明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ベラスケス、王の画家にして画家の王

2018-04-26 23:00:00 | 芸術・読書・外国語
絵画の仕組みとベラスケスの革新性というテーマを取り上げる。この1・2週間で2回ベラスケスを特集した番組を見た。色々考えている内にベラスケスの偉大さに新しい解釈が出来そうだと思いついたのだ。それはベラスケスの挑戦とは「脳に写し出される像そのもの、を絵として定着する」という仮説だ。

脳がどのような日常的な働きをしているか、という研究は、日々続けられて次第に細かい部分が解明されている。目から入る情報は「映像」として脳内に取り込まれ、様々な加工情報処理を経て分析・記録される。コンピュータの技術では映像処理の一方法としての圧縮技術があるが、元々は「人間の脳にある機能」である。詳しいことは分からないが、例えば「真っ赤な色のリンゴ」があるとすれば、脳は「リンゴ」という物体の情報と「赤い」という色彩情報を取り込む。もちろん目からは「細かい色調の変化やリンゴ表面のキズや形の丸みと材質」なども同時に取り込まれているが、「意識のなかに出てくる内容は」その興味の度合いによって「廃棄」される。結果として「単なるリンゴという認識」の場合もあるし、「紅玉というブランド名と味や値段や栄養素まで」情報として読みとる場合もある。要は視覚者の意識次第で情報は変わっていく、これが「人間の脳の働き」である。

これをベラスケスの描く人物像に当てはめてみると、見ている者はベラスケスの絵画によって、対象そのものの「脳に定着したイメージを絵に見ている」というのが正しいのである。対象の視覚的な情報を出来るだけ細かく再現する作家もいるだろうし、現代では「写真」という記録方法で、目で見る以上に「はるかに細かく伝達することが可能」になっているが、それは脳が分析し「記録する前の視覚情報」である。コンピュータで言えば「ただのビット記録」に過ぎない。だから「まるで写真みたい!「というのは何の褒め言葉でもなく、現代では対象を伝達するための方法としては「絵画は無意味な技術」なのである。つまり写真があれば「絵は必要ない」。どんなに精密な絵でも、写真や映像の「正確無比な情報伝達能力」には敵わないのである。そして時間もかからずに「宇宙規模の望遠から顕微鏡レベルの微小なものまで」正確に伝えてくれる。いまや情報を伝えるという役目では「絵はいらない」のだ。試しにアムステルダム国立美術館のレンブラントの夜警の絵の通りに「そっくりそのままに人物を配置し、光源も同じようにして暗くして写真に取れば」、17世紀の名画も写真には負けるのである。

では、絵画はもう必要ない芸術なのか?といえば、実は写真では表現できないことを「絵画では描くことが出来る」ことをベラスケスが証明していたのだ。それは彼の絵が「脳内画像」だということである。我々の見ている画像は実は「あるがままの映像ではなく」、目から一旦脳の視神経を通って脳の解析機能で処理し「ふるいにかけたあとの再構成された画像」を意識が見ているのである。人間には、夢と現実を区別する機能は備わっていないという。人間の目の奥には光に反応する神経が集まっていて、それを一箇所にまとめ、神経の束にして脳の視覚処理野へ送る関係で、人間の視野の中心にやや近い一部分が「もともと見えない」ようになっている、というのは皆さんご存知と思うが、それが本人には気づかないようになっているのは、脳が「勝手に補正している」からだということを知っている人は少ないであろう。人間には補正した映像は見えても「補正していない『生の映像』は見えない」のである。これは物理的に見えないだけでなく、「カラスやオットセイや象」だと脳が認識した瞬間に「実際の映像ではなく」、カラスやその他の「知識で補正された映像」が記録されていく。そして写真のように「バイアスのかかっていない」正しい映像を見せられると、「あれっ、カラスだと思ったのに黒い鳩じゃない?」と驚くのである。これが視覚の現実である。

要はこの「脳内画像」という現実には存在しないものが、人間の描く人物画像が写真と違って「その人のキャラクターや人生や運命までも」表現できる理由なのだ。脳内画像であるから「作者が介在した」対象となって、レンブラントが書けばレンブラントの、ルーベンスが書けばルーベンスの、そしてベラスケスが書けばベラスケスの対象の絵が出来上がる。画家は見たままを描かずに「対象のあるべき姿を」描くのだからそうなるのだ。人間は絵を書く時に対象そのものを見たまんまに書くのではなく、「自分が認識している映像を」描いている。例えば子供がそうである。子供の絵が皆「お父さんは背広を着てネクタイを締めメガネをかけていて、お母さんは髪が長くスカートを穿いるステレオタイプ」に描いているのは、実際に「頭の中では、そう見えている」からである。対象の意味が相手に伝われば、それでコミュニケーションツールとしての絵画の役割は足りている。顔には目と口と眉毛があれば「それで十分」なのである。絵画は「画像全体を均一な密度で分け隔てなく映し出す写真」と違って、「必要ないところは空白」にしている。日本画の究極は「余白の美」などと言う。つまり空白の中にポツンと描かれた牡丹一輪、それを究極の美と認めるのだ。これが写真には出来ないことなのである(というか目指す所が違う)。

ベラスケスの絵は近寄って細かく見ると「荒いタッチで、置かれた色彩が散らばっている」ように見えるが、離れてみるとそれが「輪郭と質感と明暗のコントラストと、そして深い眼差しの人物像」だとはっきり分かるのである。私は「戦いの神マルス」の頬杖をついた手の指が「一本の輪郭線も書かず」、濃い影と明るいハイライトをササッと引いただけで「完璧に描かれている技法の魅力」の虜になった。なんという技術、なんという魔法なのだ!その絵の中のマルスの肩から腕にかけても、実際には色が融合するように曖昧に混じっていて「はっきりとは書き分けてはいない」。しかし見る者の目には「逞しい腕の筋肉」が確かに存在するかのように「見える」のである。まさに兜の、光に当たって反射する「鋼鉄の鈍い質感」が、その重量を物語っている。しかし背景には「淡い陰影で塗りつぶされた空間」以外のものは「何も描かれてはいない」。まるでマルスの心の空虚さを表しているかのようである。ベラスケスの絵には、全てに意味があり、空白の背景にすら「見る者の目線は、そこには行く必要はない」と、無言で語っているのである。彼の絵は「何かを語りかけてくる」絵なのだ。それはこの「脳の視覚ロジックを再現する能力」が齎した、革新的な技術だから成し得た「芸術」である、と私は考える。

ベラスケスが「どのようにして脳内画像の表現技術を会得したのか?」については謎である。だが「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」展は5月17日まで国立西洋美術館で開催中なのだ。しかも会社の近くの上野なのだ、ラッキー!

私は本物をこの目で見て、ベラスケスのその凄さを確かめてみたいと思っている。それは彼の描いた脳内画像を「私自身が再度、自分の脳に取り込む」作業を意味するのかもしれない。出掛けて行ってその絵と向き合い、その絵を通して「彼と出会った時」、どんな感情が私の中に起こるのだろうか、まるで想像がつかない。言えることは、いまからワクワクドキドキしていることだけである。

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