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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(土)旅行:私の引っ越し履歴(3)世田谷赤堤

2021-03-20 19:13:02 | 歴史・旅行

1、小学校6年生で編入
赤堤では広い芝生の庭付きの6階建て24世帯ほどの官舎に入居して、そこから歩いて学校に通った。数年前、卒業後初めての学年同窓会があって、新宿のどこかのホテル(京王プラザだったと思うが覚えてない)で楽しくひと時を過ごしたことがあった。私は友人のSN氏に誘われて準備委員に加わり、ほぼ50年ぶりに母校に足を運んでみた。当時の面影は「跡形もなく様変わりしていた」とは思うのだが、何せ記憶がないから何とも確信が掴めない(だらしないねぇ)。こんな調子だから当時のクラスメートの顔も思い出せず、特に女性陣は名前を聞くまで「誰なのか」全く分からなかったのも無理はないと言える。まあ一般的に同窓会というのは、昔の思い出を振り返ってほのぼの楽しむ「懐古」の場なのだが、私のような年齢になるとむしろ「めったにない、友人を作る場」と捉えるのが正解なのではないだろうか。当時は殆ど付き合いのなかった人でも卒業後に色々な経験を積み、「新しく友人になる可能性」は大いにあるのだ。お互いに「気が合う友達」というのは何か特別に「通じるもの」があるからそうなるのであって、当時余り遊んでいなかった人というのは「そういうものがなかった」から疎遠になってしまったというのは事実である。だからこれから「親友になる可能性」は余り無いと思う。だがそうじゃなくて、例えばITに詳しい友人だとか、医者だとか家電販売業とか弁護士とか、要するに「役に立つ友人」を新規に作るのが「学校つながり」の最大のメリットである。こう書くと何やら「いやらしい利益目当ての人間関係」に見えるがそうではない。お互い助け合って生活を豊かにしようという「助け合い社会」の輪を築くという人生の知恵であると私は思う。残念ながらその節は私にほうに「そういう気がなかった」から一時の思い出話で終わってしまったが、今度そういう機会があったら「目を広く社会に向けるいいチャンス」と考えて、是非とも友人づくりに励んでみようと思っている。まあ、「生きていれば」だが・・・。

2、バッドストーリー
東京に住んだ最初の頃は着る服もなくて、小学校にはトレパンで通っていた。周りのクラスメートはしゃれた半ズボンだった筈だが、余り記憶はない。当時周りの子や自分がどんな服を着ていたのか覚えていないというのは、そういうファッションとか言うものには私は興味も関心もなかったということだろう。小学校での思い出は断片的で、きちんとしたストーリーになっているのは中学校になってからである。そう言えば給食の時、嫌いな食べ物がどうしても食べられずに残したら、先生が「私が転校生だから」と許してくれた記憶がうっすらと残っている。クラスメートはきっとザワザワして文句を言う子もいたのではないかとは思うが、それでいじめられたとかの記憶もないので、まあ余り「クラスに馴染んでいなかった」程度で済んでいたのだろう。学校では殆ど勉強した記憶はなかったので、成績のことは覚えてはいない。ただ田舎の大分と違って野山を走り回って自然と遊ぶというのはなかったので、学校が終わったら真っ直ぐ家に帰るような生活だったと思う。それでも近くの空き地でウェスタンごっこをしたり、官舎の低学年の子を集めてかけっこをしたり、子供のやりそうな遊びをしていた。ある時、私が家でおやつを食べていると窓の外で「何かが降って行った」ことがあり、それは官舎の上の階の1歳ぐらいの赤ん坊が、ベランダの柵の隙間から「落ちて行った」瞬間だったのだ。赤ん坊は植え込みの柔らかい土の上に落ちたので大事に至らなかったが、その事がキッカケで、私達兄弟はその子を「おかずのり」とアダ名をつけバカにしていた。ある時、私の弟が芝生で寝転んでいてふと眼を覚ますと、丁度その「おかずのり」が石を持ち上げて弟目掛けて投げつけようとしているところだったと言うのである。弟は「あいつ、恐ろしいぞ!」と真顔で恐怖を語っていた。幼くして既に凶暴な性格だった「おかずのり」は、それ以後「恐怖のおかずのり」と呼び名が変わったのである。彼、今頃どうしているのだろうか。老婆心ながら、恐ろしい犯罪者かなんかになってなければいいのだが、と思う・・・。

3、新聞発行に関わる
同じクラスのA君やU君達が「スピードタイムス」というガリ版刷り新聞を発行したことがあった。SN氏は当時クラスの人気者だったU君と対抗して自分達も新聞を出そうということになり、「JTSA新聞」というのを発行することになった。どういうわけか私も参加し、夜遅くまで真っ暗な校舎でガリ版を刷っていた記憶がある。当時はそれ程気にしていたわけではなかったが、後から考えると「好きな女の子」が一緒にガリ版作りを手伝ってくれていたので、そういうのも「やる気になった理由」の一つかも知れない。その女の子の名前は「Uさん」と言ったが、残念ながら同窓会には来なかった。ちなみに世にいう同窓会でのラブ・アフェアーというのは、私等よりもっと若い40代50代の話ではないだろうか。我々そろそろ入れ歯のお世話になろうかという年代では、ラブ・アフェアーなんかより先に「まず介護」である。その同窓会で「担任の先生」の近況が披露された時、当時の生徒には恐れられていた厳しい先生であったが、まだご存命ということで何となく場が和んだのを覚えている。そう言えばSN氏が当時ご執心だった「クラスのマドンナTさん」が同窓会に来ていて、その後も色々と何だかんだよ策略を巡らして必死の努力を続けたみたいだが、その後どうなったのか、私のところには寡聞にして情報は入ってきていない。私の初恋は「中学校に入ってから」なので、今度は中学の同窓会に行ってみようかなと夢想したりしている。まあ初恋の相手と言っても年齢には勝てないので、「変わり果てた姿にガッカリする」のが関の山だから止めておこうかな。故郷は 遠くに在りて 思うもの・・・である。


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