第一部に続けて観てきました。簡単に感想。
最初が、尾上右近&勘九郎の男女道成寺。
二人とも六代目尾上菊五郎の血を引いているっていうファミリーヒストリーもあるけど、やはり、将来道成寺を一人でやってほしい二人だなあ~と思って観ていました。特に右近が狂言師の姿になる前までの白拍子二人のところは素直にいいなあと思って観てました。で、特に勘九郎はすでに鏡獅子で成果を上げている人だし、先代芝翫、勘三郎の後を受けて、そろそろこの人の道成寺が観たくなりました。道成寺の舞い手って、今現役なのは菊之助ぐらいでしょうか?さすがに減っちゃったなあと思います。といいうわけで、松竹さんお願いしますね。次の勘三郎追善くらいで。
次が、勘九郎&菊之助の「ぢいさんばあさん」。森鴎外の素晴らしく簡潔な短編を宇野信夫が芝居にしたものだけど、今回改めて、いくつか気づいたので列挙します。
①前も書いたけど、この芝居の主人公というのか、テーマというのは「時間(の経過)」なんですよね。だから、桜の木のエピソードが各場面で重要なんですよね。これは、フローベールの小説『感情教育』の女性の髪のくだりと通じるんですよね。
②嫌味な男下嶋役の彦三郎は、あまり変な男にしすぎてなくて、よかったです。下嶋はどこにでもいるタイプの男で変人じゃないから、芝居に真実味が出ると思うんですよね。嫌味にやりすぎる演者もいるから。その点でも彦三郎のこの役はよかったな。で、この芝居は昭和26年(1951年)だそうだけど、今見ると、酒宴の場の侍同士の会話が、小津安二郎の映画にでてくるサラリーマンとか源氏鶏太のサラリーマン物の小説に出てくる同僚たちを連想しました。今の飲みにケーション否定派が主流になった時代とは違うのどかさがありますよね。要するに、宇野信夫は時代劇の場を借りて、当時のサラリーマンの雰囲気を出したかったのかな、というのがわたしの今回の気づき。あんまり関係ないけど、フェリーニ『青春群像』(1953年)に出てくる若者たちなんかもわたしは連想しました。
③この芝居の夫婦は、最初のラブラブなくだりをどう描くかで、だいぶ印象が変わると思うんだけど、演者によっては品のない感じになるときがあるんですよね(あえて、誰の時とは言わないが・・・。といっても、過去のブログ記事ではしっかり書いていますが・・・。)。その点でいうと、勘九郎・菊之助コンビは品位が崩れなくて、清新な感じもあり、よい夫婦でした。こういう背筋の通った真面目な感じが、この二人を買っていた吉右衛門の性格に合っていたんじゃないかと思います。
④勘九郎の伊織は、わたしの好みだけでいえば、父勘三郎よりよいです。青春の悔恨みたいな気分のニュアンスがあるのは、仁左衛門の伊織に近いためと想像します。あえて違いを言うなら、仁左衛門のはスイートな青春で、勘九郎のは冷たい清水みたいな青春ですね。
⑤37年後の夫婦再会のくだりで、勘九郎&菊之助の老け役が結構様になっていて驚きました。確かに、この二人もそれなりの年になったからということもあるんでしょうが、若い人が無理に老けた役をやろうとして大げさになる部分がなくて、スッキリ観られました。
以上、簡単な感想でした。
PS:この芝居の二日目の後に、菊之助の涙の会見なんですよね。そりゃ泣きますよ。わたしももらい泣きしましたから。
最初が、尾上右近&勘九郎の男女道成寺。
二人とも六代目尾上菊五郎の血を引いているっていうファミリーヒストリーもあるけど、やはり、将来道成寺を一人でやってほしい二人だなあ~と思って観ていました。特に右近が狂言師の姿になる前までの白拍子二人のところは素直にいいなあと思って観てました。で、特に勘九郎はすでに鏡獅子で成果を上げている人だし、先代芝翫、勘三郎の後を受けて、そろそろこの人の道成寺が観たくなりました。道成寺の舞い手って、今現役なのは菊之助ぐらいでしょうか?さすがに減っちゃったなあと思います。といいうわけで、松竹さんお願いしますね。次の勘三郎追善くらいで。
次が、勘九郎&菊之助の「ぢいさんばあさん」。森鴎外の素晴らしく簡潔な短編を宇野信夫が芝居にしたものだけど、今回改めて、いくつか気づいたので列挙します。
①前も書いたけど、この芝居の主人公というのか、テーマというのは「時間(の経過)」なんですよね。だから、桜の木のエピソードが各場面で重要なんですよね。これは、フローベールの小説『感情教育』の女性の髪のくだりと通じるんですよね。
②嫌味な男下嶋役の彦三郎は、あまり変な男にしすぎてなくて、よかったです。下嶋はどこにでもいるタイプの男で変人じゃないから、芝居に真実味が出ると思うんですよね。嫌味にやりすぎる演者もいるから。その点でも彦三郎のこの役はよかったな。で、この芝居は昭和26年(1951年)だそうだけど、今見ると、酒宴の場の侍同士の会話が、小津安二郎の映画にでてくるサラリーマンとか源氏鶏太のサラリーマン物の小説に出てくる同僚たちを連想しました。今の飲みにケーション否定派が主流になった時代とは違うのどかさがありますよね。要するに、宇野信夫は時代劇の場を借りて、当時のサラリーマンの雰囲気を出したかったのかな、というのがわたしの今回の気づき。あんまり関係ないけど、フェリーニ『青春群像』(1953年)に出てくる若者たちなんかもわたしは連想しました。
③この芝居の夫婦は、最初のラブラブなくだりをどう描くかで、だいぶ印象が変わると思うんだけど、演者によっては品のない感じになるときがあるんですよね(あえて、誰の時とは言わないが・・・。といっても、過去のブログ記事ではしっかり書いていますが・・・。)。その点でいうと、勘九郎・菊之助コンビは品位が崩れなくて、清新な感じもあり、よい夫婦でした。こういう背筋の通った真面目な感じが、この二人を買っていた吉右衛門の性格に合っていたんじゃないかと思います。
④勘九郎の伊織は、わたしの好みだけでいえば、父勘三郎よりよいです。青春の悔恨みたいな気分のニュアンスがあるのは、仁左衛門の伊織に近いためと想像します。あえて違いを言うなら、仁左衛門のはスイートな青春で、勘九郎のは冷たい清水みたいな青春ですね。
⑤37年後の夫婦再会のくだりで、勘九郎&菊之助の老け役が結構様になっていて驚きました。確かに、この二人もそれなりの年になったからということもあるんでしょうが、若い人が無理に老けた役をやろうとして大げさになる部分がなくて、スッキリ観られました。
以上、簡単な感想でした。
PS:この芝居の二日目の後に、菊之助の涙の会見なんですよね。そりゃ泣きますよ。わたしももらい泣きしましたから。
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