明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(7)斎藤忠「日本古代史の謎」を読む(その2)

2019-07-08 22:12:54 | 歴史・旅行
8、倭国の全体像
後漢書には、倭国のこと朝鮮半島から日本列島にまたがる海峡国家」である、と認識されている。その中で「委奴国は極南界にあり」と書かれてあるので、委奴国の位置は対馬・壱岐を含む北九州博多沿岸の「何処か」ということで良いだろう。倭国全体で言うならば、南の果てである。三国志魏誌倭人伝に、朝鮮半島の狗邪韓国が倭国の30ヶ国の一つに挙げられているのは、この頃の倭国の全体像を考えるにあたって重要な意味を持つ記事である。前漢代の「山海経」には、「蓋国は鋸燕の南、倭の北にある」と書いてあるという。紀元前には、倭は朝鮮半島の南部全体を支配している部族集団のようだ。その後、韓民族の南下によって新たに高句麗や百済・新羅などが勢力を増して来て、倭地を南に押しやったというのが「歴史のあらまし」である。つまり倭国の起源は朝鮮半島にあって、海を渡って日本北部をも支配下に置くようになった部族であると言える。ちなみに九州の南半分を支配していたであろう「中国の呉地方からの部族」とは異なる集団であると私は思う。後からニニギノミコト等の天孫族が天下ってくる場所は、既に先住部族の支配が及んでいる地域を避けて、「更に南方へと下った」大分宇佐地方から筑後川・阿蘇一帯・有明海沿岸部の可能性が高いのではないか。もし無人の地に住み着いたのであれば、何も陸地の奥深く入り込んで住み着く必要は全然ないからだ。天孫族は後発民族だろう。あるいは日本列島への移住は数次にわたって行われたのかも知れない。この当時に志賀島の金印を貰った委奴国と、新たに日本にやってきた天孫族は別の王統であり、更に言うならば熊本八代地方を本拠とする別の部族集団があって、いくつかのグループに分かれていたと思われる。どちらにしても、委奴国を中心とした倭国は「半島を起源とした部族集団」であり、中国王朝に朝鮮半島の軍事支配権を求めて朝貢を続けていた、というのが実態のようで、その時から倭国の眼は「半島に注がれていた」のである。この体制は7世紀の白村江の戦いに敗れるまで続いており、倭国は半島の支配に「最後までこだわった国」だった。というか、倭という「一部族」の支配地がもともとは朝鮮半島だったわけで、そこが近畿大和王朝と決定的に違うところである。日本書紀は朝鮮起源の九州王統と異なる日本独自の部族の歴史書だから、九州王統を倒して「日本王統が天下を取った」と書けば問題がなかったのに、天皇の系譜は「始祖以来連綿と続く皇統不変の論理」だから、九州王統を認めることが出来ず、どうしても歴史の実態と違う部分が出てくると言うのが本当のところだと思う。これが古代史の謎を作り出しているのは間違いがない。だが日本書紀が何から何まで嘘をついているというのは「勘ぐり過ぎ」で、記録のしっかりしていない部分があっても「嘘を創作して物語を作っている」わけではないと私は思う。わからない処はわからないと書き、知らないことは「書いていない」とも言えるのである。中国の史書に出てくる倭国の記述などを参考にしている部分もあるが、「卑弥呼の事や倭の五王」など書こうと思えばいくらでも書けるのに書いていないということは、自国(近畿大和政権)の歴史がある程度伝わっていて、その中で書紀編纂役人が「何とか理屈に合わせる作業」をした結果日本書紀が出来上がったのだとも言える。私の一番興味がある点は、日本建国時における「天智天皇と天武天皇との役割の解明」なのだ。そして文武天皇から聖武天皇・孝謙(称徳)天皇へと続く奈良時代の「異質さ」を味わうこと、これに尽きる。そのために奈良に引っ越そうというのだから、余程の好き者ではある。

9、磐井の乱
日本書紀継体記によれば、緊迫した半島情勢を挽回すべく北九州から半島に向かって6万を超える大軍が集結していた。その中には関東の大王である毛野臣(栃木と群馬を支配する豪族)麾下の主力部隊も入っていて、列島総動員がかけられていた。ところが近畿政権の継体天皇は「筑紫の君磐井が三韓の貢物を掠め取って」いて、この時も「大軍の渡海を遮る」などの謀反を起こしたため誅戮したとある。が、これは事実と反するようだ。第一に、磐井が謀反を起こしたのであれば物部の麁鹿火軍だけが鎮圧に向かうのではなく、他の列島総動員軍も近くにいるわけだから一緒に戦って磐井を血祭りにあげれば済むのではないか。むしろ大軍が集結している最中に謀反するというのは「余りにも無謀」である。もし磐井側が謀反するのであれば、継体天皇側の軍が九州に入れないよう海路を断つのが「常識」ではないか。実際は物部麁鹿火の軍が既に博多に入っていて、磐井側のスキをついたような形になっている。継体天皇が物部麁鹿火に「長門以西を取れ」と言ったというのも、謀反を鎮圧した褒美として考えているのであれば「少しやり過ぎ」ではないだろうか。そして磐井を斬った物部麁鹿火軍がその結果得たものが「糟屋の宮家だけ」というのには、驚くと共に拍子抜けしてしまう。ここは単に継体天皇側のクーデターが一時的に成功したとしても、大勢に大きく影響したとは見えないのである。実際には、その後も九州王朝が継続していて、6世紀末には多利思北孤が出て有名な「日出ずる国の天子云々」の国書を隋に送るのである。歴史の流れを見ればこの時の九州王朝は列島の豪族に総動員令をかけていたが、戦争の負担が余りにも大きくて皆んなの賛同を得られず、無理やり号令を掛けていたために内心では反発を受けていたのではないか、と考えるのが妥当だろう。だから継体天皇側がやむを得ずクーデターを起こしたが「他の豪族達は黙認していた」というのが真相ではないかと私は思う。それで磐井が倒されたのを機に九州王朝も政策を転換し、力づくの半島経営を少し和らげる方向で政策変更したのではないだろうか。あるいは一時的に継体天皇が九州を乗っ取ったが、クーデター軍は残存勢力に討伐されて逆に敗退し、その後勢力を立て直した九州王朝側が近畿を制圧して新しく支配監督官として「蘇我氏を送り込んだ」、という展開も魅力ある説だ。つまり大和政権は武烈天皇まで続いていたが子供がなくて皇統が絶え、一時的に北陸から野望を抱えた継体天皇が簒奪して政権を握ったが、再び争いの末に「欽明天皇」が王座につき、監督官の蘇我氏とのコンビに代わってようやく安定した、と見るのである。百済の歴史書には531年に「日本天皇・太子・皇子が一度に崩御した」とあるが、斎藤忠は九州王朝の磐井ファミリーと考えているようだ。だが、私はここでは少し妄想を膨らまして、継体天皇と安閑・宣化の「継体ファミリーの敗死」と考えたい。つまり日本書紀の記述は男系不変の皇統を建前としているために、安閑と宣化を生きていたことにして、若年だった欽明天皇につなげたのだろう。長男次男が恐ろしく短命な政権で、末男の欽明天皇が即位したという理由が不明のままである。継体も謎の天皇だが、欽明も謎だらけの天皇なのだ。欽明天皇が宣化天皇の娘を3人娶っているのは自身の継体天皇との親子関係を疑わせるに充分であろう。そして無名の蘇我氏の娘も2人娶っている。歴史の真実は日本書紀には書いていないが、「このへんで継体天皇系の血統は絶えた」と私は見ている。その証拠に、急に蘇我氏が台頭してきた、との印象が強いのである。

10、隋書たい国伝と多利思北孤
隋書東夷伝には607年の訪日で「倭王の多利思北孤」に会い、その後宮には600〜700人の女がいたと書いてある。これは隋使裴世清が実際に見聞きした情報だから間違いない。また国内の地理に「阿蘇山についての記述」が出てくるので、多利思北孤がいる場所は九州であることも間違いないだろう。他にも「耶馬堆」という言葉が出てくるそうだから、委奴国から邪馬台国を経て俀国に到る北九州の歴代王朝が現在の多利思北孤王朝であることは、裴世清の記録を見ることでハッキリしたと言える。日本書紀の編纂者はこの裴世清の来日記録を見て、自国の中国外交記録と照らし合わせたが合致する記録がなく、仕方なく唐の時代の小野妹子の遣唐使の記録を当てはめたものと思われる。当然、618年以降の話なのだから、色々齟齬が出てくるのは止むを得ない。日本書紀の編纂者も半信半疑だったのだが、それしかなかったので「已む無く当て嵌めた」のだろう。あるいは九州王朝の出来事だと言うことは分かっていたのだが、それを全部「近畿王朝の事」として記録を改竄するのが日本書紀の役目だとすれば、綻びが出ていても仕方がなかった、とも言える。古事記が推古女帝で終わっていることを考えれば、天武天皇は最初、近畿天皇家の歴史を書こうと思ったのではないだろうか。例えば日本史には「ベトナムの歴史」が出てこないように、元々「全く別の国である九州王朝の歴史」は、日本書紀編纂者の頭には全くなかったのかも知れない。あるいは、日本には元から「近畿天皇家がずっと続いて来た」と信じていた、ということもあり得る。私はどうしても日本書紀の編纂者が「悪意のある嘘つき集団」であったとは思えないのだ。これは「古代人は、現代人のような無限の想像力は無く、全くのデタラメは思いつかない」という私個人の所見から導き出した結論である。言わば「カン」である。日本書紀編纂者達は中国「隋書」の記述を見て、裴世清と言う人が来て阿蘇山があるとか書いているのだが、我々の記録には無いよな、どうする?、と悩んだと信じたい。そうでなければ、適当に嘘をついて辻褄を合わせることもできた筈である。それをしなかったのは、出来なかったと言うよりも「彼らが素直に悩んでいた」と取るのがベターだと思う。私は、苦心惨憺しながら書紀を仕上げていく編纂者達の大変な苦労が、何となく分かるような気がした。これも古代人と心が通じ合えたと思える瞬間である。

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