私の長年の座右の書である「斎藤忠の本」を10年ぶりくらいに本棚から出した。古代史の原点に立ち返って、もう一度最初から見直すことにしたのだ。今回は読みながらしっかりメモを取って、ちょっと本格的に勉強してみようと思い、その成果を確認の意味でまとめてみることにする。記事はランダムに並んでいるように見えるが、ほぼ本の記述の順番通りである。読み進んでいく中で、「あれ?そんなことがあったのか!」とか、「ふーむ、そういうことだったのね!」いうような新しい事実や気づいていなかった視点にぶつかった時、それをしっかり記憶する助けとして改めて書き出しておいたものである。だから、私にとって既に知っている事実や分かっている説明などは、今回は書かずに省いてある。本には、全ての流れを説明するために「漏れなく書いてある」が、それを知りたいのであれば「是非、この本を買って読む」ことをお勧めしたい。日本の古代史の謎をこれ程「包括的に、明快に且つ論理的に」解き明かした書は、寡聞にして私は他に知らない。それほど素晴らしい書である。とまあ、本の宣伝はこれくらいにして、私の研究の成果を順繰りに書いていくことにする。
1、楽浪海中に倭人あり
1世紀の書「漢書」に、倭の記述がある。漢が設置した4郡とは玄菟郡・臨屯郡・楽浪郡・真番郡の4つだ。楽浪郡の位置は概ね今の平壌辺りにある。漢の4郡は次第に消滅して、後漢の頃には楽浪郡が半島の拠点として存続していた。3世紀の初めに公孫氏が支配を拡げて南に帯方郡を置いたが、238年に魏が公孫氏を滅ぼして朝鮮半島支配の拠点とする。邪馬台国が遣使したのは「その翌年の239年」である。では、「楽浪海」とは何処を示しているのか。Wikipediaによれば、前82年に真番・臨屯が廃止されて臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県を編入、これを嶺東7県として管轄する軍事組織「東部都尉」が置かれた、とある。やはり斎藤忠の書いているように、漢の認識としては「楽浪郡は朝鮮半島全部を支配下に置いていた」と考えて、楽浪海中とは朝鮮半島海中すなわち「朝鮮半島の外海の彼方」という理解が正しいと捉えて間違いはないだろう。つまり漢書は朝鮮半島方面の全体を記述し、粛慎とか濊・貊とかと並んで「海中に倭が存在」していて、それが百余国に分かれて歳時に献見すと書いていることになる。これは「漢の版図が広大である事の証」とも取れて、その意味では、倭の存在はもっと昔から「旧知の事柄」であったようである。以前読んだ山形明郷氏の「卑弥呼の正体」と言う本では、邪馬台国は朝鮮半島にあったとしていて新たな問題を提起している。要は、楽浪郡の位置がハッキリすれば答えは出ると思うのだが、楽浪海中と言っている以上は「その当時の漢にとっては、東の日本海側を示している」と取るのが妥当だと思う。そうなると、漢の見解では「倭は朝鮮半島内には領地を持っていない」とも取れるのだ。この辺りの事情は、日本任那府の存在は時期は早いにしても、倭国と朝鮮との関係はなかったことになる。倭が半島に進出したのは「この後、日本任那府が出来た頃」と考えても良いのかも知れない。3世紀に公孫氏が新たに帯方郡を置いたのだが、この帯方郡については「魏と邪馬台国の絡み」で出てくるはずので、出てきた時にチェックする事にして次に進むことにしたい(以下同様)。
2、倭人の使節は皆大夫を自称していた
大夫のことは後漢書に記されているが、「大夫」とは卿・大夫・士という周の官職制度の1つである。三国志には「古より称していた」とあり、倭国で周の文化が保たれている例をいくつか上げている。例えば周時代によく行われていた占いの「令亀法」や、神社で柏手(かしわ手)と呼ぶ「搏手」などの風習である。これらの例は他の東夷諸国には見られなくて、倭人特有だという。また、倭国の首都は当時は九州にあり、「九州」とは周代における天子の本領=中国全土を表す言葉だという。以上は斎藤忠の書いていることだが、「九州」という呼び方が三国志の頃に既に存在していたかどうかは疑問だ。「九州」という単語が古文書等に出てくるのはもっと後だから、倭人が九州を意識していたとするのは早計ではないだろうか。ちなみに「太宰」とは周の最高執政官を意味する「官職名」であるという。奈良時代に入ると、現地九州地方では「太宰府」と書くが、日本書紀など近畿大和朝廷の文書では「大宰府」の字を使っているようだから、その由来を知らない人間が書いているからではないだろうかという指摘は正しいと思うが、3世紀の倭国についての記述では少々早すぎる気がする。しかし漢書には、孔子が倭人を「周の古法を守り礼節を知る民」と認識していたエピソードが記されているし、倭国が百余国に分かれて平和に成り立っている「封建制」だったと想像されることから、倭国の体制は「周の封建制」を真似たものであるというのは「周の影響」を十分感じさせて説得力がある。或いは、周の封建制が崩壊して群雄割拠の春秋戦国時代を迎え、秦帝国が中国を再統一するまでの混乱の間に「東に逃れた周の遺民」が後に倭国を建国した、という説も充分理解が出来そうである。勿論、倭人の起源は単一ではない。朝鮮半島から流れてきた人も大勢いた筈だし、例えば出雲や越なども大陸からの渡来人の可能性は大である。東北地方ではロシア辺りからの流入も考えられよう。その点では、一つの起源として、熊本八代地方一帯の部族集団が中国の周から来た人々を始祖とする考えも有り得るのじゃないだろうか。倭人の朝貢は本来は熊本・鹿児島から島伝いに台湾経由のルートで行われ、3世紀の遣魏使の朝鮮帯方郡経由のルートとは別だった、とも考えられる。孔子が倭への憧れを語った話からは北の朝鮮半島経由を想像させるが、周代に九州南部の部族が中国南東部と交易していた可能性もありうると思う。琉球の存在は、案外と大きいのかも知れない。とにかく交易をしていたというのだから、生活の中に「各地の物産」が日常的に入り込んでいる状態であり、言葉や漢字も入ってきていよう。我々は弥生時代の文化的レベルを「相当格上げ」する必要がありそうだ。
3、金印は何処の国が貰ったか?
志賀島の金印を与えたのは後漢光武帝である。印面に漢委奴国王印とあるが、これは漢が臣下の委奴国王に与えたものである。しかしこれを「倭国の中の奴国」と読む学者がいるというのは、全く持って理解し難い。もし漢が倭(委)を一つの国と認めていれば、「漢委国王」という印面になるのが当たり前だ。倭国の宗主として認められた「証拠」がそもそも金印なのである。それが「倭の奴国」という表記であれば、倭は「何かの総称」と言うことになって、他にも国が有ることを「漢も奴国も」両方が認めている事になってしまう。これでは「金印を与えた意味が無い」ではないか。国として認めるのは「委奴国のみ」というのが漢の金印の意味である。実際は30国ばかりが使訳(通商)していたそうだから、それを含めて百余国をまとめていたのが委奴国だったのは間違いない。「奴国」という名前が博多湾の国名で残っているという理由だけで「委の奴の国王」と読むのは理屈が通らないのである。では委奴国とは何処なのか?。委奴国の「委」は「ウィ」という音が近いという。「奴」は「ヌ」または「ナ」と読む。だから「ウィヌ国またはウィナ国」だ。委奴国を「伊都国」つまり「イト国」と読んで、代々王が治めていると魏志倭人伝にある伊都国に比定する人がいるが、そう簡単に同じ名前だから同じ国だと言っていいかどうか。魏志倭人伝は光武帝から200年も経っている頃の倭国の状況を書いているのだから、地名や国名が色々と変わっていても別におかしくはない。後漢書の委奴国と魏志倭人伝の伊都国は、私は「違う国」であると思う。倭国の宗主国としては、伊都国は国の規模が小さすぎるのだ。まあ、この件は後で出てくるとして、とにかく1世紀の日本で後漢に朝貢して金印を貰っていた国は、順調に発展して「そのまま後世の倭国の中心に成長した」としても不思議はない。
4、倭国大乱と邪馬台国
後漢書に、桓霊の間に倭国が大いに乱れ互いに争ったが、このあとしばらく収拾がつかず、ようやく卑弥呼を共立して収まった、とある。これは大乱と書いているので単なる内乱ではなく、倭国王の地位を巡る全体的な戦いがあったということだそうだ。足利時代に関東の争いをまとめるために、わざわざ京都から関東公方を送り込んだようなものである。この大乱があったのは、当然であるが光武帝から金印を貰った国を宗主と仰ぐ国々である。とすれば、委奴国が何らかの理由で勢力が弱まり、台頭してきた対立候補とのトラブルが起きたものと推測出来よう。或いは委奴国のリーダーが代替わりして凡庸な王が立ったが、周りの国々からの信頼を得られなかったのかも知れない。または海外との争いごとに端を発しての政策の違いから、倭国のリーダーを変えようと争いが起きたということも有り得る。こういう争いごとが大掛かりな戦争に到る例は、後世の応仁の乱を持ち出すまでもなく「何処でもしょっちゅう」ある。何年も解決の糸口が無いような大乱を相手が倒れるまで戦うというのではなくて、話し合いでまとめるためには「何らかの権威」が必要だろう。つまり戦闘に参加していない第三者の仲介である。このことから想像できることは、邪馬台国は元々「倭国全体の政治に余り関わっていなかった」と言えるのではないか。或いは「卑弥呼はシャーマンとしての能力で有名」だったが、邪馬台国を統治する王ではなかったのかも知れない。形の上では委奴国から邪馬台国へと宗主の座が移ったのように思えるが、漢の見解では「体制は変らずリーダーの交代」程度の認識であったようだ。魏志倭人伝には、末盧國に上陸してから伊都国への道を「叢を分け入り、前人を見ず」というような苦難の陸行の様子を伝えているが、「邪馬台国へ行く道は、相当不便な道だった」ことを示しているのではないだろうか。使者は卑弥呼に会うために行ったのだが、道は整備されてなかった。つまり、邪馬台国は「普段から行き来している国では無い」のである。また、滅多にいかない国だからこそ、普段は行かない末盧國から上陸していったとも考えられる。普段から通商しているのは「委奴国とかの30国ぐらい」であるから、付き合いのなかった邪馬台国へは「道順と行程記事を書いて詳細に説明する」必要があったのだ、とも解釈できるのだ。そもそも倭国が使訳するところ30国とあるのだから、普段から「それぞれの都に行く道路は整備され」ている筈である。もし委奴国へ行くのであれば、別のルートつまり「背振山脈を越えるのではなく船で迂回して」、博多湾岸の何処かに直接上陸したのではなかろうか。九州の倭人集団には北九州の委奴国を宗主とする一連の国々があって、もともと朝鮮半島とも密接なつながりがあって人間の行き来も頻繁にあったのだと思う。所謂、海洋交易国家である。一方、邪馬台国は内陸の国で、委奴国集団からは少し離れた山岳地帯にある国ではないだろうか。邪馬台国の「邪馬」は「山」だという説も、何となく「有り」とも言えそうだ。つまり委奴国からは南に位置していて、山岳地帯を中心とする「邪馬台国集団」が別にあり、両者はある程度の平和な関係を保って九州を二分していた、と考えることも出来る。その中で、シャーマンとしての能力で有名な卑弥呼が、仲裁役として担ぎ出されたのであろう。伊都国には代々王がいるとあり、一大率を置いて諸国を検察せしめて「みんな畏鄲」してたというから、伊都国は軍事拠点としては機能していたと考えられるが、大乱の一方の主役の「委奴国」ではないと思う。一大率は、委奴国を含めた国つまり「女王国以北」を検察するのが目的である、と書いてあるから、伊都国が女王国の「最北端」に位置していると見て間違いはない。とすれば、伊都国より「南側」は元々女王国の勢力範囲ではないだろうか。そう言えば倭の五王の上表文で、東の毛人や西の戎や海北などを征服したことについては大々的に書いているが、「南の蛮族のことは一切書いていない」のがちょっと気になる。南側が海で国がなかったのなら別だが、そうではなかろうと思う。だから南はまだ征服していないか、または征服する必要がなかったかのどちらかではなかろうか。倭とは「何処の領域を指しているか」が大いに気になる。倭国は光武帝の時代から「ずっと委奴国が宗主」の集団という認識であるから、途中で王朝交代があったとは書いていない。委奴国から大倭国となり「たい(にんべんに委)国」と名称は色々変わったが、あくまで北九州から佐賀地方一帯を本拠地とする集団であることは変らないのである。そして邪馬台国は一時的にグループをまとめただけで、台与の後はまた「元の宗主」が返り咲いたと考えたい。徳川幕府を一時的に尾張家の吉宗が継いたようなものである。外交的には、卑弥呼の時代もあくまで「倭国」と呼ばれていた。朝鮮半島では漢族の公孫氏が勢力を伸ばし、204年には楽浪郡の南に帯方郡を設置するまでに版図を拡げたが、228年に公孫淵のクーデターで漢から独立していて、漢とは対立する関係である。このような時に、倭国も大乱に陥ったのである。斎藤忠が言うには、三国志は卑弥呼の遣魏使を238年としていて、一般歴史書の239年とは1年違っているとのこと。238年に魏が司馬懿を送り込んで公孫氏を滅ぼしたが、卑弥呼はこの戦いに「魏側で参陣した」のではないかと彼は言う。親魏倭王の金印が「参戦への感謝・ご褒美」だというのは、なるほどと理解しやすい説明ではないだろうか。何となく、当時の朝鮮を取り巻く政治状況がみえてくる。私は、金印の印面に「邪馬台国王」ではなく「倭王」とある点に注目している。やはり魏の認識では倭国は従来通り「委奴国が最大の勢力」で、その倭のまとめ役を担っていたのが卑弥呼、ということであろう。倭の主役はあくまで委奴国であり、邪馬台国は政治的には、余り関係がなかったのかも知れない。だから歴史の流れから消えてしまった、とも言える。日本人は邪馬台国の痕跡を必死で探しているが、「端役」だからこそ見つからないのだと見るべきだろう。
5、倭王讚と扶桑国
7世紀唐朝の元で姚思廉らが著した「梁書」には、南朝斉の時、日本列島の国「扶桑国の僧、慧深」というものが、倭国以外の国について語ったという。北陸地方の文身国、関東地方の大漢国などがあり、近畿地方には扶桑国があって458年に西域の僧が仏教を教えたとある。6世紀の南斉書「東南夷伝」には、「倭王讚」が東晋に上表して言うには「この扶桑国は、新王が立つ度に倭国に朝貢してくる国」であると紹介した、とある。倭王讚と言えば歴代天皇でいうと、応神・仁徳の頃である。その頃には既に「扶桑国が倭国に朝貢してきて」いたというのは驚きだ。日本書紀だけを金科玉条のごとく取り上げていては、本当の「日本史」は見えてこない。8世紀に遡る豊前の国風土記逸文に、「宮処郡。古、天孫ここより発ち、日向の旧都に天下りしき。蓋し、天照大神の神京なり」とあるそうだ。宮処郡は現在の福岡県京都郡にあたる場所である。この逸文によれば、ニニギノミコトは高天原を出発して「日向」に天下りしたことになる。「日向の旧都」というのが気になるが、これは「元から栄えていた」の意味で、天孫族の支配地ではなかったと素直に解釈しておこう。そもそも新参者のニニギノミコトが降り立った日向というのは現在の宮崎県にある高天原ではなく、「北九州の日向」であると言うのが「日本人の歴史観を大転回させた古田武彦」の説である。それが豊前の国風土記が書いているように「宮処郡が天照大神の高天原=神京」だとすれば、やはり倭国発祥の地は宮処郡だと考えても良いかも知れない。これは倭国が天孫族の後裔だということでもある。天孫族は「日本海にまたがる海洋民族」の一面も持っているから、倭国が朝鮮半島と足繁く交易していることとも符号する。以前、壬申の乱は九州が舞台とする本に書いてあった、熊本八代の「天照大神を祀った伊勢神宮の起源の話」はどうなるかと思うのだが、とりあえず、倭国の起源の話はどうやら九州が舞台であることは間違いが無さそうだ。奈良県葛城地方が高天原の原点だとする鳥越憲三郎の説を読んだような記憶があるが、大勢は「北九州に一貫して王朝があった」ということで決まりであろう。色んな説を読み漁ってくると、ぼんやりとした倭国の像が出来上がってきそうである。その倭国が中国と親書のやり取りをし、朝鮮半島にも進出を図っていたというのが3世紀から4世紀の、大体の東アジア情勢ではないかと思う。古代史の謎は、この倭国が「平城京を建てた勢力とどのように関わるのか」を解き明かすことである。
・・・次回は少し先になりそうですがご期待ください。
1、楽浪海中に倭人あり
1世紀の書「漢書」に、倭の記述がある。漢が設置した4郡とは玄菟郡・臨屯郡・楽浪郡・真番郡の4つだ。楽浪郡の位置は概ね今の平壌辺りにある。漢の4郡は次第に消滅して、後漢の頃には楽浪郡が半島の拠点として存続していた。3世紀の初めに公孫氏が支配を拡げて南に帯方郡を置いたが、238年に魏が公孫氏を滅ぼして朝鮮半島支配の拠点とする。邪馬台国が遣使したのは「その翌年の239年」である。では、「楽浪海」とは何処を示しているのか。Wikipediaによれば、前82年に真番・臨屯が廃止されて臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県を編入、これを嶺東7県として管轄する軍事組織「東部都尉」が置かれた、とある。やはり斎藤忠の書いているように、漢の認識としては「楽浪郡は朝鮮半島全部を支配下に置いていた」と考えて、楽浪海中とは朝鮮半島海中すなわち「朝鮮半島の外海の彼方」という理解が正しいと捉えて間違いはないだろう。つまり漢書は朝鮮半島方面の全体を記述し、粛慎とか濊・貊とかと並んで「海中に倭が存在」していて、それが百余国に分かれて歳時に献見すと書いていることになる。これは「漢の版図が広大である事の証」とも取れて、その意味では、倭の存在はもっと昔から「旧知の事柄」であったようである。以前読んだ山形明郷氏の「卑弥呼の正体」と言う本では、邪馬台国は朝鮮半島にあったとしていて新たな問題を提起している。要は、楽浪郡の位置がハッキリすれば答えは出ると思うのだが、楽浪海中と言っている以上は「その当時の漢にとっては、東の日本海側を示している」と取るのが妥当だと思う。そうなると、漢の見解では「倭は朝鮮半島内には領地を持っていない」とも取れるのだ。この辺りの事情は、日本任那府の存在は時期は早いにしても、倭国と朝鮮との関係はなかったことになる。倭が半島に進出したのは「この後、日本任那府が出来た頃」と考えても良いのかも知れない。3世紀に公孫氏が新たに帯方郡を置いたのだが、この帯方郡については「魏と邪馬台国の絡み」で出てくるはずので、出てきた時にチェックする事にして次に進むことにしたい(以下同様)。
2、倭人の使節は皆大夫を自称していた
大夫のことは後漢書に記されているが、「大夫」とは卿・大夫・士という周の官職制度の1つである。三国志には「古より称していた」とあり、倭国で周の文化が保たれている例をいくつか上げている。例えば周時代によく行われていた占いの「令亀法」や、神社で柏手(かしわ手)と呼ぶ「搏手」などの風習である。これらの例は他の東夷諸国には見られなくて、倭人特有だという。また、倭国の首都は当時は九州にあり、「九州」とは周代における天子の本領=中国全土を表す言葉だという。以上は斎藤忠の書いていることだが、「九州」という呼び方が三国志の頃に既に存在していたかどうかは疑問だ。「九州」という単語が古文書等に出てくるのはもっと後だから、倭人が九州を意識していたとするのは早計ではないだろうか。ちなみに「太宰」とは周の最高執政官を意味する「官職名」であるという。奈良時代に入ると、現地九州地方では「太宰府」と書くが、日本書紀など近畿大和朝廷の文書では「大宰府」の字を使っているようだから、その由来を知らない人間が書いているからではないだろうかという指摘は正しいと思うが、3世紀の倭国についての記述では少々早すぎる気がする。しかし漢書には、孔子が倭人を「周の古法を守り礼節を知る民」と認識していたエピソードが記されているし、倭国が百余国に分かれて平和に成り立っている「封建制」だったと想像されることから、倭国の体制は「周の封建制」を真似たものであるというのは「周の影響」を十分感じさせて説得力がある。或いは、周の封建制が崩壊して群雄割拠の春秋戦国時代を迎え、秦帝国が中国を再統一するまでの混乱の間に「東に逃れた周の遺民」が後に倭国を建国した、という説も充分理解が出来そうである。勿論、倭人の起源は単一ではない。朝鮮半島から流れてきた人も大勢いた筈だし、例えば出雲や越なども大陸からの渡来人の可能性は大である。東北地方ではロシア辺りからの流入も考えられよう。その点では、一つの起源として、熊本八代地方一帯の部族集団が中国の周から来た人々を始祖とする考えも有り得るのじゃないだろうか。倭人の朝貢は本来は熊本・鹿児島から島伝いに台湾経由のルートで行われ、3世紀の遣魏使の朝鮮帯方郡経由のルートとは別だった、とも考えられる。孔子が倭への憧れを語った話からは北の朝鮮半島経由を想像させるが、周代に九州南部の部族が中国南東部と交易していた可能性もありうると思う。琉球の存在は、案外と大きいのかも知れない。とにかく交易をしていたというのだから、生活の中に「各地の物産」が日常的に入り込んでいる状態であり、言葉や漢字も入ってきていよう。我々は弥生時代の文化的レベルを「相当格上げ」する必要がありそうだ。
3、金印は何処の国が貰ったか?
志賀島の金印を与えたのは後漢光武帝である。印面に漢委奴国王印とあるが、これは漢が臣下の委奴国王に与えたものである。しかしこれを「倭国の中の奴国」と読む学者がいるというのは、全く持って理解し難い。もし漢が倭(委)を一つの国と認めていれば、「漢委国王」という印面になるのが当たり前だ。倭国の宗主として認められた「証拠」がそもそも金印なのである。それが「倭の奴国」という表記であれば、倭は「何かの総称」と言うことになって、他にも国が有ることを「漢も奴国も」両方が認めている事になってしまう。これでは「金印を与えた意味が無い」ではないか。国として認めるのは「委奴国のみ」というのが漢の金印の意味である。実際は30国ばかりが使訳(通商)していたそうだから、それを含めて百余国をまとめていたのが委奴国だったのは間違いない。「奴国」という名前が博多湾の国名で残っているという理由だけで「委の奴の国王」と読むのは理屈が通らないのである。では委奴国とは何処なのか?。委奴国の「委」は「ウィ」という音が近いという。「奴」は「ヌ」または「ナ」と読む。だから「ウィヌ国またはウィナ国」だ。委奴国を「伊都国」つまり「イト国」と読んで、代々王が治めていると魏志倭人伝にある伊都国に比定する人がいるが、そう簡単に同じ名前だから同じ国だと言っていいかどうか。魏志倭人伝は光武帝から200年も経っている頃の倭国の状況を書いているのだから、地名や国名が色々と変わっていても別におかしくはない。後漢書の委奴国と魏志倭人伝の伊都国は、私は「違う国」であると思う。倭国の宗主国としては、伊都国は国の規模が小さすぎるのだ。まあ、この件は後で出てくるとして、とにかく1世紀の日本で後漢に朝貢して金印を貰っていた国は、順調に発展して「そのまま後世の倭国の中心に成長した」としても不思議はない。
4、倭国大乱と邪馬台国
後漢書に、桓霊の間に倭国が大いに乱れ互いに争ったが、このあとしばらく収拾がつかず、ようやく卑弥呼を共立して収まった、とある。これは大乱と書いているので単なる内乱ではなく、倭国王の地位を巡る全体的な戦いがあったということだそうだ。足利時代に関東の争いをまとめるために、わざわざ京都から関東公方を送り込んだようなものである。この大乱があったのは、当然であるが光武帝から金印を貰った国を宗主と仰ぐ国々である。とすれば、委奴国が何らかの理由で勢力が弱まり、台頭してきた対立候補とのトラブルが起きたものと推測出来よう。或いは委奴国のリーダーが代替わりして凡庸な王が立ったが、周りの国々からの信頼を得られなかったのかも知れない。または海外との争いごとに端を発しての政策の違いから、倭国のリーダーを変えようと争いが起きたということも有り得る。こういう争いごとが大掛かりな戦争に到る例は、後世の応仁の乱を持ち出すまでもなく「何処でもしょっちゅう」ある。何年も解決の糸口が無いような大乱を相手が倒れるまで戦うというのではなくて、話し合いでまとめるためには「何らかの権威」が必要だろう。つまり戦闘に参加していない第三者の仲介である。このことから想像できることは、邪馬台国は元々「倭国全体の政治に余り関わっていなかった」と言えるのではないか。或いは「卑弥呼はシャーマンとしての能力で有名」だったが、邪馬台国を統治する王ではなかったのかも知れない。形の上では委奴国から邪馬台国へと宗主の座が移ったのように思えるが、漢の見解では「体制は変らずリーダーの交代」程度の認識であったようだ。魏志倭人伝には、末盧國に上陸してから伊都国への道を「叢を分け入り、前人を見ず」というような苦難の陸行の様子を伝えているが、「邪馬台国へ行く道は、相当不便な道だった」ことを示しているのではないだろうか。使者は卑弥呼に会うために行ったのだが、道は整備されてなかった。つまり、邪馬台国は「普段から行き来している国では無い」のである。また、滅多にいかない国だからこそ、普段は行かない末盧國から上陸していったとも考えられる。普段から通商しているのは「委奴国とかの30国ぐらい」であるから、付き合いのなかった邪馬台国へは「道順と行程記事を書いて詳細に説明する」必要があったのだ、とも解釈できるのだ。そもそも倭国が使訳するところ30国とあるのだから、普段から「それぞれの都に行く道路は整備され」ている筈である。もし委奴国へ行くのであれば、別のルートつまり「背振山脈を越えるのではなく船で迂回して」、博多湾岸の何処かに直接上陸したのではなかろうか。九州の倭人集団には北九州の委奴国を宗主とする一連の国々があって、もともと朝鮮半島とも密接なつながりがあって人間の行き来も頻繁にあったのだと思う。所謂、海洋交易国家である。一方、邪馬台国は内陸の国で、委奴国集団からは少し離れた山岳地帯にある国ではないだろうか。邪馬台国の「邪馬」は「山」だという説も、何となく「有り」とも言えそうだ。つまり委奴国からは南に位置していて、山岳地帯を中心とする「邪馬台国集団」が別にあり、両者はある程度の平和な関係を保って九州を二分していた、と考えることも出来る。その中で、シャーマンとしての能力で有名な卑弥呼が、仲裁役として担ぎ出されたのであろう。伊都国には代々王がいるとあり、一大率を置いて諸国を検察せしめて「みんな畏鄲」してたというから、伊都国は軍事拠点としては機能していたと考えられるが、大乱の一方の主役の「委奴国」ではないと思う。一大率は、委奴国を含めた国つまり「女王国以北」を検察するのが目的である、と書いてあるから、伊都国が女王国の「最北端」に位置していると見て間違いはない。とすれば、伊都国より「南側」は元々女王国の勢力範囲ではないだろうか。そう言えば倭の五王の上表文で、東の毛人や西の戎や海北などを征服したことについては大々的に書いているが、「南の蛮族のことは一切書いていない」のがちょっと気になる。南側が海で国がなかったのなら別だが、そうではなかろうと思う。だから南はまだ征服していないか、または征服する必要がなかったかのどちらかではなかろうか。倭とは「何処の領域を指しているか」が大いに気になる。倭国は光武帝の時代から「ずっと委奴国が宗主」の集団という認識であるから、途中で王朝交代があったとは書いていない。委奴国から大倭国となり「たい(にんべんに委)国」と名称は色々変わったが、あくまで北九州から佐賀地方一帯を本拠地とする集団であることは変らないのである。そして邪馬台国は一時的にグループをまとめただけで、台与の後はまた「元の宗主」が返り咲いたと考えたい。徳川幕府を一時的に尾張家の吉宗が継いたようなものである。外交的には、卑弥呼の時代もあくまで「倭国」と呼ばれていた。朝鮮半島では漢族の公孫氏が勢力を伸ばし、204年には楽浪郡の南に帯方郡を設置するまでに版図を拡げたが、228年に公孫淵のクーデターで漢から独立していて、漢とは対立する関係である。このような時に、倭国も大乱に陥ったのである。斎藤忠が言うには、三国志は卑弥呼の遣魏使を238年としていて、一般歴史書の239年とは1年違っているとのこと。238年に魏が司馬懿を送り込んで公孫氏を滅ぼしたが、卑弥呼はこの戦いに「魏側で参陣した」のではないかと彼は言う。親魏倭王の金印が「参戦への感謝・ご褒美」だというのは、なるほどと理解しやすい説明ではないだろうか。何となく、当時の朝鮮を取り巻く政治状況がみえてくる。私は、金印の印面に「邪馬台国王」ではなく「倭王」とある点に注目している。やはり魏の認識では倭国は従来通り「委奴国が最大の勢力」で、その倭のまとめ役を担っていたのが卑弥呼、ということであろう。倭の主役はあくまで委奴国であり、邪馬台国は政治的には、余り関係がなかったのかも知れない。だから歴史の流れから消えてしまった、とも言える。日本人は邪馬台国の痕跡を必死で探しているが、「端役」だからこそ見つからないのだと見るべきだろう。
5、倭王讚と扶桑国
7世紀唐朝の元で姚思廉らが著した「梁書」には、南朝斉の時、日本列島の国「扶桑国の僧、慧深」というものが、倭国以外の国について語ったという。北陸地方の文身国、関東地方の大漢国などがあり、近畿地方には扶桑国があって458年に西域の僧が仏教を教えたとある。6世紀の南斉書「東南夷伝」には、「倭王讚」が東晋に上表して言うには「この扶桑国は、新王が立つ度に倭国に朝貢してくる国」であると紹介した、とある。倭王讚と言えば歴代天皇でいうと、応神・仁徳の頃である。その頃には既に「扶桑国が倭国に朝貢してきて」いたというのは驚きだ。日本書紀だけを金科玉条のごとく取り上げていては、本当の「日本史」は見えてこない。8世紀に遡る豊前の国風土記逸文に、「宮処郡。古、天孫ここより発ち、日向の旧都に天下りしき。蓋し、天照大神の神京なり」とあるそうだ。宮処郡は現在の福岡県京都郡にあたる場所である。この逸文によれば、ニニギノミコトは高天原を出発して「日向」に天下りしたことになる。「日向の旧都」というのが気になるが、これは「元から栄えていた」の意味で、天孫族の支配地ではなかったと素直に解釈しておこう。そもそも新参者のニニギノミコトが降り立った日向というのは現在の宮崎県にある高天原ではなく、「北九州の日向」であると言うのが「日本人の歴史観を大転回させた古田武彦」の説である。それが豊前の国風土記が書いているように「宮処郡が天照大神の高天原=神京」だとすれば、やはり倭国発祥の地は宮処郡だと考えても良いかも知れない。これは倭国が天孫族の後裔だということでもある。天孫族は「日本海にまたがる海洋民族」の一面も持っているから、倭国が朝鮮半島と足繁く交易していることとも符号する。以前、壬申の乱は九州が舞台とする本に書いてあった、熊本八代の「天照大神を祀った伊勢神宮の起源の話」はどうなるかと思うのだが、とりあえず、倭国の起源の話はどうやら九州が舞台であることは間違いが無さそうだ。奈良県葛城地方が高天原の原点だとする鳥越憲三郎の説を読んだような記憶があるが、大勢は「北九州に一貫して王朝があった」ということで決まりであろう。色んな説を読み漁ってくると、ぼんやりとした倭国の像が出来上がってきそうである。その倭国が中国と親書のやり取りをし、朝鮮半島にも進出を図っていたというのが3世紀から4世紀の、大体の東アジア情勢ではないかと思う。古代史の謎は、この倭国が「平城京を建てた勢力とどのように関わるのか」を解き明かすことである。
・・・次回は少し先になりそうですがご期待ください。
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