ブーニン、暫くぶりに聞く名前である。80年代にショパンコンクールで優勝した彼は、その音楽解釈でも異彩を放っていた大人気ピアニストだったという。その頃私は会社員として地方営業に駆けずり回っている時であり、どちらかと言うと音楽より仕事に忙しくて、音楽は流行歌ばっかり聞いていた普通の会社員だった。だからブーニンという名前は知っていても、実際に彼の演奏を聞いた記憶はない。
私の音楽体験はもともとは小学校に上がる頃にバイオリンを習っていて、何ヶ月か教室に通ったらしいが才能がなかったのか辞めてしまったところから始まっている。その後は家にあるピアノを趣味で弾く程度だったが、高校に入ってからはベンチャーズのコピーバンドでエレキにのめり込み、クラシックは大学に入ってオーケストラ部でビオラを弾くようになってから本格的にやり出した。
オーケストラは結局途中でやめてしまったが社会に出てからもずっと音楽は聞いていて、ポピュラーミュージックや演歌など、ジャンルを問わずに音楽に接していたと思う。中でもクラシックピアノは自分でもある程度は弾いていて、有名ピアニストの演奏などはCDを買っていつも家で聞いて参考にしていた。今でも音楽で1番真剣に聞くのは、やはりクラシック、それもモーツァルトとショパンとバッハの3人である。最近はこれにシューベルトとリストが加わった。ピアノ以外ではブラームスが好みである。
こないだNHKの番組でブーニンを取り上げるというので録画した。ブーニンは左肩を過労で痛めてから左手が思うように動かなくなり、ピアニストとしては致命的とも言える状態になって、おまけに左足首を骨折し、それが糖尿病の関係で壊疽するという大変な苦労を味わったらしい。ショパンコンクールでは子犬のワルツを人間業と思えない速さで弾いて大喝采を浴びた華麗なテクニックはすっかり失われて、今改めて聞いてみると流石にゆっくりだな、と感じられる弾きぶりである。
しかし私には、技術的には「たどたどしいショパン」なのに何故か逆にブーニンのショパン愛を感じられる演奏を聞いて、「ああ、やっぱり音楽はこうでなくっちゃ・・・」と膝を叩いた。
その意味は、音楽は演奏者と聴衆が一体となって酔いしれるもの、ということである。ブーニンのピアノはゆっくり弾いているからか、メロディを奏でる音が一つ一つ空中に留まり、それが何かの言葉のように聞くものの心に響いて、そして全体が一つの想いとして流れていく。彼の演奏は、聞く者にそんな感覚を呼び起こす極上のショパンだったのは間違いない。
理屈で言葉を選べば、ブーニンの弾くピアノのメロディは聴く者が各々心の中でそれを聴きながら「もう一度自分流に奏でる」ことによって演者と聴衆が一体となり、最後は人々に共感される大きな歌声となって会場を満たすのである。日本人ならば日本語の歌を聴くときに、誰でも一度ならずこの「一緒に歌いながら酔いしれる」状態を経験したことがあるだろうと思う(外国語では完全に歌に同調するまでには行かないのでは)。
例えばショパンの有名なワルツを聴くとした場合、観客はそれぞれに「自分のツボ」というような、その曲に対する聞き所の「癖」を持っている。それを演奏者が「ドンピシャの言葉、口調、同じ意識」で音にして再現してくれる時、彼を熱狂的な拍手喝采でブラボーと迎えるのである。ヨハン・シュトラウスのワルツなどに代表される「ウィーンの独特の拍子、リズム」も、こういった体に染み付いた民族的な調子とまで言っていいかどうかは別としても、音楽の楽しさまたは美しさの本質を表していると言えるのじゃないだろうか。私はブーニンの弾くショパンを聴きながら、思わず「メロディを口ずさん」でいた。勿論、思い入れたっぷり・抑揚マシマシの「てんこ盛りのショパン」である。
ブーニンはインタビューでテクニックの不足を嘆いていた。しかし「技術を乗り越え」て曲を奏でた時、そこには「心が現れ出る」ことを彼は知っていたように私には思える。それをまざまざと見せられた気がする素晴らしい演奏である。また彼は年を取ると前のめりになって思ったよりも速く弾いてしまう、とも言っていた。年を取るとじっくり構えて歌に酔いしれる余裕が無くなるのかも知れない。私ももう73歳だ。こんなショパンを後何回聴くことが出来るだろうと思うと、何故か貧乏性が頭を出してしまい、先を急いで逆に美しいメロディを端折ってしまう時がある、・・・反省である。
ブーニンは自分の左手の動きには不満タラタラで、会場を出るときには「新しい手が欲しいよ」と愚痴をこぼしていた。勿論笑いながらではあったが、彼にはまだまだ満足の行く演奏ではなかったのだ。もう二度とあの輝かしいテクニックを披露して聴衆を沸かせることは無いであろう。だが、それは音楽の本質では無い。
ピアニストは何より音色である。そして、正確なアタックで作られる研ぎ澄まされたリズム感覚や、流麗な節回しの濃密な歌に酔うのも大事な技量と言えるだろう。古典音楽は、表現する内容は決まっている。作曲家と演者と観客は「それを熟知」していて、その上で其々が趣味の良い曲作りだったり感性の際立った演奏だったり、はたまたどれだけ個性的に演じて観客を満足させるかを競ったのである。観客は最後は作品の出来を褒め、演奏者の技を褒め、よく知っている名曲を「素晴らしい演奏で聴く」ことが出来た満足感に浸る。これは浄瑠璃でも能でも落語でも演歌やジャズでも、あるいは茶器や掛軸・屏風絵でも同じことで、古典と呼ばれる芸能全てにおける「共通の特質」なのだと思う。
つまるところ、それは「お気に入りのコーヒー」であり「大好きなカレー」であり、ワインや日本酒の「いつもの極上の味わい」と同じである。なにも毎回新しい感覚に驚く必要はサラサラない。パンダは笹を食べ、コアラはユーカリで満足して一生を終える。要するにまいどまいど味わっても「飽きない」というのが大事なのだと思う。今夜はブーニンの復活を満員の聴衆と共に喜び、彼の少したどたどしいが「円熟した節回し」でショパンの美しい旋律を聴く事が出来たことを大いに満足した。やはりクラシックは思い入れが大事である。
演奏者が「私のショパン」ですと言ってそれを聴いてもらい、観客が「分かるぅ〜!!!」と共感した時にコンサートは体験として成立する。ブーニン、これから注目して聴きたいピアニストである。
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