明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

令和って年号、今ひとつピンとこないけど

2019-04-01 23:35:48 | ニュース
「令和」って元号は何だか意味不明である。だが元号とはそういうものだ。平成だって最初はつまらない名だなと思っていたが案外使っている内に「それらしく」見えてきた。まあ元号らしいと言えばそれなりの雰囲気は持っている、つまり、しかつめらしいヒネクッた尤もらしいネーミングである。いかにも年寄りの自己満足的な名前だとむしろ感心した。大体が、「予想に出てくる年号は使わない」という暗黙のきまり自体が、選定作業をする人達・有識者の「尊大さ加減」を表しているではないか。いっそ人気投票するとかA・Iに選ばせたらどうだろうか。もちろん、期待を裏切るというのも国民と選定委員の駆け引きだから、ゲームとしては選定委員の方が一枚上手だった、というあたりで「ケリ」がついたものとしよう。この何日かの「元号フィーバー」が一騒ぎして終わってみれば、何のことはない「冴えない日常のくりかえし」なのだから、ハロウィンと何ら変らない「一過性のイベント」に成り下がった、とも言える。

そもそも元号とはどのように始まったのかと言うと、人々の時間に対する観念、いわば「親父の時代やおじいちゃんの頃」という大体の時間軸が個人としては通用しても、他人との間で物差しとして使うには不便であったために、一つの「共通の時間軸」が必要になってきた、ということではないだろうか。初めて年号が制定されたのは前漢の「建元」が最初であるが、それ以前は元号は無くて「〇〇さんが王様の時代」というような言い方だったみたいだ(私の想像)。それにしても紀元前200年よりも前の時代であるから、やっぱり中国は凄い。時間軸に名前をつけるアイディアは中国に始まったが、これが王者の一つの特権として意識され、「年号は為政者のもの」として広く認められることとなった。日本は長いこと中国王朝の冊封体制に組み込まれていたから、独自の年号を使うようになったのは「大宝」からである。

ここで年号問題に一つ苦言を呈しておきたいのだが、「大化」を日本最初の年号という「日本史の定説」がいつまでも大手を振ってまかり通っている現状に、私は怒りを通り越して軽蔑すら覚える人間の一人である。年号というのは「時間軸の名称」であるから、使い始めた後は「連続していないと意味がない」。しかるに孝徳天皇の時代に大化・白雉と年号が立てられたにもかかわらず、次の天武天皇の「朱鳥」まで32年も年号がなかったというのだ。また天武天皇が亡くなった後も年号が途絶えて、次に年号が立てられたのが文武天皇5年の「大宝」であり、15年も開いてしまっている。これでは年号の意味をなさないではないか。しかるに大宝以降は現代まで「一度も欠けること無く」連続しているのだから、大化が最初の年号だというのであれば、白雉のあとも続いていなくては「おかしい」のである。・・・もうご存知の方もいらっしゃるかと思うが、「九州年号」というのが伝えられていて、517年の「継体」以降、704年の「大長」まで連続して制定されているのだ!。ちなみに「白雉」や「朱鳥」という年号もあり、白鳳時代などと美術史でよく使う「白鳳」という名前の年号もある。中には「聖徳」という年号があり、聖徳太子と関係があるのかも知れないと私は思っている。ただ大化の改新の「大化」は九州年号では695年の年号で、一般に言われている645年ではないのだ。これが「郡評論争」という大問題を引き起こし、699年の乙亥年に「評」という表記を使用している木簡が藤原京で発見されたことから、日本書紀で言うところの「改新の詔が発布された時期」を646年であるとする「今までの定説」が覆された事件である。つまり大化を「695年」とする九州年号の方が、より真実に近いのだ。おまけに孝徳天皇と天武天皇の時は年号が使用され、斉明天皇と天智天皇と持統天皇の間は「年号が無い」と言う不可解なことが起きてくる。これが私の考える古代史の「大きな謎」の1つであることは言うまでもない。これらの年号を立てなかった天皇というのは果たして本当に「天皇だったのか?」。そんな「大変なことになる」のを極度に恐れる日本史のお偉方の歴々が、知らぬ顔をして頬かむりしているのが「日本最初の年号=大化」という大嘘なのだ。つまり、もういい加減に白を切るのはやめたらどうだ?、というのが私の意見である。そろそろ九州年号を認めるときだと思うのだが、どこのニュースを見ても「大化以来の〜」と未だに間違った年号認識を繰り返している。歴史の解明は、真実に目を背けて知らんぷりをすることからは決して生まれるものではないと思うのだが・・・。

と、ガラにもなく興奮してしまったが今回は歴史問題を暴くのが目的ではないから、元号に戻ろう。年号は特例を除けば、大概の10年以下の「短いスパン、大抵は5、6年」である。天変地異や瑞祥のある度に年号を新しくするから、王朝華やかなりし平安の頃は期間の長い年号も結構あった。弘仁15年、貞観19年、寛平10年、延喜23年、とある。この後は短い年号が続くが、南北朝合一後の「応永35年」という奇跡的に長い年号もあるようだ。が、概ね5、6年ごとに代わっている。年号が「天皇の認識」を表しているわけだから、天皇が「そろそろ気分一新しようぜ」といえば、年号を新しくして治世を活性化させようとするのも無理はない。まあ、政策とか経済活性化とか「政治を変えよう」という考えは思いつかない連中だから(今の皇室を取り巻く連中の意識も、全然変わってない)、所詮「神頼み」になるしか無いのである。

私は年号というのも「歴史を勉強する上では」非常に大切なものであり、全ての出来事が「〇〇天皇の治世下」という括りで表現できるのは、日本史の(特に平安時代まで)特色であると考えている。だから天皇名と年号のセットは「暗記」している(ように努力している)わけだ。何がなくとも「神武・綏靖・・・」とやるわけである。延暦年間に創建されたから延暦寺、仁和年間に創建されたから仁和寺、建仁年間に創建されたから建仁寺という分かりやすい例もある。歴史的出来事の年代を指し示す場合に「非常に分かりやすい」のがこの年代を使った表記方法である。少なくとも江戸時代以前の日本史を考える上では、「無くてはならない」のが年号である。使う側にとって見れば便利この上ない年号だが、発布する側にしてみれば「神頼みの意識」で決めるのだから「それなりに思い入れがある」のは当然である。いままでの世の中を一度リセットして放り出し、一から新しく出直して「瑞祥の恩恵を世の中に広める」つもりで新年号を制定するのだから、お気楽といえばそうなるが本人は真剣であるから笑えない。それが今回は「令和」というわけである(天皇の代替わりに年号も新しくする、というのは明治になってからの習慣だ)。ところで「令和」って、どう言う意味?

しかし今では干支を使って年数を計算している人はいないのと同じ様に、年号を使って期間を計算しているひとも「殆ど無い」と言えるのじゃないだろうか。第一に、「計算が困難極まりない」のである。干支の「丙申から康午まで」が何年か、即答できる人はまず居ないのじゃないか、つまり、日時年月日を表示する場合に「年号を使う」ことは今後は一切やめるか、あるいは「西暦と必ず併記する」とか、この際に法律で決めるべきである!!!。名前を中国の古典から引かず、万葉集から取ったことで「日本」を意識しての命名だとかなんとかニュースでいっていたが、そんなことはどうでも良い。これから世界を相手に経済的で戦っていこうというこのグローバルな時代に、時間の表記方法が「このざま」では「お話にならない」ではないか。狭い島国の内輪で年号フィーバーなぞしてる場合ではない。ここらで綺麗サッパリと西暦一本化して、一気に世界へ打って出ようではないか!。

それで、年号は「歴史」で使えば充分である、ガチョーン!

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