明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

火曜日は文化の日:京都人の言うことは逆にとれ!

2021-01-26 19:41:03 | 今日の話題

これは標準語で「こんな飯時に来やがって、どういうつもりや、さっさと帰らんかい!」という意味を京都弁で言ったら、という笑い話である。要するに京都人独特の「言いたいことを婉曲に」というか、「本心を隠して、真逆の『うわべ』を言う」癖である。これを分析することで、「原日本人社会の対人関係」を根本を解き明かしていきたいと思います。

なお、この解明は、私の独断と偏見による勝手なサンプリングと、一部空想を交えた「〜であろう」という決めつけの結果であることをお断りしておきます。このブログを読まれる方の中には京都生まれ京都育ちの「根っからの京都人」がいらっしゃるやも知れず、無用の軋轢を生むリスクは避けようと思っていますので、一部ご不快な表現がありましたら予めお詫び申し上げておきたいと存じます。なお、それととともにブログの趣旨もご理解頂けますよう重ねてお願い申し上げます。ちなみにこの記事は科学的分析を行ったものと言うよりは、むしろ「軽めのエンタテイメント」だとお考えいただけると嬉しいです。

さあ言い訳はこれくらいにして、とっとと本題に戻りましょう。テーマは京都人の表現の「裏と表」を解明する、です。

1、「お昼食べていかはったら?」
京都人にこう言われたら、それは「そろそろ帰って欲しい」という意味だそうだ。それに対してお客の側は通常2通りの反応がある。a. 字義通りに捉えて「では、御馳走になります〜」と食べていく場合と、b. これは「早く帰れ」という意味だなと捉えて「あら、もうそんな時間でしたか、そろそろ御暇しまひょ」と帰る場合、の2通りである。京都人の求めるのは勿論後者であるのは当然だが、実際には「 a 」のような客は「京都以外の地域の人」に集中しているであろう。思うに、京都は平安時代以来「1000年以上」も都であった。これによって京都人は「都人」としての矜持が定着し、他県の人を「下」に見る習慣が身に付いたものと思われる。京都人の生活レベルはそれこそピンからキリまで雑多であるが、それでも一様に「京都人であることの誇り」を持っているのは間違いない。だから相手が同じ京都人であった場合は、これほど裏表のある態度ではなかろうと考えらる。逆に、他県の人に対しては一致団結して「京都人共通の差別意識」が出るのだろうと私は思っている。つまり、人間を「京都とその他」に分ける、というやり方だ。結果、相手が「 a 」だった場合には「やっぱり大阪の人は無粋やなぁ〜」と忍び笑いをする。まあ、言われた地域の人にとっては「いい迷惑」である。

2、相手に悟られたら負け?
では京都人に限らず、本心と違ったことを言う人の「心理」はどうなのかというと、自分が言ったことの「裏を読んで欲しい」という、相手への期待感が特徴だ。口では「ぶぶ漬けでもどうでっしゃろ?」と言っているが、内心では「早く帰ってくれ」と思っている、というのを分かって欲しいのである。つまり「 b 」が正しい対応なのだ。こういう風に、相手に「本心を悟られる」ことを求めているのなら、いっその事最初っから「本音で言えば」いいではないか?、と私なぞは思ってしまう。しかしそれでは「嫌味な人」になってしまうのだ。ここが難しい。表面上はあくまで「お客をもてなす心遣いのある人」を演じたいのだ。だが本心は「帰ってくれないかな」、である。この二律背反を見事にこなす方法が「裏表の使い分け」なのだ。主人側は本心を隠して「おもてなし」の言葉を発するから、本当は違うんだと考えるのは「あくまで客側の勝手な想像」である。徹頭徹尾「おもてなし」を主張しているのに「裏を読んで帰る」から成立する高等技術なのだ。これを「暗黙の了解」という(おおっ)。後から他人が会話内容を検証する場合でも、「 a 」でも「 b 」でも主人側のおもてなし態度は完璧である。どこまで行っても落ち度はない。これが京都人の「安心」なのだ。都人としてのプライドと人の目を極度に気にする性格が相まって、「外面(そとずら)」は常に相手にも自分にも「完璧な人格を求める」のである。京都人はこれら不断の努力を積み重ねることによって、ようやく「心の平安」を得るのだと思う。京都人ってのは実にシンドイ人々だ。それに比べて、試されるのは常に「客の側」である。それが京都という町の「伝統」なのだ!。実に「いけ好かない」人種である。だが、それもこれも一緒になっての「京都の魅力」と言えようか。京都は千年前から「うわべ」で生きている。

3、無用な察し合いを止めるには
本音で語る清々しさを京都人が経験する、ということは「未来永劫」無いかも知れない。また京都人にして見れば、生まれついた時からこういう生活が身に染み付いているので、裏表を日常とすることに「違和感もストレスも」感じないのかも知れない。そういう人種だと言えば、そうとも言える。だが、もしもこの「お互いの腹を探り合う生活に疲れた」と思う人が出てくるとしたら、その時は「こういうやり方」を提案してみたい。それは「自分の予定を先に言っておく」方法である。例えば人の家にお邪魔する時は「11時頃に帰りますが」と断ってから「よろしいですか?」と可否を尋ねるのだ。受け入れる側は「この客は9時に来て11時に帰るのだな」と分かった上で「どうぞお越し下さい」と返事できるのである。もし都合が悪ければ「10時までならお相手出来ますが」とハッキリ言えば良い。何も「12時にはお昼を食べるので、それまでには帰ってくれますか?」という事迄言う必要は無いのだ(当たり前だが)。これはビジネスではそれこそ、日常的に行われている事である。それを家庭生活のレベルまで下げるのだ。そうすれば、痛くもない腹を探られるような不快な感じは払拭されるのではないだろうか。いちいち予定を言うのは違和感があるかも知れないが、これもいずれは「慣れて来て、無意識に出来る」ようになる筈である。人の目を気にしないで生きていくって、日本人には難しいことだろうけど、是非ともトライして貰いたい方法である。日本人は相手に「腹を探られること」が死ぬほど嫌みたいだから。

以上、簡単に京都人の裏表生活を描いてみた。ちょっとした「面白エピソード話」を書くつもりだったが、最後に少し真面目なことを書いてみたくなってしまった(私の悪い癖)。私は人間関係を簡略化する方法として、相手の気持を考えないで「まず自分のやりたいことを全部言う」というのを提案している。何をやりたいか予め明確に表現することは人間関係をよりシンプルにし、勘違いや遠慮や思い込みによるトラブルを避ける「唯一の方法」だと私は信じている。勿論これには「相手も同じようにストレートに物を言う」ことが出来なければ会話は成り立たない。問題は「ぶっちゃけて言う」ことではない。それを聞いた人が相手の気持を考えて「相手に合わせた返事」をするのではなく、「自分の思ったことをそのまま答える」ところにある。

例えば会社の上司に「これを3時までに仕上げてくれ」と書類を渡されたとする。ところがあなたは今、別の仕事で「3時まで埋まっている」としよう。この場合、あなたはどういう風に答えるのがベストだろうか?。これまでの私の主張からもうお分かりのことと思うが、答えは「3時までに出す資料の先約がありますので、両方は出来ません。どちらを作業するか指示願います」と答えるのである。肝心なことは「感情を入れず」に淡々と答えること。つい「困ったなぁ」という雰囲気を出してしまえば、全てはぶち壊しになる。困ったことになっているのは「上司」なのである。では、それに対して上司が何と言うかというと、ズバリ「その先約をしているのは誰なのか?」だろう。依頼者がかち合っていれば「依頼者同士」で話し合うのが当然である。日本では「仕事をする側」に選択の責任を押し付けがちだが、仕事の選択権は「命令者」にあるべきだと私は思う。こういう具合に話が進んでいけば、無駄なストレスも感じずに仕事が出来て、結果「仕事の効率」も上がるというものである。それを「どっちが大事か分かんだろ!」と怒鳴るような上司は、早晩見切りをつけた方が賢明だろう(あまり最近は見なくなったが)。日本人は自身の発言内容に対し、やや責任を取らない傾向がある。言った以上は、キチンと責任を取らなきゃダメなんだ。

前の「ぶぶ漬け」の件で言えば、「お昼どうでっしゃろ」と言った京都人は、例え「さっさと帰って欲しい」と思っていても、相手が「それじゃお言葉に甘えて・・」と言った時は、お昼を提供して笑顔で送り返さねばならない。当然京都人は嫌々「おもてなし」するだろうが、その後に「相手を仲間内で笑う行為」はルール違反である。もし言うことと本音が違っていたら、本音は「永遠に黙っている」覚悟がなければ「出来る大人」にはなれないだろう。SNS では本音で散々誹謗中傷するくせに、面と向かっては「ろくに言いたい事も言えない」人間が多過ぎるというのもこれと関係がある。匿名という垣根に守られているという安心感がそうさせるのだが、子供のうちから本音を言えるように訓練しなければ、結局このような「だらしない大人」になってしまうのである。常に本音で生きていれば、後悔することも少なくなる。

昔、ガンで入院していた父が、夜中に突然「背中をさすってくれ」と言ったことがあった。私は言われるままにしばらくさすっていたが、疲れてきたので思わずやめたら、その時父が「痛みが消えたと思ってやめたのか?」と聞いてきた。私は言葉に詰まったが、「うん」と言うのが精一杯だったのである。その後父は何も言わずに横を向いてしまったが、全て分かっていたんだろうな、と思う。本当は「面倒だからやめちゃった、ごめんなさい」と言うべきだった、と今では思う。謝ってもう一度さすり直せば良かった・・・。今はもう父は亡くなっている。

そう言うことも含めて、全ては「言行一致」の実現にあるのでは無いでしょうか。以上です。


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