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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

木曜日は歴史の日:古代史喫茶店(20)河村日下の「九州王朝の盛衰と天武天皇」を読む

2021-01-07 21:30:18 | 歴史・旅行

今回は一応「邪馬台国」の残りから始めることにした。正月番組の「邪馬台国サミット2021」を暇つぶしに見ていたら、「翰苑の筆写本」が日本に残っているという。これは太宰府天満宮の国宝だそうだ。そもそも中国原典の貴重な筆写本が「大宰府にある」こと自体、邪馬台国が九州にあったことの証明ではないか、と常識的には思うのだが・・。まあ、もともと今回出演している歴史学のお歴々は「馬鹿面揃えて騒いでいた」という冗談番組だから仕方ない。それなりにビール飲みながら、斜に構えて見ていた。

途中でふと思ったのだが、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の行程は、その後いくつもの中国の歴史書に取り上げられているが、一つとして「誤りを訂正したもの」はない、という事実をどう捉えるか。つまり中国人の読解力で魏志倭人伝の「耶馬台国の位置を想像する」と、それぞれの時代に考えられていた「日本の地図」とほぼ誤り無く合致していた、と思わざるを得ないのだ。中国の学者の意見はよく分からないが、今現在でも魏志倭人伝の耶馬台国の位置を説明する陳寿の文章には、「特に異論は無い」ように見える(中国人の書いた耶馬台国の本も出ていたように記憶しているが、九州か近畿かはどっちだったか忘れた)。要するに黙っていれば誰が読んでも「九州になる」筈なのだが、それが未だに論争を呼んでいるのは「近畿にあった」と一部の人間が騒ぎ立てているから、に過ぎないのだとしか言いようがない。だって普通に読めば九州に上陸した魏の使節が、「細々と九州の中を旅行して」あちこち行程を説明しているのに、肝心の目的地・耶馬台国には「直前の不弥国から一足飛びに船に乗って」、途中の瀬戸内海の風物など一切無視して、「ポンッ」と到着ですというのは余りにも旅行案内としては「失格」じゃないだろうか。例えばパリに行く行程を説明するのに上海・香港・バングラディシュ・インドと細かく方角や距離を長々と書いた後に、最後にイランから飛行機で「いきなり3時間でパリに着く」と書くようなものである。バカにすんなよ!、と言いたくもなるではないか。陳寿の「書き方」からは、耶馬台国を九州以外の地に求めるのは「脳味噌が二十日鼠並のノータリン」だと言われてもしょうがないであろう。

ここまでは私がいつも感じている疑問が「全然改善されてない」という不満だ。これは言ってもしょうがないことなので、私はずっと前から「相手にしてない」のだ。つまり、ほぼ諦めている。ところが今回の河村日下の本は「今までにない斬新な視点」を与えてくれた。今までは九州と近畿という視点だった野田。今回河村の本を読んで、「出雲王朝」という視点が出てきたのである。九州耶馬台国と出雲狗奴国である。この視点の中では「近畿大和朝廷は、全く消滅」してしまう。古事記・日本書紀は「最初っから最後までウソ」というのが河村日下の到達点である(私の感想)。確かに奈良には邪馬台国の影や百済・新羅・隋唐との外交の「かけら」も感じられないのだ。当然である。内陸国である奈良には「外国のニオイ」が全く皆無なのだ(どうして近畿論者にはこれが分からないかなぁ)。そうすると河村の言うように記紀がデタラメならば、それを指示・編纂させた天武と持統は「何をしようとしていたのか?」・・・という新たな疑問が湧いてくる。

それにしてもいつもながら、「倭」という文字を「ヤマト」と読むバカッチョには辟易する。この「ヤマト」という読み方は、歴史を振り返ってみると「どこにもない」読み方なのだ(とにかく松下見林だか何だかの様だが、私は知らない)。結局は、「ヤマト」という地名・国名は、いつ・どこから来たか?、という疑問を解明することが、古代史隠蔽改変を暴く最大のキーである。これが解き明かされれば、その他の謎がスルスルと明らかになるだろう。ヤマトというのが日本のことであり、当初は「ヒノモト」と別名で呼ばれていたという説も勿論ある。または奈良地方の一地名だったのが後世何らかの理由によって国名・政権名に転嫁されたか。何れにしても文献上「大和」と書かれたものが「ヤマト」と発音されたのは何時のことか?、が問題のテーマということになる。「大倭」が本来の読み方を無視して日本語としての「漢字の簡略化」で大和になり(倭=>わ=>和)、定着した。それが「いつのまにか」ヤマトと読むようになったのか、大いに疑問なのだ(邪馬台国を無理矢理ヤマトと読んだ松下見林が、調子こいて大和も=ヤマトにした、という話もある)。だって、どう考えても「大和をヤマト」だなんて、間違ったって読むはずはないのに、である。一体どこからこんな「不思議な読み方」が出てきたのか、誰か教えてくれないかな!?

いかん!、又しても愚痴が出てしまった。本題に戻って、河村日下の耶馬台国論に書かれていた事を2、3挙げておこう。

1、邪馬台国論・補遺

① 「倭」の読み方
今まで倭を日本人は「ワ」と読んでいた。これは日本の読み方である。魏志倭人伝における邪馬台国の正しい書き方「邪馬壹国」も、日本式に「ヤマイチコク」と読んでいる。ところが私は気が付いた。壹は数字の1、2、3の「1」であるから、読み方は中国式のイー・アール・サンに従って、「ヤマイーコク」と読むのが正しいんじゃないか。親魏倭王は親魏委王の卑字表記だから「シンギイオウ」、中国人の名字はゴルフのイーチヒでもお馴染みの伸ばす読み方だから、「シンギイーオウ」ではないのか?。つまり、日本で「イ」という名の国は、中国の漢字表記では「イー」なのだ。だから倭も委も壹も、すべて同じ国を表している、ってわけである。これ、大発見じゃない?。しかし、范曄が邪馬壹国を邪馬台国に書き直した理由は、今もって分からないままである。謎でしかない。

② 継体天皇
私は百済本紀の記事「日本天皇、太子皇子倶に崩あがりましぬ」を、継体天皇のことと思っていた。磐井を殺された九州王朝側の報復戦争で倒れたと考えたのである。しかし百済本紀が「日本天皇」と呼ぶ政権は、当時「大倭」である九州王朝しかない、ということに気がつくべきだった。河村は継体天皇は架空の存在、少なくとも記紀に描かれているような存在ではない、と見ているようだ。倭の五王は倭讃・倭珍・倭済・倭興・倭武である。河村が言うには、磐井はもしかして倭済をデフォルメして倭→磐、済→井、と変更したのではないか。磐井=倭済という九州王朝の天子がいて、彼が没した事件を参考にして、記紀制作者が531年の磐井反乱記事を作ったと見ている。例えば官軍、俄に動発し・・・という文は「奸軍動発」の書き換えだろうという。磐井の乱は物部麁鹿火の仕業だ、とも新解釈を述べる。継体天皇の出身地・三国の坂中井や高向などの地名は出雲風土記からの借用である。古事記によれば武烈天皇の死後、継体天皇は「近つ淡海国」より上り位に就いたという。近つ淡海国とは現在の「米子市」だそうだ。確かに奈良に「近つ淡海」ではイメージが沸かない。大体記紀によれば、継体天皇は長い間「政治の中心ー飛鳥」に入れず、ウロウロ周辺を転戦していた。では抵抗していた勢力はその後どうなったのか?。実は抵抗勢力側こそ「王権」を持っていたのではないだろうか、という考えもありうる。つまり、「長門より東を吾取らむ」である。以後、継体王朝は息子の安閑・宣化と続き、それから欽明王朝が成立する。どうもこの親子は「胡散臭い」のだ。記紀は、時間と場所の両方を「ぐちゃぐちゃ」に嵌め込んでいるみたいである。

③ 隋の使者は千葉に来ていた
後漢書倭伝と魏志倭人伝と隋書俀国伝は、共通する認識がある。それは隋の使節裴清は九十九里浜あたりまで視察していることだ、と河村は書いている。これは俄には信じられないが、それだけ広範囲に支配体制が及んでいたと考えなければならない。耶馬台国の紀元240年頃から比べ、紀元608年の日本がどれだけ大きくなっているかと考えると、むしろ「当時から倭国・狗奴国の支配領域は関東に及んでいた」と見るべきだろう。その中で近畿地方はどのような勢力が治めていたか、が議論されるべきである。

④ 蘇因高
小野妹子は「サノイモコ」だったから蘇因高と呼ばれていた!。これは当時の和名を「中国風」に書いたものである(当時、個人の名前を漢字で書くのはそれほど一般的では無かっただろう。だから彼の名前「小野妹子」は後から文字にしたのかも)。彼も中国に行って名乗るときに、大体合ってれば「オーケーオーケー」と言って済ましていた可能性がある。だとすると邪馬壹国も卑弥呼も壹與も、日本語の発音は「慎重に研究する必要がある」わけだ。

⑤ 俀国
隋書は何故倭国を俀国と書き換えたのか。邪馬壹国は「山倭国」の陳寿の翻訳語、邪馬臺国は「山大倭国」というのも中国当て字である。では俀国はどうなるかというと、倭と似ている「字面」の文字に代えて「弱い」意味の当て字とした、と河村は推量した。隋は倭国を憎んでいたというのが根拠である。まあ「倭=イ」という読みで同じように「弱い」という字を当てるぐらいは朝飯前のハズだが、そうしなかったのは著者が「ちょっと恥ずかしかった」のだろうと思うしか無い(なんのこっちゃ!)。何れにしても、倭国が「委奴国=イ国のやっこ」であり「邪馬壹国」であり「大倭国」であるのは確かなようだ。つまり紀元後から7世紀まで一貫して同一王朝が続いていることになる。

⑥ 600年・608年の隋使と多利思北孤
隋書俀国伝では、俀国と倭国と2種類の表記がある。卑字は「帝紀と倭人伝とで使い分けられていた」ようだ。これは正式文書と地の文とで区別しているとも言える。俀国は帝紀に書かれた正式文書ということか。裴世清は倭国に2年間滞在して各地を巡り回っていた。裴世清の使命は倭国を調べることだったと思われる。裴世清は隋の煬帝の怒りを知っていて、上辺は丁寧に倭国と友好関係を保ちながら、倭国王多利思北孤の人となりと倭国の国力・支配領域を調査していた。調査が達せられた後「塗を戒めよ」と言ったと隋書にある。帰途を警護してほしい、と言ったのだ。これによれば両者は友好関係にあるように見える。倭国側は貢物を携えて使者を送り、朝貢した。そしてこの後、「ついに断つ」と書いてある。この辺が私は裴世清が「倭国と大和朝廷の両方を訪問した」と考えていて、両国の外交方針の違い」と思っていたのだが、河村はこの当時「近畿は倭国支配下にあった」と見ているのだ。これは最近色々と読んだ本の中で良く見られる説である。つまり記紀の全否定である。古事記の推古記は3行、日本書紀の推古紀は62頁もある。大和政権は「存在していなかった」のだ。日本の古代史はほとんど「出雲と九州」で事足りる。例えばヤマトは「秦王国」つまり親王国。安国は安木市。国造は出雲の狗奴国の官職名。倭は出雲の西伯町馬場を中心とした地名。造・連・直・県主・稲置も出雲の官職名。スサノオの伯耆・出雲軍は高天原で天照を滅ぼした。等などである。そして筑紫國造の磐井(倭王済)がクーデターにあった時(紀では531年だが、実はもっと前に起きている)、葛子は近畿の秦王国にいた(ホントかいな?)。葛子とは、三男「興」である、と言う(おおっ!)。ここまで断言するのはさらなる検証が必要だが、古代史を学ぼうと思う者にとっては「魅力的な解釈」と言えよう。総じて河村の本は記紀の人名・地名を「蛇に読み替えて解釈する傾向」があるが、この呼び方の変更と現存地名をリンクするやり方は少々「我田引水」にも感じられるところが欠点か。

以上、色々な事柄が「狗奴国」という視点に立てば見えてくる。古代史学会に見事な一石を投じた本だと言えよう。久し振りに興奮して読んだ。さあ次は今回借りた4部作の最終巻だ。期待して読む。

2、九州王朝の盛衰と天武天皇

前著を早々と読み、図書館に返却に行ったついでに新しくこの本を借りてきた。この本の内容は「想像を超えている」説に溢れていた!。私自身、まだ河村日下の主張する古代史を受け入れるまでには至っていない。確かに古代史は伯耆・出雲王朝と、太宰府・九州王朝の相克で割り切ればスッキリする。そうすると記紀は完全無視、近畿大和朝廷はなかった、で果たしていいのか?。うーむ、取り敢えず本の主張を書き出してみよう。

① 蘇我馬子・蝦夷・入鹿は「九州王朝倭国の最後の抵抗者」だと描く。飛鳥板蓋宮での大化の改新や上之宮・下之宮といった甘樫丘の住居は「記紀のデタラメ」だという(最近見つかった甘樫丘の古代焼け跡については書いてなかった)。大化の改新は蘇我入鹿を中大兄皇子が誅したのではなく、蘇我氏親子が唐の軍勢を九州で迎え撃って、力尽きて殺された話だという(超ビックリ!)。大悪役転じて救国の英雄というわけだ。

② 宗像三女神はアマテラスと共に狗奴国に拉致されたとする。そもそも宗像は九州の地名 ではなく「米子市宗像」だと言う(ええーっ?)。確かに縁も所縁もなく米子くんだりに「宗像」という地名があるのは不思議だ。その昔、耶馬台国の前身(天照)が狗奴国(スサノオ)と戦って耶馬台国側は破れ、天照以下3人の娘も人質に取られた。三女神は米子で幽閉され、そこで一生を終えたと河村は言う(また超ビックリ!)。

③ 狗奴国にやられっぱなしの耶馬台国は「ニニギ」の代で巻き返しに出て筑紫の日向に天孫降臨し、長い抗争の果てに240年頃ようやく狗奴国を破ったという驚きの説を展開する。天孫降臨神話も狗奴国との戦いの一部だというが、では何故記紀では戦いの描写が無いのだろう?、と思うかも知れない。ところが太古以来の大和朝廷単独支配という一元史観では、長年の強敵を苦難の末にようやく打ち破った、という話では困るのだ。だから狗奴国という名前も魏志倭人伝でチラッと名前が出るだけで、その後は全く無視である。有名な事件は全部「大和朝廷の事件」として記紀では取り扱った。これが真実だという(またまた超ビックリ!)。

④ 神功皇后の息子・応神天皇と皇位を争った籠坂王・忍熊王は、実は狗奴国の王で、武内宿禰が討ち取った場所は近江の瀬田ではなく、これも米子の近辺だという。さらに古代の英雄物語の白眉である壬申の乱の場所も、実はこの出雲王朝と邪馬台国とが戦った話をそっくりコピペしたものだという。忍熊王・籠坂王の話を焼き直して、天智天皇の息子・大友皇子を山﨑で自殺させたというのだ。出てくる地名のいくつかが米子市の方に現存しているという(更にまたまた超々ビックリ!)。これもまた「思い切った新説」を打ち出したものである。私は以前、壬申の乱を九州熊本に起きた事件だとする説を読んで「そうかも知れない・・」と思っていた。現在の書紀にあるように大友皇子が琵琶湖近辺から瀬田での激戦を経て、最後に逃げ場を失って山崎で自死したという話は「眉唾もの」だと思っている。どうも話を「大活劇」調に広げすぎているのだ。いくら書紀が天武天皇を英雄に仕立て上げようとしている本だとしても、肝心の壬申の乱の中では「天武は全然活躍していない」ではないか。どうも話の「戦闘シーンが嘘くさい」のだ。だから私は熊本に答えを見出したのだが、河村は「別の時代の別の事件だ」とした。これは流石に「勇み足」のように感じたがどうだろう。

⑤ 天智天皇は大化の改新から大津近江宮で即位したのだが、河村はこれも「狗奴国の王で時代も違う」という。もう何でも有りで「書紀」に書いてあることは全部「どこか別の話の換骨奪胎」と言うのだ。ある意味「清々しい」とも言えるが、ちょとやりすぎじゃないのかなぁ。

河村が自説を組み立てた根拠となっているのが、古事記と日本書紀の役割だ。河村は天武天皇を「生粋のヤマト人」と考える立場だ。あるいは天武天皇の子の高市皇子・大津皇子・孫の長屋王、といった天武天皇系統はヤマト人だが、持統天皇や文武天皇・元明天皇は違うかも知れない。桓武天皇が舒明天皇でなく「天智天皇を始祖」と仰いでいることは有名だ。京都泉涌寺に天武天皇から称徳天皇までの位牌が「飾られていないという事実」もある。天智系と天武系は完全に別なのだろう。そもそも持統は天智天皇の娘ではない、とする説もある。だとすれば、天武天皇の削偽定実で始まった歴史書の編纂事業は、「どこの歴史を伝えようとしたのか」である。

私は何となく天武天皇はウソをつくような人では無いように思う(単なる印象です)。記紀が天武を「大皇弟」と書いたり、大海人皇子の生まれ年や来歴が不明なのも「天武本人の預かり知らぬ所」だと解釈すれば納得する。712年に古事記が撰進された。ところが持統がこれに先立ち各国の墓記・伝承を提出させ、山沢に武器をもって隠れたり、間違った書物を隠し持っているものは処罰すると布告した。この焚書坑儒にも似た反乱分子制圧の事実とは、実は「旧倭国の残党狩り」なのである。倭国は白村江の後、迫りくる唐・新羅連合軍を蘇我親子が迎え撃ち、破れて散り散りになったが「まだ相当な勢力を維持」していた。郭務棕が連れてきた「筑紫の君サチヤマ」は見せしめとして太宰府で「公開処刑」された、と河村は言う。勿論、彼の想像である。このあたりは、やや脚色も入っているかも。まあこれほどの定説に挑戦して「古代史を根こそぎ引っくり返そう」というコペルニクス的転回を目指す以上は、多少は筆が滑るのも仕方ない。

天武は削偽定実を指示したが、持統が捻じ曲げて倭国や狗奴国の歴史を剽窃し、「勝手に大和国=自国の歴史を捏造した」というのが私の考えだ。それは自国に大した歴史が無かったからではなく、天武・持統の家系が「万世一系の天皇家」であることを歴史に示したかったのである。この考えは日本人にはドンピシャにハマった。天壌無窮の神勅が金科玉条のように礼賛されて、第二次世界大戦の悲劇につながったのは記憶に新しい。高貴な血筋というのを日本人はありがたがる。ところが激しい残党狩りと禁書令で集まった風土記(各国の歴史書)は、大和朝廷から見たら輝かしい記録に満ちあふれているではないか。当たり前だ、日本を支配下に置く「大倭国」と、それに拮抗する力を持つ「狗奴国」の二大国の争いの歴史である。持統の妹の「元明」は、これを何とかして大和朝廷の歴史に取り込まなければと考えた。おまけに三国の魏や隋・唐との外交に関しても、面白いエピソード満載である。立派な歴史書が書けるはずだ。古事記制作者に替えて新しく制作チームを任命し、「それっ」てんで大幅に改訂して日本書紀として720年に上梓した。切り剥ぎ取って付けの大改訂の末、集めた風土記類は「完全に焼き捨てた」のだろう。まるで女のやりそうな「底意地の悪い」証拠隠滅である(あっ、もし読者に女性がいたらご免なさい!、古代の話ですのでご勘弁を・・・)。普通に考えれば、大切な参考資料たる各風土記は、宮廷の文庫に厳重に保管されて然るべきだと思うのだが、殆ど壊滅的にしか残っていない。どう考えても変じゃないだろうか?。・・・これが日本の歴史書の真実である。

記紀は信用してはいけない。何から何まで疑ってかからねばならない、と言うのが本書を読んだ感想だ。ただ一つだけ分かったことは、如何に記紀編纂の役人と言えども「全くの空想の作文」はしていない、と言うことである。何とか辻褄を合わせたり誤魔化したりしてはいるが、「ありもしないデタラメ」を書き足してはいない。ということは我々に、「まだ真実に辿り着く道」は完全に閉ざされてはいない、ということである。何が何としても、真実をこの手で見つけてやろうじゃないか!、私の命のある限りである(大仰だねぇ)。


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