし、とくに日田の山車は必見である。いずれも夏越しの儀礼の一種である。この山車や夏越しについては長くなるのでまた今度。

ともあれ、そう、祇園は祇園精舎の祇園である。祇園精舎は仏陀が説法した北インドの僧院、平家物語の一節は有名なので、みんな子供の頃暗記させられたとおもう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す、おごれるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、たけきものも遂には滅びね、ひとへに風の前の塵に同じ・・・というあれ。教訓だね。

とはいうものの、祇園は一転して、元々は花街、東西は八坂神社から鴨川沿いの南座までのエリアから南北に行った辺り一帯。茶屋と料亭もあるけれど、花街だから置屋もあるし、色街でもある。だいたい歌舞伎小屋がある辺りは、江戸なら悪所、昔からそういう場所なのだ。
そんなことも時代とともに変遷し、外国人向けの店を見つけた。名前もすごい。「美人茶屋」。
看板も全部英語で書かれていて、Welcom to Kyabakura / Charg System / Vistor \9,000(60min) / Estention Charge 30min \4,000
さらに看板には、BEAUTIFUL LADIES HOSTESS LOUNGE / SAMURAI GEISYA NINJYA FUJIYAMA SAKEのベタな文字が並ぶ・・・。いまどきこんなの、とおもうけど、なかなかシャープにデザインされてもいる。その辺はさずが京都だ。






で、夕方は、鴨川沿いと先斗町を久々に歩いてみたけど、すでに鴨川沿いに張り出した川床には、たくさんの人がビールなんか飲んでいて、気持ち良さそうだ。やっぱり水があるのはいい。
そうこうしているうちに、三条大橋に出た。そうだ、ここが東海道五十三次の終着点。前の日は、ちょうどその一つ前の宿、例の大津の宿だった。大津絵は売ってませんでしたが。
最後は木屋町通のおばんざいやさんで夕食にしてみました。水茄子やお豆腐の料理が涼やかだった。ホントに食には四季が大切ですね。そうやって、おばんざいやはほぼだいたい美味しいのです。
夕方の打ち水とか、鴨川の夕涼みとか、ま、夏の京都は暑いけど、それはそれでいろいろ納涼には文化が生きています。
これからまた京都通いをしなくては。(は/111)




三条大橋。これをともかくまっすぐ行けば東京に着くわけだ。

■篤蔵とエスコフィエ

2015年06月15日 | 
昨日、TBSの「天皇の料理番」という番組を観ていたら、主人公の秋山篤蔵が、なんとパリのリッツで働いていて、エスコフィエがグランシェフだった。

「天皇の料理番」は高校生の頃、堺正章主演でドラマ化されたことがった。受験勉強(あまりしなかったけど)の合間に観たりしていたが、ま、そのリメイクということらしいのと、主題歌が威風堂々だったので観る気になった。
当時の放映は半年クールだった気がする。TVドラマも子供の頃は大河ドラマのように1年という単位が多かったが、それがだんだん短くなって、いまでは3ヶ月、といっても前後は特番なので、だいたい10回程度の放映スケジュールが定番になっている。なので、気がつくと終わっていた、なんとこともよくある。
視聴者が飽きやすいのと、スポンサーがあまりバクチをしなくなったためだろうか・・・。その分、高い視聴率を取った番組は、その後、セカンドシーズンやサードシーズンができて、飽きられるまでつづく。これは海外の手法だろうか、「24」や最近もやっていた「ダウントン・アビー」などもその口だ。
関係ないけど、それに比べたら韓流はすごいね。

ともあれ、このお話の主人公、秋山篤蔵は実在の人物である。もちろんフィクションや演出はあるだろうけれど、実話というのは説得力がある。実際にパリにも行ったし、日本にフランス料理を広めた人物でもある。
その篤蔵が最後に師事したのが、オーギュスト・エスコフィエだったのだ。
エスコフィエは、セザール・リッツとともにフランス料理の近代化とホテルのレストランやサービスやオペレーション・システムというものを確立した人物である。
なぜ、そんなことを知っているかというと、仕事の関係で、単純にいろいろホテル史をかじったからだけど、まあ、まず基本のひとつ。おそらくホテルマンで彼の名前を知らない人はいないだろう。
簡単にいうなら、近代のホテルというのは、欧米の共和制民主化によって生まれた都市の社交場兼迎賓館というべき場所。フランスなんかでは、もう王侯貴族はいないわけだから、資本家と裕福な市民が、ルイ王朝の様式や贅を模倣してつくったというべきかもしれない。
一般にそれは「グランドホテル」というスタイルを差し、世界中に波及した。日本にもそういう名前、結構あるね。ちょっとリアリティないけど。
そう、だから、レストランとか高級ホテルというのは、フランス革命以降、職にあぶれたシェフや執事たちの働き場でもあったのだ。

 
セザール・リッツとオーギュスト・エスコフィエ


そこに革命的成果を出したのが、リッツとエスコフィエのコンビである。
リッツは、スイスのあまり裕福ではない家の10人以上いる兄弟の末っ子として生まれた。当日の末っ子というのは、遺産相続なんて期待できない。もう勝手にどこにでも行け、という扱いである。
だから、彼は靴磨きや売春宿なんかでも働いたし、ヨーロッパ各地をまわって、手当たり次第に修行したという。才覚のある人というのは、そういうのを全部無駄にしない。人は何を喜び、何を求めるのか・・・、きっとそういう時代に学んだのだ。
とくに、南仏で伝染病が流行るとホテルというものは経営がおかしくなるという経験をして以降、ともかく衛生面を徹底的にする方法をつくりだした。これがよかったらしい。ヨーロッパといえども、当時は衛生的ではなかったということを物語っている。ホテルは安心できる場所でなければならないのだ。

で、ま、エスコフィエと運命的な出会いをしてからは、さまざまなホテルの近代化を成し遂げて行く。
たとえば、浴室の設置(当時、風呂は部屋にはなかったのだ)、専用電話の設置(最新鋭の装置ということ)、カスタムメイドのデザイン(インテリアや家具だけでなく、コースターにまでロゴを入れるのはこのときから)、ダイレクトメールや顧客管理システム(だから上客は名前で呼ばれる)、販促イベントの実施(ホテルイベントの原型)など・・・、で、あとは有名人の宿泊強化。
パリのリッツには、ココシャネルが住んでいたし、ヘミングウェイやプルースト、サルトルやチャップリンも常連だったし、近年では、ダイアナ妃が最後に食事したのもリッツだった。
映画なら、ヘップバーンの「昼下がりの情事」やショーン・コネリーの「ロシアより愛をこめて」などで記憶している人も多い。以来、誰が泊まったかはホテルの大切な物語になった。
いま、常識的にいわれている「お客様は常に正しい」とか「私たちはお客様に満足を売っている」などのホテルマンの常套句は、彼によって生まれた概念なのである。全部19世紀後半の話である。
ま、帝国ホテルとか、そういう種類の一流と呼ばれたいホテルが目指すある種のひな形なのだ。
ちなみに、ヌサドゥワにあるリッツカールトンは、彼らとは関係ないアメリカ企業ですが。

一方、エスコフィエもいろんなことを近代化した。
たとえば、コース料理の創出。
当時のレストランというのは、一度に全部出してしまう形式で、これではだんだん冷めてしまって味がキープできないし、順番通りワインを楽しむこともままならなければ、サプライズもやりにくい。
日本でも、茶の湯の懐石が、スペースもなかったということもあるだろうけれど、暖かいものは暖かいうちに、ということで、順番に出す方法を生み出したのと似ている。それまではだいたいが本膳料理。つまり、銘々膳に一挙に食事を並べる方式だ。いまでも温泉旅館や地方の宴会などではこれが主流だね。
他にも、ホテル内の料理人を部門化したことなどが有名である。つまり、このときにパティシエとかパン職人とかソムリエとか、いろいろ分化専門化したのである。
これは、ホテルとしては実に効率的なのだ。たしかに縦割主義や癒着等の功罪はあるにしても、モチベーションや専門性は高まるであろうし、管理も統一できるというものだ。
そして何よりの功績は、料理のレシピ本「料理の手引き」という本をまとめたことである。約5,000種類のフランス料理のレシピが入っているという。
1903年に出版されているので、篤蔵がパリに行った頃にはすでに出ていた、ということになる。日本で手に入ればねえ・・・、などとかみさんと話しながら観ていた。

ただし、このふたり、必ずしも良い人だったかどうかはわからない。山っけもあるし、投資家とのやり取りの記録を読むと、苦労人でもあったかもしれないけれど、そののし上がり方は十分商売人でもあった。
「真心」が通用するかどうかはわからない。



カトリーヌ・ド・メディチの肖像

フランス料理ももともとはイタリアからやってきたものである。メディチ家のカトリーヌ・ド・メディチがフランス王アンリ二世と結婚したときに、スプーンやフォークやマナーという概念、ついでにアイスクリームなんかを持ち込んだといわれている。
以降、宮廷を中心として発達したフランス料理は「オートキュイジーヌ」と呼ばれ、ヨーロッパ各地の晩餐料理になっていった。いわゆる正式な高級料理という意味だ。
それを改良、発展させ、ホテル・レストランとしての様式を確立したのが、エスコフィエであったのだ。
だから、篤蔵が行った頃のエスコフィエといえば、天下一のシェフという地位にいたわけだ。
で、それが長らく料理の王道として発達していったが、それから半世紀ほど経って流行り始めた「ヌーヴェル・キュイジーヌ」(新しい料理)は、皮肉にも、エスコフィエのつくりだしたものへのアンチから生まれたのである。
もうゴテゴテの料理や皿は出さない、ときに絵画のように美しく、素材重視のスモール・ポーションがいい、というわけなのだ。これが世界にウケた。
いまではさらにそれが発展して、スペインのエル・ブジや各地のアラン・デュカスの店やNYのブーレやロブションなど先端的料理になっていったけれど、そこに絶対的影響を与えたのが、実は日本料理なのであった。彼らは毎年日本に来ている。


エル・ブジの厨房

だからいまのフランス料理は、日本料理なしでは語れないし、フランスなどから多くの料理人が日本に勉強に来ているのだ。ShoyuやShitakeやKombu、UMAMIを知らない料理人はいない。
日本料理はいまでは世界遺産。巡り巡って、そんな時代になったのだ。

エスコフィエや篤蔵が生きていたら、どうおもうだろう・・・?(は/110)


秋山篤蔵

■有機の札幌

2015年06月08日 | 北海道・広島
今回は、かみさんが一緒だったので、準備の前日、主催者が気を利かせて「粋ラボ」というオーガニック居酒屋に連れて行ってくれた。
わかっている店で、ビーガンやかみさんのようなベジタリアンでも食べられるメニューが豊富にある。しかも、ほとんど地場産の有機野菜類。そうね、北海道こそ、地場産がおいしい。食物に関しては、日本も今後の課題が多い。少し真剣に考えなくてはね。


酵素玄米の太巻き。酵素玄米というのはかなり身体にはいいらしい。写真がよくないのが残念だけど。


アボガドの味噌漬け。予想外に美味だった。
そもそも、こういう店が居酒屋であるところがいい。東京にもないものだろうか・・・とおもう。



別の日のランチは、また、イタリアンのシェフが特別メニューをつくってくれた。トマトソースと野菜だけのパスタ。こういうアレンジができる店が東京なんかでも案外少ないのだ。簡単なのにね。







最終日の帰る前、友人のやっている養蜂とハーブの畑に見学に行ってみた。
この友人は、もともとは東京の建築の友人だったけど、奮起して、札幌近郊の石狩市に移住して、いまでは立派な有機農業、ハーブと養蜂の経営者だ。
ハーブはもちろんだけど、養蜂でも一切薬品は使っていない。実はそういう養蜂業者は彼らだけだそうだ。純天然の交じりっけなし。蜜の味は花の味だ。だから、方々から講師を頼まれたり、弟子入りしている人がいたり、忙しそう。
販売も、卸はほとんどしない。オーガニックマーケットやネット販売だけで手一杯だそうだ。
蜜が詰まると2.5kgにもなる巣箱を片手で支えて作業するため、親指の付け根が太くなったといって見せてくれたけど、ホント、その通り。
こういう自然とともに生きるというようなことは、そう簡単にできるものではない。とくによそ者はたいへん。覚悟も粘りも必要だ。
でも、嘘や虚勢のない素晴らしいライフスタイル。次第に友人のネットワークも増えていき、楽しそうだし、流れている時間が違う気がしてくる。文字通り、土とともに生きている、という感じ。


かつては、東京で、某有名建築家に弟子入りした身ながら、いまでは自然と健康を守る派の急先鋒だ。


巣箱は24基あるらしい。これで毎年600kgの蜂蜜が採れるそうだ。

 
ハーブいろいろ。なんとなく無造作に植えられているのがいい。ま、ハーブももともと雑草だしね。


これ、名前は忘れたけれど、育ったものは、アイヌではお茶にするらしい。文化は深遠なり。


その友人が、オーガニックつながりで、近所のショコラ屋に連れて行ってくれた。
この店、昼の3時から7時までの営業らしいが、満席だった。実は、店主の女性、アジアで唯一人のフランス政府公認のカカオ鑑定士。世界中から鑑定依頼があるらしく、午前中はそれをやって、午後からココアを振る舞う店をやっているということ。
昔、三鷹に住んでいたとかで、随分話しが弾んだけど、おとぎ話で出てきそうなつくりの店にチョコレートとジブリの音楽だったせいか、実になんとも奇妙な時空間。不思議な人だった。



ともあれ、ま、有機をやるにはいまでも勇気がいる。北海道にはそういう人が結構いるのだ。(は/109)


おまけの変なもの。
何度も札幌には行っているけれど、ときたま変なものを見つけたり、知らなかったものに出会ったりする。広島だって神戸だって、どこに行ってもご当地ものというのはあるものだ。

最初は、宿泊したホテルの朝食にあったもの。ラーメンサラダと北海道の天然水。
ラーメンサラダとは、いまでは北海道に定着しているけれど、実はこのホテルが発祥といわれている。サラダと冷やし中華を掛け合わせたような感じ?・・・夏にもラーメンを食べたいという人のために開発されたらしい。
それにしても、この水。全部飲んでみたけれど、違いがよくわからなかった(もちろん全部美味しかったですが)。
日本は山があれば湧き水があったりするけれど、濾過は同じだろうから、結局は、ミネラルの違い、ということになるだろうか・・・?
きっと、山の数だけ水がある。


朝食にあった元祖ラーメンサラダ。本当はもっと大きなサイズだけど、ま、朝食なので。

 
水、いろいろ。摩周湖の水なんて、名前だけで神秘的だ。


あと、これは駅にあったもの。僕にはよく理解できないけれど、美容にいいらしい土産用マスク。ちょっと怖いけど・・・これってどうなの?