明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史通史の試み:聖徳太子と蘇我氏

2022-12-12 18:12:00 | 歴史・旅行
聖徳太子は実在したのか。歴史家の間では疑問視されていて教科書も昔と違う記述に最近はなっているそうだが、私は「何をいまさら」と呆れている。日本だけではないだろうが、歴史というものは実際に起きた事は闇の中に葬られ「後世の人々の捏造した物語」が蔓延するのである。現代でもそれは同じことで、多くの人の力で成し遂げた事績より、一人のスーパースターが想像を絶する才能で作り上げた、という話を「信じたがる」のだ。それは庶民の憧れであり願いでもあったから世間に流通したのである。聖徳太子はその典型であった。空海は 同じく「彼の名がついた事績が山ほどある」が、彼は実在する人物である。だが聖徳太子のモデルは大和朝廷ではなく、九州王朝で大王位に君臨していた別人なのだ。それを検証するのが今回の目的ではない、それは事実(私の頭の中ではであるが)だからだ。問題は誰か?ではなく、何処にいたのか?、である。

隋の天子に宛てた「日の出づる処の天子」で始まる有名な手紙を書いたタリシホコ大王は、九州王朝の大王であることは間違いないが、では王宮は何処なのかというと、博多太宰府近辺・佐賀県有明海沿岸部・熊本地方・大分県阿蘇周辺地域、と四箇所に絞られる。この時代の蘇我氏の活躍と「奈良にある石舞台古墳」がネックになるが、いずれも私は大和の王権の遺跡ではあるが「日本書紀に描かれたような」日本を支配した政権のものではないと思っている。ではどんな政権が大和地方にあったのかというと、そこが素人の悲しさで分からないのだが、とにかく地方の勢力の一つだというのが今の理解である。吉備地方、出雲地方、尾張地方、長野地方やその他の各地の豪族がそれぞれの覇権を築いて争いながら、大陸つまり中国の大国「隋」を目指していたというのが600年頃の日本であったと考えている。奈良に大和王朝があって全国統一を果たし、強力な蘇我氏のもとで全盛を極めていた、というような話ではないと思う。全国が完全に一つにまとまるのはもっとずっと後、文武天皇まで待たなければならない。

さて肝心の都の場所だが、57年の後漢王朝から下賜された金印が発見されたのが志賀島、博多湾岸である。この集団はその後争いが続いて邪馬台国に権力の座を奪われる。私の信じている見解では邪馬台国は熊本地方だが、魏志倭人伝のルートを考えると中心は「佐賀県有明海沿岸部」と思われる。これは志賀島の勢力とは別の勢力なのか、それとも同一の勢力なのかはまだわからない。どちらにしても博多から太宰府を経て佐賀に出るルートは、今でも九州自動車道が通っている人口密集地帯である。その後、4世紀に倭の五王が出て讃・珍・済・興・武の時代になる。海外派兵が大々的に書かれているが、実は日本書紀の記述は「海外の歴史書を引用しているだけ」で、国内についてはほとんど見るべきものがない状況である。日本書紀は奈良の王朝で上梓された歴史書なので、九州王朝のことを直接奈良王朝の出来事として記述することはなかったのであろう。案外正直なのである。多分、この倭の五王が現王朝の先祖であるというのは知っていたと思うが、詳しく書けるだけの資料が手元になかったのだと思いたい。一部の歴史家が言うように「日本書紀の編纂役人がウソを書いて歴史を捻じ曲げた」、というほど彼らも狡猾な役人ではないだろう。彼らも信じていたのである。というか、志賀島から大和王朝は一貫して続いている一つの王朝である、と私は考えている。

話を聖徳太子に戻すと、私はこのタリシホコ大王はやはり太宰府に居た、と考えている。それが歴史の流れからも遺跡の位置からも「順当」だからだ。太宰府にあったとされる観世音寺が今の法隆寺であることは、建築の基本尺が奈良地方の他の建築物と異なっていることからもはっきりしている。奈良の建築は概ね高麗尺(1尺が35cm、大宝律令以後は唐尺31cmが使われた)で建築されており、法隆寺だけが28cmの尺だというのである。これは九州で多く見られる建築尺度である。法隆寺がタリシホコ大王の亡骸を納めた寺であり、奈良に移築された観世音寺であるならば、本尊の釈迦三尊像も同時に奈良に持ち込まれたと考えるのが順当である。その光背銘にある「聖徳太子の死亡時の記述」は、日本書紀によると推古天皇29年と言うことになっているが、タリシホコ大王の亡くなった日付が違っている。彼が仏教を興隆させ上宮法皇と呼ばれていたのが「後に上宮=聖徳太子」となったのである。なによりも当時のタリシホコ大王は「男」なのに、推古天皇は女なのだ。この馬鹿馬鹿しい事実に「いつまでも無駄な反論を続ける歴史家」がいるということに、私は驚きを禁じ得ない。単なるアホか狂信的な妄想論者であろう。世の中にはバカが多い。

本物の厩戸皇子は奈良王朝の皇子で実在したようであるが、ごく普通の人生を送ったらしい。丁度年代的に重なるのでタリシホコ大王の事績が厩戸皇子とごっちゃになり、本人の事績として伝えられ尾鰭がついて伝説化したものである。良くある話だ。何しろ日本書紀を起草している役人達は記録を見ながら書いていると思うのだが、昔の記録というのは「◯◯に御宇の天皇」としか書いていないので、間違えても不思議はない。とにかくタリシホコ大王は太宰府の近くに居て、倭国を「一大仏教国」にしようと努力していたようである。600年頃の倭国の状況はこんなものだった。対外的には遣隋使をやめて独自の道を歩み、法王大王として君臨する仏教立国を目指したのである。ちなみに聖徳という年号が舒明天皇の時代にあるそうだ。ちょっと年代がずれているが興味深い話である。そのタリシホコ大王の治めるタイ(ニンベンに妥)国の都は、取り敢えず太宰府ということにしておいて問題はなさそうである。

ところでタリシホコ大王と同じ時期に「蘇我馬子」がいる。蘇我蝦夷とその息子の蘇我入鹿が中大兄皇子に誅滅されたのが大化の改新となっていたのは前の教科書。今は乙巳の変と呼ぶ。ちなみに九州王朝の年号では、大化というのは朱鳥の次の年号なのだ。朱鳥は天武天皇の時代である。芸術や仏像の時代区分にある白鳳時代というのは、九州年号にしか無いのである。これは示唆に富む情報である。さて、大化の「改新の詔」には当時なかった表現が書き込まれているとの指摘が早くからあった。で、乙巳の変というのは本当はどうだったかというと、事件が645年に起こったのは正しいと考えてみた。奈良の飛鳥で起きたと考えた理由が、飛鳥の甘樫丘にある二つの宮の跡である。日本書紀にある蘇我蝦夷と入鹿の上つ宮と下つ宮の遺跡である。ここに蘇我氏の遺跡があるということは、クーデターは実際に起こったと考えてもいいのではないか。蘇我氏は元々奈良飛鳥地方の豪族を束ねていた権力者で、継体王朝が突然天皇・太子・皇子共に崩りましぬ、という百濟の史書の記述のように消滅したのを機に新しく権力の座についた欽明天皇と同時に、歴史に登場する新しい氏族である。その蘇我氏が滅亡したのは事実に違いない。だが中大兄皇子が事件の主役というのでは「奈良にいた」ことになり、九州倭国の命運をかけた白村江の戦いを指揮する大王で「佐賀県で亡くなる天智天皇」とは、どうも一致しない。

乙巳の変で皇極天皇から政権を委譲された孝徳天皇は都を河内に作り、難波宮で天下を治めたことになっている。だが難波宮というのは遺跡が見当たらず、難波には巨大な宮を示す痕跡が全然ないというのである。博多沿岸には「難波」という地名があるというのを何かで読んだ記憶がある(どうしても思い出せないのが残念だが)。当時の奈良では、宮と言っても現代で考えるような、多数の建物で構成される「王宮」は、まだ無かった。実際、板蓋宮跡地を見に行った時には、余りの小ささに拍子抜けしたものだった。天智天皇は最初から最後まで、近畿地方には行ってないと考えると合点が行く。蘇我氏は奈良飛鳥地方でクーデターに遭った。中大兄皇子は確かにクーデターまがいの事件を起こしたが、蘇我氏とは別の事件では無いかと思う。あるいはクーデターそのものには関わりないかも知れない。蘇我氏のクーデター事件と孝徳天皇の新政権は、近畿大和朝廷と九州倭国の別々の話だと割り切れば、全てすんなり受け入れられるのである。「聖徳太子」が九州倭国と奈良飛鳥の二つの事柄をごっちゃにしているように、この辺りの日本書紀は天武天皇の壬申の乱まで混同の連続である。もちろん、これは私の「あくまで想像に過ぎない」。だが天武天皇から日本書紀が上梓されるまでは僅かに50年、そんな間違いが起こりうるだろうか。

これは、やはり文武天皇が正当な「近畿大和朝廷の後継者」であることを証明するために、誰かが「わざと」混同するように書いたのだ、としか思えないのである。それが藤原不比等だというのが、日本書紀陰謀論者の定説である。この結論には、なんか日本の歴史が見えてきたように感じるのだが、「正統性の確保」という命題に対して不比等が考えた方法が、日本書紀の「わざと混同させる」やり方であったと言える。

これが日本史の「原点」である。


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