和翠塾ブログ

目黒都立大にある書道教室「和翠塾」のブログです。

堀江貴文

2014-02-14 09:18:19 | 日記
ライブドアの元社長です。

『ゼロ』という本を出したそうで、昨夜テレビに出ていました。

話を聞いていると、印象が変わっていきました。
30分番組を一方的に送られただけで、その人となりをわかるはずはないのですが、誤解していた部分が少し変わったかな、と。

簡単に言えば、書道の世界とは真逆な人物と思っていたのですが、どうもそうではなさそうだ、という感じがしたのです。

もう一歩入ると、『書道やってみた方がいいんじゃないの』と。

彼は経営者としてどんな会社でも大きくする才能があります。
多分私が経営す音楽の会社も、大きく立派にすることができるはずです。
それが従業員の幸せにつながるなら、是非お願いしたいところですが、、、


ま、私の経営者としての才能は置いといて(笑)、彼になくて私にあるものは、一子相伝形式で芸や技を受け継いできた経験のような気がするのです。

実際には一子相伝では無いですし、受け継ぐものは芸や技だけではありません。

そう、彼には芸や技を受け継ぐ作業の中で生まれる、ある種の想いによって作られる、生き方の姿勢が不足しているように思うのです。

つまり、彼はまだそれを探し中なのです。

彼だけではありません。
生き方の姿勢を探し求めている人は沢山いるのです。

ではどうしたらよいのでしょうか?

同じような人生の価値観を求めている人の中に身を置くことです。

それが書道塾にはあるはずです。

書技や感覚を磨きながら、人生に求める事が漠然とではあってもお持ちになっていらっしゃる方々が沢山集まっていらっしゃるのが和翠塾です。

自画自賛かな(笑)

でも本気で思っています。

そんな想いを持った先輩や仲間の中に身を置き、お稽古するなかで培われていくもの。

それが堀江貴文さんが求める事だと思うのです。


書道は堀江貴文さんのような人にこそ必要ですし、堀江貴文さんは特別な人でもなければ特殊な人でもないのです。

つまり、普通の人にこそ書道が必要ということなのです。














凛としたたたずまいの

2014-02-14 06:40:51 | 日記
楷書が好きです。

貫禄ある隷書も好きです。

移りゆく心模様を映し出すかのような、行書や草書にも魅力を感じますが、音楽で言うところのチャンスミュージック的な所に少し引っかかりを感じます。

そこに芸と芸術の曖昧な境目を感じるのです。

その墨跡には、この世に出すべき必然性があったのかどうか。


ただ単に技巧だけで書かれていたり、他人の評価を得られるように、意識して書いたものであるのなら、それはお土産品と変わりありません。

そこをはっきりさせるのは、書き手の生き様そのものだと思うのです。

翻って私自身の生き様はどうでしょう。

大した事のない人生を半分以上送ってきてしまいました。
普通といえば、普通。
そうでないといえば、そうでない。
流されるままの人生といえばそうだし、流れに乗るぐらいの努力はしたんじゃないのと言われれば、したのかもしれない。

でも、悲観することはありません。

そんな人生でも得られた物はあるのですから。

どんな人生にでも、得られる物はあります。
何かを感じない人生なんてあり得ません。

感じた事が内に溜まり、全てを内包したようなコバルト色のヘドロになっていきます。
それを時々吐き出さなければ浄化されず、目ずまりしたフィルターのようで腐ってしまうのです。

また、そのフィルターはコバルト色のヘドロでしか成長する事が出来ません。

その成長は、悪にも善にもなりますが、内包したままではいられない、生きてはいけないのです。

だから書く、彫る、奏でる、歌う、踊る、走る、飛ぶ、喜び怒り哀しみ楽しみ、そして食べる、寝る、、、、

人は誰でも、表現者にならざるを得ないのです。


楷書や隷書が理屈なく好きなのは、私の性格なのでしょう。

しかしここ最近、自分自身が書くことに疑問を持っていた行書や草書に、書くことの必然性を感じ始めているのは、異質なコバルト色のヘドロが溜まり始めたからでしょうか。

そう、溜まったコバルト色のヘドロを吐き出した結果、それがお土産品になろうと、贋作になろうと、売らんが為の商業デザインであろうと、稚児であろうと、老人であろうと、その創り出した物には近寄りがたい煩悩がこもっているのです。

『荒神様』のような、近寄りがたく、出来れば避けたい物すらあるのです。

そんな煩悩を捨て去った、でも包み込むような喜怒哀楽と透明感のある良寛さんの書に、無量の価値を感じるのは自然な流れなのです。

苦しみながらも、努力研鑽した人生を送ることによって、形や他人の評価を気にすること無く自分自身にまっすぐでいられるような境地を表した書。

それがどんな書法であり、書体であってもかまわないのです。

全ての煩悩から解き放され、ただ単に感じる事だけができるようになったらどんなに幸せなことか。

大人が赤ちゃんの笑顔に憧れるのは、そこに無心を感じるからでしょう。

心は人間であり、煩悩なのです。

そう人として生まれ、人間として育ち、人として死んでゆくのです。

『人』に憧れることこそ、一番大きな煩悩なのかも知れません。

そしてその夢は、誰にでも等しく必ず達成できる夢なのです。

私は、私の中に溜まったコバルト色のヘドロを吐き出す作業にとりかからねば、腐ってしまいそうです(笑)

あなたもそうじゃありませんか?

お稽古することは、溜まったコバルト色のヘドロの中に手を突っ込んで、かき回して、探し出して掴んで引っ張り出す作業です。

そこに統一感があれば、自分自身にも頷きやすい物となりますが、そうでないむき出しのエネルギーは、危ない、危ない。

統一感は意図的過ぎるとあざとくなり、むき出しであれば美術館にはいれてもらえなくなる(笑)

良寛さんにとってはどうでもいい事ですよね。


良寛さんになること目指して楽しみながら修行します。

煩悩が多過ぎるような気がする私の場合、百歳ぐらいまで生きないと見えてこないかも、、、

健康第一ってことですよね!

頑張るぞ~(笑)