ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

多摩の酒蔵と米軍の夜(福生市)

2014年04月01日 | 赤線・青線のある町
 まず行き交う人々に明るい話題を提供していた三鷹駅近くの子供服屋のプリティ富士が閉店して、ごくごく普通の展示場に変貌してしまった事をお伝えいたします。勿論、あの愛くるしいマネキン達も今頃スクラップ。


ウソでしょ?!
更新時は4月バカだけれど、まぎれもない本当よ。

 さて、多摩の酒蔵、福生にある田村酒造場に行ってまいりました。江戸時代文政5年より、秩父奥多摩伏流水を仕込み水として、「嘉泉(かせん)」などを作っています。
 JR福生駅を降りて、多摩川の流れる東に歩みを進めると、福生神明などの神社仏閣が目につきます。
 

 そして多摩川と、人工河川の玉川上水に挟まれた田丸酒造場一帯の土地の古めかしい景観は、そのまま江戸時代!




 黒々と光る屋根瓦、春の日にまばゆいばかりの白壁。敷地内は田村家の母屋と日本庭園もあってとても広く、一部古い蔵を製品の展示場としていました。ただ、利き酒できるような土産物屋やレストランは無く、事務所でカタログを見て購入するシステムでした。
    

 駅周辺に目を移すと、シャッター通りでした。古めかしい食堂や、手動の台が置いて有りそうなレトロなパチンコ屋。
 

 福生駅の東側は、米軍横田基地(旧日本軍時代は多摩飛行場)です。上空を巨大な戦闘機が通過するたびに、敗戦国に生まれたんだな~と思います。終戦後、立川にあった米軍基地(旧日本軍の立川飛行場)は米兵のためのバケーション施設も兼ねており、立川を歓楽街へと様変わりさせます。ところが米軍と市民との対立は深く、砂川騒動などを経て、立川の基地は閉鎖され(1969年)、戦後接収していた福生の横田基地に全ての機能が移転してきました。と同時に、福生の歓楽街の規模も大きくなっていったことでしょう。
    

 戦後の一時期、赤線と認可されていたのは富士見通りという通り周辺で、他所の地域の花街に見られるように、店舗が人目を避けて路地裏に密集したりするような構造をしていません。あっけらかんと、飲食店やジャズバーなどと共に、少し広めの路面に面してお店が立ち並んでいます。


 
 
 福生不動尊ギリギリまで立ち並ぶ、スナック。


立ち入り禁止の古いお稲荷さんまであって、米軍のための歓楽街になる前から何かしらの賑わいがあった場所なのかもしれません。
  

 人魚・・・いちご・・・。
 



 観光旅館風の連れ込み宿(屋根の水色は諸外国では娼婦をイメージさせる色彩的なサインです。)そして「バイハイ」と言う名前のラブホテル。第二次世界大戦時の米軍キャンプが舞台のミュージカル「南太平洋」で歌われる夢の理想郷バリハイがモデルでしょう。花咲き乱れる夢の島が、こんな〇末に・・・。
 

 かく恋慕・・・女帝・・・カトレヤ・・・。まだ現役まっしぐらの町なので、長居はできませんでした。