明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

引っ越しする前に考える事(5)まず京都と奈良、住むならどちらがいい?・・・徹底比較 ⑤ 歴史探索・・・その1

2023-06-28 16:43:00 | 今日の話題

5、歴史探訪
そもそも移住しようと思い付いたのは今でも研究の中心課題である「倭の歴史」を頭だけでなく身体でも感じ、更には記紀に登場する色々な人物像に身近に触れ、もっと歴史の中に没入して当時の環境の中に生きてみたいと願ったからである。だから本命は間違いなく奈良なのだ。ところが歴史を深く広く勉強していくにつれ、奈良が果たして「古代史の中心」だったのか?という疑問がジワジワと湧いてきたのである。

歴史を勉強し始めた最初の頃、古事記が「推古天皇」で終わっている事にまず私は疑問を感じた。学校で教わった日本の歴史では、万世一系というキーワードが必ず出て来る。天武天皇が古事記の編纂を命じた本人ならば推古天皇の没後は舒明天皇が後を継ぎ、それから皇極・孝徳・斉明・天智と連綿と続いて行く歴史を書くのが通常である。何より記紀は当時最新の中国の歴史書に倣って、日本の歴史を「国産み神話の始まり」から書き起こした日本最初の「画期的な作品」を目指したものと思われる。日本書紀が古事記と同じように国の始まりから書いてあるのを見ても解る通り、日本書紀は一旦出来上がった古事記を「破棄」して、新たに「正式な歴史書」として上梓されたものであった。何故付け加えたり書き直したりするのではなく、「新たに」書き起こしたのかは謎である。

元々中国の歴史書は一つの王朝が衰退し、次の支配者が新たに天命を受け(革命)て新王朝が成立した「後に」過去を振り返って、現行政権への忖度などがない「真実の姿」を書くのが通例である(だから大体は「昔の事」を書いている)。資料が全部出揃って物事や史実が確定し、評価が定まった時点で「ようやく書かれる」のがしきたりだ(一応、学問・教養として皇帝に見せるのが建前である)。では、何故古事記は推古天皇で終わり、日本書紀は「延長して」持統天皇までを書いたのか?

答えは明確だ。推古天皇で「一つの王朝が途切れた」からである!

少なくとも天武天皇が稗田阿礼に編纂を命じた時点では、彼はそう考えていただろうと私は確信している。勿論、万世一系などという考えはその当時は人々の頭に全く無く、多くの大王家が興隆し衰退していったのは「良く知られた事実」であった。歴史の事実としては継体が滅ぼされて欽明が後を継ぎ、その家系も推古女帝の一生と共に絶えた、という「ありふれた」歴史の一コマだったわけだ。それで欽明王朝が絶え次の支配者が新たな王朝を立てて、その新王朝が史官に命じて衰微して絶えた前王朝までの歴史を書かせたのである。そうとしか考えられないではないか(但し、これは私の個人的な意見である)。

古事記を書かせたのは天武天皇だから、新王朝は「天武朝」ということになる?

推古天皇で欽明朝を断絶させ、実質的な大王となった「蘇我蝦夷・入鹿親子」から劇的な乙巳の変を敢行して政権を奪い取って河内に政権を持って行った孝徳天皇や、その孝徳を見限って飛鳥に戻ったが白村江の大海戦に敗れて近江に引き下がり、今度は国内統治に専念した天智天皇など、つまり用明天皇の後を崇峻天皇が継いだが蘇我馬子に討たれて実質的な「蘇我支配」(名目上は推古)になってから推古が崩御し天武が壬申の乱で大友皇子(実は大王位に就いていた)に勝利する迄の間は、ある意味「確たる政権が無い」不安定な状態であり、王朝と呼べる飛び抜けた存在が無かった「乱立戦乱状態」だったと思われる。

しかし「壬申の乱の勝利」でようやく国内の反対勢力を一掃し、政権を安定させやっと海外にも目を向けられるようになった時、超大国「唐」に持って行って見せる日本の歴史書が必要だということになり、それで日本語で書かれた古事記を「漢文」に書き換えて作ったのが日本最初の国史「日本書紀」である(実際に私が現物を見たわけでは無いが、どうやら漢文らしい)。以上が、私が最も興味のあるテーマ「天智と天武」の大体のあらすじだと理解していた。

そう、コロナの始まる迄は

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ところが今は、古代史というのはそんな簡単なものじゃ無いぞ・・・というのが私の実感である。特に、記紀の描く日本の歴史、所謂「飛鳥地方」で繰り広げられる歴史劇の大半は、殆ど列島の歴史とは関係の無い「一地方の出来事」に過ぎないように思えてきたのである。日本つまり正確には「倭国」というのが正しい列島の名称だが、その倭国は九州に本拠地を置く統一政権であり、その関心は「朝鮮半島から中国本土」に向けられていたのである。だから、古代史を研究するには田舎の一地方である「奈良の飛鳥」では無く、文化と富の集積する「九州の博多」にこそ、私は移住するべきなのだ(おおっ、ノォ〜〜〜っ!)

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と言う訳で、京都や奈良に移住して歴史探訪をする案はあっさり「ボツ」になった。移住して彼方此方をぐるぐる自転車で走り回るとしても、やる事は普通の観光地と「それ程」大差が無くなったのである。目的消失!

そこで今回からは、移住先としての目的からは歴史探訪を除外して、京都と奈良を「単なる観光地」として比較し直すことにした。次回の徹底比較からはそういう目で読んで下さい・・・観光地としても京都・奈良は最高です!



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