明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

あおり運転、その後の考察

2018-12-18 20:18:04 | ニュース
東名あおり運転の裁判で結果は18年という「中途半端」な判決になったが、そもそも危険運転致死傷罪というのは「危険な運転」に対して与えられる罪である。しかしこの「あおり運転」というのは危険かどうかとは関係なく、「相手を暴力または恐怖を与えることで行動の自由を奪い、精神的苦痛を与えることを目的とした行為」なのである。いわば「恐怖を与えて相手を意のままにする=心理的強要罪」ということになる(言葉はもう少しピッタリしたものがあると良いが)。現在の法律は「現代生活における心理的な要素の拡大」という側面に、対応しきれていないと私は考えている。ストーカー行為なども「実際におこなっているのは付きまとい」であるが、被害者の側では「心理的圧迫」により通常の生活が出来なくなった状態であるから、付きまとっていようが付きまとっていなかろうが「ストーカーの存在自体」が恐怖なのである。つまり心理的な暴力行為を裁く法律が必要なのではないだろうか。

では、あおり運転というのは最近出てきた行為なのかというと、「以前から起きていること」である。それは車という新しい道具が世の中に出てきて運転技術が「免許制」になって以来、出来るものが出来ないものに対して「心理的優位」に立つしくみが出来た。これは何にでもある「俺の方が凄いぜ!」という感覚である。生物の世界では、出来ないよりも「出来る」ほうが生存に有利であるのは疑いない。ある意味で、生物の生存本能である。その快感を、人生の中で十分に得られない「冴えない人」がストレスを溜めて、「車を運転する時に発散」するのがあおり運転である。車は「その場で反撃に会わず、追跡される危険も少なく、実行犯になりにくい」ので、誰でもやってしまう匿名性があるのだ。高速道路であおり運転をやっても「捕まらずに逃げ」れば大丈夫と思っているのが、この犯罪のポイントである。今はドライブレコーダーが多くなり、後から犯人を特定されて訴追されるようになったので進歩はしている。だが法律が追いついていないのだ。

日本の法律が現実の犯罪・実態に合わないというのは、以前から指摘されていることである。犯罪が頻繁に起きて被害者が多発するようになって初めて、ようやく法改正が行われる。例えばゴミ屋敷・空き家問題などはその典型だ。何故国会で「土地・家屋の所有権を制限する法改正」が出来ないのか、議員のお偉方は「困っているのが一般市民」だから「どうでもいい」と思っているのだろうが「大きな勘違い」である。話を元に戻すと、今日の「TBSひるおび」で高速道路のドアミラーを殴って壊した男の事件を報道していたが、その違反容疑が「器物損壊罪」だというので私は「思いっきり呆れて」しまい、テレビに向かって「ふざけるな、馬鹿ヤロー!」と悪態をついたのである。夜中にマンションの駐輪場で自転車を壊すのとは「ワケが違う」ではないか。法律を適用する人には「もっと適正な仕事」をして貰いたいと、切に思う次第である。またまた横道に逸れてしまった。

さて「心理的強要罪」、かゆいところに手が届く中々の「罪名」ではないだろうか。私は気に入っている。

この心理的強要罪であるが、その適用事例を考えてみよう。犯罪の構成要件は「何を強要したか」と「その結果被害者の心理にどのような影響があったか」、そして「実際の損害」である。

実例として東名のあおり運転を考えると

1 強要したのは「謝罪」である
2 被害者の心理に与えた影響は「家族および自身の身体的な恐怖」である
3 そして損害は「生命」である

つまり、(1)で罰金刑1万から100万、(2)で実刑1月から10年、(3)で実刑10年から30年、という合算刑である。この量刑計算方法なら(被害者が家族の眼の前で死亡していることも考慮すれば、犯人を実刑18年に処したのは「やや軽い」と言えるが)、実際に起こした事故と「犯罪」との関連が「実に見事にマッチしている」と思う。危険運転致死傷罪などという意見の別れた刑罰を採用して「拡大解釈を恐れた不自然な判決」になったのと比べると、「めちゃくちゃスッキリ」してるとは思いませんか?

日本の法律の大前提は「与えられた損害の賠償」にある。明らかな損害がなければ、刑罰は発生しないのだ。それと同じ考えが罪刑法定主義によって「これをやったら、刑罰はこの範囲」とあらかじめ国家が決めているのだ。これによって「犯罪者は刑罰の重さと犯罪による利得」を天秤にかけているのである。犯罪が減らないのは「利得が刑罰を上回っている」からなのだ。だがこの犯罪の利得の想定している中に「憂さ晴らし」という項目が見当たらない、というのが問題である。憂さ晴らしだけでは、損害が確定しないからである。だから結局、むしゃくしゃして人を殺した、という場合はその損害の方を挙げて「殺人罪」にとするのだ。「むしゃくしゃ罪」というのは無い。だが今回の東名の煽り運転の「原因」は、石橋被告が「カッとなって追いかけ回した」ことであり、怒りを晴らそうとして行った一連の行為なのである。法律は「人の心の中」までは裁くことは出来ない。それが表に出てきて初めて犯罪になるのである。だが根本が「内心の怒り」であるのは明白である。

問題はその「表に出た物が何か」ということにとらわれると、先程の「器物損壊罪」というような「ふざけた適用」になる。人間の行為は「心理的なものが表に出た」ものである。その心理を裁かなければ、本当の解決にはならないのだ。今日のひるおびの事件で言うならば、真に反省するべきは「バックミラーを壊したことでは無く」、無理な車線変更をしたからやったんだという「怒り」であり、その怒りを生み出した「精神の闇」にある。法は制定目的を理解して適用しなければ、言葉の遊びといわれても仕方がないのだ。だからその精神の闇を裁くことで、被害者の遺族も含めた我々の「正義」が達成されると私は考えている(いいこと言うねぇ・・・誰も褒めてくれないから自分で言った、これを自画自賛と言う)。

だけど言論の自由は守られなければならないよ、と考える人は法の精神を曲解してやしないだろうか。市民に言論の自由はあるのかと言えば、私は「無い」と答えるであろう。「言論」という単語はあまりにも広範囲で、実際には何も特定していない。だから言論の自由が政府によって守られなかったという事例が往々にして「エロ」の商売に隠れ蓑を提供すると言う浅ましい犯罪に利用されているのである。私は憲法を改正して「言論の自由を削除」し、代わりに新たに「議論の自由」を掲げたい。好き勝手に言論・表現を「自由に撒き散らしたり地下市場で販売したりする行為」を守るという本末転倒をやめて、正しく議論する自由を「日本の市民に定着する」ことである。議論が正しく活発に行われれば、一般人から専門職に至るまで「全国的に物事の理解が深まり、常識が広まる」ことになるのではないか、と思うのだ。

勿論、議論は3人でするのが正しいやり方。二人で議論すれば、しまいにケンカになるのは目に見えているからである(日本人の場合)。ところが現代では「格好の機械」がある、と言えばびっくりする人がいるであろう。それが驚くなかれ「AI」である。

議論のビッグデータを集積したAIであれば、個人情報を揶揄する不適切な発言や、相手の意見を遮るカウンター発言などを「議論から適正に削除」することが可能だからだ。相手がAIなら、議論している人間も納得せざるを得ない。私が提案する2019年の大改革として、デパートやホテルでAIを導入するのではなく「国会の衆参議長と法の番人裁判官」こそ、AIにすべきと主張したい。AI裁判官なら「裁判官の知能が低いために起きてしまった冤罪事件」などは無くなり、ビシバシ判決も行なって効率も良くなるんではないだろうか。

AIの国会議長が「安倍君、そんなこと聞いているんじゃないんですよ」なんて言ったりして、議会を正常化してくれるのを期待したいのだが、果たして導入してくれるかなぁ・・・

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