明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(土)旅行:私の引っ越し履歴(4)世田谷赤堤から巣鴨へ移る

2021-03-27 17:11:45 | 歴史・旅行

1、中学校
小学校からそのまま中学校に行って、何事もなく卒業した。友達関係は相変わらず、目立たない者同士で遊んでいたような気がする。スポーツは余りやらなかった。その頃三角ベースが流行っていて、よく昼休みなんかに校舎の陰で遊んでいたものである。運動神経は特に上手くもダメでもなく普通だったと思うが、走るのだけは遅かったと思う。運動会などで活躍したという記憶も無く、中学校の3年間は全くの闇である。現在ゴルフ仲間になっているSN氏とSY氏が確か3年の最後の方にしでかした事件で理由は不明だが、とかく変な噂のあった絵画講師に「耳を引っ張られてお仕置きを食らった」ことがあった。その絵画講師は生徒達にアル中の変人だと恐れられていたようだが、実は単に見かけが芸術家風だっただけでは無いかと今では思っている。当時の出来事をSN氏が面白おかしく臨場感たっぷりに話すので、本当は何があったのか我々の仲間内でも「今でも謎」のままなのだが・・・。

2、修学旅行
私たちの学年は定番の京都・奈良に旅行したが新幹線はまだなく、お決まりの夜行列車でおとなしく寝て行った。清水寺や金閣寺などをサラッと見て回った筈だが、これまた記憶は全然残ってない。覚えているのは旅館で枕投げをして先生に早く寝ろと叱られたことぐらいである。その時、これまた友人のIK君が、女子生徒の部屋に潜り込んでいて先生に見つかり「こっぴどく叱られたらしい」という事件があって、男子生徒の間で「一時羨望の的」になっていたことがあった。我々の間ではIK君は女子生徒に人気があるというより、単に遊び仲間が女子生徒だったという程度の認識だったが、その後IK君の行動が制限されたという噂は聞いていないので、お咎めはなかったのであろう。すべての出来事は一つ一つは大事件のように当事者には思えるが、所詮は中学生の生活という狭い範囲の中の事、成長とともに忘れ次々に去られて行ったのである。

3、エレキギター
いよいよ中学生生活も終わりに近づき、私は高校入試に受かって戸山高校に入学することとなった。クラスでは入試に落ちた子が「これで終わったわけじゃないんだ!」などと息巻いていて、私達受かった者は「頑張れよ!」などとエールを送ったりしていたが翌日にはそんなことすっかり忘れて、春休みをどうするかに夢中になっていた。そんな慌ただしい中で卒業式があり、その後のお楽しみ会にクラスメイトが「ギターとスネアでビートルズを歌って」拍手喝采を浴びたという事件があった。それまで音楽などには無縁の生活をしていたのに「突然何かに覚醒したかのように」バンドに目覚めて、どういう訳かSN氏・SY氏・IK氏と私の4人が「ベンチャーズのコピーバンド」をやることになったのである。私の一家は巣鴨に引っ越すことになっていて、何かと忙しかったはずだが母はギターを買いに一緒にデパートまで行ってくれた(もしかしたら引っ越した後に買ったのかも知れないが。いつものように記憶が曖昧である)。私はギターのことなど全く知らなかったが「テスコ」というメーカーのエレキギターを買って貰って、有頂天になっていた。ところが家に帰って改めてギターを出してみると、ボディ全体に細かいヒビ状の塗装割れが生じていたのだ。私は「エレキだからこういう模様になっている」と訳のわからない主張をして気にしていなかったが、母がデパートに持って行って、ちゃんとしたのに交換して来てくれた。当時の中学生というのは全くの世間知らずで、今のネット社会のように知識の溢れた時代の子供とは雲泥の差があったようである(私だけかも知れないが)。とにかく新しいオモチャが手に入って、日々練習に熱中した。

4、バンド

バンドで楽譜を担当した私は、必死になってベンチャーズの曲をテープレコーダーに録音し、サイドギターとベースの分を採譜してメンバーに配っていた。練習はSN氏の自宅でメンバーが集まって行ったが、私は巣鴨から電車に乗り新宿経由で豪徳寺まで往復するという熱の入れようである。時々SN氏がはるばる巣鴨まで、重い荷物を持って送ってくれた(ヤマハのポータブルミキサーなんか相当重かったと思うが文句も言わずにやってくれたようだ)。我々のバンドは幼稚園の運動会や小学校の学園祭などで単独ライブ演奏を行っていたが、すべて渉外担当のSN氏の交渉能力が活かされた行事である(素晴らしい!)。バンドの絶頂期は新大久保でダンスパーティのサブとして出演した時であろうか。メインはSN氏の兄さん達がやっていたバンドで、お客も相当入っていたように思う(ちなみに兄さんはグヤトーンに勤めていた)。パーティは大成功で、我々もミュージシャンとして気持ちが高ぶっていたような晴れ晴れした記憶がある。ただ曲目に関しては途中からスローな曲にしてくれと言われ、困ったのを思い出した。当時は踊ると言ってもチークが主体の、昭和のオジサン世代のパーティだったのだ。

5、豪徳寺

バンドについては色んな思い出があるが、それはまたの機会に譲ることにする。バンドらしいエピソードとしては、メンバー4人で豪徳寺のお好み焼き屋で食事した時の事を書いておこう。4人でワイワイ騒いでいる時にうっかり取皿を床に落として割ってしまい、それをお店の人に気づかれないようにして黙って店を出ようとしたら、しっかり店員に見つかり説教を食らってしまった。SN氏とSY氏は一目散に店の外に出てこっそり待っていたが、私とIK氏はもたもたしているうちに見咎められて「恥ずべき行為」を責められたのである。「すみませんでした・・・」と平謝りしてようやく許して貰い店を出た。ショボンとしていたら、SN氏から「サッサと出ないからだ」と慰められた。まあお店の人には悪いが、良き思い出の一つである。何にしても悪いのは私達だから、ガックリ肩を落として家に帰った。そんなこんなで、結局バンド活動は1年程でやめてしまい、それぞれ大学受験に没頭することになった。巣鴨は赤堤と違って商業地区に官舎があったように記憶していて、周りの風景は全然思い出せない。大学に入る頃にはメンバーとも疎遠になり、それぞれの道を進むようになってしまった。私はまたまた引っ越して、今度は新宿御苑前の高層マンションだ。巣鴨に比べれば段違いに都心である。


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